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川内駅東口は、平成23年の九州新幹線全線開通に向けて駅前広場の工事が急ピッチ
| 平佐西は、かつての平佐村、天辰村の地域です。 平佐村のシンボルは、平佐城でしたが戦国時代の城は、現在の平佐西小学校にあり、豊臣秀吉が九州征伐で川内に至った際、九州の名将島津の最後の砦となりました。島津はこの戦いに敗れてしまいますが秀吉に降伏し和睦をしたため、お家取り潰しとはならず、秀吉に使えて朝鮮出兵ではむしろ功績をあげています。 江戸の時代になっても、地域の政治の中心地として明治まで続きました。 現在は、新しい町名になり、主に駅東の平佐町、天辰町、田崎町のほか、駅周辺の鳥追町、白和町、横馬場町が平佐西小学校区になっています。平佐西地区は新装なった川内駅から東へ東へと開けて行っています。 |
平佐城跡 川内駅東にある平佐西小学校付近は、かつての平佐城の跡地である。本丸は平佐西小学校に少し南東付近、二の丸が平佐西小学校付近、三の丸が現在の川内駅のところにあったといいますから、当時は、広い川内平野の丘陵地に堂々と建つ相当に大きな名城であったことでしょう。
写真はかつての平佐西小正門。お城の砦の石を使ったものでしょうか。
歴史の跡 北郷家を祀る兼喜神社
1595年江戸時代の数年前、島津の一族である北郷(ほんごう)三久が宮崎の都城から平佐に移ってきます。その後、平佐は北郷家の私領して江戸期にわたり治めらられることになります。
兼喜神社は、非業の死を遂げた兄相久の御霊を慰めるため、1615年三久が都城の若宮八幡からこの地に移し、当時は若宮八幡として勧請したものだそうです。その後、北郷家歴代の祭神となっています。
かつては、毎年の例祭の後、正面の馬場で流鏑馬が行われたといいますが、今は県道となっており、道路が広くなり当時の馬場の雰囲気はあまりありません。麓の地名で呼ばれる平佐城跡(現平佐西小)付近 江戸期に北郷家に遣えた有島家の子孫、有島武は明治の始め中央に進出し、大蔵省国税局の役人となります。
その子、有島武郎、有島生馬、里見頓の三兄弟は小説家、画家として中央で活躍します。
写真は、武の活躍を顕彰する記念碑で平佐麓に建つ
中郷町には里見頓を記念する郷土ゆかりの文学館「川内まごころ文学館」があります。
もうひとつの名城 碇山城
鎌倉時代の頃から平佐天辰地区にあった「碇山城」は島津家の居城となっていました。
室町時代になると数々の戦いがあり、1430年に滅亡し、その後島津家の中心地は鹿児島へと移っていきました。今、近辺は住宅地として土地区画整理が行われています。碇山城跡は昭和の初期の頃から石材の切り出しが行われ、広い台地は残っていませんが、住宅が建ってくると、この地のランドマークとして蘇ってくるのではないでしょうか。
磁器の里 「皿山」
天辰町寺山麓皿山では、江戸時代の頃(1780年)から磁器の生産が行われていました。
平佐領主北郷久陣の援助により、肥前有田や天草から陶工を呼び寄せて興したもので、平佐焼と呼ばれるようになりました。以来平佐焼きは、技術の発達によって発展し、多くの窯元がありました。江戸時代末期には薩摩焼史上最大級の規模を誇ったといわれています。
製品は、白磁、染付、色絵の日用品から美術品まであったそうで、その一部は、鹿児島尚古集成館、東京国立博物館、ロンドン博物館、オランダアムステルダム博物館などに収蔵されているそうです。
明治になり廃藩置県で北郷(ほんごう)家の支援がなくなり、昭和16年(1941年)を最後に平佐焼の歴史は終りました。
住まいの開発 平佐西地区は、近年、鹿児島純心女子大学も進出して、川内商工高校、中央中学校など川内地区の住宅学園ゾーンとして開発が進んでいます。川内駅には東口が新たに設置され、合併した樋脇、入来、祁答院、また、県都鹿児島市からの東玄関口として発展が期待されています。
川内川左岸の天辰地区は、住宅地の区画整理が進められています。
中央の小高い丘は、かつての碇山城跡県道川内・加治木線(空港道路)の永利地区から天辰地区へ基幹道路がとおり、特徴のある公営住宅などが整備され、ゆとりある生活空間になっています。 廃線となった旧国鉄宮之城線は、道路として整備され、白浜、楠元、吉野山駅方面の東へと開けていきます。写真は旧西中付近 市道隈之城高城線は、天大橋で川内川を南北に横断し東郷、大小路方面へ繋ぐ重要な道路となっています。
「天大橋」とは、天辰地区と大島地区を繋ぐの意鹿児島純心女子大学は、寺山麓台地の見晴らしのいい環境に立地しています。
薩摩川内市唯一の4年制大学です。
21年度からは大学院もその純心大学の道路向かいに立地する国際交流センター各種会合・イベントなど地元や純心大学とも共存しています。
平佐西小学校に建てられている「里見頓」の記念碑題字「慈眼観」とはいつくしみの目で全てを見るという まごころ文学を築きあげた里見頓の言葉です。