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このページは、ホームページのコンテンツ取材、編集にかかわる私ごとを気まぐれに書いた自由帳です。 独り言や勝手な言葉遣いはお許しください。 |
切り離せない川 2014.10.10 | |
10月10日。思えば50年前の今日は東京オリンピックの開会式のあった日 開会式があった日が50年前だから、誰にとってもあれから50年は当たり前で特別な日ではない。でもなぜか私にとっては印象に残っている日である。 この日は、確か土曜日で秋晴れでした。中学2年生の私は午後から友達とつるんで、川内川で初めて投げ釣りにチャレンジしました。子供が大人の見よう見まねで海釣りのような仕掛けでやった釣りですから勿論この日は坊主、うまくいけばサヨリとかスズキが釣れるはずだったのだが。釣りをしたあたりは汽水域今でもスズキなどの海の魚が釣れるため釣り人は今でも多い。だが、釣果はあまりよくなさそうだ、吊り上げるところをあまり見ない。 50年前の川内川の堤防はほぼ整備されていたが、川岸には葦が多く生え、川には自然石も多くあり藻も多く生えており川らしい川でした。このころは川エビやシラスウナギなども多く取れていました。 ところがその後、あい継ぐ水害のため、洪水に強い川づくりに専念したあまり、川は深くきれいになったものの川の生物が減り、それに伴って海から遡上してくる魚も減ってきたのではないか。 今、川内地域では川内川の拡幅工事が行われようとしている。川内の中心を流れる美しい川内川は古くからこの地域に住む人々の生活と憩いの空間でもあった。工事は災害に強く、市民の憩いや川の生物にもやさしい川になってほしいものだ。 |
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何もない 2014.8.30 | |
自由帳、またまた時間があいた。この間何もなかったか・・いやいやいろいろありすぎて、自由帳を開く暇がなかった・・とはいいわけかな。 自分のことはさておき、今年の夏は全国で水害がひどかった。突然の豪雨や土砂災害で犠牲になられた方々のご冥福を心からお祈りするばかりです。 ここのところ世界中で起きる災害は規模が大きくとても人力では止められないことばかりです。大きな河川を持つ、我が薩摩川内市では、昔から水害が絶えませんでした。昭和40年代ごろまでは、下流の市街部が浸水するのはしょっちゅうで、梅雨のころの集中豪雨時に高い堤防で囲まれた市街の平坦部に集まってくる降水を排水が間に合わないことによる浸水ですが、その頃は排水施設が整備されていませんでした。昭和40年代に連続して発生した大水害を機に市では、市街地に集まる雨水を川内川に排水するためのポンプ場建設を精力的に進め、今では市街地の浸水を見ることはほぼなくなりました。 はるか昔、私が子供のころは夏休みの気温が30度を超えることは珍しく、台風銀座と呼ばれていた鹿児島でも7月以前に上陸したのは記憶にない。最近の気候は明らかに異常である。 ゲリラ豪雨などによる水害のニュースを耳にする度に、わが町はあれほどの豪雨に耐えられただろうかと、何事もなかったことに胸をなでおろすこの頃です。 今、我が町では、川内川が100年に1回の洪水にも耐えられるようにと立てられた計画により堤防改修工事が進められています。 備えあれば憂いなし。何もないを目指す安全で安心なまちづくりに感謝したい。 |
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暮 2011.12.29 | |
年の瀬をこれまでとは違った形で迎えた。 |
夏休み 2010.7.24 | |
7月24日、夏真っ盛り、午前9時だというのに我が家の2階は茹だるような暑さ、ほぼ無風。外ではクマセミがガンガンに鳴いています。何十年も前に過ぎ去った小学校の夏休みを思い出してしまいました。 私たちが過ごした田舎の小学校の夏休みは、朝10時までは勉強の時間で、私の小学校区では、かまぼこ板などに「勉強中」と書いたものを玄関などに掛けて置き、それがひっくり返されるまでは、お互いに家に行ってはいけないルールで、この10時までの時間が如何に長かったことか。 昼ご飯を食べると水浴びが日課でした。そう「水浴び」です。その頃小学校にプールが置かれているところは殆んどありませんでした。その頃の水泳は、川の井堰きや近くの海でした。競泳は出来ないぶん泳ぎや潜りは自然に覚えて、川の上に生えた大きな木や石段から川に飛び込むのを同級生と競い合うものでした。川に入るときは見守り当番の方に名前を書いた木のカードを預けて終わったら持ち帰る。今思えばいい仕組みだったなー それが終わると、昼寝の時間とされており、夏休みの計画表には書きましたが、疲れて寝込んでしまう以外は、自らは、1回も昼寝をした記憶がないほど遊び回っていたものでした。 先日、田んぼの仕事をする農家の方と話す機会があり、昔はここらの水辺で1日中遊ぶ子供たちの姿があったが、今は一人も見たことがないと。自然の中が一番楽しいのだが、今は親の方が心配して自然に近づけなくなってしまった。 そういえば、「10時まで勉強」のルールもいつか聞かなくなったが、生活時間が自由になったのは、エアコンが普及したせいでしょうね。それにしても、暑い夏ですね。 |
復活 2010.4.9 |
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日頃から、小遣いはわずかで、農業などの家事があるわけでもなく、暇だけは持ち得ている私ですが、6年ほど前から個人ホームページを立ち上げて、その管理をライフワークとして楽しんでいます。コンテンツが地域の情報であるため、天気のいい日にはチョコチョコ外に出かけていましたが、ひととおりの各地区情報も煮詰まってしまい、ひとり遊びにも少し疲れが出てきているところでした。 そんな折、私は、自分のホームページに関係のある項目をネットで調べていたところ、とても分かりやすく丁寧な説明がされた個人ホームページに行きあたりました。じっくり内容を見てみると、旅行記、レポート・雑感、パソコンイラスト、自分が読まれた書籍の紹介、趣味の俳句などが掲載され、いずれのテーマも質が高く、旅行記の写真などは本格的で、とても魅力あるものです。さらによく見ると、この方のページには8年間に170万回もの来訪者があり、最近では、一日に平均2千件ものアクセスがありました。個人からリンクを依頼されている件数やリンク者のページを見ると、この方のホームページへの信頼がいかに厚いかがわかるものです。 この方は、なんと私の隣町のさつま町にお住まいの方でしたので、早速メールで相談をして、図々しくも私のホームページも相互リンクさせていただきました。また、この方のページにリンクされているかたの中に私の知り合いがいましたので、ハンドルネームで尋ねてみると。よくご存じの方でお友達以上のお付き合いの方でした。私が尋ねた方とは、あだ名をスーパーばあちゃんといい。まさに行動もそのとおり、早速そのホームページの持ち主と食事の機会をセットしていただき、スーパーばあちゃんのご主人と4人で先日とても楽しい時間をすごさせていただき、これからの交流をお願いしたところでした。 この方々は、いずれも郷土の歴史に見識が高く、煮詰まって焦げようとする、私のホームページに復活のためのヒントを頂きました。 |
再認識 2010.3.7 | |
このホームページのコンテンツである地域の名所・特徴の紹介も表面的には一通り出来たかなと思っている今日この頃です。 |
挑戦 2009.11.3 今日は、薩摩川内市合同短歌会に呼ばれました。この会は、市内のいくつかの短歌会が年に一度集まって、会員の皆さんがあらかじめ詠んだ短歌の評価をし合う学習会です。
あの与謝野晶子夫妻が80年前に市比野を訪れて宿泊したことがあり、そのことを記念して、今回は市比野での開催となりました。
仕事柄、会では挨拶をしなければなりませんでしたが、短歌会でのあいさつ・・・・短歌を詠まれる方は皆さんいろんな事に知識の深い方々ばかり、中途半端な挨拶をしてもなぁ・・・そこで、「敢えて馴れない短歌を詠んで批評を受けたほうが印象に残るかな」と歌を詠むことにしました。“歌人の来たる櫟野に今日つどい昭和をしのぶ湯場のうた詠む”
歌の解説はさて置き、一通りの挨拶の最後にこの歌を披露したところ、ことのほかこれが受けたんです。
ここのところ折にふれて歌を詠むというか、三十一文字の言葉で遊ぶことを始めました。今年の四月に定年まで二年となった私は、同時に樋脇町の職場に異動になり、自家用車で二十分ほどの通勤をすることになりました。もともと日記を書く習慣のない私ですが、職場、職務環境が変わったこの際、日記代わりに節々に遊びながら歌を詠めば、義務感もなく気軽に作れるのではないかと、通勤の行き帰りに楽しんでいました。
歌を詠む趣味の方々の前で披露するのは勇気がいりましたが、学習会の場この際話題になればいいとの思い切りのひとこまでした。
感動 2009.5.9 仕事関係で異動があり、この4月から旧樋脇町の担当をすることになりました。地域のことをよく知る必要があることから、先日、樋脇町の隅から隅まで走り回ってきました。
地域のことは、少しは知っているつもりの私でしたが、樋脇の歴史は全く知らなかったことがわかりました。樋脇町に赴任することになり、まず、樋脇町の歴史書に目を通しましたが、まず、そこから驚きの連続でした。樋脇町は昔から市比野温泉が有名で、樋脇町全体は農業の盛んな町、そして、最近は福祉施設なども整備され旧川内市の郊外地として発展している町であるとの認識でした。
ところが、今日、農業の盛んな町にはそれなりの理由がありました。
江戸時代、薩摩藩は各地で新田開発をしてきました、当然ここ樋脇町でも新田の開拓が行われました。近くの川から田んぼに水を揚げる技術のない時代、この頃は高所にある川から水路を通し、自然流下により田に水を引くのが通常のやり方でした。ところが、あまり高い山のない樋脇では、上流の川に堰を造り、なんと平たん部に15qもの水路を引いたのですが、平坦ゆえに途中にトンネルを掘るなど大変な難工事だったそうです。また、樋脇塔之原に居住していた郷士は、田んぼに土地を開け渡して他の場所に移り住み、農業にも従事したという壮絶な歴史がありました。
そして、市比野川上流には、なんと美しい滝が人知れずとうとうと流れています。薩摩川内には、まだまだ知られていない歴史と景勝があることを認識しました。
復興 2008.11.9 2年前の川内川洪水で流されてしまった久住橋の跡地を通る度に「対岸の久住地区の住民の方々はどうしているかな」と気になっていました。今日、近くに用事があり、住民の方々に気を遣いつつ入ってみました。この地区は、川内川の河畔の小高い所にある集落で、災害直後は、濁水で住宅の床下がえぐられ倒れそうになっている家もありました。川内川の対岸にわたる美しいつり橋を一晩で流してしまうほどの洪水でありましたから、その凄さは想像できると思います。幸いにして人身事故だけはなかったのですが、地区の住民の方々は一ヵ月以上にわたって、隣地区の自治会館で共同生活していました。
災害に遭う前、100年に一回の大洪水から住居を守るのに地域の堤防をどのように築くかとの議論をしている最中でした。その災害を機に地区の住宅部分だけを包み込んでしまう輪中堤という工法で守ることになり、工事が進んでいました。地区では新しい家の建築も見られ川内川は何事もなかったように流れています。
同じく大災害にあった東郷南瀬地区でも築堤が着々と進んでいます。橋の復興とともに両地区の発展を望んでやみません。
誕生日 2008.10.12 なんと、前回の自由帳を書いてから3年がたってしまいました。最近感じることは、時間が経過するのが本当に早くなりました。それだけ歳をとってしまったということですが、だからと言って自由帳を書く暇がなかったわけではないのですが。この3年間いろんなことがありました。
前回の自由帳を書いたあくる年の2006年の夏には、30年ぶりともいわれる川内川の大水害がありましたが、災害救助の仕事にかかわっていた私は、被害者の方々のため、当然のことながら身を粉にして動き回わり、暑い夏があっという間に過ぎてしまいました。今は、被災者の皆さんも平穏を取り戻しておられます。その秋の終りには、春頃に胸を患っていることがわかった母は、私たち家族、兄妹に甘えることもなく、いそいそと逝ってしまいました。これまで、長男らしいことを何もしてやれなかった私は、「後悔先にたたず」というか、男の子供の無力さを感じました。それからしばらく、ホームページを更新する意欲がわかなかったのですが、そのことが、どこかで影響していたということが今ごろわかりました。
この3年の間に私の周りでも悲しい事件が数々ありました。それでも、生きている者の誕生日は、次々にやってきます。今日、10月12日は、薩摩川内市の4回目の誕生日、そして、たまたま日曜日の今日は、合併後2回目の市長選挙と市議会議員選挙を一週間後に控えた選挙カーからの声が窓からひっきりなしに入ってきます。そして、11月7日からは、薩摩川内市もまた新しい体制の世代を迎えます。
また、11月3日は、「薩摩川内ふるさとの宿」改め「ふるさと薩摩川内」の4回目の誕生日です。しばらく、更新を怠っていたものの、撮りためた写真の掲載でページ数だけは確実に増えました。そんな中、先日、嬉しいメールがありました。このホームページの制作をしている私は、名前を明かしていませんが、たまたま、私が作っていることを知った若い後輩から、歴史の背景がとてもわかりやすくて、参考になると褒めてくれました。もちろん、お世辞であることは認識していますが、若い人たちが見てくれるなら「よし、また頑張ろう」とは、気だけは、まだ若いということでしょうか。 そして、明日は、地元のことや歴史にはあまり興味のない、長女の誕生日なのです。 頑張ろう!
誕生日 2005.11.3 | |
11月3日文化の日 今日はこの「ふるさとの宿」の1歳の誕生日です。 思えばこれも、私がコンピュータのプログラム開発の経験があることを知っている同級生が、HPを作るよう熱心に勧めてくれたお陰なんです。勧めてくれたマイティチャーありがとう。 もう30年近くも前に原始的なコンピュータ言語を使って、いわゆる計算用オフィスコンピュータのプログラム開発を行っていました。その後コンピュータ世代は、漢字化、オンライン化そしてPC化と目まぐるしい進化を遂げました。その間、あまり利巧でもない私は、ただ気力だけでこれを乗り切ってきたのでした。プログラム開発を卒業した私は、私生活では「PCは使うだけでいい。もうプログラム開発は沢山だ」と思っていました。プログラム開発が時間のかかるものであることを知っていたからなんです。 そんな時、同級生から・・「これも私の進めで作ったHPだよ」とまったく初心者の作品をふたつ紹介されました。エッ初心者がこんなホームページを・・・・・極めつけは、70歳になる知り合いのご婦人から「私、ホームページを作ったの、見てくれる!」でした。エッ70歳のご婦人がこんなホームページを作れるものだろうか・・・・この後は、もう無我夢中、仕事もあるのにしばらくは、夜中2時ごろまでPCの前に座ってました。 それというのも、私が紹介されたHP用の簡易システムは、画面を編集すれば、逆にコンピュータが言語を探してプログラムを編集してくれるのです。つまり結果から過程を作ってくれるのです。今の時代、そんなコンピュータがあっても不思議ではないことを今さらのように気付かされたことでした。それにしても、一からコツコツ物事を考え、積み上げる時代は終ったのだろうか。 マァ 今夜は理屈抜きで誕生日を祝おうか ”熱燗やネットで廻るもみじかな” |
もう秋 2005.10.1 | |
10月1日土曜日、さわやかな風に誘われ、早朝からついフラフラと川内川堤防へ、彼方に寺山がくっきりと見えます。そうだ、この季節コスモスが満開のはず、まだ朝も早いし誰もいない・・・よし、着の身着のままでカメラを抱え、いざ寺山へ 色艶やかに咲いているはずの観賞コスモスはもうスッカリ時期を過ぎていました。そうか今日はもう10月コスモスは9月の花だったかなーぁ?なんて思いながら、静かなまちを眺めて降りてきました。 この前の日記を見ると、なんと・・・元旦ではないか。あれからもう9ヶ月、なんと早いこと。宿の亭主の本職は現役のサラリーマンなのですが、実は4月に職場の異動があり、しばらくは新しい仕事を覚えるのに無我夢中で、気がついたら秋。そんな馬鹿な・・・。それでも折を見て取材だけはこつこつ続け、少しずつですがページも増やしてきました。 このホームページを作ったのは、16年11月3日、薩摩川内市の合併というきっかけがあったからでした。その頃は特定の知り合いだけにアドレスを教えて見てもらっていましたが、少しずつページを増やし、5月3日に一般公開することにしたのでした。その間励ましを頂きました皆さん本当にありがとうございました。そして、公開後は思いがけない出会いがありました。「ホームページ見ました。とても懐かしかった。これからも続けて」、「今度、あそこの写真も掲載して」などなど、もちろん会ったことのない人からもメールを頂きました。お陰で、全地域掲載までもう少しになりました。掲載されていない地域のかた、もうしばらく御待ちください。そしてまた、地域の情報をください。 こんな、励ましや喜びを頂きながらこれからも地元ならではの小さな情報を伝えられたらと思っています。特に、地域の小学校は全校掲載したいと思っています。本当は校内の記念碑や教室などもお伝えできたらと思いますが、なにせ、この頃は「へんなおじさん」が勝手に校内に入ると・・・・・・ 「全地域踏査後は、ヒマになる」・・・そんなことはないと思いますよ。地域の焼酎・地域の花々・・・まだまだ これからもよろしくお願いします。 |
日の出 2005.1.1 2005年の幕開け、世界的にあまりに悲しい自然災害が多かった昨年、薩摩地方はどんな夜明けになるのだろうかと、期待に胸膨らませ迎えた元旦の朝は、曇りでした。
いつもになく気になる今年の元旦の天気でしたが予報どおり曇り、まだ薄暗い外に出ると真上の空は晴れ、朝日が見れるかもしれないと近くの川内川にブラリ
間もなく、日が射してきました。東の山裾の黒い雲の上に覗いた太陽はまさに黄金
地球の何処にでも公平に陽を送る太陽よ 今年は穏やかな地球であることを願って欲しい。
この日は、晴れたり曇ったり、降ったり吹いたりの忙しい元旦でした
出会い 2004.11.28 | |
日曜日、今日も寺山からの雲海を期待していたが、今日は早い時間から日が射し、またもNO霧。これまで樋脇町、入来町と散策したので、今日は東郷町に出かけて見ようと早めに出かけた。
しばらくは、気軽な散策と言うよりは、一通りHPの体裁を整えるための取材みたいなものだ。そのうち、思いたつままに出かける「散策」になるだろう。 そんな中、いずれこれは取り上げたいと、川内川にかかる橋の写真を取材の折々に撮ってきた。そして今日通りかかったのは久住橋、東郷の南瀬と川内久住町にかかる普通乗用車がやっと通るほどのコンクリート敷きのつり橋であるが、川内川の下流にかかる橋としては、珍しく長いつり橋である。 その中ほどで揺れる足元にびくびくしながら川の写真をとっていると、そこに、いかにもこの秋を楽しみながら散策をしている感じの、私より少しとし上の男性に出会った。どちらからともなく気候の挨拶を交わし話し出した。今日は川内から歩いて宮之城町まで行って宿泊し、明日は人吉まで歩くという。姶良町にお住まいの方でしたが、仕事の現役を退き今は補助的な仕事をしながら、休みの度に自然を楽しんでいるそうで、これまで鹿児島県の市町村を国道、県道伝いに歩き、あとは、もう少し離島を歩くと全県制覇になるそうだ。 車で現地まで行って自然を楽しむ人は多いが、観光地でもない場所をこつこつ歩く人はあまりいない。いい思い出になるだろうな。ちょっとの間に話が盛り上がり、私もHPを作っていることをつい話してしまった。(本当は見てもらいたかったのだが)お互い再会の機会を願いつつ記念写真を取り合って分かれた。 |
猫岳 2004.11.23 | |
前述の続編です。我が家から祖父の墓参りの途中に高江町猫岳がある。ここからの風景をいつか皆さんに伝えたいとの思いがあったが、何せ墓参りの帰り、丘に登る靴でもなく、もう昼も近い、確か以前登ったときは、蚊に悩まされながら30分近くかかった、なんて考えているうちに若い御夫婦が丘から降りてきた・・・エイ!このままいっちまえ
森に入るとそこは、コンクリートの階段で通路には石ころ一つなく、幅1.5メートルほどの道端では、つわぶきの花が案内してくれた。さあ、10分ほど登ったな、あと倍くらいかな・・・・・するともう明かりが射してきた。エッ もう頂上だ・・覚悟して登ってきた割には、拍子抜け・・・ではなく・・・・良かった! 頂上は前に行ったときとは、見違えるほどのきれいな広場になっていた。休むのもそこそこに眼下の景色に目をやると、いつも見慣れている光景とは違った世界が。自然の景色は変わらないものの川内は明らかに発展していた。3年前にはなかったビルや新幹線の鉄橋、自然とまちがセパレートされている印象があった。 悠々と流れる川内川、交通の要衝、肥沃な農業地帯、400数年前あの秀吉がこの地に立ち、「この緑豊かな土地を手に入れたい」と思わないはずがない。しばし思いにふけった。周りに目をやると、いたるところつわぶきの花だらけ、これも地元の人たちがこつこつと整備していただいたおかげと感謝しながら帰途についた。 |
JR鉄橋 2004.11.23 | |
11月23日、今日は勤労感謝の日で休日だ。(宿の経営者としては休みでは困るのだが)前々から、この季節寺山から霧の雲海を見れるはず、と霧が出るのを待ち望んでいたがこの日はNO霧だった。そこで、せっかく早起きしたので正月に見たことのあった川内川からの日の出を見ようとカメラを片手に散歩に出かけた。 堤防を散歩するひと数人にあいさつを交わしたが、まだ日が登る様子がないので川原まで降りてみた。川面では魚がはねる音、何の魚かな?最近は海の魚もここまで上がってくるというが、などと考えながら撮影スポットを探した。 オレンジ鉄道と新幹線の鉄橋共演も面白いかななんて、そうこうしているうちに日が登ってきた。ところが思いがけない光景が、朝日が橋の下から登ってくるのは予想していたが、その日が川面で反射し、鉄橋がシルエットに。川の潮加減もちょうど良く思いがけない御来光に感激、こんな気軽に撮影できるのもデジカメ時代のお蔭様、それにしても住まいのすぐ近くにこんな素晴らしいスポットがあったとは。HPを始めたこともあるが、これからカメラを離せなくなりそうだ。 もう42年も前に亡くなった祖父が、いつも井戸端で顔を洗った後、朝日を有り難そうに拝んでいたのを思い出し、この日は、墓参りに出かけることにした。 |
大小路 2004.11.6 | |
大小路は私が小・中・高校そして社会人となってもずっと住んでいるまちである。 住まいのすぐ近くに泰平寺がある。その泰平寺にあの豊臣秀吉が薩摩攻めの陣を張り、薩摩を制圧して、後に、薩摩の時の大将、島津義久と和睦をした寺であったことを知ってからあまり長くない。 そう言えば、あれははるか昔の中学2年だったかな。一日遠足で高江町の猫岳に登ったことがあり、そのときこの丘に豊臣秀吉が立ったことがあるという話を聞いたことだけは鮮烈に憶えている。そして秀吉は、丘のすぐ下を流れる川内川の上流にある島津の出城「平佐城」を威嚇していたと。 島津は秀吉の20万人を超える大軍の前に敗れるが、秀吉は何故か川内川以南に攻め入ることをしなかった。 九州平定の後、朝鮮遠征を企てていた秀吉は、これ以上自軍の戦傷者を増やしたくなかったことと、島津を家来として遠征した方が得策と考えたのかもしれない。また、川内川という大きな堀を無理して渡ればもう元にもどれないかも知れないと考えたのではないか、と思うのは私だけだろうか。〈後に文献で学んだところ、秀吉軍は大軍で南下してきているため、このころ食糧に苦慮していた。また、病人も多く、あと、4,5日島津軍が降伏しないで対抗していたら島津の勝利に終ったかもしれないとある。歴史が変わっていたかも知れませんね。) 江戸時代のころからあったと思われる地名、大小路の一角にある寺の建つ地は、今は、泰平寺通りという。その近くに伊勢山という地名があり、また、原の馬場という地名も残る。この一帯は広大な丘陵地帯ではなかったのか。 いずれにしても、近くに可愛山稜、薩摩国分寺、菅原神社、八坂神社、薩摩街道などがある歴史の中心地でもあリ、散策はここから始めることにした。 |