塩竃神社 由緒・沿革ご案内

〜2020.05.03更新〜




鎮座地 鹿児島市新屋敷町三十二番十三号

御祭神 塩土老翁命(シホツチノヲヂノミコト)


別名 事勝国勝長狭神(コトカツクニカツナガサ)

例祭日 十月二十五日


寛永五年(
1628)の建立と伝わる。
延宝八年(
1680)九月の棟札に『薩州麑府塩屋村鎮座塩竈明神則神代塩土老翁面當村守護之霊神也』とあり、
この新屋敷町(旧塩屋村より沖之村一帯にかけ)の海浜がその昔全て塩田で、これを生業とした人々の産土神として崇敬をうけた。

御祭神である塩土老翁は、武甕槌神と経津主神が、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。
武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。
道先案内神、また勝負事の神とされる。
境内地には「塩屋学舎遺跡記念碑」が建立されている。

御造営事業
平成十四年六月、本殿社務所御造営に着手。同年十二月竣工祭斎行 
平成二十七年十月に大鳥居建立 
御大典記念事業
平成三十一年四月三十日、上皇陛下御譲位奉告祭斎行 

 天皇陛下御即位三十年天皇皇后両陛下御成婚満六十年 報告祭
令和元年十月二十二日、即位礼当日奉告祭






島津氏の居城は、東福寺城(現多賀山公園)→清水城(現清水中学校)→内城(現大龍小学校)→鹿児島城(鶴丸城)と変わりました。
鶴丸城を築城したのは慶長
6年(1601年)の江戸時代最初期、これ以降城下町は拡大を続けます。
しかし、後背地はシラス台地ですから、必然的に海岸部の埋立が行われました。
平安時代、俊寛僧都が薩摩硫黄島に配流された際(
1177年)船出した俊寛堀は、現在では繁華街の真ん中です。
また、慶長
14年(1609)、いわゆる琉球侵攻の際薩藩水軍が出港した軍港は今では内陸の春日神社になっています。
当時、どのような工法で埋立を行ったのかよく分かりません。
港にあった御船手(船を取り扱う役所)は春日神社のところから新屋敷の船魂神社付近に移り、最後は天保山中学校前に移りました。
しかし、江戸時代の埋立はまだ御城下が中心でした。郊外はほとんど手つかずの自然の渚が残っていました。
天保年間、荒田村の平田与次郎は、藩命により播州赤穂の製塩技術を学んできて、
天保
14年(1843)現在の与次郎ヶ浜一帯に広大な塩田を開きました。
その他、南林寺や谷山塩屋などにも塩田があり、明治以降も栄えていました。


武村船手跡(現在の船魂神社)は、江戸時代、付近が武村の飛び地であったので、武村船手と呼ばれた。
「三国名勝図会」には、明暦3(1657)年に春日神社付近からこの地に移されたとある。また船魂神社は、島津光久が貞享5(1688)年に勧請したものともある。
向江船手跡(むかえふなてあと)は武村船手からの分立だが、分立の時期は定かではない。武村船手の船渠(ドック)が不便なため、天保山の内側に分けたといわれる。
この船手が幕末から明治にかけての薩摩藩の最後の船手である。現在「御船手跡」の碑があるところに、甲突川からの掘
(前期船出入渠)にかかる御船手橋があったと思われる。

参考サイト

かだいおうち 鹿児島の埋立地1 江戸時代の埋立

鹿児島港の歴史遺構 ゆめみなと鹿児島
鹿児島港・本港区方面
錦江町、天保山町方面

鹿児島市歴史地理散歩 「B 甲突川下流の流路の変遷

中央区・中央支部(鮫島病院)鮫島 潤 随筆
美しかった錦江湾A−与次郎ケ浜回顧

清滝川の変遷

遡上バイクツーリング 清滝川






神社とその周域の変遷

 塩屋町
 この地域は以前は「塩屋町」という町名であったが、1967年に鹿児島市と谷山市が合併した際に甲突町と改称。
また谷山市にあった「塩屋町」も重複防止のために谷山塩屋町に改称した。


 甲突町は、旧鹿児島郡鹿児島近在塩屋村、鹿児島市大字塩屋、鹿児島市塩屋町の一部である。人口約2,600人、世帯数約1,400世帯。
鹿児島市の中央部、甲突川下流域に位置している。町域の北方には南林寺町、南方には甲突川を挟んで下荒田、東方には城南町、錦江町、西方には新屋敷町がそれぞれ接している。
甲突川には天保山橋、天保山大橋、清滝川には清滝橋、昔の遊郭街の入り口にあたる場所に思案橋が架かっている。甲突川河畔は緑地公園となっている。

塩屋村の成立

寛永5年に武村(現在の武の一部)から分割され薩摩国鹿児島郡近在の塩屋村として成立した。
村高は「旧高旧領」では
145石余であった。また、塩屋という地名は地内に塩田があったことに由来している。

町村制施行以後
1889年(明治22年)には市制が施行されたのに伴い、鹿児島府下473村の区域より鹿児島市が成立し、江戸期の塩屋村は鹿児島市の大字「塩屋」となった。
1911年(明治44年)には大字から町となり「塩屋町」と改称した。
1963年(昭和38年)に塩屋町の各一部が錦江町と城南町に分割され、同時に塩屋町の全域で住居表示が実施された。
1967
年(昭和42年)に鹿児島市と谷山市が合併した際、「甲突町」と改称された(谷山市にも塩屋町があったが、こちらも合併の際谷山塩屋町と改称された)。
沖之村遊郭跡の碑
沖田地区付近には江戸時代より遊郭が多数あり(沖之村遊郭と呼ばれた)、1899年(明治32年)には現在の鹿児島駅付近にあった築地遊郭が鹿児島駅の建設により、
沖之村遊郭内に移転してきたとされる。現在は鹿児島県唯一の風俗指定地域(鹿児島県の条例により、甲突町の
8番街区のみ営業が許可されている)である。


 新屋敷町は、旧鹿児島郡鹿児島府下新屋敷通町、鹿児島市新屋敷通町。人口は約3,500人、世帯数は約2,300世帯。
鹿児島市の中央部、甲突川下流域の左岸に位置し、町域の北方には樋之口町、加治屋町、南方には下荒田、南方から西方にかけては高麗町、東方には甲突町、南林寺町にそれぞれ接している。
町域の西部には鹿児島県道
20号鹿児島加世田線及び鹿児島市電が通っており、町域内には新屋敷電停が所在している。
北端にはナポリ通りが東西に通っており、中央部を東西に城南大通りが通っている。
近世の新屋敷通町は町域内の船魂神社付近は幕末までは加子町と呼ばれており、薩摩藩水軍の基地が所在していた。明治になると水軍基地は下荒田に移転した。
明治初期より鹿児島府下のうちの新屋敷通町であった。
1877年(明治10年)の戸籍簿によると、戸数542のうち士族362、平民180とあり、士族が多く所在していたという。
1889年(明治22年)には市制が施行されたのに伴い、鹿児島府下473村の区域より鹿児島市が成立。
江戸期の新屋敷通町は鹿児島市の町名「新屋敷通町」となった。
1899年(明治32年)には新屋敷通町から新屋敷町に改称された。

 南林寺町は、旧鹿児島市松原通町の一部。世帯数は約
1,300世帯。「南林寺町」という町名は南林寺に由来している。
1924年(大正13年)に南林寺墓地の整理が完了したのに伴い、松原町の一部から分割され「南林寺町」として成立。
1963年(昭和38年)には洲崎町の一部を編入、同時に一部が千日町に分割された。


 洲崎町は、明治39年〜昭和38年までの鹿児島市の町名でした。また、松原通町大門口先の埋立地で官有地でありました。
明治
34年からの鹿児島港湾改修のとき、埋立地はさらに拡張され、運河などの港湾施設も造られました。
鹿児島港出入りの船舶が増加し大型化したため、明治34年〜38年にかけて港内を拡げるため改修工事がおこなわれました。
このとき掘り出した大量の土砂で大門口の海岸が埋めたてられ、約
11haが陸地となり明治39年この埋立地を「洲崎町」としました。
当初は人もあまり住んでおらず、広場のままでありましたが日露戦争のときは、出征軍人の見送りの場となりました。
明治
3911月、埋立地のうち住吉町、堀江町、松原町に接する一部分を三町に編入し、残りを新たに洲崎町としました。昭和8年の港湾改修で、屋久島岸岐、町北部を掘削して港を拡張しました。
昭和1011月には、鹿児島市中央卸売市場が納屋馬場から移転してきて、魚類・青果など鹿児島市の台所となりました。昭和24年には、鹿児島駅から洲崎町までの臨港鉄道が開通して賑わったようです。
その後、中央卸売市場は移転し臨港鉄道は撤去されましたが、周辺には今も魚類冷凍倉庫や船具店等を見ることが出来ます。
昭和
38911日、住吉町・堀江町・南林寺町・城南町の一部となりました。
洲崎町は、現在の住吉町から南に下って、城南町の治山林道協会までの区画になるようです。


昭和3895日発行の『鹿児島市政だより』には、「洲崎町がなくなり 新たに千日・城南・錦江町」の見出しから、「洲崎町がなくなり、新しく三つの町が生まれます」とあります。
昭和
38911日、住吉町・堀江町・南林寺町・城南町の一部となりました。城南町の海沿い部分から、住吉町の洲崎団地辺りが旧洲崎町であるようです。

■ 藩政時代の洲崎町
江戸時代に書かれた『三国名勝図会』に、「洲崎落雁」と題した挿絵が掲載されています。
海に突き出た砂浜に、松林と三軒の家と3人の人物が描かれています。池からはそれぞれ煙が上がり、3人の者たちは何らかの作業をしているようです。この辺りは、洲崎塩浜と呼ばれたところでしたから、製塩を行っていると思われます。
また、現在の南洲墓地あたりに「浄光明寺」というお寺がありますが、三国名勝図会には「浄光明寺眺望」と題した挿絵が掲載されています。
景勝地だったらしく、海に突き出た砂浜と松林のところに「スサキ」と書かれています。スサキの彼方には、「カイモン」(開聞岳)が小さく描かれています。厳密にいうと、このスサキは塩屋村のことらしく、旧洲崎町一帯は海の中だったようです。

■ 明治時代の埋立事業
当時、大量の物資を運ぶ主役は船舶でありました。
鹿児島港も船舶の出入りが年毎に多くなり、また船が大型化してきたため、港の整備を急ぐことになりました。明治34年から明治38年末にかけて、第一期本港改築工事が行われました。
明治
20年ごろの地図には、埋め立て前の塩屋町が描かれています。明治5,6年ごろに埋め立てた生産町、小川町の部分を切り取って再び海にして、港内の深度をさらに下げました。
そのとき出た土砂は、行屋堀や大門口附近の埋立に使われました。
大門口の海岸が埋め立てられ、凡そ11ヘクタールが陸地となり、明治39年ここを「洲崎町」としました。
埋め立てによって大門口には運河ができ、周辺には大きな倉庫が造られていきました。
洲崎町ができた当初は、人があまり住んでおらず広場のままであったようです。
日露戦争の際は、出征軍人の見送りの場になったそうです。

■ 昭和の洲崎町
昭和10年には、中央卸売市場が開設。食料品や離島向け商品の積み下ろしが活発に行われたようです。
昭和24年になると、鹿児島駅から洲崎町まで「国鉄臨港線」が開通してなお賑わったそうです。


参考サイト

鹿児島ぶら歩き
むかしむかしの鹿児島市 洲崎町(すさきちょう)
旧洲崎町周辺をぶら歩き
むかしの樋之口町・新屋敷町・甲突町周辺
Wikipedia

沖之村遊廓跡地 現在の甲突町
レトロな風景を訪ねて 甲突町・旧沖之村遊郭





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