愛するものは別れ 栄えるものは滅びる

「さよならだけが人生だ」と、うたつた詩人があるが、ほんとうに、わたくしたちは今までに どれほど別れの悲しみに胸をいためてきたことであろう。 「会うは別れのはじまり」とは、かねてから聞かされてきたし「そうだ」と承知はしなが らも、その都度、身も心も痩細る思いをさせられる。このいたみに愕然として目を覚ました ところに、お釈迦さまの求道の旅立ちの機縁の一つともなったと聞く・・・。 だが、わたしたちの場合、「別れ」を悲しむことも事実だが、いつしか、それが薄れいつしか 忘れ去っていくことも事実である。「別れ」の悲しみを通して、深く心に学びとるものがない ようである。 さらに思うてみるならば、日常顔を見合わせているときは「会うている」と思っている けれど、心と心がほんとうに触れあうているであろうか。むしろ、相背きあうて一番遠い間 柄になっているようである。親の恩は、死なれてみてはじめてわかるというのがその一つで あり、生きておられる間は、その人の地味な性格のためか、あまり人目にふれなかったけれ ど、亡くなられてからその人格の尊さが肯ける。そういった出会いかたもある。 念仏者の大仕事とは、むしろそんなものでもあろうか。そこに、はじめてわたしたちは「遇 うた」よろこびを受取るのであり、そもそもわたしたちは「遇いに」きたのだといわれる 所以もそこにあるのであろう。 盛んなるものが、衰えていくことも悲しいことの一つであるけれど、これまた避けて通る ことの出来ない人の世の相である。水が流れて止まないがごとく、時の流れもまた堰止め ることはできないし、-時の移りゆくにつれてもろもろの事もうつろうてゆく。盛者必衰の ならいである。頑強をほこった身体も齢重ねるほどに弱ってくる。考えてみれば身体は正 直なものである。「このごろでは身体がいうことを聞かなくなって・・・」と愚痴をこぼすけ れど、それは反対であって「こころがいうことを聞かない」のではないか。 盛んなるものが、ついに衰えることも別離の一つである。うつろいゆくから大事なもので あり、流れ去るからこそ、今日の日が大切である。「今」は取り返しのつかない「いま」のひ とときであり、かけがえのないわが身なのである。 「愛別離苦」といい、「盛者必衰」というも、ただいたずらに詠嘆するだけの言葉ではな くして、それゆえにこそ、大切にと教えて下さるお言葉だと私は頂くのである。 (昭和52年8月)

2006年8月13日