ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
薩摩川内は今も変わらないか あの海 あの山 あの川は
青い海と青い森
 
久見崎
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はまぼう            
久見崎
 久見崎は川内川河口の左岸に位置する地域で、いわしの稚魚漁業、「ちりめん」加工場や小型漁船による川内川河口及び薩摩灘の一本釣漁業なども行われています。

河口港
 江戸期には薩摩藩の軍港がありました。  イワシの稚魚を湯がいて天日干し

はまぼう
 はまぼうは低木の落葉樹で塩水と淡水が入り混じる河口付近に生息しています。
 関東以西に生息し、毎年7月ごろに7pから10pほどのハイビスカスに似た黄色い花をつけます。花は、朝顔のように1日しか咲きません。木は次々に花を咲かせ毎日違う表情をみせてくれます。
 自然の群落は珍しく、川内での群落は、ここ久見崎町の湿地のほか寄田町の轟川河口でも見られます。
 市の天然記念物になっています。
日和山
 日和山は薩摩藩軍港の軍船が出港する際や漁に出るときの天候の具合いを観測していた場所でした。
 これまで長い間、町はずれの松林で踊られていた盆踊り「想夫恋」は、このほど町の近くの日和山の隣に広場が整備され記念碑も移されました。
地域の広場
 原子力発電所展示館
 原子力発電所のすぐ隣には、原子力発電所展示館があり、原子力発電の仕組みを学べます。
 発電所の冷却水にも利用される「みやま池」は冬には鴨などの渡り鳥で賑わいます。
歴史探訪
 この地区には、かつて薩摩藩の造船所があり、軍港にもなっていました。西には甑島、北には天草、熊本(肥後)、そして中国、朝鮮の外国へと通じています。
 もともと交通の要衝である川内川、資材の調達に加えて北からの敵の攻撃に備える適地だったのかもしれません。
 安土桃山時代の末期(1590年代)に、豊臣秀吉は朝鮮に向け出兵しますが、薩摩の島津軍はここから1万人を超える兵を朝鮮に派遣しています。造船所は、町の上流の入り江の一角に整備されていました。今は一部が埋め立てられ広場と道路になっています。 
 江戸期当時の軍船は、もちろん木造で、久見崎には優秀な船大工がいました。船の設計に関する文書「樗木文書」も残っており、レプリカが川内歴史資料館に保存されています。    

盆踊り「想夫恋
 毎年8月16日に地域の方々によって舞われる、盆踊り「想夫恋」。 
 豊臣秀吉の朝鮮出兵には、多くの薩摩兵士も参加しここ久見崎から出港して行きました。出兵中に秀吉が死亡したため、兵は撤退することになります。久見崎港から出兵した兵の中には待てど暮らせど帰港しないものもありました。
 帰らぬ夫を待つ妻たちは、いつか夫を思い待ちこがれる踊りを舞うようになります。その踊りが、「想夫恋」として400年以上も踊り継がれています。