ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
東に開ける 平佐西
HOMEへ 寄田 << >> 平佐東 位置図
川内駅西口    

平佐西
 平佐西地区は、JR新幹線鉄道の西側の鳥追町、白和町、横馬場町から東側の平佐町、天辰町、田崎町のことをいいます。平佐西地区は新装なった川内駅から東へ東へと開けて行っています。

川内駅西口 (国道3号方面)
大伴家持

 
あの万葉集を編集した人物として有名な大伴家持は、奈良時代、現在の国分寺町にあったとされる薩摩国府の長官を務めていました。
 長い年月を経て川内駅前に蘇った像は新たな川内のシンボルとなリました。

 
鳥追舟

 薩摩川内の日暮長者伝説を題材に室町時代に金剛弥五郎によって書かれた能楽謡曲 「鳥追舟」
「鳥追舟」は今も観世流により引き継がれ舞われています。
鳥追の杜
 日暮長者伝説の姉弟を祀る鳥追の杜、ここには今も能楽関係者が人知れず訪れ参るといいます。    

川内駅東口 (寺山方面) 
 川内に鉄道が開通したのは、1914年(大正3年)、当初は川内鹿児島間が開通しました。その後、八代方面へと延びて鹿児島本線となりました。
 川内駅はこの一帯が「むこうだまち」と呼ばれていた大正初期のころ「川内町駅」(せんだいまちえき)という名称でした。
 平佐西地区は、近年、鹿児島純心女子大学も進出して、川内商工高校、中央中学校など川内地区の住宅学園ゾーンとして開発が進んでいます。川内駅には東口が新たに設置され、合併した東郷、樋脇、入来、祁答院、また、県都鹿児島市方面からの東玄関口として発展が期待されています。
 廃線となった旧国鉄宮之城線は、道路として整備され、白浜、楠元、吉野山駅方面の東へと開けていきます。
写真は旧川内西中学校付近(県道)
 隈之城高城線は、天大橋で川内川を南北に横断し東郷、上川内、高城方面へと繋ぐ交通量の多い重要な市道になっています。
鹿児島純心女子大学
 寺山麓台地の見晴らしのいい環境に立地しています。薩摩川内市唯一の4年制大学です。21年度からは大学院も
国際交流センター
 純心大学の道路向かいに立地する国際交流センター
 各種会合・イベントなど地元コミュニティや純心大学とも共存しています。
住まい環境の整備
 県道川内・加治木線(空港道路)の永利地区から天大橋へ出る田崎沿線には、特徴のある公営住宅などが整備され、ゆとりある生活空間になっています。

天辰町
 川内川左岸の天辰地区(純心女子大学の西側)は、住宅地の区画整理が進められ、住宅の移転や新築が進み暮らしやすい住環境になって行きます。

天辰地区から川内駅付近遠望
区画整理予定地から古墳が発見され天辰寺前古墳公園として整備されました。
碇山城址付近  天辰寺前古墳公園

歴史探訪
 平佐西地区は、かつては平佐村、天辰村の地域ですが、その昔の平佐村のシンボルは平佐城でした。戦国時代の城は、現在の平佐西小学校から川内駅のところまであったといわれます。豊臣秀吉が九州征伐で川内に至った際、九州の名将島津の最後の砦となりました。
 島津はこの戦いに敗れてしまいますが秀吉に降伏し和睦をしたため、お家取り潰しとはならず、後に秀吉に使えて朝鮮出兵ではむしろ功績をあげています。平佐郷は、江戸時代になっても、本郷家の私領として統治されました。 

平佐城跡
 川内駅東にある平佐西小学校付近は、かつての平佐城の跡地です。
 本丸は平佐西小学校の東側付近にあり、二の丸が平佐西小学校、三の丸が現在の川内駅の辺りにあったといいます。
 当時は川内駅付近まで丘陵地で、城郭から見る川内平野は素晴らしい光景だったことでしょう。

 平佐麓の風景はこちら 平佐麓 から
もうひとつの名城  碇山城跡
 鎌倉時代の頃から平佐天辰地区にあった「碇山城」は島津家の居城となっていました。
 室町時代になると数々の戦いがあり、1430年に滅亡し、その後島津家の主流は中心地は鹿児島へと移っていきました。

 今、近辺は住宅地として土地区画整理が行われています。碇山城跡は昭和の初期の頃から石材の切り出しが行われ、広い台地は残っていませんが、この周りに住宅が建ってくると、この地のランドマークとして蘇ってくるのではないでしょうか。

北郷家を祀る兼喜神社
 1595年安土桃山時代末期のころ、島津の一族である北郷(ほんごう)三久が当時薩摩の都城から平佐に移ってきます。その後、平佐は北郷家の私領して江戸期にわたり治めらられることになります。
 兼喜神社は、非業の死を遂げた兄相久の御霊を慰めるため、1615年三久が都城の若宮八幡からこの地に移し、当時は若宮八幡として祀っていましたが、その後は兼喜神社として北郷家歴代の祭神となっています。
 神社前の参道を流鏑馬場と言い、かつては、毎年の例祭の後、馬場で流鏑馬が行われたといいます。

有島三兄弟
 江戸期に北郷家に遣えた有島家の子孫、有島武は明治の始め中央に進出し、大蔵省国税局の役人となります。
 その子、有島武郎、有島生馬、里見頓の三兄弟は小説家、画家として中央で活躍します。
 写真は、武の活躍を顕彰する記念碑で平佐麓に建つ
 中郷町には里見頓を記念する郷土ゆかりの文学館「川内まごころ文学館」があります。
 
   平佐西小学校に建てられている「里見頓」の記念碑題字「慈眼観」とはいつくしみの目で全てを見るという まごころ文学を築きあげた里見頓の言葉です。

磁器の里 「皿山」
 天辰町寺山麓皿山では、江戸時代の頃(1780年)から磁器の生産が行われていました。
 平佐領主北郷久陣の援助により、肥前有田や天草から陶工を呼び寄せて興したもので、平佐焼と呼ばれるようになりました。以来平佐焼きは、技術の発達によって発展し、多くの窯元がありました。江戸時代末期には薩摩焼史上最大級の規模を誇ったといわれています。
 製品は、白磁、染付、色絵の日用品から美術品まであったそうで、その一部は、鹿児島尚古集成館、東京国立博物館、ロンドン博物館、オランダアムステルダム博物館などに収蔵されているそうです。
 明治になり廃藩置県で北郷(ほんごう)家の支援がなくなり、昭和16年(1941年)を最後に平佐焼の歴史は終りました。

川内橋
 川内駅西口(昭和通り)の辺りには、昭和の始めごろまで平佐川があり、川は北側で春田川に繋がり川内川に流れ入っていました。昭和17年ごろ市街地の洪水対策のため隈之城川に繫ぎ変え、このあたりの平佐川は埋め立てました。
 その時、今の川内駅に通じる昭和通りに架かっていた川内橋も取り壊しとなりました。川内橋の橋柱は当時の工事関係者が保管していたため、橋があった場所にミニチュアとして復元されました。