ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
断崖の美・男島
下甑島
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藺牟田瀬戸海峡 (下甑島鹿島から・対岸は中甑島)     

下甑島
 甑列島の上甑島と中甑島は下甑島に比べて山が低く、玉石や砂浜も多いので「女島」と呼ばれ、下甑島は高い山が多く西海岸には嶮しい断崖が続くので男島と呼ばれています。
 その中甑島と下甑島鹿島が夢の大橋(仮称)『藺牟田瀬戸架橋』で結ばれようとしています。橋で結ぶための道路工事が2008年度に始まり、2018年度頃橋が完成予定です。男島と女島が1500mを超える橋で結ばれる、まさに夢の橋となるでしょう。

鹿島町
 鹿島町は下甑島の最も北部にある地域です。下甑島への高速船寄港は、長浜港のみのため少し不便ですが、藺牟田瀬戸架橋が完成すると、列島の中央地点になり、北へも南にも便利になります。
 西海岸は断崖、奇岩の連続

 鹿島西部断崖

 鹿島の西海岸断崖(藺落)では、6月には、一面のニシノハマカンゾウ、7月には鹿の子ゆりの開花が見られます。 

鹿島神社・周辺
藺牟田瀬戸架橋
橋梁部分だけで1,500mの工事は着々と進んでいます。(2012.5)

下甑町
 下甑町は、山が迫る東岸に3か所、西岸に3か所の集落があります。島全体が岩盤の山になっているため集落間の移動は時間がかかり交流には厳しいものがありす。
 そうした中、平成23年には青瀬・長浜間がトンネルで繋がり時間短縮がされました。また、鹿島、中甑間も平成29年度頃には橋でつながる予定であり、甑はひとつが実現することになります。

長浜
 長浜港はフェリーや高速船が航行する下甑で最も人口の多い地区です。 
 高速船シーホーク(写真右上)は26年3月廃船。変わって4月からは高速船甑島が運行されています。

んまかど!
長浜港待合所の喫茶くるみ  ここでしか食べられないタカエビ(薩摩甘エビ)のフライ定食 とても旨い!

内川内
 長浜港から西の山を越えて西海岸に位置する小さな集落です。
 かつては、お茶の栽培がおこなわれていました。

 薩摩川内市のコミュニティ協議会で最も小さな地区です。西海岸の急傾斜地で互いに助け合って生活されています。
 昭和53年まで、今のコミュニティセンターがある場所に小学校がありました。
 

青瀬
 青瀬地区は青潮岳の麓にある漁業まちです。
 美しい森から落ちる瀬尾の滝は三段にわたり、瀬尾観音三滝とも呼ばれます。

 青瀬地区は、下甑島東側の県道手打藺牟田港線の中間点にある地域です。青瀬地区から手打に向かう道路は急峻な山間部で道路幅も狭くカーブの連続でした。
 そこで、県ではこの間に二つのトンネル(青瀬・手打)を開設することとし、ついに平成23年3月には完成しました。
 これによって、青瀬手打間は車で10分程度で往来することができるようになりました。

手打
 下甑島最南端に位置する市の支所が置かれている地域です。
 南に開ける平野があり水稲も栽培されています。東部には古来からの良港があり漁業も盛んです。港の近くには海の番所があり、武家麓も伝承されています。 

津口番所跡
 江戸時代、薩摩藩は他国や海外からの不審者の侵入を監視するため要所に番所を置いていました。
 津口番所は、薩摩の重要な港に置かれた番所で甑島では手打と里に置かれていたようです。 手打の番所跡は、現手打港のトンボロ部にあり、手打地区の武家集落(麓)はここから500m以上も続いています。

手打麓
 手打地区郷士の武家屋敷跡 現在も居住地となっています。通りの最西端には新田八幡宮がありました。

地域の広場
「おふくろさん」歌碑
 武家屋敷通りの一角にある歌手森進一さんの「おふくろさん」の歌碑
 森進一さんのお母さんは、ここ下甑の出身です。
 歌碑の前に立つと「おふくろさん」の歌が流れてきます。

釣りバカ日誌撮影地

 下甑島は鯛、カンパチ、鯖、キビナゴなどの魚の宝庫で 映画「釣りバカ日誌9」のロケ地にもなりました。
 手打の美しい海岸では、映画のクライマックスの親子でキスを釣るシーンが撮影されました。

 右下の写真は漁師役として映画に出演したあのプロ野球「楽天」の初代監督 田尾さんがロケの合い間に実際に釣り上げた石鯛の魚拓です。 

下甑郷土館
 下甑島には芙蓉の幹の皮から取った繊維で布を織り、その布で夏用の作業着に仕立てた珍しい着物があったそうです。
 その着物のことを「ビーダナシ」というそうですが、ビーダナシのビーとは、芙蓉。タナシは作業着の意味ですが、もてなしの織物にもされていたそうです。
 布になる繊維の樹木は、古来から麻、藤、葛などがあり、芙蓉の木を原料とする布は、世界に唯一だそうです。
 甑島の風土が生んだビーを横糸に,縦糸には絹が使われていたそうです。古来から使われていたものが、明治期には途絶えてしまい「まぼろしの布」と呼ばれています。
 ビーダナシは、さらさらとした感触と艶やかさは夏着として最適だそうで、先人の知恵の産物といえます。今、古来の布を復活している人がいるそうですが、当時のビーダナシも郷土館に展示されています。

片野浦
 片野浦は、手打の西海岸にある地区です。ここも西海での漁業が盛んです。

 片野浦漁港に入るキビナゴ漁船
  「孤島の野犬」像 
 甑島の野犬を題材にした、児童文学作家椋鳩十先生の「王者の座」「消えた野犬」「丘の野犬」の3作品出版を記念に建立されました

瀬々野浦
 こちらも下甑島西海岸。比較的大きな漁業の盛んな地域ですが、フェリーの着く長浜港、市の支所のある手打地区からは最も遠い地区です。

 瀬々野浦地区にあるシンボル、ナポレオン岩
 岩(島)の形からそう呼ばれているが 高さ127mのその頂上には登った人がないという
 

歴史探訪
 甑島は、その昔、薩摩国甑島郡に属し、上甑島、中甑島、下甑島合わせて14の村があったようです。
 明治22年(1889年)の市町村制が施行された直後の行政区は、上甑村、下甑村の2村でした。
 その後、明治24年に里村が上甑村から分立しました。さらに、昭和24年に鹿島村が下甑村から分立して、合併まで甑島には四つの自治体(村)がありました。
 そして、平成16年には4村そろって薩摩川内市として合併し、同じ自治体になりました。

甑島のキリスト教
 日本に初めてキリスト教を伝道したフランシスコ・ザビエルは、1549年最初に鹿児島に上陸しました。 
 それから、50年ほど後の1602年7月には、薩摩藩は、マニラのサント・ドミンゴ修道院から5人の宣教団(ドミニコ会)を受け入れ、鹿児島での布教を許可しました。ドミニコ会の一行は、最初に下甑島の長浜に到着し、甑島で布教活動をしました。薩摩藩が布教を許可したのは、受け入れを機にヨーロッパと貿易をすることが目的だったともいわれています。
 甑島での布教活動を3年ほど行った、1605年、薩摩藩は、これまでやって来た貿易船の来航に感謝して、8月15日ドミニコ会に上甑島の里に土地・教会・修道院を寄進しましたが、14日後の8月29日に、台風で倒壊してしまった、とあります。

 
このようなことがあり、ドミニコ会は、甑島での布教は難しいと判断し、薩摩藩主に許可を得て、対岸の川内京泊に教会を移すことになります。

 キリスト教は、この後徳川幕府の禁止令により迫害を受け、甑島でも殉教者が出るなど悲しい歴史をたどることになります。現在は、布教の史実に基づいて長浜港の近くに記念碑がたてられています。


 キリスト教の薩摩川内での布教については、 こちら
キリスト教と薩摩川内から
 釣掛崎のキリシタン殉教地の碑

 この釣掛崎は古老の伝承によると聖フランシスコザビエル以来弾圧の厳しい江戸時代に入っても手打青瀬地区ではキリスト教の信仰は守られていたが1638年(寛永15年)ごろキリスト教信者は捕えられ処刑されたといわれているこの釣掛崎は名も知れず殉教していった人々が眠っているところです。と説明されています。