ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
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ふるさとの麓
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大村麓
 現祁答院町にある3郷のひとつ大村です。
 鎌倉時代の1248年相模国(現神奈川県)の渋谷光重は、幕府から北薩摩の地頭の任を得ます。光重は二男以下の子5兄弟を北薩摩の東郷、祁答院、鶴田、入来院、高城へそれぞれ下向させます。その当時の祁答院地方は、現在の藺牟田、大村、黒木、長野、山崎、宮之城、佐志、鶴田をいいましたが、中でも鶴田だけは朱印地といい特別な地域とされていました。
 そこで、光重は鶴田を除く祁答院に3男の重保を鶴田に4男の重諸を配属して所領させます。
下向した渋谷5族は時代とともに、所領の一部を息子や支族に譲っていき一定の地域を統治するようになります。大村もそのひとつですが、戦国の世には薩摩でも親族、他族を問わず領土争いがあり、領主が度々変わり、江戸時代の直前になると、島津氏一族が薩摩、大隅、日向の一部をすべて領収することになります。

 江戸期にいると政治が安定し、その後、現祁答院町は大村、藺牟田、黒木の3郷がそれぞれに発展しました。
 祁答院町大村麓(旧武家集落)の武家門は石柱が多く見られます
 江戸時代大村郷の地頭仮屋は、大村古城の山麓(現在の大轟小学校)の一角に置かれていました。この麓一帯から東へ徒歩で4・5分ぐらいの場所です。

 屋敷の石塀は、川の玉石はほとんど見られず、切り出し石が使われています。
手水鉢も時代を感じるものがありました。


▼鎌倉期の大村古城といわれる山城(永福城)は、現大轟小学校の北側の丘にありました。麓は永福橋の西側