患者はみーんな知りたがり


受験シーズンたけなわ。受験生であったいにしえのころ、調査書の封書に
あった「本人開封無効」の印をうらめしく眺めた記憶がある。自分のことが記
されている文書なのに、なぜ本人は見ることができないのか。

同じ思いを私は最近も味わっている。今度は調査書ならぬカルテである。そ
の禁断の木の実であるカルテを患者本人に公開しようとする動きが始まってい
る。
昨年六月、厚生省の検討会が、カルテ開示の法制化を含む積極的な答申を
行った。この一月には、日本医師会も患者への診療情報提供のガイドラインを
打ち出した。
残念ながら、医師会の方は、カルテ開示の法制化には断固反対の
方針を表明している。カルテ開示は、法律で義務づけるようなものではないの
だそうで、医師の倫理規範にゆだねられるものだという。はたして、そういう
理念的なもので長い間「依らしむべし、知らしむべからず」の論理が貫かれて
きた医療の分野で、カルテの公開を含む患者への診療情報の提供がすすむのだ
ろうか。

私がカルテ公開に関心をもつようになったきっかけは、自身のがん体験であ
る。先日「二月三日は種村さんの日」と書かれた友人からのはがきを受け取っ
た。この日は、進行性胃がんと診断され、胃と脾臓、広範なリンパ節を切除す
る手術を受けた私の記念日。加えて五年生存率二Oパーセントの宣告。当時の
私は、がんである事実をなかなか受け入れられなかった。

手術に先立つ半年間、私は激し い腹痛でしばしば病院にかけこんでいた。
検査でがんは見つからなかった。「あなたは、がんではないから少々の痛みは
我慢しなさい」とまで言われていた。病気は、専門家である医療者が見つけ
て、治してくれるものと信じ込んでいたごく普通の患者であった。

退院後フラフラの体で図書館に通い、医学書や体験記を読みあさるうちに、
がん=「死」でないことを知った。むしろ、「死」までの時間を準備できる病
気であり、がんと共存して、自分らしく生きていくことが可能であることを
知った。そのためには、自分自身の体の主人公として、体におこっていること
を理解し、自分の医療を自分で選択できなくては。幸い私は、その考えに共感
してくれる医師に出会い、五年目の日を無事に迎えることができた。

二年前、そのがん体験を『知りたがりやのガン患者』(農文協)という本に
まとめた。予想以上に刷りを重ね、全国から数百通の手紙、電話、ファクスが
寄せられた。「私も知りたがりです」「知りたがることは悪いことではないと
知って、心に平安がともりました」「自分の体のことなのに、あまり質問する
と気まずくなりそうで、主治医の顔色をうかがいながらやっています」
生きる時間が限られているからこそ、本当のことが知りたい、という切実な
声があふれていた。「患者はみーんな知りたがり」であることを実感した。

『ウソのない医療』(風媒社)と題した本がある。名古屋にある協立綜合病
院の五年間の「カルテ開示」の実践がつづられている。当然、がん患者にも診
療前にカルテが配られる。患者は、自分の体の状態を正確に知ることができる
し、納得いくまで質問もできる。隠しごとのない医療は、医療者と患者の信頼
関係をはぐくむ。当初はショックでおちこんでいた患者も、自身の治療に前向
きになる。残された時間をいかに生きるべきか選択できるようになる。

インターネットでカルテ開示の情報を探していたら、「医療情報の開示をす
すめる医師の会」のホームページにたどりついた。全国的には「カルテ開示」
を実践する医療者は、少数の例外的存在ではなくなっているらしい。

今後、法制化をめぐって、厚生省と医師会のせめぎあいが続くのだろう。
忘れて欲しくないのは、医療の主人公は、患者であるということ。その患者
は、自分の体の情報を切実に求めているということ。

「知る」ことは「生きる力」。五年間のがん患者としての体験から学んだ私の実感である。
(かごしま文庫の会代表・鹿児島短期大学講師)