ふるさと薩摩川内 いつか暮らした懐かしいふるさと
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ふるさとの麓
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東郷麓
 鶴ヶ岡城の西側の麓、小路といわれる場所に旧武家集落がありました。とても風格のある石塀と武家門の屋敷が2軒続いて並んでいます。
 近くには屋敷の石垣や武家門が残るところも
小路磨崖仏
 旧鶴ヶ岡城麓の小路地区からの登り坂の岩に磨崖仏と梵字などが彫られています。
 これは、戦国期1517年に彫られたもので、阿弥陀如来像と同じく阿弥陀如来を表す梵字(キリーク)で東郷氏の武運長久・家運隆昌を祈ったものとされます。
 また、岩に彫られた石灯籠(満月・三日月)は江戸期の1755年に寄進されたものだそうです。
 堀切を登ると平坦な十字路に出ました。城内と的場地区です。
 鶴ヶ岡城は上の写真の右上の森の部分にありました。近くには弓の射撃練習場もあったようです。

 地元の方の話によると手前から鶴ヶ岡城に向かう道路(石坂口)は古来はとても細く近年拡副されたそうです。
 郷の中心は今と同じ東郷小学校南側にあったようです。鶴ヶ城下の東側のこの道が大手口と名づけられています。地頭仮屋も江戸初期のころは、この方角にあり、後に城下の西側に移りました。
地頭仮屋跡
 東郷の地頭仮屋は、江戸初期のころ現在の東郷小学校南側の舟倉地区(舟倉町)に置かれていました。

 川内川沿いにあったため、たびたび洪水に遭い1748年ごろ麓の小路地区の南側に移され明治まで存在したそうです。

 小路地区の地頭仮屋跡は、明治初期に外城42郷校(小学校)となり、一時改名して鶴岡小学校となりました。その後小学校は現在の東郷小学校に移され、跡地は製糸工場となり、現在は民家になっています。


 跡地には仮屋のころに築かれたと思われる立派な石垣が残されています。

鶴ヶ岡城
 東郷地域は、鎌倉時代から安土桃山時代にかけて渋谷一族の東郷氏が統治したまちです。
 斧渕城内地区に渋谷東郷氏が鶴ヶ岡城を築き、江戸期の直前島津氏に降るまで340年にわたり居城しました。

 鶴ヶ岡城は本丸、二の丸、ほか5支城があり郡内に類を見ない名城だったそうです。下図のように本丸・二の丸を守る支城は1km以内の拠点に配されていた模様です。本丸と国見城の周りには空堀も廻らされています。麓から本丸へ通じる道路も現在のように広くなかったはずで、これも堀の役目をしていたと思われます。
頂上の本丸付近と思われる場所です。
平坦ですが今は杉林になっていました。
山頂にあり、森がなければ360度見渡せる場所にあります。
国見城跡
左写真の案内板と軍神愛宕神社とみられる廃屋がありました。
この場所はむしろ本丸よりは高い所にあったのではないかと思われるような位置です。
見張り台の役目をしていたのでしょうか。
国見城への階段
ここからかなり高い所にあります。
階段は比較的新しいものに見えますが神社の参拝用に整備されたものかもしれません。
周りには深い堀切が