ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
ふるさとの今を知りたい
薩摩川内市のこと
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位置と新市名 薩摩川内市は、平成16年10月12日、近隣の1市4町4村が合併して誕生しました。

 鹿児島県の西北部に位置し、熊本県白髪岳を水源とする川内川が東シナ海にそそぎ込む平野部と甑島からなります。川内川の下流域には、樋脇川、隈之城川、高城川などの支流があり、山が迫っています。この山間の台地に田畑や山林があり、農林業地帯になっています。
 下流の盆地の中心部は市街地及び住居地域になっていますが、その昔は、広大な田園地帯であり、人々は比較的丘陵部に暮らしていたようです。

 このような地形のため、堤防が設置されていない時代は、大河に包まれた肥沃な土地である反面、洪水も絶えず、住民は、この川の恩恵と災害の危機にさらされながら暮らしてきました。
 現在は、堤防や排水施設が整備され、安全な生活をしていますが、平野部の中心は都市化し、新幹線鹿児島ルート、南九州西回り自動車道、川内港など南九州の交通の要衝となっています。

 新市となった『薩摩川内市』の名称は、薩摩郡内にあった旧
川内市と郡内の樋脇町、入来町、東郷町、祁答院町、里村、上甑村、下甑村、鹿島村が合併したため、薩摩郡(国)の薩摩と川内市の川内を合体して、合併時の話し合いで名づけられました。 
川内のこと
 「せんだい」は今では「川内」と書きますが、江戸期には「千台」「千代」などの文字も使っていたようです。
 薩摩藩が江戸幕府から地図の提出を求められた際「千台川」「千代川」など各種の文字が使われているものがあり、幕府から注意を受けた薩摩藩がその後「川内」の文字を使うよう統一したそうです。

 川の中にあるまちという意味で使われるようになったのでしょうが、昔は、堤防もなかったわけですから川内川流域は、川の中に浮かぶ島々が多かったと想像できます。また、川内地方は秋になると霧に包まれ、山手の高台から見るとまるで海の中の島のように見えることがあります。
「千の台地」も言えていますし、天孫降臨の伝説から「千代の国」も言えてるような気がします。

歴史のひとこま
時代 薩摩川内地方の出来事
神話の時代  
 日本最古の歴史書「古事記」に記される神話によると、神々が住む天の「高天原」(タカマガハラ)からニニギノミコトという神が日本列島を統治するために、九州日向の高千穂峰に降り立ったとあるそうです。
(古事記の分析によると高千穂とは、現在の宮崎県日向の高千穂峡か鹿児島県の高千穂峰であるかは明確でないようだ)

 このことを
天孫降臨といいますが、高千穂峰に降り立ったニニギノミコトは、薩摩の坊ノ津(現南さつま市)に向かい、そこでコノハナサクヤヒメと結ばれ、晩年川内の地を統治して没し、薩摩国川内(現:薩摩川内市)の可愛山陵にその墓が残されているといわれています。
 
 古事記は、奈良時代に編纂されていますが、この、天孫降臨のくだりは、文字のない時代から語り継がれた言い伝えを代々記憶していたものを奈良時代に文字にして記録したといわれています。伝説では、ニニギノミコトの曾孫が初代天皇の神武天皇としています。
 
 ニニギノミコトを祀る神社が可愛山陵の頂上にある
新田神社、ニニギノミコトの陵墓であるとされる可愛山陵は、今は宮内庁により管理されています。
ニニギノミコトが祀られている可愛山陵の新田神社
縄文時代
 
縄文時代とは、今からおよそ12,000年から2,400年ぐらい前までの期間のことを言う(諸説あり)そうですが、 一般的に、縄文時代の特徴は土器が作られ食生活がバラエティーになったようです。それまで獲物を求めて移住生活していた人々は、豊かな自然のめぐみや道具の発達によって生活が向上すると、定住するようになります。川やわき水のある丘に家を建て、数軒の家が寄り集まって村を形成していたとあります。その頃の家は円形や四角形の直径4〜5メートルの穴を掘り数本の柱をたてて、カヤなどで屋根をふいた竪穴住居でした。

 このころの薩摩川内地方での生活がどのようなものであったかは、川内地方でも多くの貝塚などが出土しており、これから生活の形跡が窺われていますが、このころ人々は大きな川の近辺を避けて、丘陵地や台地に生活していたようです。この時代は、海面が今より相当に高いところにあったともいわれています。

弥生時代
 弥生時代は今からおよそ2,400年前から1,800年ほどの期間と言われます。生活のための土器、道具類もますます発達してきます。
 このころには、稲作りも始まっていますが、温かく肥沃な川内川水系でも盛んに行われていたことでしょう。

古墳時代  地域文化は、どんどん発達していきますが、3世紀半ばから7世紀末のこのころになると、政治の基礎が築かれ、有力者の豪華な墓が築かれるようになりました。その墓から時の文化を垣間見ることができます。
 
 川内地方では、横岡、御釣場、安養寺、船間島などの丘陵地や台地、小島などに多くの古墳がみられます。 この時代から地域の有力者が住んでいたことが検証されています。平成21年には、区画整理事業中の天辰町から女性のものとみられる
古墳が出土し、新たな歴史の解明が興味深いところです。

公家の時代
 飛鳥、奈良、平安の時代になると、薩摩川内地方は、ますます栄えて行ったようです。飛鳥時代の末期702年には、飛鳥の政権が全国に敷いた国府のひとつとして、
薩摩国府が川内に置かれ、薩摩半島のほとんどを統治しました。

 役所である国衙の場所は特定されていませんが、現在の国分寺町の一角で国分寺史跡公園の西約100mから200m付近が有力とされています。

 奈良時代の764年には、この薩摩国府の国司(長官)として、後に万葉集を編纂した
大伴家持が任命されたとあります。家持は、一年あまり薩摩国府で在任したことになっていますが、このころ詠んだ和歌は残っていません。史料によると、この5年ぐらい前から亡くなるまでに歌を詠んだ記録がないそうです。

 前後して、708年には、元明天皇の勅命により大小路の
泰平寺が建立され、奈良期に入り725年には、新田神社が建立されたといわれます。さらに、741年には聖武天皇の命令により薩摩国分寺がおかれ、川内地方では寺社を中心とする政治や生活が営まれています。この時代の川内地方は門前町としてとても賑わっていたことでしょう。
 
 平安時代になると、政治家で学者でもあった
菅原道真が京都から大宰府に左遷されます。道真公は大宰府で逝去しますが、薩摩東郷の藤川(現薩摩川内市東郷町)では、道真公は実は密かに薩摩の藤川に下り余生を送ったとの伝説があり藤川天神で祀られています。藤川ほか湯田、国分寺、樋脇など各地に菅原神社が建立されています。
武家の時代
 鎌倉時代以降は武士の時代といわれますが、このころになると関東地方などの有力武士が手柄をたてると、褒美に地方の土地を治める権利を与えられるようになります。
 
 鎌倉時代の始めのころ、千葉氏(現千葉県内)が治めていた、東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城など川内地方のほとんどを関東で手柄を立てた、相模の国(神奈川県大和市など、城は現在の東京渋谷にもあった)の渋谷氏に譲ることとなり、1248年、この地に長男を除く五兄弟を送り込み、それぞれの地名を名字として統治しました。

 その少し前、同じく手柄を立てた(源頼朝の親戚であったともされる)島津忠久氏も薩摩国、大隅国などを治める権利をもらって薩摩、大隅地方のほとんどを統治していましたが、
島津氏が実際に下向してきたのは渋谷氏より後とされます。渋谷氏と島津氏は薩摩地方で永く抗争を重ねることになります。

 薩摩郡地方で勢力を張っていた渋谷氏の一族も次第に島津氏に屈して行きましたが、5族の中でも、現在の入来町に城を構えていた入来院氏はとても勇猛で、川内の高江、平佐、隈之城、山田、百次、祁答院や郡山、姶良まで勢力を張ったこともありました。それでも戦国時代末期になると、ついに島津の力に屈し、統治していた地方のほとんどを島津氏に献上し、現在の入来町を安堵されました。その後、入来院氏の子孫の入来院重聡は娘「雪窓」を島津貴久の嫁に出して島津の一族となりました。雪窓姫はあの有名な義久、義弘、歳久などの勇猛果敢な武士の母となったのです。

 戦国期を経て安土桃山時代になると、三州と言われる薩摩国、大隅国、日向国の一部のすべてを島津氏とその一族が治めることになりました。
島津氏の勢いはとどまるところを知らず、ついに北九州に進出し九州全域を自らの手に治めようとしていました。

 それを許してはならないと時の天下人
豊臣秀吉が1587年、島津を征伐するため九州に出陣してきます。島津氏は北部九州で秀吉方に敗戦を重ね、いよいよ薩摩の本土まで追い込まれてきます。島津軍と豊臣軍は薩摩の防衛の要衝である川内の地で決戦することになります。豊臣軍八万人、対する薩摩軍は川内平佐城主忠ムが率いる三百数十人だったいわれますが、厳しい交戦の末、当時鹿児島(薩摩・大隅・日向の一部)を統治していた島津家当主島津義久が降参し、秀吉に従うことになります。ただし、領土の没収は許され、その後も、薩摩は島津が治めることになりました。

 平佐城の敗戦のショックもまだ癒えぬ1595年、島津の一族である
北郷三久(ほんごうみつひさ)が宮崎の都城から川内平佐に移り住み、その後は、平佐を北郷家の私領として江戸末期まで統治することになります。

 秀吉に従うことになった島津は、1592年及び1598年の二度にわたる朝鮮出兵にも大勢の兵を出しました。朝鮮出兵中に秀吉が亡くなったため、朝鮮から兵を引くことになりましたが、このとき薩摩は多くの兵を失いました。戻らぬ夫を待ちこがれて妻たちが踊ったのが
「想夫恋踊り」として、それから四百年以上経過した今も地元の盆踊りとして踊り継がれています。

 秀吉の死後、間もなく「関ヶ原の戦」がおきますが、このとき戦いに向かう武士の士気を高めるため行われた行事が
「川内大綱引」といわれます。川内大綱引は、綱の端に「わさ」という輪っかがあり、「押し隊」を組織して綱の真ん中で押し合うユニークな綱引きで、「わさ」のある綱は韓国にもあり、ルーツは、今の韓国全羅南道ではないかとの説があります。
 
 関ヶ原の戦いでは、島津氏がついた豊臣方は敗戦となりますが、それでも領地没収とはならず、江戸幕府では島津は外様大名として仕えました。江戸期になると、徳川家康により公布された「一国一城令」により薩摩藩も城をひとつしか持つことを許されず、鹿児島に鶴丸城(天主閣などは置かなかった・鹿児島城とも)を築き、これまで多数あった各地の城は薩摩藩だけの呼び名とされる「外城」(とじょう)つまり、地頭仮屋を置くことにしてそれまでの城主など幹部は鶴丸城の周辺に移り住み、外城域の統治は地域の代表者に任せました。地頭仮屋を置いた地域を鹿児島では後に「郷」と呼びました。かくして、三州の政治と文化の中心は現在の鹿児島市へと移っていきました。

 
川内地方は、古くから交通の要衝で、川内川の運航もその交通手段のひとつでした。江戸時代には、川内向田に藩への上納のための米倉があったため、川内川では船の行き来が盛んに行われました。向田では、毎月一度の市が立ち賑わったといいます。また、陸路は九州の西海道の一部である薩摩街道出水筋が縦断しており、参勤交代にも使われていました。江戸時代の末期に薩摩から江戸幕府徳川家に嫁入りした篤姫もこの街道を上京したことが明らかな史料が出水市に残っているそうです。川内川下流の久見崎には薩摩藩の軍港があり、対岸の京泊港から長崎沖を通り瀬戸内海から大阪に向かう海路による参勤交代もありました。京泊港は琉球など遠方との交易もあったのではないかといわれます。

 江戸末期になると薩摩藩の本城があった鹿児島で、熊本出身の石工
岩永三五郎が設計監督した五石橋が建設されました。川内地方でも三五郎が手掛けた石橋が2カ所ありましたが、今は高江の江之口橋だけが残っています。
 このころ、三五郎とともに橋の建設にあたっていたのが川内出身の阿蘇鉄矢でした。鉄矢は石橋を建設する時の下地橋を作る大工でした。鉄矢は優秀な大工で、後に薩摩藩の大工頭なり、晩年は江戸幕府の命により京都御所の修復も手掛けています。
  
近・現代  江戸末期の1842年平佐北郷家の家臣の子として生まれた有島武は、後に明治政府の官僚となり、横浜税関長なども務めました。退官後も日本郵船の重役、また官営製鉄所の創設にも尽力した人物ですが、大正から昭和にかけて活躍した、作家有島武郎、里見ク、画家有島生馬の3兄弟の父でもあります。

 大河川内川の下流には、江戸時代まで橋がかかっていませんでした。明治になって木造の橋を架けることになります。橋づくりの専門家である阿蘇鉄矢はすでに現役を引退していましたが、当時の県知事から指名があり、鉄矢は再び橋の建設に携わることになります。
 明治8年に完成した
初代太平橋は、その後勃発した西南の役のとき政府軍の進行を恐れた薩摩軍の手によって破壊され、建設からわずか2年ほどの命となりました。その後太平橋は何代も架け替えられ、現在は6代目となっています。
 
 川内川といえば、明治18年に生まれ、薩摩川内市が誇る昭和初期のジャーナリストであり、総合雑誌社
「改造社」を起こし、昭和5年(1930年)に衆議院議員となった山本実彦は、川内川の改修や堤防建設に尽くし、安全で安心なまちづくりの祖となっています。

 薩摩川内に初めて鉄道が敷かれたのは大正時代のことです。先に川内鹿児島間が開通し、後に熊本方面へ伸びていきました。その後、支線(宮之城線)も敷設されました。太平洋戦争(昭和時代)のころ、川内川には鉄道橋・太平橋などが整備されていたため、戦時の物資輸送を阻止するため、橋とともに川内向田・大小路などの人家も米軍の空襲の標的となり、住宅や市民など多くの犠牲者を出し、古くからの街並みは失われてしまいました。戦後は、空襲により焼失したまちの区画整理など復興が集中的に行われたといいます。

 鉄道による大量輸送が普及した一方で昭和50年代になると本格的な車社会となり、その後も発展はとどまるところを知らず、それとともに自動車道路の整備改良も進んで行きました。川内・市比野・入来・祁答院などを縦断する空港道路も整備され地域の一体化が推進されました。道路網と乗用車の発達により、昭和62年(1987年)には国鉄宮之城線は廃線となってしまいました。道路交通は高速化を迎え南九州西回り自動車道
が鹿児島から川内を経由して熊本方面へと伸びていきます。

 平成の時代になると鉄道もスピード化に拍車をかけ、平成23年始めにはJR
九州新幹線が全線開通になります。海上輸送では川内港からの国内外への物資輸送をはじめ、夢の島甑島への客船の高速輸送を目指しています。そして、上甑島と下甑島約1.5kmを橋でつなぐための工事が始まっています。

 このように、薩摩川内市は古来から文化と交通の要衝であることは今も変わりはありません。

      
新市誕生
 平成16年10月12日、新市薩摩川内市が誕生しました。この日は、早朝から旧市町村の関係者や市民が集まって新市の誕生を祝いました。
 新しく島を有する市となった薩摩川内市 山川海の資源を持つ活力ある市の誕生です。
合併地域の概況(当時)は以下のとおり

市町村名

人口

世帯数

面積

人口密度

 

(人) (世帯) (km2) (人/km2)

川内市

73,236

28,632

265.44 275.9

樋脇町

7,951

3,087

64.18 123.89

入来町

6,454

2,443

72.38 89.17

東郷町

5,978

2,324

80.15 74.59

祁答院町

4,625

1,772

82.56 56.02

里 村

1,517

623

17.31 87.64

上甑村

2,008

974

35.08 57.24

下甑村

2,803

1,346

57.61 48.65

鹿島村

892

447

8.68 102.76

105,464

41,648

683.39 162.67
   
市制5周年
 合併後5周年を記念する式典が21年10月10日開催され、同時に新市民歌が発表されました。
 この日は、市民とともに5周年を祝いました。
 市民歌の発表は、作曲をしていただいた、吉俣良氏の指揮により、川内市民合唱団等のコーラスと陸上自衛隊熊本駐屯地音楽隊の演奏 会場の市民は、新曲に聞き惚れました。