佛にあうは難し 教に聞いて道を求めよ

むかしのお坊さまがたは、み仏さま=お釈迦さまご出世の世に生まれ合せ得なかったこ とを、その時代にはるかに遅れてこの世に生まれてきたことを、このうえもなく悲しんで 居られる。 時代の隔りからいえば、わたしらは更に遅れているわけであるが、仏、ご在世の世に遇わ れなかったことを、悲しいこととはさらさら思っていないのである。 ときに、思われるとすれば「いまの世に親鸞さまがいらっしゃつたなら、どのようにおっ しゃるだろうか」と考えることがある。それとて「いまの世の中を」と、わが身のことは 棚に上げたところがら世の中を見、考えてものを言っているわたしなのである。しかし 「・・・こうしたときに、親鸞さまならどうなさるだろうか」と、ふと思われるということ は、浅いながらもかねてそのみ教えにふれているからである。 わたしたちは、お釈迦さまにはもとより、親鸞さまの、こ出世にもお会いできなかった身 であるけれど、幸せなことにそのみ教えは今に伝えられ、わたしの許まで届けられてある のである。だが、そのみ教えをなかなか頂戴しようとしないわたしなのである。いまわたし においては、み教えを頂くほかに親鸞さまにも、み仏さまにもあいまつることはできない。 しかもそれをとりつめて考えることもなく、悲しいとも思わないわが身の程にいまさらの ごとく驚くことである。 「仏にあうこと難し」とは、正法の時代でないからというそんな外面的条件をあげつらう ことでなくして、仏の法を、み教えを聞こうともしないわたしの側にある問題なのであろ う。 もとより、み仏のご出世にあいまつることは難しいことであるが、そのみ教えを信受して、 それによって仏にあいまつることの、さらに難きことを思うのである。
如来の興世にあいがたく
諸仏の経道ききがたし
菩薩の勝法きくことも
無量劫にもまれなり
『浄土和讃』・「大経意」真宗聖典484頁
(昭和52年9月)

2006年8月16日