死を学ぶ子どもたち PART2 第26回
『葉っぱのフレディ』をめぐって

                     


 ある日突然1通のメールがとびこんだ。次のような文面だった。

 「私は『葉っぱのフレディ』の日本語訳のデタラメさに驚いて、いろいろ調べている者です。検索エンジンをしらみつぶしに探していて、何度もあなたのページに出会いました。全国的に活躍されて、たいへん重要なお仕事をされていることに、まず敬服します。
 しかし、あなたが推奨されている童話屋版『葉っぱのフレディ』は、実は、原作をひどくゆがめた日本語訳がされていて、とても Death Education の資料たり得ないばかりか、日本の文化を歪めものであることを全然ご存知ないようなので、申し上げざるを得なくなりました。私のホームページhttp://www1.harenet.ne.jp/~giiko/
をきっちりお読みいただくまでは、あなたは『葉っぱのフレディ』に言及することや推奨することは控えてください。」

 こんなに強い調子のメールを受け取ったのは、初めての体験だった。

 童話屋版『葉っぱのフレディ』が、原文に必ずしも忠実な翻訳ではないらしいのは、出版直後から承知していた。あるMLに、アメリカ在住の方から投稿があったからだ。投稿の主は、みらいななさんの翻訳を、日米の文化の違いに配慮したものとして高く評価されていた。この投稿で原書に興味をもった私は京都出張の折原書も買い求めて手元においていた。原書は、童話屋版に比べ版型は小さい。しかも写真しかないので、絵を描き添えた童話屋版に比べて地味な印象を受けた。肝心の原文には、当時さらりと目を通しただけで終っていた。

 たしかに、私の「いのちのブックトーク」では『葉っぱのフレディ』にかなり重心をおいている。私の授業を聞いてくれた学校のなかには、「フレディ」を学習発表会で劇にしたところもある。果たしてメールの主のいうように童話屋版『葉っぱのフレディ』は、Death Educationの素材としてふさわしくないのだろうか。

 私が、『葉っぱのフレディ』に含まれているメッセージのうち「授業」で強調しているのは、次の3点である。
1、 命の連続性・・・一枚の葉っぱの命は地面に落ちてしまった時点で終わってしまうが、葉っぱは土に溶け込んで、春になるとその土から新しい命が芽生えてくる
2、死は生きているものすべてにおとずれる自然であたりまえのことである。それぞれのなすべきことを終えて迎える死は、穏やかであり、恐れることではないということ
3、同じ木の幹に同じ時期に生まれた兄弟なのに、みんなそれぞれ違う色に紅葉するのは、積み重ねてきた経験が違うのだから当然のこと。

 くだんのHPは、使用されている文体になじめないものを感じたが、かなり時間をかけ、厳密に検証されたものである。このHPでのなによりの収穫は、『The Fall of Freddie the Leaf』は、1985年にいちど三木卓さんの訳で講談社から出版されていることを知ったことである。だが、1刷だけで絶版になったらしい。一部に翻訳の誤りがあることに気づいて三木卓さん自身が絶版を決められたのだという。

 にわかに、この三木卓訳を読みたくなった。さっそく、Webで公開されている図書館の蔵書を検索する。結果的に国立情報学研究所の 
http://webcat.nii.ac.jp/webcat.html
で3ケ所の図書館にあることが判明。私の大学図書館を通じて、慶応日吉図書館から送ってもらった。

 三木卓訳は、版型も原文のまま、翻訳もかなり原文に忠実で、使われている言葉はやわらかく、わかりやすい。スペースの関係で、その一部を紹介する。

 Daniel told him that giving shade was part of his purpose. "What's a purpose?" Freddie had asked. "A reason for being," Daniel had
answered.
ダニエルは、ひかげになってあげることは、ぼくのしたいことのひとつなん
だ、といいました。「したいことって」フレディはたずねました。「ぼくがい
きててよかった、とおもえるようなことをすることさ」ダニエルはへんじをし
ました。

"Why did we turn different colors," Freddie asked, "when we are on the
same tree?" "Each of us is different. We have had different
experiences. We have faced the sun differently. We have cast shade
differently. Why should we not have different colors?" Daniel said
matter-of-factly.
「みんなおなじ木についた葉なのに どうしてぼくたちは、それぞれちがった
いろになるんだろう」フレディはたずねました。「ぼくたちはそれぞれちがっ
ているんだよ。みんなちがったいきかたをしたんだから。日のあたりかたもち
がったし、かげのとしかたもちがった。いろんないろになるのは、あたりまえ
のことなんだよ」ダニエルは、そういうものさ、というようにいいました。

 "It's the time for leaves to change their home. Some people call it
to die." "Will we all die?" Freddie asked. "Yes," Daniel answered.
"Everything dies. No matter how big or small, how weak or strong. We
first do our job. We experience the sun and the moon, the wind and the
rain. We learn to dance and to laugh. Then we die."
 「ぼくたち葉がすみかをかえるときなのさ。そのことを、死ぬ、とよぶもの
もいる」「ぼくたちみんな死ぬの?」フレディはたずねました。「そうだよ」
ダニエルはこたえました。「いきものは死ぬ。おおきいものも ちいさなもの
も、よわいものも つよいものも、みんな。ぼくたちはまず、それぞれのしご
とをする。太陽や月、風や雨にふれる。ダンスすることやわらうことをまな
ぶ。それから死ぬ」

"Where will we go when we die?" "No one knows for sure. That's the
great mystery!" "Will we return in the Spring?" "We may not, but Life
will."
「死んだらどこへいくのかな」「だれにもよくわからない。これはたいへんな
なぞだよ」「春になるともどってくるのかな」「いやいや、そういうことはな
いだろう。でもいのちはまたもえはじめる」

 こうして読んでいくと、三木卓訳の『フレディ』が、初版のみで絶版になったのが残念に思えてくる。もしいま本が入手できるなら、私が授業の対象にしているよりもっと小さい子どもたちに「いのち」のすばらしさ・ふしぎさを伝えるために紹介することができるだろう。

 みらいなな訳の方は、 die を「死ぬ」と訳すことをことさら避けている。
いのちの連続性についても、わかりやすい訳とは言えない。たいへんに格調高い文章だが、小学校低学年に理解するのは難しい言葉が多すぎる。
 それでも童話屋版のブックデザインは評価できる。私も含めて、みらいななさんの訳文に心を揺さぶられた読者が多いことも事実である。みらいななさんは、三木卓訳が存在することを知っていたら、新たに翻訳しなかった、と述べておられるそうだが、ひとつの本を複数の人が翻訳してもかまわないと思う。
それだけ、日本の子どもたちの選択の幅が広がるのだから。

 さて、私自身は「いのちのブックトーク」で、これからも『葉っぱのフレディ』を使うつもりでいる。Death Educationの素材としてふさわしいかどうかは、読んだ子どもたちが決めることだと思う。


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