総合学習と学校図書館―「いのちの授業」の実践をつうじて
1.はじめに

 21世紀を目前にして、学校教育の改革が急ピッチですすめられている。子どもたちを学びの主人公として、子どもたちの興味・関心にもとづいて、心と体と頭を十分に活用して、仲間と協力しながら問題解決に向かう学習である。

 その子どもが自ら学び、自ら考える力を育成する教育改革の目玉のひとつとして登場したのが「総合的な学習の時間」であり、子どもが主体的に必要な情報を探索する場を提供する学校図書館の役割がクローズアップされるようになったのである。

2.学校図書館の改革

 1954年、戦後の一連の教育改革のなかで「学校図書館法」が成立した。教育基本法の理念にもとづき「学校教育に欠くことのできない基礎的な設備」として位置づけられたのである。

 ところが、種々の事情で「当分の間、司書教諭をおかないことができる」とする付則がついて、人のいない学校図書館は「本の倉庫」と揶揄される状態が長年続くことになってしまった。

 学校図書館の関係者は、この状態を改善しようと声をあげ続けてきた。ようやく動きが始まったのは1980年代半ばであった。

 1988年の臨教審答申は、「生涯学習体系への移行」を打ち出し、生涯学習の基礎となる力、つまり自己学習力の習得こそが学校教育の役割と位置付けた。当然、従来の図書館を必要としない一斉学習では、自己学習力は培えない。学校図書館の拡充が欠かせないのだという議論が再燃する。

 1990年代になると、矢継ぎ早に改革の動きが始まる。まず、1993年に文部省は「学校図書館図書整備新5ケ年計画」を策定する。これは、全国の小・中学校の図書館の蔵書を5ケ年で1.5倍にしようと、地方交付税に上乗せして500億円を予算化したものである。使途を学校図書館に限定したものでなかったために、自治体によりバラツキがあったが、かなりの学校図書館の蔵書が拡充された。

1995年には、「児童生徒の読書に関する調査研究協力者会議」が「新しく魅力的な学校図書館」のための報告書を提出、同時に学校図書館情報化活性化モデル事業がとりくまれた。

 1997年には、長年の念願であった「学校図書館法の改正」が実現。50年近くも人がいなかった学校図書館に、12学級以上という限定ながら、2003年3月までに司書教諭が配置されることになった。だが、この法律改正は今後に課題を残した。まず全国で43%、鹿児島県では74%にものぼる小規模区校への司書教諭の配置の問題。次に、充て職司書教諭つまり専任ではなく教科担任や学級担任を兼務する司書教諭の負担軽減の問題。最後にこれまで実質的に学校図書館を運営してきた学校司書の制度化の問題である。

 1998年には、司書教諭を養成する講習科目の内容が一新された。しかし、当面大量の有資格者を養成する必要上、4年以上司書教諭相当職務に従事した教師にはわずか2単位で資格がとれるという極めて不十分な内容であった。

 1998年度から、情報化活性化モデル事業の指定は72市町村、大幅に拡充された。また2002年までにすべての学校がインターネットに接続されることになった。一連の改革は、総合学習の導入に代表されるような子どもの「生きる力」をはぐくむ「新しい教育」になくてはならない機関として、学校図書館が位置づけられるようになった現れでもある。

 もちろん、こういう一連の改革は、学校関係者や文部省、国会だけの力でなしえたのではない。長年、地域や家庭での子どもたちの読書環境の充実に高い関心を寄せている母親たちを中心とする地域住民からの働きかけがあったことも忘れてはならない。

 そういう母親の一人は「学校図書館は、子どもたちにとってもっとも身近な図書館です。楽しみのための読書はもちろん、さまざまな資料をもとに、自分たちで調べたり比較したり、意見を交換したりして、考え方や学び方を身につけて、知ることの喜びを経験できる場です」という。さらに、「学校図書館が正しく機能していれば、読書離れ、子どもの疲労、いじめや不登校も少なかったのではないか。少なくとも、子どもたちはいまよりは学校が好きになっていると思う」とも主張している。

3.総合学習「いのちの授業」と学校図書館

私は、この3年間鹿児島県を中心とする小中高校55校でゲストティーチャーとして、総合的学習「いのちの授業」を行っている。自分自身のガン体験をベースに、司書として、子どもたちに本や情報が生きる力になることを伝える授業である。授業の形態は、「生と死」を扱った本のブックトークを主体としている。子どもたちにとっては1回きりの授業なので、本や図書館の役割を伝えていくことで、子どもたちに自ら学ぼうとする意欲を喚起し、学ぶ方法を知る糸口になることを目指したものである。文部省も地域の教材や人材の活用を奨励している。そのため、学校にゲストティーチャーを迎える試みは、多くの学校で行われるようになった。だが、大部分はゲストの話を聞いて感想を書いて終ってしまう。日常的なカリキュラムに位置づけることなく、その場限りの学習になってしまいがちである。

私の授業は、担当教師と密接に連絡をとり、教師による事前事後の取り組みを重視している。当日はなるべく担任とのTTの形式をとることにしている。

事前のとりくみで重視しているのは、子どもたちの「いのち(特に生と死)」に対する意識や経験を知るためのアンケート調査とブックトークで紹介する本の準備である。学校図書館に所蔵していないものは、学校司書を通じて公共図書館に検索・借用を依頼してもらう。図書館は、孤立しているのではなく連携していることを子どもたちに知らせるためである。集まった本は、学校図書館で特別展示したり、学級に貸しだししてもらい、児童に紹介する。授業のあとは、感想や授業中に出せなかった質問を書いてもらう。「知らないことがいっぱい出てきて、いっぱい知れて、もの知りになった気分です」「本のこともすごく詳しく説明をしてくださったので、もっともっと本を読みたくなりました」などと記された文を読むのは無上の楽しみである。

4. 総合学習を支える学校図書館

 総合学習において、学校図書館の機能が最大限発揮されるためには、どういう条件が必要なのだろうか。

 (1)専門・専任の職員配置

 学校図書館に専任・専門の職員が配置されているかどうかで、授業での図書館利用は変わってくる。早くから学校司書や専任司書教諭が配置されてきたところでは、学習計画の段階から、図書館職員と教師との打ち合わせが行われている。教師は、図書館職員の援助を受けながら、教材研究をすすめることができる。実際の授業の際は、図書館職員が必要な資料を公共図書館から借りてきたり、ブックトークをしたり、資料展示をしたり、ブックリストを作成したりして、子どもたちの学習を援助する。授業時間以外にも子どもや教師のレファレンスに応じている。図書館職員が司書なのか司書教諭なのか、という議論には今回あえて触れないが、いずれにしろ、いつでも専門的なサービスができる体制がどの学校でも保証されることが必要である。

(2)学校図書館の情報化・ネットワーク化 

 従来から子どもたちに本の楽しみを伝えるために学校と公共図書館の連携が行われてきた。例えば、社会科見学で図書館を訪れたり、移動図書館車が定期的に学校に乗り入れしたり、公共図書館員が学校に出かけて、おはなし会やブックトークを行ったりしてきた。それらは、主に楽しみやくつろぎのための読書の機会を提供するものであり、学ぶ力を育成するための資料提供は十分であったとは言えない。

 全国的にみると、大阪箕面市や豊中市、佐賀市、市川市など学校での学習を支援するため、多面的な支援をおこなっている図書館がある。公共図書館と学校図書館がコンピュータでつながり、長期・短期の大量の貸しだし、図書館に所蔵していない本のリクエストサービス、新刊書などの情報提供、レファレンス、ブックト−クの出前までやっている。学校図書館相互のネットワークも存在し、個々の学校で解決できないレファレンスや準備できない資料を他の学校に援助してもらう。司書は、常に集まって研修を重ねて、力量を高め、連携を深めている。

5. おわりに

以前あるMLで中学校の教師から「授業にヘレンケラーとサリバン先生の写真を使いたいが手元にない。図書館に出かけていく時間もない。貸してほしい」と発言があった。その中学校にも学校図書館はあるし、学校司書もいる。たとえ学校図書館に所蔵していなくても教師や生徒が必要とする資料を準備するのが学校図書館の役割である。

学校図書館を総合学習に生かすためには、司書や司書教諭の力量を高めることはもちろんだが、図書館を必要としない授業に慣れっこになっている教職員に図書館の役割・機能をPRすることから始める必要がある。大阪箕面市の場合、学校図書館の活用を呼びかけるために、市全体の学校司書から教師向けに毎月『Lメール』が発行されている。毎年新学期に「よりよい司書の使い方」と題した教師向けオリエンテーションを実施している学校もある。

総合学習は、子どもたちに「知識を教える」学習ではない。「学ぶ方法」を伝える学習である。総合学習の導入が、真の意味で、教育改革の牽引車になるために、学校図書館に十分な蔵書を整え、いこごちのいい環境を準備し、コンピュータも取り入れた公共図書館や学校図書館間のネットワークを構築することが必須である。なにより大切なことは、その学校図書館の機能を生かす専門・専任の職員を配置することだと思う。