戦国時代、九州平定のため薩摩まで攻め行った豊臣秀吉軍は、泰平寺に本陣を敷きました。当時の住職が宥印法印といいます。 秀吉の川内入り 九州征伐の終戦の地になった川内に攻め入る前に秀吉は先鋒隊を送っています。8千人を擁する先鋒隊は途中の民家を焼き、暴悪を繰り返しながら前進していたともいわれます。川内に入ると新田神社にも兵が討ち入り、国分寺、安国寺という勅願寺も次々に焼き払われたといいます。 いよいよ秀吉が進軍することになると、川内川の北岸に位置する大伽藍、泰平寺に本陣を構えようと使者を送りました。ときの住職を宥印法印(法印とは高級僧侶の章号)といいました。 使者は「僧侶どもに告ぐ、この寺はこれより関白殿下の本陣とする。よって寺内の者は速やかに立ち退くべし、逆らえば命はないぞ」と迫った。 この報告を受けた秀吉は、宥印の器を悟る。そして、再度使者を送り「われらこの度、大軍を率いて遠方より参りしも、本営とする地は未だ定まらず。聞くところ泰平寺は伽藍広大にして大軍の本営として叶うものなり。ついては、僧侶方に御退去願い、今しばらくこの秀吉の本営として借用の許可を願いたい」と節義をもって申し入れた。 これを受けて宥印は、「謹んで貴命を奉ず。然れども我、出家の身と言えども、兵軍を恐れて寺から逃げ去ったとなれば、後世までの恥である。よって退去先をお与え願いたい」と答えた。 秀吉もなるほどもっともな事だとこれを受け、泰平寺から1キロメートルほど離れた中郷の宅満寺を退去先として与え、宥印はここに移り、本陣を泰平寺に置いたのである。 宥印は宅満寺より毎朝泰平寺に出向き、なんら恐れることなく兵軍をかき分け本堂に至り、平然と勤行を勤めたそうです。これには秀吉以下将兵等しく宥印を称賛したといいます。 秀吉に認められた宥印は、この後に執行される島津氏との和睦の儀においてもその斡旋に尽力し、ついに和睦にこぎつけ、川内の地は戦火から救われたのです。 秀吉は、これら宥印の功績を称え、多くの田禄を与えることにしましたが、宥印は「国破れ、君主は屈辱の身にある。この国の禄を食する私がどうして関白殿の賞が受けられようか」と固く辞退したといいます。しかし、秀吉は、これは受けるべきと強いて進めると、宥印もさすがにその意志を受け入れ「愚僧とて佛に使える身である。是非にと申されるのならばこのようにして頂きたい。泰平寺では毎年二月十五日に釈迦涅槃会の大法要を勤修奉る。されば、この日、当寺より七里四方の民に、佛前へ供物を献ずる事を御下命願いたい。」と申し出た。 秀吉はこれを許し、その命を下したという。戦火を免れた民衆はこれを聞いて歓喜し、川内地方のみならず遠方からも釈迦涅槃会には押し寄せるように人々が参集し、米や粟などを献じたと伝えられています。 これを由縁として涅槃会の頃、「釈迦市」という市が立ち、泰平寺の参道を埋めていた。これは川内地方の冬の風物詩として賑わっていたとあり、幕末の頃まで続いていたといいます。 また、宥印には「長刀・一振」「建さん天目」「瑠璃杯・一」「瑠璃杯台」「茶壺・一」が与えられました。長刀を除く四品は幕末の頃まで泰平寺の宝物として収めてあったといいますが、廃仏毀釈のころ行方不明になったという。 |