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ふるさと関連見聞録 外城(とじょう)と麓

 江戸時代の薩摩藩には、他の藩ではなかった、外城、麓、地頭仮屋などのシステムがありました。


 薩摩藩独特の制度

 安土桃山時代、南九州の強豪となっていた島津氏は、1580年代には九州全土に勢力を張り、全土を制圧する勢いでした。当時全国統一を目指していた、豊臣秀吉は1587年九州内の抗争を平定するため出陣し、その結果、島津氏は旧領の薩摩・大隅などに封じられました。

 その後、領主島津氏は他からの侵害を受けない完璧な領土を固めようと薩摩・大隅などの辺境の地の警戒に全力を注いだといわれます。このころ、薩摩では領土を複数の区画に分け、そこに地頭を配置しました。そして地方の軍備を整え、辺境には関所を設け要所には番所を置いて、他国人の侵入や領民の出入りを厳重に監視したといいます。
 
 このように地方に地頭や武士を置き地方の軍事や政治を行わせる制度を『外城』(とじょう)といいますが、これは薩摩藩独特の制度でした。

 このような体制下、関ヶ原の戦いの2年後の1602年には鹿児島に鶴丸城が築かれました。鶴丸城は、外城に対して『内城』と称され、薩摩藩の本城となりました。

 鶴丸城には城郭はあるものの天主閣などは置かず、このころの大名の城としては小規模なものでした。これは、関ヶ原の戦いで豊臣方(徳川の敵)につき敗れたものの領地の没収とはならなかった島津氏の徳川家康への忠誠の証しともいわれています。また、家康はこの12年ぐらい前から江戸城に住んでいましたが、このころの江戸城はとても質素なもので、これに対する気遣いではないかとの説もあるようです。

 いずれにしても、薩摩藩は、この後も豪華な城を築くことなく、それとは違った形での軍事力保存のシステム化がなされました。それは、本城をもって勝敗を決しようとするものでなく、この本城を内城として外城を含む全藩を挙げての巨城としようとの思想でした。

 1615年、江戸期二代将軍徳川秀忠により「一国一城令」が公布されます。各藩では政治の中心地に一城のみ所持することを許され、その他の城は廃城にすることとされました。薩摩藩は、すでに本城は鶴丸城がありましたが、外城域はそのまま残し、地域の領主を鶴丸城下に住まわせ外城の地頭を掛け持ちさせました。

 このように、薩摩藩では、鹿児島に本城として鶴丸城一城を置き、一国一城令を遵守しているかに見えますが、実際はそれまでの地方領主の領域に地頭を置き、軍事と政治などを行わせたため、一国一城とは言い難い組織体制でした。

 外城制度は、鶴丸城が築かれたこのころに完成しましたが、外城は明治初期のころには113区画あったといいます。

 地頭仮屋と麓の形成 

 平安時代のころから築かれた武士の城は、攻められにくく守りやすいという発想から山の上に砦を築き有事にそこに籠って応戦するという山城でした。戦国期には鹿児島にも多くの城が存在し、親族、他族を問わず領主同士の戦は絶えなかったということです。

 江戸期直前に形成された外城は、それまで地域に複数あった城に替えて、旧城の近くの好条件の場所や地域の中心地または交通の便がいい場所などに『地頭仮屋』(地頭館とも)を置きました。仮屋とは仮の館という意味ですが、領主は城下に移り住み政務に就いており、外城の地頭を兼務したため、出先の詰所(事務所)つまり仮屋としたようです。

 地頭仮屋の近くに外城域の政務・軍事にあたる武士が居住する集落を築き、これを『麓』(ふもと)と呼びました。麓とは、政治、軍事の中心地である「府本」(ふもと)の意味があるといわれますが、実際には旧来の城の山麓の便利な場所に再編されたところが多いようです。

 時代が進み、1783年頃になると外城のことを『郷』と呼ぶようになります。薩摩藩で地方の武士のことを「郷士」と呼ぶのは、この郷に住んでいたからなのです。郷士に対し鶴丸城下の武士は、「城下士」と呼ばれました。

  一国一城令の発布により、また、時代の安定とともに、それまで地域に複数あった山城などは、その必要性がなくなり、地頭仮屋や領主の菩提寺などが置かれた場所を除いては、荒廃し現在はその遺構も見られなくなりました。

 外城を置いた事情

 江戸時代前のいわゆる戦国時代、薩摩は九州全土を支配下に置くような勢いで相当数の軍備を整えていました。従って、武士の数は、江戸期になっても他藩に比べ非常に多かったそうです。薩摩藩が外城制をとったのは、本城鹿児島に武士の全てを集めるわけにいかず、やむなく地域に置いたともいわれます。

 武士が多かったため、当時の主要産業である農業の生産力は貧困でした。そこで、膨大な武士数を逆手にとって地方で農業に従事させ、藩の生産力を向上させたとの説もあります。

 江戸時代薩摩藩は新田の開発をして、農業を振興しましたが、農民が少ないため郷士は半農半士による自給自足の生活を余儀なくされました。農事と武道の鍛錬を行わせ有事の際は第一線で戦うという体制をとりました。また、生計が困難であった下級の郷士は、農業のほか大工や石切り、加治、紙漉きなどの職も行ったといいます。

 さらに、藩は農業による自給自足を奨励したため、地方での商業の発展はみられず、このころからの商業地区は、あまり残っていないようです。


 ≪参考にさせていただいた資料≫
    フリー百貨事典 ウィキペディア(Wikipedia) (外城)

    樋脇町史  東郷町郷土史

    その他
------ Furusato Satumasendai 2010.4.7 --------