世間愛欲のなかに自己の生死を問う

いまの時代ほど人々がばらばらになってしまったことはなかったのではあるまいか。こ のことは都会において、さらにはなはだしい。"隣りは何をする人ぞ"であって、何の交流も ない。いっそサバサバしていて煩わしさがなくて、結構だというのかも知れないが、何とも わびしい話である。 喜びをわかち合い、悩みを打ち明け、お互いに力になり合うて行ってこそ、人間の世界は 成りたって行くのであろうのに、さながら沙漠のなかにひとり置かれているようなもので ある。三木清が「孤独は野になく街にある」と言ったが、まさしくそのとおりである。 いつのころからこうなってしまったのであろうか。もともと、わたしたちは、独り生まれ てきて、独り死んでいくものである。 「人、世間愛欲の中にありて、独り生じ、独り死し、独り来り、独り去る」 と、仏ははやくから教えていられるコ だからこそ、わたしどもは、孤独に耐えかねて互いによりそい、いたわり合うての暮しを 求めて来たのであろう。だが実際には、互いに諍い、相手を押しのけ、己れの思いだけを 通そうとて、心休まるときとてないのである。そこに感じられるものは「わたしはついに孤 独の身だなア」ということである。こうした「世間愛欲の中にあって」わたしはいったい どんな生きかたことを求めてきたかということである。自己の生死が問われるのである。 わたしどもは、孤独な者であって独立者ではない。その孤独を抱いて真実の教法を聞くと き、何ものによっても、いやすことのできない淋しさを通してわが身の大切さが思われ、真 実の願いに目覚めさせて貰える。そこに孤独の「独」は独立の「独」と転ぜられ、かけが えのないわが身と知らしめられる。 そこからあらためて「われ人ともに」と手を取り合うての世界に立つことができるので あろう。 (昭和52年7月)

2006年8月13日