ふるさと薩摩川内
川内戦国村                       
 湯島町船間島にある戦国村です。
 戦国時代から江戸末期・明治維新時の戦乱の模様をテーマとしています。
 戦国時代豊臣秀吉は九州征伐のためここ薩摩の川内まで進軍しました。秀吉軍は大河川内川の河口にあるこの船間島の横を船で遡り、高江の猫岳に陣を構えたといわれています。
 戦国村のこの城閣はテーマパークの施設として建設されたもので、戦国時代にはありませんでしたが、川の対岸の久見崎には当時薩摩の軍港がありました。後の秀吉の朝鮮出兵の折は、多数薩摩軍船がここから出港して行きました。
城閣の中を巡りながら戦国の時代を偲んでいきます。
 展示室には、戦国時代の甲冑、弓、槍、刀、鉄砲のほか当時の陶磁器、明治維新の軍服などもあります。
 豊臣秀吉、島津義久との和睦
 1587年(天正15年)5月8日、川内川の上流大小路にある泰平寺に本陣を構えていた豊臣秀吉の前にかしづく薩摩の総大将島津義久。敗戦を認めた義久は、頭を剃髪「龍伯」という僧籍を得て、丸腰となって秀吉の前に現れます。義久は丸腰ではありましたが動じることなく凛とした態度で望んだといいます。
 静かに平伏する義久に対し、秀吉は「龍伯殿よくぞ参られた。さあさあ、もっと近くへ参られよ」と上機嫌に声をかけたという。そして、「腰の当たり少々お寂しいご様子」と言って自らの手で刀を渡したという。強国の大将がその余力を残したまま降参したのである。腹心無きことをその装束で示す義久に対し、それに応じた秀吉流の真摯な態度でありました。
 秀吉は、天下人らしく深い思慮のもとに義久を許し、ここに、和睦が成立して旧島津領の薩摩をそのまま与えました。かくして、戦国の時代は終焉を迎え、朝鮮出兵から江戸の安定期へと移行していきます。
 
  秀吉の九州征伐の様子は、秀吉の九州征伐〜義久との和睦
  明治維新
   西南の役

 甲冑生産
 戦国村には甲冑製作工場の一部が併設されており、製作過程を見学することが出来ます。
  現在、映画などで使われるものの90%以上がここ丸武産業で生産されたものだそうです。
  甲冑の生産は、もともと戦国村のオーナーが趣味で集めていた甲冑の修理を繰り返しているうち、「甲冑の全部を作ってみよう」と始め、そのうち産業化されていったそうです。まさに全てが手作りです。