ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
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川内川にかかる橋
 川内川は、熊本県白髪岳から宮崎県えびの市、さらにさつま町の鶴田ダムを経て、東シナ海にそそぎ込みます。延長137kmは筑後川に次ぐ九州第二の延長を誇る大河です。長大な川のため橋も多く、薩摩川内市では鉄道橋を含め11の橋が架かっています。

  
▲国道3号の太平橋(手前)と開戸橋(奥)
河口大橋
 川内川の最も下流にあり、江戸時代に薩摩の軍港や造船所があった久見崎町と船間島・港町をつなぐ橋です。
 現在は、久見崎町には原子力発電所、港町には漁港や商業港(川内港)があります。
川内川大橋
 平成25年3月に完成開通した、南九州西回り自動車道≪高速道路≫の橋。水引地区と高江地区を繋ぎます。

 この橋は自転車、徒歩でも渡れる機能を持っており、高速道路の利用法としては全国でも珍しい橋です。橋の下流側に市道として分離して整備されています。
開戸橋
 河口から10キロほど上った街中の開聞町と花木町戸切地区を結ぶ橋です。 
 橋の向こうに見えるのは中越パルプ工業の川内工場、川内港には、南米などから大型貨物船で原料の木材チップ等が運ばれています。 この橋の下流の堤防は、夏は涼しく夕日の景勝地でもあります。
太平橋
 川内のまちを南北に縦断する国号3号の橋でもちろん交通量は最も多い。 
 現在の太平橋は6代目で昭和54年に架けられ、橋がわずかにS字を描いており建設当時としては珍しい橋だそうです。
秋から冬にかかる川内川の濃霧は季節の風物詩となっています。
 第4代太平橋

 下の絵の第4代太平橋は明治33年に架けられました。建設に使われる予定の資材は、当初イギリスのロンドン市テームズ川に架けるために準備されたものでしたが、水深の事情でテームズ川には架けられず、ここ川内川の大平橋に使われました。当時としては西洋風のとてもモダンな鉄製の橋だったといいます。
 昭和25年まで使われていた4代橋の親柱は、昭和26年に誕生した可愛小学校の開校記念として門柱となり今も使われています。
 初代太平橋

 初代太平橋は、明治8年に架けられましたが、当時の川内川に架かるものとしては最長の木造橋でした。
 江戸末期のころ、鹿児島には優秀な橋梁大工がいました。川内出身の阿蘇鉄矢です。当時73歳になりすでに引退していた鉄矢は、県知事の要請に応じて、延べ2万4千人の力を借りて、長さ220m、幅6.4mの橋を2カ月半で初代太平伊橋を完成させたそうです。
 当時、鹿児島の橋と言えば、熊本出身の石工岩永三五郎が有名でしたが、鉄矢は、三五郎が鹿児島の5石橋を造るときの木造土台を作る大工頭を務めていました。現役最後のころは京都御所や江戸薩摩屋敷の工事も携わったほどの一流の棟梁でした。鉄矢は、現役引退後、出身地川内で超大型事業を完成させたのです。
 こうして架けられた橋も明治10年には壊されてしまい、たった2年余りの命となってしまいました。折からの西南戦争で政府軍に進撃されることを恐れた薩軍の手により焼落されました。 
JR新幹線鉄橋肥薩おれんじ鉄道鉄橋
 並んで川内川を渡る肥薩おれんじ鉄道鉄橋(手前)と新幹線鉄橋(奥)

 並行して川内川を渡る素材もデザインも異なる二つの鉄橋ですが、音を立てながらカタカタと川を渡るおれんじ鉄道に比べ、新幹線はスーッと渡リますが、新幹線橋は遮音壁が高いため残念ながらここでは、新幹線列車の雄姿を見ることは出来ません。
 秋、寺山の裾野から登る朝日は、川面に反射し実に美しい。ここでしか見られない贅沢な風景です。
 早朝から獲物を狙って待機する川鵜の集団
天大橋
 太平橋から更に1キロほど上流に上がったところに架かるこの橋は、北側中郷地区と南側天辰地区を結ぶ橋です。
 中郷地区、天辰地区とも、区画整理により急激に住宅化が進んでいるためこの橋の往来は非常に多くなっています。北の国道267号、南の空港道、川内駅東口に繋がる便利な橋です。
北薩摩の名峰紫尾山 川内川の美しい水を育んでくれます。

白浜橋
旧川内市の白浜地区と田海地区を結ぶ橋で、白浜地区に住む人たちが川を渡り田海地区の小学校(八幡小)に通学しているため橋が架かっていないころは、渡し舟がありました。
このあたりまで海水が遡上しますが、ここから上流は鮎の漁場となっています。

東郷橋
 1935年(昭和35年)に当時行政区のちがう旧東郷町から旧川内市の楠元地区に架かっている県道橋です。
 
 廃線になってしまったJR宮之城線の旧楠元駅から川内まで通っていた人も多く生活に密着した橋です。現在は、旧宮之城線を拡幅した道路が川内駅付近まで続いているため車の交通量も多くなっています。
 

 戦前の陸軍演習のため資材搬入路として架橋されたと言い伝えられているそうです。上部工の鋼製の赤い色が周囲の山々と川面に映えています。


久住橋
 普通自動車がやっと通れるほどのコンクリート敷きのつり橋は真中まで行くと歩いていてもゆらゆらと揺れるのを感じます。
 撮影の一寸した時間にも車がひっきりなしに行き来します。架けられたころは、これほどの車社会を予測していなかったのでしょうが、望まれて架けられた橋だということを実感する橋です。 2004・11

 残念なことに、今はこの美しい橋を見ることはできません。2006年7月19日から23日の5日間で上流の紫尾山で1160mmを越える記録的豪雨による大洪水によるものでした。
 平常は川面から8メートルほど上部にあったと記憶していますが、川内川の水は橋を流し住宅地にも被害をもたらしました。
 
新しい久住橋は2008年、旧橋より高い位置に築かれ、対岸の久住地区は高い堤防により囲まれました。

倉野橋
 ここもかつては、行政区のちがう旧東郷町と旧樋脇町を結んでいた橋です。樋脇町から入来町、鹿児島市へと通じるため交通量も多い橋です。

 写真を撮ったこの日は、11月の午前9時頃、川から30匹ほどの山太郎蟹(ヤマタリウガニ・もずくがに)の水揚げがありました。昔に比べると型も小さく、収穫も少なくなったとのこと。残念ながら、写真を撮りそびれてしまいました。
 
 薩摩川内に残る石橋

 江之口橋

  
 高江町八間川
 
 江戸末期に鹿児島甲突川の五石橋を造った有名な肥後出身の石工岩永三五郎が手がけた橋です。 
 八間川は薩摩藩が関わって造ったいわば人工の川です。三五郎は、石橋の建設で有名ですが、河川土木技師でした。橋だけでなく、八間川の建設そのものに関わり、川を横断する用水路も建設しました。
 八間川の建設によって、高江の水田は長期に冠水することはなくなりました。

 江之口橋は三五郎が薩摩藩で建設した最後の橋とされています。
 
 大塚橋

  
 樋脇町城後川

 明治39年にかけられたこの橋は、樋脇町市比野から百次町に向かう川内郡山線の沿線にあります。当時は、この橋が幹線道路だったと思われます。
 橋の中央が鼓を描いており、美しい橋ですが、現代の車社会には少し不便な橋です。
 
 新大橋
   入来町朝陽
 
 
1909年(明治42年)に県道蒲生線(現川内・加治木線)が開通した時に建設されたいう。 見事な石の眼鏡橋ですが、車時代の到来により、1959年(昭和34年)に拡幅工事をしたとあり、上部の道路部分だけが幅広くなっています。乗用車1台が通過できる情緒ある橋です。国の有形文化財に登録されています。

 上ノ湯橋
   樋脇町市比野

 明治36年に川内から入来を結ぶ道路の橋として市比野の城後川に架けられた重要な橋です。昭和58年の補強工事を経ていまだ健在 昭和4年7月に歌人与謝野晶子が市比野に宿泊した時に詠んだ歌はこの橋のことでしょうか?
 
 
入来より来る車の灯を見つつ旅人の立つ市比野の橋