みんな違ってみんないい (12月)

                         
*「私はなんべんも死にたいと思ったことがあります。手首を切ったこともあります。でも、今日の話を聞いて、なんとばかなことをしたのだろうと思いました。重い障害を持っていても、けんめいに生きている人もいるのに。病気にかかって、生きたくても生きられない人がいるのに」

*昨年暮れ、小・中・高校で行っているデス・エデュケーション(死を語る授業)をまとめた本『「死」を学ぶ子どもたち』を出版した関係で、今年は「授業」の出前に追われた。一年間で訪問した学校は三十校。子どもたちから寄せられた感想に目を通すのは、なかなか楽しい。「世界にひとつしかない自分の命、今まで以上に大事にしたい」「いのちの授業は楽しかったり、悲しかったり、くじけそうになったらまた思い出します」などなど。スタートが小学校だったせいで、相変わらず小学校での「授業」が多いが、最近は中学校や高校からの依頼が増えた。ほほえましい感想を書いてくれる小学生と対照的に、中・高校生のそれは、ときおり衝撃的な内容が記されている。一見、なんの屈託もなく毎日を送っているかに思われている子どもたちが、内面では傷つき、悩み、挫折し、ときに死を考える。

*前途に洋々たる未来だけが待ちうけていて「死」などほど遠い、と思われている子どもたち相手に「死を語るいのちの授業」など必要ない、なじまない、とする意見もある。しかし、のどかに見える地方の中学校ですら、アンケートで「自殺する人の気持ちもわかるような気がする」とか「自分も場合によっては自殺したいと思うかもしれない」と心情的に自殺を肯定する生徒が四〇%近くもいる。
* 子どもたちがいとも簡単に「死」を考える背景に、「死」に直接出合う体験が少ないことがある。授業前に行うアンケート調査によると、飼っているペットの「死」に出合った子どもよりも身近な人の「死」に触れた子どもの方が多い。それなのに、ほとんどの「死」が病院で管理され、子どもの目から遠ざけられているために命の重みが実感されない。その結果「授業」で出会う子どもたちの大部分が「死んでも何かに生まれ変れる」と無邪気に信じている。
人間の生命も、バーチャルの世界のように、リセットボタンを押せば甦るという感覚なのだろう。

* 加えて、中・高校生のなかには、「他人の目を気にして」「自分らしくふるまえなくて」悩んでいるケースが少なくない。あるテレビ局が中学生を対象に行った調査に、「どんなときに死を考えるか」という興味深い項目があった。それによると、(1)自分が悪くないのに怒られたとき(2)生きてる方がつらいと考えて(3)だれも信じられなくなったとき (4)一人ぼっちでだれも話す人がいないとき(5)自分がだれからも必要とされていないとき、(6)何もかもいやになったとき 、などの答えが並んでいる。受験や部活に追われ、偏差値や運動能力という画一的なものさしで測られる結果、自分の存在に自信をもてない子どもたち。彼らは、自分の居場所をなくし、支えてくれる人を見出せなくなったとき、限りなく「死の世界」に接近する。

* 金子みすずの詩「わたしと小鳥とすずと」には、「みんなちがって、みんないい」というフレーズがある。また、私の「授業」にしばしば登場する『葉っぱのフレディ』には、「同じ木に同じ時期に生まれた葉っぱでも、ひとつとして同じ葉っぱはないんだよ」という個所がある。そのうえなにひとつ同じ経験はないから、秋にはそれぞれ違う色に染まるのである。

*子どもたちにも「一人ひとり違う存在なのだから、みんな違う色に染まっていいんだよ」と伝えてあげたい。

* 「授業」の感想にこんな文章もあった。「私も自分をよく見つめて、自分にできることをして、自分にあった自分らしい人生をおくるようにしたい」「いのちってもともとすばらしいのではなくて自分自身の努力で、自分という人間を自分でフルに活用していくからすばらしいんだな」
(鹿児島短期大学講師・かごしま文庫の会代表)

○関連ホームページ○
  
  葉っぱのフレディ
  http://www.trc.co.jp/trc


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