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平佐麓
 川内駅東にある平佐西小学校付近は、かつての平佐城の跡地です。本丸は平佐西小学校の少し南東付近、二の丸が平佐西小学校付近、三の丸が現在の川内駅のところにあったといいますから、当時は、広い川内平野の丘陵地に堂々と建つ相当に大きな城であったことでしょう。

 江戸期には平佐城跡に平佐郷の地頭所が置かれました。写真は現在の平佐西小正門。お城の砦の石を使ったものでしょうか。「門柱には平佐西小学校」の文字が


 平佐城は、豊臣秀吉の九州征伐が行われた時の薩摩島津軍の最後の砦となった城であることは、あまりにも有名です。

 小西行長などが率いる秀吉軍約8000人に対して、平佐城主桂忠皓は300数名の軍で応戦したとのことですが、平佐城は鹿児島特有のシラス台地の小高い丘の上に築かれた城で、城郭の壁は垂直に削られ、容易に攻め落とすことは困難だったと思われます。

 平佐城での戦いの様子はこちら
   
九州平定 〜秀吉・義久和睦 から
かつて上級の家臣が住んでいたと思われる屋敷は石塀も風格があります
 竃門神社(カマドジンジャ)
 
 平佐城跡の頂きに鎮座する神社
 平佐北郷家初代三久が、朝鮮役凱旋の折唐火鉢の製法を能くする「南四官」を連れ帰り、家人大山周左ヱ門にその製法を学ばせた。爾来鋭意此の製法を進展完成を期するため、竈門神社を建て火迦具土神を勧請した。
 当神社は火産霊神、奥津毘古神、奥津毘売神三柱の神を祀り、平佐城の守護神なりとする口碑伝説がある。藤崎郷中は之を荒神と称し、産土神として代々子孫之に奉仕して、竈の安全を祈り祭って来た。
                                                     (鹿児島県神社庁HPより)
 400年前この付近で秀吉軍を迎え撃った平佐城の一角。
 跡地は今はすっかり都市化して一部は川内駅になっています。駅ビルがランドマークと言ってもいいでしょう。

北郷家墓地
 個人の墓地におうかがいするのは気が引けましたが、北郷家の墓地は市の指定文化財になっていましたので、訪問してみました。

 江戸期に川内平佐を統治したのは、日向の北郷院(現:宮崎県都城市)出身の北郷家の一族でした。北郷家はもともと島津氏の一族でしたが、文禄4年(1595年)都城から北郷三久が初代領主として平佐にやって来ました。

 この墓地には、北郷家代々の領主とその妻子の墓があります。同地には明治の初年まで北郷家の菩提寺梁月寺があったそうですが、廃仏毀釈により廃寺となり、北郷家が移り住み館としましたが、今は広い敷地が残っています。

 中世の武家のものとは言え、このように大きくて立派な彫刻を施したお墓を見たことがありません。

 平佐初代領主、北郷三久の墓(上の写真左)は、五輪塔ですが2.5mもある屋根つきの祠に納められています。また、その他の領主の墓も細かい飾りを彫りこんであり、とても立派なものです。