ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
自然の宝庫 寄田
HOMEへ 久見崎  << >> 平佐西 位置図
 
轟川森渕  

寄田
 寄田は、薩摩川内市本土の最西端にあるまち
 地図で見ると川内川南側のちょっと海に突き出た地域です。ここから海の彼方に見える甑島も薩摩川内市です。
 市の中心部からは遠い臨海部ですが、山川にも恵まれ風光明媚で、野鳥、山菜・野花も豊富な自然の宝庫です。

寄田地区

轟川 「森渕」
 地域のほぼ中央を流れるここ轟川「もりぶち」は、川に堰をして水田の用水に利用されていますが、一方で小中学校にプールがない頃は、自然のプールとなり、子どもたちの水浴びの場所でした。
 写真中央の岩は自然の飛び込み台。小さいころ、ここで育った人の話によると、水深が深いため「小学校のころはこの高さが5mにも見えた。飛び込むのは勇気のバロメーターだった」と、実際は2mもないくらいだが子供には高く見えたのでしょうね。
 
棚田の風景   
新田といわれる棚田は今年も豊作
 寄田地区は江戸末期のころから昭和初期にかけて長い間新田造りが行われていました。
 山手の水田に水を引くための水路造りも並行して行われ、そのころは水路の傾斜を測量するため夜間に松明を焚いて行ったといわれます。 棚田はこの一帯から山裾まで続いています。

鬼ハス
 小比良池に生息する天然記念物「鬼蓮」蓮の葉の表面はトゲ状になっています。5.6年に一回咲くという花を一度見てみたいものです。
蓮の周りの小さな葉っぱは「菱」。黒いひし形をしたトゲ状の実をつけます。

寄田浜
 轟川はこの浜にそそいでおり、満潮時には河口から一本釣りの船が出て行きます。
 
 

土川地区

寄田町最南端、串木野市との境にある土川地区   玉石の美しい海岸です

地域の広場
天狗
 寄田地区から土川地区にかけての海岸線は小さなリアス式海岸になっています。
 海岸の中間地点にある天狗鼻は最も飛び出た部分で南の海側から見ると天狗の鼻みたいに見えるそうです。撮影の場所からは、南は薩摩半島の野間岬、北は長島、西には甑島を望めます。
 
南方を望む。この広場の奥に明治時代の海軍敵艦船監視所「望楼台」がありました。

歴史探訪
 明治のころ寄田小学校建設地から多数の遺骨が見つかり、南北朝時代に城を中心とする戦で滅びた寄田松之助とその臣下ではないかとの判断があった。
 室町時代の豪族、寄田松之助はこの地に城があり、当時串木野以北の羽島、寄田から阿久根の近辺までの海岸地域一帯を統治したとの伝承があるが、文献はないという。学校敷地に寄田松之助の顕彰碑が建てられている。
 寄田小学校は閉校となり、学校区は、旧高江村の峰山水引小学校ではなく、臨海部の水引小学校となった。 
甑島住民移住
 明治時代に甑島で大飢きんがあり、農作物が採れなくなった時がありました。そこで鹿児島県の指導で甑島の多くの住民が県内各地に移住しました。下甑島鹿島地区の方々は、ここ寄田に移住され、上野、池の段地区で農地開拓をされました。
 寄田では昭和期に甘藷の耕作が盛んになり、昭和の戦後には澱粉工場が置かれ賑わいました。
 寄田の野山でも見られる『鹿の子ゆり』は、甑島から移住してきた方々が当時食用として持ち込んだものだそうです。
望楼台
 薩摩川内の最西端、東シナ海にの臨む天狗鼻には、明治の末期に海軍の「望楼台が設けられていました。
 日本海軍は、日清戦争の後、敵艦船を監視するため日本の各地に望楼台を築いていました。
 ここ天狗鼻は、海側に飛び出た高台から遠望できる絶好の場所のため、無線通信機を設置し、常時4人体制で敵国の監視と天気の観測などを行っていたようです。
 明治末期の日露戦争では、ロシアのバルチック艦隊がインド洋を経て日本海へ向かうため、この沖を通過するのを監視していました。日露戦争が終結した、明治38年に役目を終了しています。
絶壁の突端部に屋根を低くしてレンガで建てられた望楼台
内部の広さは30uくらいでしょうか。この小さな窓から監視していました。
当時の屋根は崩れおちています。
 望楼台の背後の森には共同住居跡も静かに残っていました。