「総合学習」で生きる力を



 本誌1月3日の紙面に小・中・高校六人の先生のユニークな教育実践が出ていた。
子どもとともに、カブトムシを育て、サトウキビからあめをつくり、ギター片手に憲法を歌う。
いずれも枠にとらわれない多彩な実践。なにより教師自身がはつらつと授業を楽しんでいる様子が紙面から伝わってくる。

 多忙な学校現場で、深刻な問題を抱える子どもたちを相手に疲労しきった教師像がしばしば報道されているだけに、県内の元気先生をとりあげた特集はうれしかった。

 「教師が輝けば子どもたちも輝く」この記事のコンセプトを、暮れに私自身も金沢で実感した。三十年以上も続く教師たちの自主的な研究会に招かれて、びっしり二日間、膝をつきあわせての研究討議に参加した。
  印象的だったのは、『性の授業 死の授業』などの著作のある金森俊朗教諭の報告である。金森学級の総合的学習の核になっているのは「自分らしく働き生きる人との出会い」である。他人の視線ばかりが気になり、自分らしく輝いて生きることが困難になっている現在、そういう人たちとの出会いは、子どもたちの心を開き、将来への希望をはぐくむはず。日ごろから学校の外に学びの場を求める金森教諭が、真っ先に子どもたちに出会わせたのは、学級の保護者でもあるりんご栽培農民。彼は、二十年も前から、異端視されながらりんごの有機・無袋・低農薬栽培に取り組んできた。土にこだわり、土に生きてきた人である。

 子どもたちは学校から四十分もかかるりんご園に足を運び、雑草や台風と向き合う農家の苦労と収穫の喜びを味わう。さらに近くの田畑や雑木林、谷川で土や水に触れ、顕微鏡で微生物を観察し、作物を育てる土や水の役割を感動的に探っていく。自発的に探偵団をつくり、放課後や日曜日も、農薬使用の他のりんご園などを訪ね、ときに図書館にも足を運ぶ。教室は、それぞれが学び取ったものを交流し確認する場である。先の本紙記事に登場する実践と同様、教師が知識を教え込む授業でなく、子どもとともに楽しみ学び、生きて働く力を培う授業である。
 
 最近、書店や図書館の教育関係の棚が「生きる力…」と銘打った本でにぎわっている。
 不登校の子どもが公式調査ですら十万人を超え、いじめも繰り返される。子どもによる凶悪犯罪も多く、学級崩壊といわれる現象も無視できない。過度に競争化された社会のなかで、大人の期待にこたえようと必死にもがき、疲れて、無感動になっている子どもたち。最近の子どもたちを話題にするとき、ついついこんなひとくくりのイメージでとらえてしまう。

 年の始めに届いた便りのなかに、「それにしても、本のなかの子どもたちはなんと生き生きと学んでいくことでしょう。子どもたちの無限の可能性に目を見張る思いでした」とあった。これは、私自身の本の話で恐縮だが、金森教諭にも一部執筆してもらった『「死」を学ぶ子どもたち』に登場する子どもたちのことである。教師や親や周りの大人たちの働きかけ次第で、子どもたちは自ら学び、生長する。閉そくした子どもたちの状況を切りひらくため、紙の上に点数として表される「学力」でなく、「生きて働く力」をはぐくむことがいま求められている。
 
 三年後に実施される新しい学習指導要領は、その「生きる力」の獲得を目指して、従来の教科にとらわれない「総合学習」を提案している。子どもたちが「自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる」ことを目標に、小学三年から週三時間が充てられる。
 
 文部省は「国際理解」「情報」「環境」「福祉・健康」などのテーマを例示してはいるが、具体的な内容は各学校の創意工夫にゆだねられる。子どもに生きる力をはぐくむチャンスである。例示されたテーマにとらわれず、教師の自発性や創意工夫を発揮してほしい。
地域の手助けが必要なときは、遠慮なく声をかけてほしい。学校の外の「先生」も手ぐすねひいて待っている。(鹿児島短期大学講師・かごしま文庫の会代表)

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