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薩摩街道を歩く会  (2010.8・1)

川内川渡唐口
 8月1日、日曜日、午前7時。薩摩川内市向田の川内川渡唐口には、約120人の人々が集まっていました。
 太平橋近くの向田渡唐口を中心とする上・下流約1.1kmの堤防では、このほど従来の堤防を補強して大きな洪水にも耐えるための工事が行われました。渡唐口は、古くから川内川の渡し船や海からの船の船着場であったため、その頃をイメージするものに復元されたのです。
 この日は、この堤防の完成を記念して、薩摩街道保存会の主催による川内川以北の「薩摩街道出水筋を歩く会」が開催されました。

 写真上▲は、記念写真撮影のため階段に並ぶ参加者。対岸の大小路渡瀬口方向を向いて


 渡唐口は薩摩街道出水筋の重要な拠点のひとつで、ここから対岸の渡瀬口に船で渡り、大小路町、上川内町を経て現在の高城町、陽成町、湯田町、西方町から阿久根市へと北上していました。

 ここ渡唐口河畔の向田町(むこうだまち)には、江戸時代薩摩藩の地頭仮屋(御仮屋)が置かれ、参勤交代時の藩主の宿泊所のほか通常は隈之城郷(当時は隈之城郷であった。)の郷士の行政執務役場となっていました。残念ながら地頭仮屋があったとされる場所は、現在のこの河川敷の場所で、当時は川が今よりもかなり狭く、川沿いに直接堤防というか高い石垣の波止場があったようです。明治以降の度々の堤防工事で川が陸側に拡張されて行ったようです。

 御仮屋の前には、御仮屋馬場が通り、その周辺には上納米を保管するための倉庫が置かれ、商業の中心地であったため、旅館や問屋、小間物屋などもおかれ、現在の薩摩川内市地域最大の商店街(野町)として繁栄していたといいます。

▲完成した太平橋上流の堤防。渡唐口の部分だけは昔のイメージの石を使っています。
▲7時30分頃新しい堤防から太平橋を渡り大小路へ いざ出発 ここから西方町へおよそ16km
 川内川のこの付近に橋が出来たのは、明治8年のことで、これが初代の太平橋です。ですからそれまでは、向田と大小路との往来は船で行っていました。この近くには相当の船だまりが出来ていたことでしょう。
 参加の皆さんはこの近くに車を置くなどして、帰りは西方駅から「おれんじ鉄道」で
大小路、上川内、高城麓を通過して早や高城町から陽成町へ抜ける筋へ
街道は今は林や森になっている丘陵地を進みます。
参加者は、途中の名所などを学習をしながら、記念写真もしっかり残して▲▼
 高城町本川から陽成町へ抜ける筋の途中には、今年、階段を整備していただいていました。
 この付近は、近年になってからシラスの台地が削られて道路や畑などが整備されたものと考えられます。ここから暫く行って、現在は杉や竹の森になっている台地の一角に、明治時代には「山下小学校」があったそうです。

 陽成町のほぼ中心部の陽成小学校に到着しました。
小学校は、参勤交代時の藩主の休憩所「麦之浦御茶屋」跡であり、昭和の初期に建てられた記念碑には「藩主御茶屋」とあります。


▼その陽成小学校の栴檀の木の木陰で休憩しました。
西方までの丁度中間点でしょうか。一緒に参加して、ここで再開する仲間も。「早かったわね・・・」「置いて行かれたわ」

 地元の方々の手作りの御茶受けで、もてなして頂きました。有難うございました。
 ▲陽成町一条殿神社を過ぎると、今は民家になっている庭の中をお邪魔して、また険しい丘を登ります。
 右側には小さな谷がありますが、西南戦争時、熊本方面(前方)から官軍に追われた薩摩軍はこの谷の向こうの小高い山から射撃を受けて多数の負傷者を出したそうです。
 ▼坂を行列を作って登る参加者。
 笠(かぶりがさ)をかぶっている人は、薩摩街道保存会(薩摩川内市)のメンバーで、これまで県内の薩摩街道出水筋を踏破された方々。つまり、ベテランの方々だそうですが、あれあれ、もしかして会長では?!
 薩摩街道出水筋の中でも、薩摩川内市の旧高城郷(高城町・陽成町・湯田町・西方町)部分は、遺構が良く残っており、この間では大きく4か所の起伏の大きいカ所があり、踏破は容易でないと・・・・・後続を気遣いながらも、会長 ハアハアー

  
陽成町から湯田町へ越す丘の頂上には、大きな堀切があります。ここは、通称「峠路」といわれます。
あれ?また記念写真▲・・・ではありません。
峠を下る川にかかる貴重な石橋は今も使われています。
 湯田町でも地元の方々に歓待を受けました。
 「参加者数がわからなかったので飲み物が足りないかもよ」
 お気持ちに感謝!感謝!・・・・・

 今回歩いた街道沿線の方々は、私たちのために街道の草刈りもしていただいていました。
 湯田小学校に着きました。・・・昼食です。
 参加者は昼食持参の義務でしたが、ここのおじさん方は計画的に持ってきていません。
 必ずや知り合いのおばさん、いやお嬢さんが準備するものとの確信犯
 ここでも、大きな栴檀の木陰でいただきました。当然私も

 昼食をしてから暫く休憩してもうひと山。西方駅まで40分程の行程ですが、このまま、ここで昼寝をしたいような涼風と疲れ具合です。
▼さあ 最後の丘に向けて出発です。
 小中生は足取りも軽く。
 それにしても急な坂です。本当に殿様の籠をかついで登ったのだろうかと思ってしまいます。
 坂を登りきると、舗装されただらだら坂をまっすぐ下るものと思っていたら、もともと薩摩街道として検証されていた道が今度通れるようになったそうで、急きょ左に折れて歩くことになりました。

 下り坂ではありましたが、長い坂で、江戸からの帰郷行列にとっては、相当に厳しいものだったと思われます。

 全体が林の沢と並行していましたが、ところどころに、手で敷いたのではないかと思われるような平らな石があるところや石を削ったと見られるようなところがありました。

 降り立ったところは、西方海岸の白滝という地名ですが、沢の途中から白っぽい水が流れていました。
 歩く会最後の写真になりました。
 おれんじ鉄道西方駅で川内行きの電車を待つ参加者

 暑い中ここまで到達した参加者は、駅前での解散式を終えて満足げ


 私(カメラマン)は、重い脚を引きずりながらようやくここまで到着・・ 到着直前の写真は少なくなりましたアア暑い


 この切符は、いつもは買えない。おれんじ鉄道八代本社特製の記念の1枚。
薩摩街道出水筋(IN薩摩川内市)の詳しいことはこちらから
おことわり

 このページに登場される人物につきまして、写真搭載の了承をいただかずにアップロードさせている方があります。
 なるべく個人が特定されないように、遠方や後方から撮影したものを掲載させていただきましたが、ご都合の悪い方は、大変ご面倒ですがホームページの「管理者へのメール」から連絡をいただければ、対応致しますので、宜しくお願いいたします。