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入来麓

 清色城跡・・・今は入来小学校になっている旧入来町の中心地だ。
 江戸時代には入来院の地頭仮屋が置かれていた。今も江戸時代の趣をもつ玄関です。

 現在の入来町は鎌倉時代の1248年関東相模の国(現神奈川県、城は東京渋谷にあった)から渋谷光重氏の男子5兄弟が薩摩郡地方に下向して治めた地区のひとつです。
 渋谷光重は長男のみを相模に残し、二男以下の5兄弟を薩摩に下向させ、入来は、五男定心が領主となり、ここ浦之名に清色城(山城)を構えて、後に地名の入来院を名のりました。
 当時の入来院地区(入来)は、現在の入来町のほか、樋脇町の市比野、搭之原、倉野、川内平佐地区の久住、中村、楠元も含んでいました。
 入来院はとても勇猛な武家で戦国時代には、川内南部の高江、平佐、隈之城、百次、山田、水引地区や郡山、姶良まで侵攻し所領としたこともありましたが、江戸時代直前になると島津氏に逆転され、その後は、現在の入来町地区を与えられ、江戸時代の「一国一城令」発布後は私領とし統治し、明治2年に国に領地を返還するまで続きました。
 江戸期以降は、島津氏の家臣とは言え、一家の領主が620年の長期にわたり、同一地域を治めたのは全国でも実に珍しい事例だそうです。 
階段上の入来小学校は城のイメージで建築されています。
 地頭仮屋前の広場を出ると馬場が東西南北に延びています。入来麓地区です。
 麓地区は中心部を国道328号が通り(川向こうにはバイパス)、川の玉石で築いた石垣や武家門などがあります。一見、この国道沿いだけが保存された地域かと思われる石垣路地(麓)は、旧城下の山裾から東側の清色川一帯の広範囲にわたっています。
 清色城下の麓地区は、中世に築かれたものとは思えないような区画整理がされています。玉石垣は近年になってから積み直されたようですが、他の麓に見られるような江戸期の切り石の石垣は殆んどみられません。屋敷はとても広いですが石垣は贅沢をしていません。これは、長期にわったって入来地区を支配した入来院の政策だったのでしょか。
 入来麓地区は、平成15年12月に出水、知覧の麓に次いで国の重要伝統的建造物群に選定されています。さらに、清色城跡は、平成16年9月に国の文化財に指定されました。
麓の中央通りにある茅ぶきの門、中世の趣を残すものです
石塀や石柱、犬槇の門もあります。
鹿児島の武家屋敷には犬槇が多く使われています。
東側馬場の向こうは、いむた池愛宕山などを借景
旧増田家 江戸末期から昭和初期の民家(平成25年に復原された)
江戸末期の郷士の武家屋敷は茅ぶきだったといいます。
清色城
 鹿児島のその頃の城はシラス台地などに築かれた山城で清色城も現入来小学校の西側のシラス台地の山頂にありました。

 鹿児島の城の中でも清色城は特に防御に優れた頑強な城であったといいますが、本丸のほか本丸の一角に中之城、求聞持城、物見之城、また外郭に松尾城、内之城の支城が置かれていたようです。砦はいずれも急傾斜上の台地に築かれています。

 その城内に入る最先端の場所には、高さ15m、幅2mほどの大きな堀切(左写真)がありました。登りも急で敵がここを潜って侵入するのはとても困難であったと思われます。たとえ敵が城内に入ったとしても、砦への通路は3路に分かれており、容易に本丸の場所がわからないような構造になっていす。それぞれの城の砦も急傾斜の頂上にあり、通路が堀の役目をしています。

 事実清色城は、戦いにおいて一度も陥落したことはありませんでした。