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ふるさと関連見聞録 キリスト教と薩摩川内 Furusato Satumasendai
2010/ 3/22

 日本へのキリスト教伝来は、1549年に鹿児島に渡来したフランシスコ・ザビエルからとされています。ザビエルの鹿児島への渡来は、薩摩川内にも影響を与えました。


ザビエル鹿児島へ

 フランシスコ・ザビエルはキリスト教会イエズス会の宣教師でした。当時のイエズス会本部は、ローマのジェズ教会にありましたが、イエズス会は世界宣教をテーマにしていました。1541年ボルトガル王の依頼で会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになりましたが、ザビエルはその時に派遣された3名のイエズス会会員の一人でした。

 ゴアに到着した後は、そこを拠点にインド各地で宣教し、多くの人々をキリスト教に導いたといいます。

 1547年12月にマラッカで出会ったのが鹿児島出身のヤジロー(アンジローとも)という日本人でした。ザビエルは1548年11月ゴアで宣教監督となり、1549年4月、イエズス会員の神父、修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを日本を目指して出発しました。

 1549年8月、中国を経て鹿児島(現在の鹿児島祇園之洲)に上陸しました。同年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ました。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行う事を好んだといいます。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会いました。

 かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、1550年8月に島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができました。平戸への旅立ちは、当時薩摩の重要港であった水引の京泊港を利用したそうです。

 ザビエルは平戸でも宣教活動を行っていたが、平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に京都の都を目指しました。

 そのころ京都は、11年にわたる応仁(おうにん)の乱で、すっかり荒廃していました。後奈良天皇は力がなく、幕府の権威は地に堕ち、将軍 足利義輝(あしかが よしてる)は、近江に逃れていました。ザビエルは、内裏から、日本全国で宣教する許可をもらい、都に聖母マリアを保護者とする教会を建てたいと望んでいました。しかし、天皇との謁見も、宣教も許されませんでした。

 夢やぶれたザビエルは、都を去って、平戸にもどり、ふたたび山口での宣教を試みましたが、思わしくなく中国での布教に方針を切り替えて、2年2カ月の日本滞在を終え中国へ旅立ちました。

川内での布教と禁教

 それからおよそ半世紀あとの慶長7年(1602年)フィリピン・マニラのドミニコ会は、島津家久(忠恒)の招きに応じて、下甑島の長浜海岸に、フランシスコ・デ・モラレスら4人の宣教師と修道士1人が上陸しました。その時の船長は、地元出身のレオン喜左衛門だったといいます。彼らは6月1日にルソン島のマニラを発ち、7月3日に甑島に到着しました。

 この数年前、1587年には豊臣秀吉により、伴天連(バテレン)禁止令が出されていたのですが、一方ではポルトガル船の来航は歓迎していたため、禁教が徹底していなかったといわれます。島津氏がこのころ敢えてキリスト教を禁止していなかったのは宣教師等を通じて東南アジア等との貿易をするのがひとつの目的であったといわれています。

 ドミニコ会の宣教師達が甑島に到着し3年ほど布教活動をした1605年には島津氏の寄進により、甑島の里村に布教のための修道院を建てたそうですが、数日後には折からの強い台風により倒壊してしまったそうです。その後、1606年(慶長11年)には、許可を得て本土側の水引村京泊の小高い丘にロザリオの聖母にささげられたロザリオの聖母聖堂(天主堂)が設立されました。これは日本で最初の教会のひとつであるといわれています。また、同時にハンセン氏病患者のための療養所が開設されたそうです。

 彼らは当時の厳しい環境下の甑島や京泊に居を構えて布教に努めるかたわら、島津氏の本拠、鹿児島はいうにおよばす、はるばる京都方面へも出向いていったようです。モラレス神父などは、慶長12年、駿府において二代将軍徳川秀忠に謁見もしているそうです。しかし、慶長14年(1609年)、島津藩主によりキリシタン追放令が布告され、さらに1614年には徳川幕府(家康)によって禁教令が出され苦境に立たされました。

ドミニコ会初の殉教者

 このころ、薩摩川内平佐を治めていた北郷(ほんごう)家家臣の税所七右衛門敦朝(あつとも)は、京泊の教会で洗礼を受け「レオン七右衛門」となっていた。熱心なキリスト教信者であった七右衛門は当主の北郷三久からキリスト教を離れるよう促されましたが、従うことはなく、1608年薩摩におけるドミニコ会初の殉教者となったそうです。殉教した七右衛門は、京泊の教会に埋葬されたとあります。

 島津の禁教令によって、薩摩からの退去を命じられたドミニコ会の宣教師たちは、1609年、京泊教会を解体して、その材木とレオン七右衛門の遺体と共に長崎に移り、その材木を使って、長崎にサント・ドミンゴ教会を建ました。京泊教会にあったロザリオの聖母像は、その後マニラのサント・ドミンゴ教会に移され、「日本のマリア様」と呼ばれ大切に保存されているそうです。

徳川幕府の禁教令

 徳川幕府を開いた家康は、当初キリシタン信仰を黙認する態度を示していたといいます。そのためフランシスコ会の勢力は関東地方から東北地方にひろく伸び、その勢いを恐れた2代将軍秀忠は、1614年禁教令を発布し、弾圧の態度を明らかにしました。
 禁教政策はこの後、年を追ってきびしくなり、宣教師や信者たちは捕らえられて国外に追放され、また処刑されました。1643年には、遂に聖職者不在の状況に陥ります。しかし、迫害の嵐に耐えて潜伏するものも少なくありませんでした。これが特に九州に多かったとされる隠れキリシタンです。

 日本へのキリスト教の布教は、イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会等の会員がインド・フィリピン等から相次いで来日し、各地に教会、修道院、学校、病院等を設置して熱心に宣教に当ったので、教会は驚異的発展を遂げたといいます。歴史家の調査によれば、禁教令が出された慶長19年(1614年)ごろの聖職者数は150名、信徒数は65万人を超えており、信徒の中には公卿2家及び大名55名があったそうです。

 信仰に救いを求めなければ不安でならなかった戦国期に海外の宗教がにわかに広がっていったのでしょうが、信教の自由が保障されている現代の信者数が約45万人といいますから、江戸期初期のこの数字は驚くべきものではないでしょうか。