死を学ぶ子どもたち PART2 弟9回
「少年犯罪と死の教育」

                      

                          
 10代の少年の犯罪が続いています。私の住む鹿児島市の隣の町でも先月惣菜店でアルバイトしていた少年が、店長に注意されたのにカッとなり、包丁で刺し殺したという事件がおこりました。この少年は、「とんでもないことをしてしまった」と反省していると報道されていますが、少年たちはなぜこれほど簡単にかけがえのない他人の命を奪えるのでしょうか。
 
 いまこそ、「死の教育」が必要とされるときと、私のところへもコメントの依頼がくるようになりました。
 
 たしかに、子供たちが現実世界での「生」と「死」に直面する機会が少なくなり、命の重みが実感できなくなったから、というのもひとつの原因です。6月11日付け南日本新聞は読者の投稿をもとに少年犯罪の背景を探る記事を掲載しています。なかに一人の高校生が、核家族化が進み、生活の中で死を直接考える機会が少なくなったことが一因とあげています。彼女は祖父母と隣接した家に住み、身近で祖母を亡くした体験をもっているそうです。「そんな体験があれば、人を殺そうということは考えないはず。やりきれない悲しみとの出会いは、人を限りなく人間らしく変える」と言っています。私が「授業」の際お願いしているアンケート調査によると、鹿児島では都市部と違って、身近な人の死に接する機会が多いようです。それでも、家庭や学校でそれを話題にする機会は少ないのです。死の場面に子供を立ち会わせるのもかわいそうなこととされています。私の主治医でもある堂園晴彦医師は、身近な人が亡くなるとき、可能な限り、子供にもたちあわせるようにすすめています。学校を欠席してもそれ以上のことが学べるはずだというのです。もし、身近でそういう理由で学校を休む子がいたら、その子のショックや悲しみをクラスの子供たちと共有することも考えられていいのかもしれません。もちろん、そっとしておいて欲しい、という子もいるでしょうから、配慮が必要ですが。
 
 同じ新聞記事の中に「不登校=犯罪の無知一掃を」とフリースクールの先生が書かれた文章があります。事件をおこした少年たちが、いじめなどが原因で不登校やひきこもりを経験していることから、不登校と犯罪を短絡的に結びつける傾向に警鐘を鳴らしているのです。たしかに、犯罪をおこした少年たちは自分の存在に確信が持てなくなり、自分の命も他人の命も大事に思えなくなった結果、とんでもない行動にでてしまっています。ですが、それは不登校が問題ではなく、不登校を否定され、自身の存在価値を喪失し、学校にも家庭にも居場所をなくしてしまったことが問題なのです。
 家族も社会も学校も不登校を子供が自身をじっくり見つめるチャンスと受け止めることができれば、確実に成長のステップになります。私の短大にも近年そういう回り道をしてきた学生が増えました。明るくさりげなく、「私、中学(または高校)にはほとんど行ってないんです」と言える学生たちをみていると、そういう過去が彼女たちの成長に必要な貴重な時間であったことが想像できます。
 
 ところで、あのバスジャック事件がおこった時、あわてて自分の子供の居場所を確認した親が多かったと別の新聞が報道していました。これは、事件をおこした少年が、特別な存在ではないことを物語っています。南日本新聞の記事中にも「罪を犯す彼らの気持ちが分かる気がする」「加害者もかわいそう。心の葛藤をぶつけるところがなかったのだろう」「自分がいったい何者なのか悩み、苦しむことは誰にでもある」と同じ10代の声が掲載されています。
 
 私がやっている「授業」は、頻発する少年犯罪に心を痛めて始めたというようなりっぱなものではないので、こういうときこそ、「死の授業を」「心の教育を」と言われると、とまどいを覚えます。でも「奇跡的にこの世に生まれたあなたは、かけがえのない存在なのだよ」「あなたらしく生きていけばいいんだよ」そういうメッセージを子供たちの心に刻む「いのちの授業」がさまざまなやり方で模索されるときがきているのかもしれません。

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