死を学ぶ子どもたち PART2 第36回

「ホタル館」


                     

10月4日、知覧小で6年生を対象に「いのちの授業」をした。知覧小のある知覧町は、太平洋戦争末期、特攻作戦の基地になったところである。大阪からフリーライターの方が取材にいらしたので、授業の前に知覧特攻平和会館と最近できたホタル館を訪れた。
特攻会館は、観光シーズンとあって、多くの人でごったがえしていた。映画「ホタル」の影響が大きいのかもしれないが、鹿児島市から車で1時間ほどもかかる町にこれだけの観光客が訪れるのは驚きだ。だが、私はここに来るたびに、釈然としないものを感じてしまう。いったい何を目的としてつくられている記念館かはっきりしないのだ。「無謀な戦争のなかにあって、もっとも無謀な作戦であった特攻の実態を知らせ、再び未来ある若者の尊い命を奪うようなことを繰り返さないための記念館」と思いたいのだが、そういう主張はなかなか感じ取れない。
10数年前初めて訪れたとき、居合わせた観光客のために説明してらした方が、「当時は朝鮮半島も日本の国でした。特攻兵のなかにも朝鮮人がいて、その方々も日本人としてりっぱに飛び立って行かれたのです」と平然として語られるのを聞いて、あぜんとしたことがある。
この日も、関東方面から訪れたらしい修学旅行の高校生の一団に、館の方の説明が行われていた。ちょっとだけ、私も耳を傾けたが、今の高校生と同じくらいの若者がいかに勇敢に命を捨てて、国を守るために飛び立っていったかという説明が行われていた。まかりまちがうと、特攻賛美、ひいては戦争賛美につながりかねない気がする。

ホタル館は、特攻おばさんと慕われた故鳥浜トメさんを記念し、特攻隊員とトメさんの関わりを中心に展示してある。かつて、軍の指定食堂であったトメさんの「冨屋食堂」を復元して、資料館にしたものだ。
映画のなかでも描かれた「ホタルになって返ってくる」と言って出撃した新潟県小千谷出身の宮川くん、アリランを歌って別れを告げた光山少尉(本名タク・キョンヒン)の手紙や写真などが展示してある。

今回始めて知ったのだが、宮川くんは、二度目の出撃だったそうだ。加世田市の万世から飛び立った最初の出撃は、機体の故障で引き返してきたという。当時、どんな正当な理由があろうと、引き返した者は「死に遅れた存在」としてたいへん苦しい立場におかれたらしい。卑怯者のそしりを免れるために、一刻も早く出撃することを願っていたという。宮川くんが、知覧から二度目の出撃を果たした6月6日は、かなりの悪天候で、視界がほとんどきかなかった。それでも「ひきかえそう」との同僚の合図を無視し、飛んでいったのだそうだ。だから、沖縄まで到達しないうちに、墜落したとされている。 

光山少尉(本名タク・キョンヒン)は、幼いころ、両親とともに日本に移り住んだ。当時は、朝鮮半島は日本の植民地。1939(昭和14)年には、在日朝鮮人だけでなく朝鮮半島に住む人々にまで、日本名への改名を強制し、本名の使用を禁止した。そればかりか、母国語の使用を禁止し、日本語を強制した。そのうえ、強制連行や強制労働に駆り出したのである。鹿児島の各地に作られた特攻基地整備にも多くの強制連行の朝鮮人が動員された。(このほど出版された『鹿児島、韓国封印された歴史を解く』(南方新社)
http://village.infoweb.ne.jp/~fwhw0299/top.htmlに詳しい)
こういう境遇におかれた朝鮮人が、日本臣民として教育されてきたとはいえ、率先して特攻に志願することは考えられない。おそらく彼らは、自分が死んだ後、家族に対する差別や蔑視がいくぶん払拭されるとの期待をもったのではないだろうか。
光山少尉をモデルにしたと思われる映画「ホタル」にでてくる金山少尉(本名キム・ソンジェ)は、「日本のために死ぬのではない。愛する人のため、朝鮮民族の誇りをもって死ぬのだ」と語っていた。

ホタル館の展示のなかでとりわけ印象に残ったのが、トメさんに「この戦争は負けるよ」と話した長野県出身の上原良治少尉の存在である。トメさんは「そんなこと言うと憲兵隊につかまるよ」と諌めたそうだ。「そんなこと言うのはたった一人でした。後はみんな早く行かないと日本は守れないと言ってました」とトメさんの生前収録されたビデオは語っていた。上原少尉は、慶応義塾在学中に出陣した学徒兵であった。展示されていた日記には「一人の自由主義者が明日逝きます」と記されていた。

展示のなかには見あたらなかったが、映画「ホタル」のなかで、奈良岡朋子が演じた晩年のトメさんが「私があんひとたち(特攻兵)を殺したんだ」と泣き叫ぶ場面があった。これは、映画での創作ではない。鹿児島在住の作家相星雅子さんの『華のときは悲しみのとき』(高城書房出版)によると、実際には、終戦直後に特攻基地跡に無残な残骸をさらしている特攻機を目にして、娘さんに語ったのだそうだ。時代の流れに逆らうことのできなかったとはいえ、トメさんは、死に赴く特攻兵に「りっぱに勤めを果たしてくるように」と励ましたことを悔いていたのだろう。
私は、この夏、韓国に旅し、一般の日本人はめったに足を運ばないという「独立記念館」を訪問した。日本の植民地時代の展示はさすがに直視できなかった。10月末には、長野県の松代大本営跡を見学した。ここにも、強制労働に駆り出された朝鮮人のハングル文字が壁に刻まれていた。

知覧小の授業では「平和といのちの大切さを全国に発信している知覧という町に住んでいる以上、どうすれば自分のいのちも他人のいのちも大切にできるのか考えつづけてほしい」と結んだ。だがどうやら、子どもたちに課した宿題は「いのちの授業」を続ける私自身にとっても大きな課題であるのだ。

参考
ホタル館 富屋食堂
http://www.chiran.co.jp/


映画「ホタル」を観て

地元鹿児島で今話題の映画「ホタル」をようやく観に行った。
公開されて1ケ月以上になるのに、立ち見が出るほど。鹿児島でロケが行われたのと、主演高倉健さんの魅力だろうか。

 「ホタル」は、太平洋戦争の末期、知覧から飛び立っていった特攻兵が、食堂のおばさん鳥浜トメさんに「ホタルになって帰ってくる」と言い残して、ほんとにその晩ホタルが飛んできた、というエピソードがもとになってつくられている。(絵本の『ほたる』も岩崎書店から出ていたが、こちらは現在絶版)

 今回の映画は、元特攻兵の山岡の役を高倉健、特攻で死んだ朝鮮人、金山の許婚であった知子(高倉の妻)を田中裕子、鳥浜トメさんがモデルになっている特攻兵の母と慕われた富子を奈良岡朋子が演じている。それぞれにはまり役である。

 死を通じて「いのち」を語ることを続けている私にとって、映画は、さまざまな素材を提供してくれた。そのひとつは、移植の問題。

知子は、人工透析患者で、余命いくばくもないことを医師に告げられる場面がある。夫(高倉)は自分の腎臓を移植することを申し出る。高倉健のセリフ「二人でひとつの命じゃろうが・・」には、涙がとまらなくなった。だが、妻は与えられた寿命をまっとうすればいいと断り、ひそかに遺書を準備している。

 もうひとつは、やはり特攻の扱いである。なかでも印象的だったのは、老人ホームにはいるという富子を送別する会で、「私は、未来のある若者を見殺しにしたんだ。本当の母親だったら、我が子が死ぬことが分かっていたら、どんなことをしても止めるはずだ」と、富子が泣き崩れる場面。
 特攻で死んだ若者とさほど変わらない年齢の息子二人を持つ母親である私には、共感できるセリフだ。たとえどんな時代であっても、我が子を喜んで死地に赴かせる母親はいなかったと思うからだ。

 出撃前夜、トメさんの前で「アリラン」を唄った朝鮮半島出身の特攻兵をモデルにした金山の描き方にも納得ができる。金山は、山岡たち部下に向かって、検閲のある遺書には本当のことは書けないから、口頭で故郷の人や許婚に「自分は大日本帝国のために死ぬのではない。朝鮮人の誇りをもって死ぬのだ」と遺言を残す。

晩年のトメさんに丁寧に取材して、『華のときは悲しみのとき』(高城書房)を書いた鹿児島の作家相星雅子さんによると、知覧の記念館に残されている特攻兵の遺書は検閲を経たものであり、決して彼らの本音でないという。映画のこの場面は、相星さんの言葉を裏付けてくれる。

 映画の終盤で、山岡と知子は、金山の遺品を渡すため韓国を訪れる。金山の親族に、「ソンジェ(金山の本名)が死んで、なんで日本人であるあんたが生き残ったんだ」と責められる場面は圧巻である。ソンジェの一族は、朝鮮人であるソンジェが日本のために特攻で死んだという事実が受け入れられないでいる。ソンジェの墓は故郷にはなかった。

 私は数年前知覧の記念館に行ったとき、「朝鮮人も日本人として特攻でりっぱに死んでいかれたのです」という説明を耳にして、違和感を覚えたことがある。今回の映画は、こういう歴史観にも一石を投じてくれるはず。

 山岡が、特攻でとび立ったのに敵のピケットラインに会い不時着して助けられたという設定など、ちょっと首を傾げたくなるところもあったが、映像もすばらしくていい映画だった。自分の住んでいる鹿児島を,映像で再認識することもできた。
 まだの方はぜひご覧になってください。