ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
ふるさとの今を知りたい
自然の宝島 下甑島
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鹿島断崖
 目前に立ちはだかる絶壁。カメラを構えたこの場所も海面から50mはあろうかという断崖の上である。
 いつの時代にどうして崩れたものだろうか。圧倒され息が詰まる瞬間である。
 断崖は、鹿島の西海岸一帯に連なっています。
鹿島町
藺牟田瀬戸海峡(写真上)対岸は中甑島
 甑島列島を北から上甑島、中甑島、下甑島と呼んでいますが、上甑島と中甑島は今、美しい橋で結ばれています。
 その中甑島とこちら下甑島鹿島が夢の大橋仮称『藺牟田瀬戸架橋』で結ばれようとしています。
 橋で結ぶための道路工事は平成20年度に始まりまり、おおむね10年ぐらいを目途に完成するそうです。
 橋と自然との競演は世界に誇れるものとなることでしょう。
鹿島側から海までのトンネルは貫通しています 藺牟田地区西方の丘から東方港を望む
鹿島の西海岸の断崖では、7月には、一面のハマカンゾウの開花が見られます。
うみねこ祭
ウミネコと子供たち
毎年5月の連休のころ開かれる「うみねこ祭り」では、うみねこの餌付けや島西海岸の断崖観光ができます。

下甑町
ナポレオン岩
 写真中央の島は、下甑西海岸の瀬々野浦地区にあるシンボル、ナポレオン岩
 岩(島)の形からそう呼ばれているが
 127mのその頂上には登った人がないという
 甑島は、その昔、薩摩国甑島郡に属し、上甑島、中甑島、下甑島合わせて14の村があったようです。明治22年(1889年)の市町村制施行直後の行政区は、上甑村、下甑村の2村でした。その後、明治24年に里村が上甑村から分立しました。さらに、昭和24年に鹿島村が下甑村から分立して甑島には四つの自治体がありました。
 旧下甑村は、山が迫る東岸に3か所、西岸に3か所の集落があります。島全体が岩盤の山になっているため集落間の移動は相当の時間がかかり、集落間の交流は厳しいものがありす。
長浜地区
長浜港はフェリーや高速船シーホークが航行する下甑で最も人口の多い地区です。
青瀬地区
青瀬地区は青潮岳の麓にある漁業まちです。
美しい森から落ちる瀬尾の滝は三段にわたり、瀬尾観音三滝とも呼ばれます。
 青瀬地区は、下甑島東側の県道手打藺牟田港線の中間点にある地域です。青瀬地区から手打に向かう道路は急峻な山間部で道路幅も狭くカーブの連続でした。
 そこで、県ではこの間に二つのトンネル(青瀬・手打)を開設することとし、工事を行っていましたが、ついに平成23年3月には完成することになり、今は貫通したトンネルを仕上げる作業に入っています。
 これによって、青瀬手打間は相当の時間短縮が実現します。
手打地区
手打地区郷士の武家屋敷跡 現在も居住地となっています 
通りを西に向かうと突き当りに新田八幡宮がありました。
片野浦地区
片野浦漁港と港に入るキビナゴ漁船
「孤島の野犬」像 
甑島の野犬を題材にした
児童文学作家椋鳩十先生の
「王者の座」「消えた野犬」「丘の野犬」の
3作品出版を記念に建立されました
瀬々野浦地区
風光明媚な瀬々野浦地区(ナポレオン岩を遠望)
内川内地区
 薩摩川内市のコミュニティ協議会で最も小さな地区です。下甑西海岸の急傾斜地で互いに助け合って生活されています。
 中央はコミュニティセンター

 
昭和53年まで、今のコミュニティセンターがある場所に小学校がありました。
名所
 下甑島は鯛、カンパチ、鯖、キビナゴなどの魚の宝庫で映画「釣りバカ日誌9」のロケ地にもなりました。
 左上は、漁師役として出演したあのプロ野球「楽天」の初代監督 田尾さんがロケの合い間に実際に釣り上げた石鯛の魚拓です。
 右上は映画では浜ちゃんの上司が結婚式を挙げたシーンのロケが行われた手打地区の家 
手打の美しい海岸では、映画のクライマックスの親子で
キスを釣るシーンが撮影されました。
 歴史探訪
 甑島のキリスト教
 日本に初めてキリスト教を伝道したフランシスコ・ザビエルは、1549年最初に鹿児島に上陸しました。それから、50年ほど後の1602年7月には、薩摩藩は、マニラのサント・ドミンゴ修道院から5人の宣教団(ドミニコ会)を受け入れ、鹿児島での布教を許可しました。ドミニコ会の一行は、最初に下甑島の長浜に到着し、甑島で布教活動をしました。薩摩藩が布教を許可したのは、受け入れを機にヨーロッパと貿易をすることが目的だったともいわれています。
 
 甑島での布教活動を3年ほど行った、1605年、薩摩藩は、これまでやって来た貿易船の来航に感謝して、8月15日ドミニコ会に上甑島の里に土地・教会・修道院を寄進しましたが、14日後の8月29日に、台風で倒壊してしまった、とあります。


 
このようなことがあり、ドミニコ会は、甑島での布教は難しいと判断し、薩摩藩主に許可を受けて、対岸の川内京泊に教会を移すことになります。

 キリスト教は、この後徳川幕府の禁止令により迫害を受けることになり、甑島でも殉教者が出るなど悲しい歴史をたどることになります。現在は、布教の史実に基づいて長浜港の近くに記念碑がたてられています。
 

 キリスト教の薩摩川内での布教については、
 こちら
キリスト教と薩摩川内から
釣掛崎のキリシタン殉教地

この釣掛崎は古老の伝承によると聖フランシスコザビエル以来弾圧の厳しい江戸時代に入っても手打青瀬地区ではキリスト教の信仰は守られていたが1638年(寛永15年)ごろキリスト教信者は捕えられ処刑されたといわれているこの釣掛崎は名も知れず殉教していった人々が眠っているところです と記されています。
 手打津口番所
下甑手打地区(手打港近く)にある津口番所跡

江戸時代、薩摩藩は他国や海外からの不審者の侵入を監視するため要所に番所を置いていました。
津口番所は、重要な港に置かれた番所で甑島では手打と里に置かれていたようです。
手打の番所跡は、現手打港のトンボロ部にあり、復元された施設は休憩所とトイレになっています。
手打地区の武家集落(麓)はここから500m以上も続いています。
地域の広場
下甑郷土館

 
下甑町には芙蓉の幹の皮から取った繊維で布を織り、その布で夏用の作業着に仕立てた珍しい着物があったそうです。
 その着物のことを
「ビーダナシ」というそうですが、ビーダナシのビーとは、芙蓉。タナシは作業着の意味ですが、もてなしの織物にもされていたそうです。
 布になる繊維の樹木は、古来から麻、藤、葛などがあり、芙蓉の木を原料とする布は、世界に唯一だそうです。甑島の風土が生んだビーを横糸に,縦糸には絹が使われていたそうです。古来から使われていたものが、明治期には途絶えてしまい「まぼろしの布」と呼ばれています。
 ビーダナシは、さらさらとした感触と艶やかさは夏着として最適だそうで、先人の知恵の産物といえます。今、古来の布を復活している人がいるそうですが、当時のビーダナシも郷土館に展示されています。

「おふくろさん」歌碑

手打地区にある歌手森進一さんの「おふくろさん」の歌碑
森進一さんのお母さんは、ここ下甑の出身です。
歌碑の前に立つと「おふくろさん」の歌が流れてきます。