職業政治家小沢一郎、第1章、民主党政権とは何だったのか・



・最初の躓きの石を置いたのは誰だったのか

・二〇〇九年八月三十日,民主党は一政党としては戦後最多となる三〇八議席2023年12月23日 14:31:24



・二〇〇九年八月三十日,民主党は一政党としては戦後最多となる三〇八議席を獲得して第5回総選挙に大勝、九月十六日に鳩山由紀夫内閣が成立した。
・民主党内閣成立の数日前、私は、入閣するであろう仙谷由人から電話連絡を受けた。
・朝日新聞東京経済部の記者をしていた私は、取材協力者一人を伴い、ホテルニューオータニに赴いた。ニューオータニクラブの会議室で久しぶりに仙谷に会った私の目には、意外にも、政権獲得の喜びに浸っている様子はまったく見えなかった。
・「あれから十年か。ただ馬齢を重ねてきたような気がするな」
・当然謙遜もあっただろうが、その表情には懐かしさと真剣さの中に、不安となにがしかの後悔の念が覗いているような気がした。後で少し触れるが、私は一九九八年の金融国会で、仙谷に請われて政権獲得前の民主党に協力していた。以来しばらく離れていたが、政権運営にあたって金融経済方面で人脈を広げ、銀行経営についてより深い知識を得たいという相談だった。
・恐らく初めて政権を運営していく緊張感もあったのだろう。仙谷は、こんなことも口にしていた。「いまは干されているがやる気のある官僚もいるんだ。そういう官僚を味方に引き込むんだ」別れ際、私たちは今後も連絡を取り合っていくことを確認し合った。しかし、鳩山政権が発足し、行政刷新担当相や内閣官房長官などを歴任していく日々の中で、仙谷は私と会うことはなかった。
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・意外なことだったが、秘書を通じて何度会見を申し入れても折り返しの連絡が来ることはなかった。
・その後、生前に衆議院議員会館で偶然すれ違って二言三言、言葉を交わしたのは、まさに民主党政権が終わろうとしていた日々の中のことだった。内閣の中で政権運営を担う重責は相当に厳しいものがあったのだろう。表情にはやはり疲労の色が見えた。政権獲得の前に知り合った一記者などとわざわざ会見する余裕などはなかったのにちがいない。私はそう想像した。
・しかし、実を言えば民主党政権スタートの時、仙谷から私と同じような意外感を味わわされたひとりの官僚が存在していた。
・その官僚とは、第一次安倍内閣の時から公務員制度改革を志し、二〇〇八年の福田内閣時に国家公務員制度改革推進本部事務局審議官に就任した古賀茂明だった。
・公務員制度改革に積極的な民主党が政権に就けば、古賀の本格的な取り組みも前進するにちがいない。古賀は、誕生した民主党政権にそう期待を寄せていた。その期待は当初、当たった。
・その経緯を私に語った古賀によれば、鳩山内閣発足の前後三回、それまで面識のなかった仙谷に呼ばれ、大臣補佐官就任まで要請された。三回のうち前の二回の会合では、仙谷は、古賀が発信する改革の提案に大乗り気の様子だった。古賀は当時「干されて」いたわけではないが、強い正義感に貫かれた行動から古巣の経済産業省では異色の官僚と見られていた。仙谷が私にふと洩らしたように、新しい行政刷新担当相は、そういう古買を当初味方に引き入れようとしていた。
・しかし、古賀の記憶では九月のシルバーウィーク、つまり十九日から二十三日の間の一日、三回目にホテルニューオータニに呼ばれて部屋に向かったものの、すっかり消極的な姿に転じてしまった仙谷をそこに見いだした。本格的な公務員改革をはじめとする古賀の改革案はほとんどここで潰れた。
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・古賀はその後、十二月に公務員改革事務局幹部全員とともにその任を解かれ、官房付という関職で経産省に戻された。仙谷の秘書からは「申し訳ありません、申し訳ありません」という謝罪の言葉ばかりで真相は明かされなかった。ただ、「事情は言えないが、こんなくやしい思いをしたのは自分の人生で初めてだ」と秘書は語っていた。
・一体、何が仙谷をしてこうまで消極姿勢に変観させてしまったのか。古賀にも確証があるわけではない。しかし、その時に日撃した場面と伝聞、官僚経験や霞が関の時期的な行事などから、大体のところは推測することができた。
・まずその日、シルバーウィークのうちの一日、古賀がホテルニューオータニに着くと仙谷の部屋には先客の姿があった。民主党議員の松井孝治と古川元久だった。古川は一九八八年に大蔵省(現財務 )に入省した衆院議員。松井は八三年に通産省(現経産省)に入省した参院議員で、古賀の三年後輩だった。古賀の目には、二人はまるで影のように「スッと」いなくなった。そのために、仙谷をして古賀起用を思いとどまらせたのはこの二人だと古賀はある時期まで思い込んでいた。
・しかし、それは誤解だった。実は松井と古川の前に、仙谷の部屋にはさらに先客がいた。財務省主計局長の勝栄二郎をはじめとする同省幹部の錚々たる面々だった。
・勝はその時、主計局長に就任したばかりで、翌年には財務次官に就任。本人は否定しているが霞が関では勝海舟の曾孫と信じる官僚が多く、「十年に一人の大物次官」とも呼ばれていた。
・この先客たちの姿は松井が目撃していた。松井が古賀にこの話を伝えたのは、経産省の先輩の誤解を解くためだった。ただ、松井は古賀に対して「古賀を切れと言ったのは財務省だ」と話したわけではない。先客として財務省幹部の姿があった。という事実を伝えただけだ。
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・ここからどのようなことがわかるのか。私は改めて松井に話を聞きに行った。その前後関係を率直に語ってくれた松井によれば、仙谷と松井、古川の間で確かに古賀の処遇の話は出た。古賀の「切れ味のき」を買う松井は、公務員改革よりも古賀が執行役員をしていた産業再生機構のような事業再生関係でその能力を生かすべきだと説いた。ただ、その時なぜ古賀の処遇の話が出てきたのかという きっかけについては松井の記憶にない。
・「想像ですけど。公務員制度改革も財務省が仕切っているから、財務省から古賀さんに対する反発はあったかもしれませんね。ただ、そこはぼくは知りません」
・松井の記憶では、仙谷も「財務省は古賀についてこう言っているが―」とは話を切り出さなかった。
・結局、仙谷が変貌した要因については、松井と古川が部屋に入る前、財務省幹部と仙谷の間でどんなことが話し合われていたか、ということに求められる。
・この時は、次年度の二〇一〇年度予算案の概算要求が八月末に締め切られたばかりの時期だった。鳩山内閣が発足したのが九月十六日、仙谷と財務省幹部の話し合いが同月下旬。初めて政権に就いたばかりで政府予算案編成についてはまったく経験のない民主党の議員たちは、スタート直後から予算案編成という難問にぶつかった。
・「政権発足直後に財務省から早くも言われていたようですね。八月末までに予算要求が出されていますから、もう一度やるとなると普段よりはるかに厳しいスケジュールになります、予算の越年編成になりますよ。それでもいいですか、と。これでもう民主党はだまされてしまったんだと思います」
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・古賀が進めていた国家公務員制度改革が潰され、仙石が変貌していった最大の原因はここにあると古賀自身は見ている。
・「ぼくは予算をやっていたことがあるのでわかるのですが、越年なんて関係ないんですよ。逆に財務省を攻めようと思ったら、越年でいいよと、その代わりゼロからやり直させてもらうからと言って斬り込んで行けばよかったんです。しかし、そこでやはり民主党、素人が来たからだめだとなってしまったんです」
・民主党が財務省をはじめとする官僚間に敗れ始めた最初の置きの石は、政権スタート直後の二〇〇九年九月下旬にあった。そして、民主党議員たちが躓いてしまったその原因は、行政経験の乏しさにあった。
・「私を補佐官に起用して改革を推進することを断念したのも、それが理由だったのだろう」。古賀は当時のことを振り返った著書「官僚の責任」(PHP新書)でこう述懐している。「私の唱える改革を快く思わない霞が関の猛反発に屈したにちがいない。そうした一 連のやりとりが、その後の民主党の路線変更につながったのは間違いないと思う」(同前)
・財務省の置いた「躓きの石」など造作なく蹴り出してしまえる行政経験を、いかにして積めばよかったか。
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・歴史の後講釈となってしまうが、いま振り返れば、民主党政権成立面、小沢一郎がその時の首相、福田康夫と会見して合意した自民党との大連立政権構想には。はるかに重要な意味があった。
・歴史にイフ(もしも)はない、と人は言う。俗耳に入りやすい言葉だが、このことに関しては、私は丸山做男の考えの方が正しいと思う。歴史というものはたった一つなのではなく、いくつか異なった歩み方もあり得たし。そういう歩み方を様々に考察していた人がいたということの方が大切なんだ、と丸山は言っている。
・その貴重な例証のひとつを小沢一郎が示してくれる。
・二〇〇七年の参院選では、第一次政権を率いていた安倍晋三総裁の自民党は三十七議席という歴史的な大敗を喫し、小沢代表の民主党が六十議席を獲得して参院第一党に躍進した。この選挙結果による衆参ねじれが第一次安倍政権に与えた打撃は大きかった。


効することになっていた。インド洋でのこの自衛隊活動を続けようとすれば法改正が必要だが、参院 がねじれてしまって改正は壁にぶつかっていた。
・二〇〇一年の9・11日を受け、小泉純一郎政権はアフガニスタン攻撃の米軍を後方支援するため自衛隊艦船をインド洋に派遣していたが、その根拠法となるテロ特措法がちょうど二〇〇七年十一月に失効することになっていた。インド洋でのこの自衛隊活動を続けようとすれば法改正が必要だが、参院がねじれてしまって改正は壁にぶつかっていた。

・2007年8月8日、小沢は当時の駐日大使ジョン・トーマス・シーファーを民主党本部に迎え入れて会談、「日本は国連が認める平和維持活動には参加するが、米国を中心として活動には残念ながら参加できない」と明言した。

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・筋を通す小沢のこの姿勢に、対米外交を何よりも最優先する安倍もなすすべがなかった。九月二十五日、安倍は体調不良もあって総理大臣の職を辞した。
・安倍の後を継いだ福田康夫にとってもテロ特措法の改正問題は喫緊の課題だった。
・十月三十日と十一月二日の二回、福田と小沢は会談した。会談の経過は、福田が法改正への協力を請い、小沢が拒絶、続けて福田が小沢の意向を全面的に受け容れて、自衛隊の海外派遣は国連総会の決議などを条件とすることで合意した。
・そして話し合いは進み、民主党が政権に参加する大連立構想を積極的に進めるところまで行き着いた。ところが、小沢がこの経過を党に持ち帰り臨時役員会に語ったところ、猛烈な反対にあった。
・選挙に勝って民意による民主党単独の政権交代という民主主義のカタルシスを得るのか、それとも爆発的なカタルシスを失っても政権参加による行政経験の習熟を得るのか。
・三年余りの民主党政権の経過を振り返る時、小沢の判断の正しさが浮かび上がってくる。小沢自身 臨時役員会の圧倒的な反対を受けて十一月四日に大連立構想を引っ込めるわけだが、ここで現在の人間がきちんと考えておかなければならないのは、歴史のもうひとつの歩み方を構想していた人間が その時存在していたという事実だ。
・自らの力で政権を勝ち取ったという政治的達成感の経験も大事だが、それ以上に、現実的な行政経験を積み、官僚との協力の仕方を覚えることの方が将来の政権運営のためには重要なのではないか。
・小沢は独りそう考えていた。まさに丸山眞男の言う、いくつかの歴史の歩み方を読み、その中での軽 重を比較判断できる能力と言ってもいいだろう。
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・政治が予算編成権を握るとはどういうことか
・三年余りの民主党政権は、自民党側から見た場合、どのように見えるのだろうか。自民党政権と比較して、わかりやすい事例をひとつひいてみよう。
・「コンクリートから人という、とんでもない内閣があった。安倍総理大臣は悪夢のようだと言ったが、まさにそのとおりだ」
・安部内閣の国土交通副大臣だった塚田一郎は、二〇一九年四月一日の福岡県知事選の集会でこんな一連の発言をして同五日に副大臣を辞任、その後の参院選改選で落選した。
・俗に「安倍麻生道路」と言われる下関北九州道路について、「首相の安倍晋三と副総理の麻生太郎の意思を付度して、国直轄事業に格上げさせた」と堂々としゃべってしまった。塚田は、「情実予算」であることを後に否定したが、まさに国民の税金の使い道が有力者の意向によって決まってしまう自民党の公共事業予算の有り様をまざまざと国民に印象づけた。
・民主党政権の予算案が「コンクリートから人へ」の流れだとしたら、自民党政権のそれはまったくの「人からコンクリートへ」の流れであると言える。
・安部首相が「悪夢のような民主党政権」と表現した民主党の政府予算への取り組みはどのようなものだったのだろうか。
・二〇〇九年九月、民主党がに大勝し鳩山由紀夫内が成立する文字の前夜、私は、民主党議員で厚生労働大臣政務官に就任する山井和則から、突然電話を受けた。
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・「記事を読みました。生活保護の母子加算は民主党政権で復活させますから」
・この年の五月、私は四月に打ち切られていた、一人親世帯に支給するは子加算について北海道小樽市の母子家庭数軒を取材。「ママ、私高校行けないんでしょ」「修学旅行、行かなくてもいい」という、新済面では珍しい見出しをつけて記事にしていた。
・取材した母親の一人は高血圧や自律神経失調症などの病気を抱えて生活費を切り詰め、食事はいつも夜だけ。おふろは浴槽に湯を半分だけにして週に二度という生活をしていた。小学校に入学したばかりの娘の肌をリサイクルショップで買ったが、娘は高校には行けないものと小さい心で考えていた。
・山井は京都大学在学中は母子家庭を手助けするボランティア活動を経験しており、打ち切られたほ母子加算については心を痛めていた。自民党政権時代、どうにもならなかったこの打ち切りについて。政権獲得後には何とか復活させようと考えていたようだ。その矢先に私の記事が目に留まった。
・この母子加算は、民主党政権発足後、山井や長妻昭、川内博史らの努力によってすぐに復活した。
・記事を書いた私は、国民のための下算ということを真っ先に実感させてもらって大変心強い思いをしたことを覚えているが。これが、安部や塚田によって「悪夢」とされた「コンクリートから人へ」という民主党の予算政策の一号だった。
・しかし安倍総裁を頂く自民党は、二〇一二年の総選挙でこの生活保護の給付水準を10%引き下げることを堂々と公約に掲げて政権復帰をした。そして公約どおりに、第二次安倍政権は二〇一 八年度から、この母子加算を平均30%減額し、さらに生活保護費全体も減額しようとしていことだ。
・21頁・12/21/2023 1:19:45 PM



・私はよく記憶しているが、母子加算全体の予算は約二百億円だった。政府予算全体の視点からすればそれそれほど多額とは行えない額だが、なぜこれほどまでに減量の対象として狙われるのだろうか。
・安倍首相は二〇一八年十二月、次期主力戦闘機として、ロッキード・マーチン社製のF35を一〇五機追加購入することを決定した。F35は民主党の野田旧政権時代に四十二機の購入を決めたが、それがなぜ一気に一〇五機もの大量追加購入決定にいたったのか。
・米国会計検査院 (GAO) から数多くの欠陥を指摘されてきた機種だが、総額一兆二千億円を投じることを閣議了解で決めた。「欠陥機」とも言われるこのF35弱は一機百億円。つまり、購入を二機節約するだけで生活保護母子加算問題はすべて完全に解決してしまう金額だ。
・生活保護費用は全体で約三兆七千億円(平成二十八年)。その内訳を見ると、最大のものは医療扶助で約一兆八千億円、二番目が母子加算を含む生活扶助で約一兆二千億円、次に住宅扶助、介護扶助と続く、つまり、安倍政権は、数多くの欠陥が指摘される戦闘機のために、国民生活保護全体の三分一の、生活扶助費相当分を米国に支払ったと言える。
・生活扶助というのは食費などの生活費に充てるもので、その基準額は憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するための金額である。
・F35自体高額だが、操縦士が被るヘルメットは様々な高機能がついていて一 個二五〇〇万円かかる。母子家庭の平均収入は一八年の調査で二百三十一万円。たとえばこのヘルメット一側の購入をやめるだけで、どれだけの子どもたち、学生たちの学費を支援できることか。母子家庭の娘は高校進学をあきらめなくていいし、母子家庭の高校生は心乱されることなく伸び伸びと修学旅行に参加していい。
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・さらに、安倍政権は二〇二〇年六月二十四日、国家安全保障会議(NSC)を開いて。陸上配迎撃ミサイルシステム、イージス・アショアの配備計を撤回することを決めた。総額約四千五百億円で、米国側とはすでに千七百八十七億円分を契約、実際に百九十六億円を支払っていた。
・計画撤回の理由は、迎撃ミサイル発射の、推進装置「ブースター」を演習場内に落とすためにさらに大幅な改修期間と二千億円もの費用が必要になるということだ。しかし、このことは、配備計画予定意のある秋田、山口県に対して約束していたことで、十分納得できる説明とはなっていない。
・私が専門家から取材した限りでは、真の理由は他にあるようだ。まず、ロシアがマッハ20でレーダ網をかいくぐって飛んでくる極超音速ミサイルを開発、実際には基地配備を決めたことだ。専門家によれば、このミサイルを迎撃する技術は現在地球上には存在しない。ロシアがこのミサイルを中国や北朝鮮に売り、マッハ一五レベルに落としたとしてもイージス・アショアでは太刀打ちできないという事だ。
・そしてもうひとつの理由は、安倍政権が契約を結んだロッキード・マーチン社のレーダー製造技術が劣り、迎撃用のレーダーを開発していないという動くべきものだ。二〇二〇年六月二十五日発売の「週刊文春」の取材でわかったもので、このことは二〇一九年三月に米国を訪問した防衛技官がすでに報告書を提出していた。ところが、この報告書が提出されていたにもかかわらず、同年十月末、レーダー購入の契約を結んでしまった。
・ロッキード・マーチン社が迎撃用のレーダーを開発していなかったという事実は聞くべき契約違反に当たるが、ロシアの超音速ミサイル開発は防省の担当者であれば十分予測できたことであり、ブースターの件はそもそも理由にならないものではないか。
・そのように考えれば、すでに契約済みの千七百八十七億円、実際に支払った百九十六億円について、どれだけの金額があってくるのか、大きい政治問題となる。
・24頁・12/21/2023 1:36:06 PM



・民主党政権発足直後、約二百億円の生活保表母子加算復活のためにかなりの政治労力を必要とした。私も厚生労働省の担当課長らを呼んだ研究会を傍聴していたが、担当課長らは復活の議論に実に渋い表情を浮かべていたことを記憶している。
・民主党政権が二百億円の予算復活にこれだけ苦労していたのに比べ、自民党・安倍政権はなぜ、失敗した四千五百億円のイージス・アショア予算や、一兆二千億円ものF35追加購入予算を簡単に決めることができたのか。それは、イージス・アショア予算やF35追加購入予算のバックに控える政治的パワーが、日本政治の中で最大の圧力団体機能を持つ米国だからである。
・安部政権はイージス・アショア予算やFS予算を決めるに際してそれほど大きな政治的決断を下していない。どのような予算が国民の権利と幸福を高めるか、そのような難しい政治的判断を省いて最大の圧力団体にすがっていれば、母子家庭の問題など一顧だにする必要はないし、財務官僚に任せて政府予算は簡単に組める。
・反対に、圧力団体的要素などまったくない母子家庭の問題を心に留め、コンクリートのように項目が固まり合っている政府予算の中で予算配分を確保していくためには、政治的決断と少なからぬ努力が必要になる。
・ここに大きい典型事例を挙げた安倍政権の米国向け防衛予算とは反対に、本当に政治的判断を必要とする予算編成機能、言葉を換えて言えば、政治による政府予算の取り戻し、これこそが「コンクリートから人へ」という言葉に集約された民主党政権の歴史的使命だった。そして、この予算案の太い流れを大本で形作っていたのが民主党幹事長の小沢一だった。
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・民主党が二〇〇九年八月の総選挙に大勝して政権交代を成し遂げ、曲がりなりにも初めて取り組んだ政府予算が二〇一〇年度当初予算案だった。「まえがき」にも書いたが、その予算案では、それまでの自民党予算案を知っている人間には大変驚くべき変化があった。農水省の予算である土地改良予算が前年度に比べてわずか36・9%の二千百二十九億円に減額されたのだ。
・この土地改良予算はそのまま農家の水田整備に直結しているために、農家の票を動員しやすい。このため、土地改良の国の補助金は長年自民党候補者を育てるカネと言われており、必要性に疑問符がつけられながらも自民党政権下では減の対象にはなっていなかった。
・小沢はこの土地改良予算をバッサリ削り、代わりに農産物自由化を視野に入れて、新しく導入した戸別所得補償制度の財源に回すことにした。
・data6-2-4.pdf (cao.go.jp)と別所得保障制度のねらい・



・「私は農産物の自由化は賛成なんだ。けけど、ノンルールでただ自由化だけさせてしまうと農家はみんな潰れてしまう。だから、きちんと自給体制を作らないといけないというのは、イギリスの産業革命の歴史からわかっている。イギリスは自給率が相当下がってしまった。だから、自給体制を作るためにはやっぱり最低限の再生産システムを作らなければだめなんだ。土地改良予算をバッサリやったのはただやったわけではない。財務省を説得するためなんだ。こういうことは闇雲に言ったって通らない。きちんとしたビジョンを持ってきちんとした論理を組み立てれば、財務省は賢明だからちゃんとやるんだよ」
・予算編成をめぐって、政治の側は財務省に対してどう向き合うべきか。小沢のこの言葉は実に含蓄に富んだものだった。
・26頁・12/21/2023 1:59:21 PM



・土地改良はすでに歴史的使命を終え、ほとんど自民党候補の農家集票システムの役割としてしか残っていなかった。その半面、農物の自由化はいずれ日程に上ってこざるをえず、その時のための農家支援策が必要とされていた。
・輸人農産物の価格自由化は米国をはじめとする海外からの圧力が年々強まり、農産物価格はどんどん下がっていく、消費者にとっては朗報だが、海外の農業資本に比べて格段に規模の小さい国内農家にとっては死活問題に直結する。そのために、低廉化した農産物価格から受ける農家経済の悪影響を和らげる必要がある。
・農家戸別所得補償制度は、その効果を狙った政策だった。コメやムギ、大豆などの主要生産物は、海外からの輸入もの価格を自由化すれば、国産ものの販売価格が下がって生産コストを割ってしまう。その差額を政府が補償すれば、コメ、ムギ、大豆農家は安心して生産を続けることができる。自国の農業を保護して食料自給率を上げていく食料安全保障政策の一環でもある。小沢が言うように、この政策の実現のためには「最低限の再生産システム」構築が必要なのだ。
・農業政策をめぐるこの大きい二つの柱を考え、大所を論理立てて財務省に働きかける。
・この機能こそ、真に政治サイドに求められる働きだろう。首相と副総理の地盤同士を結びつける道路の予算をどうするかというような次元をはるかに超えている。
・米国という最大の圧力団体の圧力に押されて決めるようなものでもなく、まさに国内農業の未来を見据えて判断を下すべき重要な政治的決断だ。小沢はこの決断を農水省予算内で下した。この決断も、「きちんとしたビジョンを持ってきちんとした論理を」と小沢が言うように、政治的巧妙さを備えたものと言える。このスクラップ・アンド・ビルドが、例えば農本省と国土交通との間で行われようとすれば、省庁間のより激しい政治的摩擦を生んだだろう。
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・最初は一省庁内での予算組み替えでスタートさせ、年度を重ねるごとに省庁間のよりフレクシブルな組み替え作業に移行していく。この方式を続けていくことができていれば、そのような見通しさえ立てることができ、まさに国民経済を眼目に据えた本来的な政治主導の予算編成が発展していく可能性があった。
・しかし、政治主導の予算編成と一言で言っても簡単なものではなく 、自民党政治を批判して終わりというものではない。小沢自身、この知識と行動力を得るには長年の経験と絶えざる学習が必要だった、と回顧している。
・財務省の官僚が小沢の前では沈黙した
・民主党が初めて取り組んだ予算案の中で、毀誉褒貶の大きい論議を呼んだのは、土地改良や農家戸別所得補償予算にも増して子ども手当だろう。
・十五歳以下の子どもを扶養する保護者などに対して一人当たり月額一万三千円が支給された。実は当初、月額二万六千円を支給すると民主党のマニフェストで謳っていたが、財源不足を批判されて半分に減額した経緯がある。
・ここの二万六千円という額について、報道などでは小沢の一言で決まったというように伝えられている。
・しかし、私のインタビューに答えた小沢の言葉は驚くべきものだった。
・「本当は、私は三万円でほったんだ」
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・小沢の説明によれば、当時フランスは円換算で大体三万円支給し、このおかげで出生事が回復したという。
・「財源は実はいくらでもあるんだ。財源がないとマスコミが言うのはいいけど、政治家が言うのはだめなんだ、いま自民党政権はどんどん使っているだろう。お金は天下の回りものという面がある。だから、お金は特別会計に入ってしまって相当眠っているだろう。私がそういうことを知っているものだから、財務省の役人は私の前ではお金がありませんとか絶対に言わない。いま日銀の実質的な国債買い入れをやっているが、政府というのはそういうことまでできるんだ」
・特別会計は、元財務相の塩川正十郎が「母屋でおかゆをすすりながら、離れではすき焼きを食っている」とわかりやすく皮肉ったことで有名になった。つまり、各省庁が表向きぶんどり合戦を演じている一般会計予算は「おかゆ」をすするほどの窮迫状態にあるが、官僚の隠しポケットと言われる特別会計ではいつも「すき焼き」が振る舞われているというブラックジョークだ。そして、特別会計全体の実態はよくわからない。
・財務省の資料(令和二年度予算)から説明すれば、一般会計予算が一○三兆円規模であるのに対して、ほとんど実質審議のない十三の特別会計予算は総額三百九十一兆八千億円。しかし、このうち十三ある特別会計間のやりとりや一般会計との入り繰りなどを入れて差し引きした純粋な合計額(ネット)は百九十六兆八千億円となる。
・つまり、ざっとした勘定で言えば、毎年与野党間で大きい政治問題となる一般会計予算が百兆円規なのに対し、政治の場でまったく議論にも上らない特別会計予算がネットで一般会計の二倍の約二百兆円、単純合計であればざっと四倍の約四百兆円にも上るということだ (31頁・図1参照)。
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・実を言えば、国会で議論が交わされる一般会計でさえ実態がわからない部分がある。政府事業を自ら請け負い、政府予算に詳しい事業者から私が聞いたところでは、一般会計の継続事業であれば、予算項目の看板だけを付け替えてその分の予算をいただいてしまうケースがあるという。こんな実態を語ることのできる国会議員は恐らく皆無だろう。ましてや実質審議のない特別会計予算に至っては、ほとんど「闇の中」と言っていい。
・この特別会計は、各省庁ではどのように使われているのか。たとえば各省庁の先にぶら下がる特殊法人は現在三十三法人ある(33頁・図2参照)。かつてはいわゆる三公社五現業や日本道路公団などもっと多かった。
・そして、この特殊法人の先に何千とも言われるファミリー企業がぶら下がっている。これらの膨大なファミリー企業群は、最終的に次官を目指す出世競争に敗れて各省庁を去っていく官僚たちを吸収する天下り先となっている。
・天下り先を確保するこのファミリー企業群は、当然ながら民間企業のような高い生産性は求められていないが、生き残りのためにどこからか資金を吸い取って来なければならない。特別会計資金はりの天下りネットワークを養うために使われているのではないか。官僚の棲息する霞が関、ファミリー企業が集住する虎ノ門界限をウオッチするジャーナリストたちの間ではそう見られている。
・「お金は特別会計に入ってしまって相当眠っているだろう。私がそういうことを知っているものだから、財務省の役人は私の前ではお金がありませんとか絶対に言わない」
・そう話す小沢一郎は、特別会計の実態について相当に精通していると見られる。その小沢が「財源は実はいくらでもあるんだ」と言う時、財務省をはじめとする霞が関の官僚群にとってはかなりの脅威を感じさせられたことだろう。
・30頁・12/21/2023 4:27:26 PM



・小沢がもう一つ指摘した日銀の国債買い入れというのは、簡単に言えば政府の借金の証文を日銀がそのまま引き受けるもので、健全財政を眼目にした財政法の明確な違反事項だ。しかし、日銀は金融緩和を名目に国債市場から少しでも流通したものを買い上げているから何とか同法違反を免れている状態だ。
・特別会計と日銀の国債買い入れに共通するのは、お金が大量に渦巻いている世界ではあるが、政治の手がなかなか届きにくいという側面だ。
・しかし、小沢はこの側面のことも理解している。財務省の官僚が小沢の前では沈黙を守るのはこのためだ」
・このことを十分に理解している小沢が、「子供手当3万円を打ち出していた。
・確かに小沢の言うように、日銀の国債引き受けはともかく、特別会計の「闇」の部分については日本のジャーナリズムはまだほとんど解明していないと言っていいのではないだろうか。
・国会議員といえども十分に理解している人はまれだろう。このため、子ども手当についても、当初小沢の言った三万円から二万六千円、さらには一万三千円まで減額されて実施された。
・減額に際しては小沢は格別の抵抗をしたわけでもなく、特別会計の「闇」の部分について体系立った解明を試みたわけでもない。このため、小沢に対して「説明が不足している」という批判がしばしば現れることがある。
・32頁・12/21/2023 5:31:37 PM



・二十代で田中角金に弟子入りし、自民党幹事長という日本の中枢の奥にまで全精力を費やして上り詰めた小沢に対して、体得した日本政治の奥義について「わかりやすく説明を」と求めても、そこには次元を異にする断層が自ずから横たわっているのではないか。私はそう想像する個人技を極めた名人に弟子筋が「説明を」と求めても一 だにされないぞと似ているかもしれない。
・しかし、現代政治の世界では可能な限り「職人技」に頼らず、説明責任も常について回る。このたの民主党政権は、首相直属の国家戦略局を新設し、「官民の優秀な人材を結集して、新時代の国家ビョンを創り、政治上で予算の骨格を策定する」(民主党マニフェスト) ことにした。
・鳩山内閣が成立した二日後の二〇〇九年九月十八日、首相の鳩山由紀夫を真ん中に挟んで、左側に行政刷新担当相の仙谷由人、右側に国家戦略担当相の菅直人の三人が記念写真に納まっている。それぞれの事務局の看板を新しく掲げた除幕式だ。国家戦略局の目的はマニフェスト通り「政治主導で予算の骨格を策定する」ことで、新法によって設置するまで暫定的に内閣官房に国家戦略室を置くことにした。
・「副総理に就いた菅直人はその担当相だったが、この国家戦略局を構想した人物は、実は管ではなかった。「我々とすれば政治主導というものを作り上げていきたいと思っていました。その政治主導を作り上げるには、官僚の仕組みを最もよくわかっている人間でなければならない。しかも、その官僚のシステムを変えていかなければならないという思いを持っている元官僚がいました」
・私のインタビューに対してこう振り返った鳩山は、この国家戦略局構想を描いた元参院議員の松井孝治について、「彼は緻密な頭脳を持っていたから、私は全面的に信頼していました」と語っていた。
・33頁・



・松井孝治は、京都の老舗旅館の次男として生まれ、東大在学中に国家公務員上級職試験にトップで合格した。この同じ時期に、高度経済成長を推進した通産(現経産) 官僚の苦闘を描いた城山三郎の小説「官僚たちの夏」を読み、通産省入省を決めた。
・通産省入省後は基礎産業局を振り出しに産業政策局、通商政策局を歩き、米国に留学。その後内閣官房に出向し、首相の橋本龍太郎が主導した「橋本行革」に携わった。
・34頁・12/21/2023 5:50:52 PM



・橋本行革は、それまでの一府二十一省庁を一府十二省庁に削減する省庁再編などをはじめとした行政改革だが。松井はこれにかなり深く関わっている。
・一九九六年九月十一日,本は東京・内幸町にあるプレスセンタービルで日本記者クラブ主催の講演会に臨み、この構想を初めて口にした。この草稿を書いた人物が松井だった。当時、省庁再編を軸とする行革は人の口の端に上り始め、松井は首相秘書官とも相談の上で再編の考え方をまとめてみた。この講演は、初めて構想を明らかにしたということでかなり話題になった。
・講演では、省庁半減や首相官邸機能の強化、さらには予算編成や国家公務員人事の機能を首相官邸の下に中枢機能として置けないか、といったことまで触れていた。
・「私は、予算編成を担当する国家戦略と内閣人事局が車の両輪だと思っていて、もちろんすべてを総理がやるわけにはいきませんが。やっぱり枢要なところ、財政的資源配分と人事的資源配分のを司令塔の官邸が持つということが非常に大事だと考えていました。官の縦割り行政の弊害を是正するためにも、国が向かうべき方向性について首相が戦略的にリーダーシップを取るためにも必要だと考えます。そこが日本の政治で、根っことして一番大事だと思っていたものですから」
・その後の歴史の経過を見ると、松井が本行革の車の両輪として考えていた国家戦略局は名前を変えて経済財政問会議となり、小泉内閣で小泉純一郎と経済財政担当相の竹中平蔵が十分に活用していく 。一方の内間人事局は名前は変わらなかったが、松井が考えていたものとはまるで異なる方向で安倍内閣が十二分に活用していった。
・私がここで「十二分に」と書いたのはもちろん相当にアイロニカルな意味合いを込めたもので、念のために記しておけば、松井たちが考えていた趣旨とは百八十度異なる方向に捻じ曲げてしまったと意味だ。
・35頁・



・そして、鳩山内閣時の国家戦略局はどういう道筋をたどったか。
・担当相には菅直人が就任した。しかし、この菅直人や松井孝治をはじめ、鳩山由紀夫や小沢一郎、岡田克也主要な関係者の国家戦略局に寄せる構想、イメージはほとんど重ならなかった。そして、歴史のディスプレーの上にはっきりしたイメージを映し出さないまま構想の名前だけを残してついに消えていった。
・国家戦略は合成の誤謬に沈む
・民主堂が政権を取る三年余り前の二○○六年四月七日、小沢一郎が同党元代表だった菅直人を代表選で破り、新代表に就いた。小沢は選挙後、菅を代表代行に指名し、幹事長だった鳩山由紀夫とともに民主党の「トロイカ体制」を形成した。揃ってよく写真に納まり、民主党のテレビCMでも「共演」したトロイカは古い自民党政治を打ち破る清新さを国民に感じさせた。
・実際、この清新さを裏付ける「志」は三人に共通していた。二人の著書や対談記録などを読み込み、それぞれにロングインタビューした経験を持つ私は、そう考えている。しかし、その後トロイカは崩れて「志」は空回りし、清新さに対する国民の期待は萎えていった。
・学生時代から現実的な政治改革を志していた菅直人は、イデオロギーに囚われない学生運動に携わっていた。一九七〇年に東工大を卒業、七二年には市川房江や青木茂らを招いて土地問題の集会を開いている。
・36頁・12/21/2023 6:04:03 PM



・その後、市川らが代表幹事を務める「理想市民の会」から誘われて選挙運動を手伝った。七四年には、政界からの引退宣言をしていた市川を担いで参院選に立候補させ、菅自身は事務長として運動を取り仕切り、市川を当選させた。
・一九八○年代後半、私自身,大蔵省(現財務者)記者クラブに所属していたため、国会近くにある国会記者会館で記録をメモに取る仕事の手伝いをしていたが、衆議院議員三期日の菅がが委員会で土地問題を詳細に論議していたことを記憶している。「地道によく勉強している。人気先行の人ではないな」という印象を抱いた。
・菅が国民的な政治家として広く認識されるようになったのは、一九九六年一月二十六日、自社さ政権、橋本龍太郎内閣の厚生大臣として楽告エイズ事件に取り組み、それまで存在を否定されていた厚生省内の同省エイズ研究所ファイルを発見した時からだろう。事件を省内の処理のみに終わらせず国民の前に引き出した。同年二月十六日、被害に遭った原告団に率直に謝罪した者の姿は、国民に開かれた政治の可能性を感じさせた。それまでの自民党政治ではほとんど見られなかった姿だった。
・二〇一一年、未曾有の大震災が東日本を襲った3・11の時、首相の菅直人が記者会見で見せた落ち着きと、福島第一原子力発電所が最大の危機を迎えた三月十五日未明に「撤退」を強く示唆した東京電力に果敢に乗り込み、「撤退はありえない」と東電幹部を面前で叱咤したことは記憶すべきことだろう。
・福島第一原発事故をめぐる管の対応は毀誉褒貶に満ちている。しかし、チェルノブイリ級の過酷事故に遭遇した政権は菅の民主党内閣しか存在しない。また、平時の後講釈ならいくらでもできるが、 国民全員の生活と安全がかかったような衝撃的な大事故を前にして、菅は逃げることなく、悪戦苦闘しながら粘り強く対応を続けたことは事実だ。
・37頁・



・SPEED!(緊急時迅速放射能影響予測システム)対応の拙さなど批判すべき点もある が、私は率直に評価すべきだと思う。
・原発事故への対応としての菅自身についても毀誉褒貶がある。もちろん、どの世界でもハードワークを続ける人間には不詳と好評、敵と味方がつきまとうものだが、管も例外ではない、首相になる前、菅と付き合いの長い法政大学教授の山口二郎は、政治家としての昔について、「いい意味で上昇志向が強い。これは政治家としては悪い資質ではない」という評価をしていた。山口に改めて確認したが、この評価は現在も変わっていない。
・しかし、この「上昇志向」は一般的にはしばしば裏目に出る。
・一九七四年の参院選で市川房枝を当選させた後、七六年十二月の衆院選に三十歳で初めて立候補したが、「上昇志向」のなせるかが業か誤解が幾重にも絡んだものか、落選したうえに、市川と間の悪い関係を残した。
・40頁・12/21/2023 6:29:51 PM



・「菅氏は昨年(一九七六年十五の衆議院選挙の際、東京都第七区から無所属候補として立候補した。この時は立候補を内定してから私に応援を求めて来た」
・市川房江は毎年一回発行していた「私の国会報告」一九七七年版で、菅の立候補の事情についてこう記している。
・「ところが選挙が始まると、私の名をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請したらしく、私が主張し、実践してきた理想選挙と大分異っていた。(略)彼の大成のために惜しむ次第である」(以上「復刻私の国会報告】市川房枝記念会出版部)
・もちろん彼はその後民主党を率いて小沢や鳩山らと政権交代を成し遂げ、大成した。しかし、政権交代直後、国家予算を国民・政治の側に取り戻す大役を担った国家戦略担当大臣となったにもかかわらず、その大役を果たしきれなかった。国家戦略局はその後、設置法案である政治主導確立法案が成立せず、現実にその姿を見せることなく消えていった。
・国家戦略局はなぜここで失敗してしまったのだろうか。
・このことに関しては、私には特別な記憶がある。
・一九九八年初夏、その時所属していた「AERA」で金融取材を続けていた私に一本の電話がかかってきた。
・39頁・



・「金融国会が始まる。あなたの記事はずっ読んでいるが、ぜひ力を貸してもらえな いだろうか」
・低い声のトーンでこう話しかけてきたのは当時民主党幹事長代理を務めていた仙谷由人だった。仙谷は前年に幹事長代理に転じるまで党政策調査会長の職にあり、党内でも有数の政策通と言われていた。その仙谷が私にストレートに電話をかけてきて協力を請うた。
・東京・永田町にある衆議院議員会館ビルはまだ改築前だった。地下の古い会議室のドアを開くと中高年の男性三人がまるで面接官のように並んで座り、私を待っていた。
・真正面に座っていたのが仙谷。正面に座った私から見て左には当時民主党議員の横路孝弘がいた。若いころは「社会のプリンス」と呼ばれ、衆議院議員から北海道知事に転に三期連続当選、その後一九九六年の総選挙で民主党から立候補、国政復帰を果たしていた。
・40頁・12/21/2023 7:12:51 PM



・そして仙谷の右側にはやはり民主党議員の熊谷弘がいた。通商産業省の官僚出身で、自民党議員になってからは小沢一郎率いる改革フォーラム別に参加、小沢たちとともに自民党を離党した。その後、細川内閣の通産大臣。羽田孜内閣官房長官を務め、小沢から離れて後は小党を渡り歩いて、この時民主党にいた。
・通称「金融国会」と呼ばれる一九九八年七月からの第143国会は、自民党が民主党などの金融再生法案を丸谷みした臨時国会だった。民主党からすれば直前の参議院選挙で自民党を単独過半数割れに追い込んでおり、金融国会は政権交代も視野に入れた絶好の機会だった。仙谷が私に電話をかけてきたのは、自民党を追い込むための協力要請が目的だった。
・私は、自分の内部でただひとつだけ協力の条件を設けた。大蔵省(現財務省)から金融部局を外し日銀の独立性を高めるという民主党の大蔵省分割方針を最後まで貫くことだった。
・「やり抜くことを約束しますか」
・私は三人の「面接官」の中央の椅子に座っていた仙谷に質問した。
・「財政金融分割の方針は問題ないだろう。それはやり抜きますよ」
・左右を見渡して二言三言相談した仙谷は、分割方針を最後まで貫くことをした。
・「やり抜くことを約束した。
・私はこの一連の協力作業を通じて仙谷と特に親しくなり、特別に代表の菅直人に三回ほど長い時間を取ってもらった。会見の目的はただひとつ、手を伸ばせば届く政権の準備のためにその構想を十分に練っておくべきだと進言することだった。
・財政と金融の分離はまず手に入れた。次の一手として旧大蔵省の財政機能にも政治的なメスを入れ、予算編成機能を政治の手に取り戻すことが最優先課題だと私は考えた。
・41頁・



・そのころ同じ問題意識で知り合い、教えも受けた当時北海道大学教授の山口二郎(現法政大学教授)や当時大阪市立大学教授の真渕勝(現京都大学名誉教授) などと、旧大蔵省の強すぎる予算編成機能を問題視する研究が少なからず出ていた。
・私はそれらの研究結果も踏まえながら、予算編成機能を政権党に取り戻し、そのことを突破口に政策を国民本位に据える政権構想を急遽構築すべきだと説いた。
・菅直人はそのころ、二年前の一九九六年に自社さ政権の厚生相として薬害エイズ事件の真相究明に挺身し、そのさわやかな風貌とあいまって国民的人気を集めていた。私自身、菅に期待を高め、それゆえの政権構想構築の提案をしたわけだが、菅は最後までその提案に乗らなかった。
・「大蔵省の問題は十本問題があるうちの一本に過ぎません」
・菅直人の言葉はいまだに耳朶に響いている。単に人気政治家の言葉だから記憶しているのではない。その十一年後,政権交代を果たした後の民主党政権の要、国家戦略担当相に就任した時、予算編成権を政権党に取り戻す運命的な司令塔役が回ってきたからだ。
・菅直人は「大蔵省問題」を重く見ていなかった。その菅を国家戦略担当大臣に据えた人事は、当初から宿命的な失敗を胚胎させていた。私はそう考える。
・「国家戦略局」の強いネーミングは、国政を担う国会議員の間に様々な思いを抱かせる。抱くイメージは、その議員が「国家」という概念に孕ませる定義の数だけあるかもしれない。
・まず首相の鳩山由紀夫、それから国家戦略局構想を練った松井治のイメージ。考えを比較してみよう。
・42頁・12/21/2023 7:32:03 PM・



・松井はもちろん、国家予算の大所の編成機能を国民・政治の側に取り戻すことを第一に考えていた。しかし、松井に構想を練ることを命じた鳩山はもう少しのところに重心を置いて考えていた。「私は仕組みよりも、何を目的とするかというところを強調したかった。何でも官僚に任せてきたものから、国家戦略局で政策の大きな柱をきちっと作り上げていこうと思いました。
・そこには当然、外交戦略がトップクラスに入ってくるということを想像して、またそうなるべきだと考えました。外交の大きな戦略こそここで開くのだと思っていました。国内の予算の話だけだったら全く意味がないとは言いませんが、本当の意味でこの国のあるべき姿を創ることは出来ない、と考えてた」
・2023/12/22 13:00・42頁・






・30頁・12/21/2023 4:07:55 PM・


職業政治家小沢一郎、第1章、民主党政権とは何だったのか・・最初の躓きの石を置いたのは誰だったのか・42頁から・

・二〇〇九年八月三十日,民主党は一政党としては戦後最多となる三〇八議席2023年12月23日 14:30:20

42頁・12/21/2023 7:32:03 PM


・松井はもちろん、国家予算の大所の編成機能を国民・政治の側に取り戻すことを第一に考えていた。しかし、松井に構想を練ることを命じた鳩山はもう少しのところに重心を置いて考えていた。「私は仕組みよりも、何を目的とするかというところを強調したかった。何でも官僚に任せてきたものから、国家戦略局で政策の大きな柱をきちっと作り上げていこうと思いました。

・そこには当然、外交戦略がトップクラスに入ってくるということを想像して、またそうなるべきだと考えました。外交の大きな戦略こそここで開くのだと思っていました。国内の予算の話だけだったら全く意味がないとは言いませんが、本当の意味でこの国のあるべき姿を創ることは出来ない、と考えてた」

2023/12/22 13:00


42
・よう、


松井はもちろん、国家予算の大所の機能を国民・政治の側に取り戻すことをゆ一に考えていた。しかし、松井に構想を練ることを命じた鳩山はもう少し別のところに重心を置いて考えていた。

・私は仕組みよりも、何を目的とするかというところを強調したかった。何でも官僚に任せてきたものから、この国家夜略局で政策の大きな柱をきちっと作り上げていこうと思いました。そこには当然、外交戦略がトップクラスに入ってくるということを想像して、またそうなるべきだと考えました。外交の大きな戦略こそここで開くのだと思っていました。国内の予算の話だけだったらまったく意味が ないとは習いませんが、本当の意味でこの国のあるべき姿を作ることはできない、と考えていました。

・鳩山のこの回想は考えようによっては深刻だ。松井自身も外交問題が国家戦略局に入ってくることは予想していたが、あくまで重心は予算・財政にあった。構想作成を命じた側と命じられた側が異なるところに重心を置いていたという事態は明らかに調整不足を露呈していると言える。鳩山自身、調整が不足していたことは率直に認めている。

・三カ月余り前に代表になったばかりで時間が足りなかったことは事実だが、関係幹部は徹夜を続けてでも徹底的に話し合っておくべきだったろう。

・鳩山が国家戦略局に外交問題を入れ込む考えを持っていたために、今度は外相に就いた岡田克也とぶつかった。岡田は、外交はあくまで外務省に一元化してほしいと要望した。

・そして、国家戦略局をめぐる最も深刻な所は、構想を練った松井と、担当大臣となった菅の間に走っていた。その違いを一言で言えば、松井の描いていた構想では国家戦略局は国家予算編成の司令塔、菅が考えていたイメージでは国家予算を編成する際のブレーン、アドバイザー役といったところだった。

43頁・


・この問題で私と会見した菅は、現在とは異なる政治情勢の時だったが野党側の協力関係に気を使い、「取材を受けたわけではない」と断りながら言葉少なに話した。

・「国家戦略局長と党の政調会長が義務で閣内に入っていく。そして党の政調会が引っ張って政策を決 めていく。そう決まっていたのだが、実際は政調会をなくされてしまった。だから、私は整合性も考慮して、ポリシー・ユニットということを考えました。国家戦略局で予算を考えようなんて簡単にできるわけがないんです」

・「ポリシー・ユニット」というのは、英国のサッチャー、ブレア両政権時代に多用された政権のプレーン役で、政治の側が官僚に対応する上で重要な役割を果たした。背は政権発足前の二〇〇九年六月 六日から十一日まで、議員の古川元久とともに英国を訪れ、数多くの英国議会関係者に面会しインタビューを重ねている。

・その後、政権発足後の二○○九年九月二十日から二十五日にかけて、今度は小沢が議員の高階とともに英国を訪ね、国会審議や選挙運動などを取材している。

・両方の調査団に随行した当時の民主党選手 い議員は民主党の中では小沢と昔の二人だった。このため、背と小沢はどちらかと言えばポリシー・ ユニット的なものをイメージし、松井と鳩山は国家破略局的な司令塔構想を考えていたという。

・鈴木によれば、司令塔としての国家戦略局は内閣との二重権力を生むのではないか、とも心配され ていた。早い話が、予算や外交などの重要案件に国家略局長が差配を振るっていたのでは首相の仕 事がなくなるということだ。昔や岡田はその事態を明確に意識しており、小沢も心配していた。しかし、そのあたりは松井もしっかり考え抜いていた。

対策委員会副部長、鈴木賢一によれば、英国政治に詳し

43 1章民主党政権とは何だったのか

44頁・2023/12/22 14:05


・「ぼくらは歴代内閣を見ているのですが、実際は息が自分で予算を編むせるなんていう時間はないんですよ。

 

 理が自分の側近を使ってでも自分でやるというようにしないとなかなかブレイクスルーできないんで しかし、香さんはそう判断しなかった。それで香さんが財務大版になるとますます国家戦略で

料を配ってなく。 できる。「橋を架けてほしい」「道路を通してほしい」という地方からの陳情団が、自民党の政務調査 会を中心に各業界に顔の利く「人物」族議員の事務所、財務省上計局や各省庁の担当部局にゾロゾロ

下を作るという雰囲気が遠ざかっていってしまったのです」

長井はいくつかの音だと話をつけていて。国家略局を動かすための人材まで市備していた将来 の次官を展望されていたエースの三人に目星をつけ待機してもらっていたが、国民・政治の手 による予算編成の夢はついに現実のものとはならなかった。

・裏の国家戦略局長が現れ、与党・政府一体化の政治システムが現出した

・民主党・鳩山政権の時間不足か準備不足、あるいは合成の誤謬によって、最大の目玉、国家戦略局が歴史の茶の中に沈んでいく一方で、人知れず力をつけ歴史の表舞台にせり上がってくる部局があった。民主党の幹事長室だった。中心で腕を振るっていたのが小沢一郎だった。

・東京・永田町と霞が関は日本の政治と行政が集約された場所である。国民のお金をどうやって集め、どういうところに使うかを最終的に決める年末になると、この国の政治の姿を赤裸々に眺めることが出来る。「橋を架けてほしい」「道路を通してほしい」という地方からの陳情団が、自民党の政務調査会を中心に各業界に顔の利く「

45頁・


・民主党が政権を取るまでは、この前近代的なのが毎年末の恒例だった。自民党税制調査会では。免税扱いとなる租税特別措置を受けるために各業界の担当者が押しかけ、税調の開かれている部屋に「壁耳」を連ねる姿が見られた。

・自民党幹事長まで上り詰めた小沢はこのあたりの事情は知悉しており、小沢によれば、部屋の中の勢いのいいセリフはすべて官僚が書いたものだという。つまり。最初からシナリオが決まっている出来レースだということだ。

 

・民主党が政権を取った二〇〇九年、小沢はまずこの陳情方法をガラリと変えた。それまでは政務調査会民主党は政策調を会)の議員や各省庁にバラバラに陳情していたが、党幹事長室と各都道府県連一本に切り替えた。

 

・地方から陳情に来る場合、国会内の民主党幹事長室に陳情書を持って来させたが、個別案件としては受け付けなかった。議員の高嶋良充や細野豪志らが中心になり、陳情を受け付けて道路や河川、農業などの項目に分類していった。

・小沢は調査会を廃止した。菅は政調廃止に粋取ったが、「政府与党一元化」を考える松井は歓迎した。政策を考える与党議員は大臣にならなくとも副大臣政務官などの形で政府に入り、政策実現 に尽力すべきだった。整調が存在し、与党議員がそこに人っていれば、勢い余計な陳情を受けて族議員化しやすい。小沢はその危険を事に排除した。

 

・「自民党がずっと一党でやってきたわけですから、整調めというのは自民党と政府役人の掛け合い漫才をするための舞台だったんです。党がこれだけ頑張って予算を取ったというような話のための役割だったんです、与党と政府は本来は一体なんだから、取調は議論の余地なく燃らないものなんです。みんな政府でやればいいんで、イギリスではそんなものはありません」

46頁・2023/12/22 14:23


・が民主党からいなくなった後、政調は復活してしまったが、小沢の説明は明快そのもので誤解の余地がない。

・当時、小沢は幹事長室に陳情を集め、権力を一身に集中させようとしているという批判にならぬが見られたが、まったく的外れの議論だった。明快な論理に基づいて調をなくした後、事務的に陳情を受け付けるのは幹事長室しかない。そして与党から政調をなくしたために族議員の成長を阻むことができた。

・しかし、この後、小沢が中心にる幹事長室は確かに力を充実させ、驚くような役割を演じることになる。その考察は国家戦略局という制度論を論じる時に、その場所には一体誰がいたのかという「人間の要素」が実に重要なポイントとなることを痛感させる。

・歴史の時間に退化ということはあるのだろうか。常識的に考えれば政治制度の歴史は少しずつ進化していくと考えられるが、民主党政権以後の自民党政治のありようを観察する限り退化という事態もありそうである。時代を象徴する固有名詞で言えば、小沢一郎と菅直人の時代から安倍晋三の時代へ、 という鋭角的な下降線は思い描いてみる必要がある。

 

・ある種の深海魚や真っ暗間の洞窟に棲息する魚などは目が退化して存在しなくなっている。同じように、民主党政権までは議論され考究されてきた政治的論題が、第二次安倍政権になってからはほぼ完全に議論のテーブルに限らず、その論題自体が忘れ去られてしまった。そのために日本の政治を見る大切な「目」がひとつ進化してしまって、日本政治という哀しい魚はいまや真っ暗闇の洞窟の中をあてもなく泳いでいるだけである。

47頁・


・その退化した「目」というのは、「政」と「官」の関係を見極め、正しい位置関係に置き直していくという視角だ。

・小沢一郎と菅直人の時代、この「目」は爛々と輝き、日本の政治を語る人間は政治構造改革の視角を大なり小なり構えていた。

・しかし、安倍晋三の時代にはこのような「目」は失われ、人々の口の端に上るのは、政治問題としては、はるかに原初的な立憲主義の危機や情実予算、情実人事、事件にまで発展した閣僚のスキャンダル、あるいは前近代的なヘイト感情に溢れた「嫌韓、嫌中」といったようなことだ。日本政治を語る視角としては何とも情けないほどの退化、下降と言える。

・このように退化する以前の日本政治は、明治以来のこの国の最重要の政治課題である「政」と「官」のあるべき関係を考察し関索を続けてきた。しかし、その中でもこの問題を本格的に世に問い、現実に実践し続けてきた政治家は小沢一郎ひとりだろう。

・一九九三年五月、小沢は一冊の本を講談社から出版した。日本政治に関する小沢の考えをまとめた この著作、「日本改造計画」はたちまちベストセラーとなり、最終的には七十万部を突破した。現役政治家の著書としてはほとんど最大の売れ行きとなった。

・この著書を出すために、北岡伸一やら当時新進気の政治経済学者ら十人ほどを集め、一、二週間に一回勉強会を開いた会合は六十回ほどにも及び、国内政策や外交、経済政策について小沢との間で議論を詰めていった。

・それぞれの政策については小沢の考えを踏まえた上で気組の学者たちが執筆していったが、小沢自身が作らない所があった 目次からその大きな項目を挙げると、「首相官邸の機能を強 化」「与党と内閣の一体化」「なぜ小選挙区制がいいか」という三つだった。まさに政官関係と、政治改革の中核となった小選挙区制だった。

48頁・2023/12/22 14:53


・小沢はまず第一に首相のリーダーシップを強化すべきことを考え、そのために首相補佐官や内閣審議室の改革を提案した。次に、与党と内閣を一体化させ首相を変えることを考える。省庁ごとに二、三人の政務次官と四~六人の政務審議官ギストをつくり与党議員を割り振る。この時に党の政策担当機関を内閣の下に編成し直し、閣僚を含めて百六十人ほどの与党議員が政府に入っていく。

・また与党幹事長を閣僚にして、内閣と与党をトップレベルで一体化させる。それぞれの省庁の方針は政治家チームが官僚の助言を受けながら決定していく。さらに、特定の問題については関係閣僚による閣僚懇談会を設け、実のある議論を進めていく。

・小沢が政治改革のモデルとして考えていたのは、議院内閣制の長い歴史を持つイギリスだった。選挙制度についても、イギリスのような二大政党制に移行しやすい小選挙区制を第一に考え、中選挙区制からの急激な変化を避けるために比例代表制的な要素を加えた小選挙区比例代表並立制の採用を次善の策として考えていた。

・「日本改造計画」から要点を書き出してみると、紆余曲折はありながらも、日本の政治制度はほとんど小沢が思い描いていた線をなぞって進化してきた感がある。

・政治改革のモデルとして、なぜイギリスに範を取ったのだろうか。私の質問に対して、小沢は、「英国の議会制度を模範とすべきだという意識はずっと持っています」と説明した。

49頁・


・「日本改造計画」が出た一九九三年五月、当時北海道大学教授だった山口二郎・現出校大学校授が岩波新書から「政治改革」という本を出している。やはりイギリスの議院内閣制に範を取り、「議会の多数のもとで立法権と行政権の二つの権力が融合するところに譲院内閣制の特徴がある。

・議院内閣制は権力分立よりも権力融合という帰結をもたらすことが重要な教訓である」と考え方を説明している。小沢と同様、与党と内閣の一体化、あるいは立法権と行政権の融合ということだ。奇しくもまったく同じタイミングで同趣旨の政治改革の議論を提示している。

・そして、政治改革の土壌からはもうひとり特筆すべき人物が自らを養っていった。

・菅直人は東工大にする学生時代、マルクス主義とは距離を置いた学生運動に携わっていたが、大学卒業の前後を過して市民運動に参加、政治学習で法政大学教授だった故松下圭一らを招いて勉強会を開いていた。松下は「市民自治の憲法理論」や「シビル・ミニマムの思想」などの著書があるが、イギリスの議院内閣制についても研究を進め、正確な知識を持っていた。

・書店が発行する総合月刊誌「世界」の一九九七年八月号に「行政権とは何か」と題する間談が掲載されている。松下・五十嵐・法政大学教授の三人だ。

・談の中で、松下は、「戦前型」の行政権中心の三権分立と、「イギリス型」の国民主催を目にした三権分立のちがいをわかりやすく説明している。簡単に言えば、戦前型は国会と内閣と裁判所を羊羹のように三つに切り、お互いに干渉し合わないようにさせるという考え方、松下によれば、これは現在の官僚も囚われている「コンダン法学」あるいは「官僚法学」だ。

・一方、イギリスの三権分立というのは、国民が選んだ国会議員が内閣をつくり、この内閣が行政すべてを支配するという形になる。つまり、山口二郎が説明していた「立法権と行政権の融合」、小沢一郎が主張していた「与党と内閣の一体化」だ。松下も、山口や小沢も「官僚法学」にだまされず、本来の議院内閣制をきちんと思考していた。

50頁・2023/12/22 15:08


 沢も「信重法学」にだまされず。 METのこの考えになじんでいた垂直人は一九九六年一月、橋本龍太国内閣の厚生大臣に就任する

とほは同時に「宮」との弱いを始めざるをえなかのた。当時大きな問題となっていた薬害エイ 事件について社内に調委委員会をつくろうとしたが、基生官僚たちは「前がない」と言って同意 しなかった。その時の言い訳としてつるりたいことがあるのなら、大臣には何でも教えますから」と

うことまで言われた。

・そんなエピソードが菅の著書「大臣」(岩新書)に書かれている。つまり、大臣はたまたま行政側に入ってきたお飾り的存在、だから特別の好意であなたにだけは教えてあげますよ、という感覚がこの時の厚生官僚のものなのだ。

・薬害エイズ事件の経験を振り返ったこの著書では、大臣として官庁に入った議員はまさに孤独なお飾り的存在でしかなく、力を発揮できない事情が説明されている。

・この事件では。現在の枝野幸男・立憲民主党代表が若手議員として菅の片腕となり厚生省の追及に力のあったことが記されている。枝野のような副大臣や政務次官など政治家チーム十人くらいが大臣の周りに帯同できれば、かなりちがった状況になる。経験に基づいた政治任用をめぐる菅の率直な感想だった。

・二〇〇九年九月,民主党政権が成立し、菅は新政権の要、国家戦略局の担当大臣となった。

・では、菅は過去の経験、長年思考してきたことを一全に生かすことができただろうか。結論を先に記せば、残念ながらそれはできなかった。なぜだろうか。

51頁・


・まず考えられることは、国家戦略局の考案者、松井孝治の政権設計スキームと菅のそれとが一致しなかったという点だ。イギリス型の与党・内閣一体スキームを考えていた者にとって、大所の予算編 皮を一手に握る国家戦略局の考え方は唐突なものに映った可能性がある。

・第二に考えられることは、菅が手足として考えていた党政策調査会がなくなってしまい、国家戦略局に帯同していく議員の調達が難しくなったということだ。

・だが、この二つの可能性は懸命に突破しようと思えば突破できないような問題ではなかったはずだ。

・イギリス型の与党・内閣一体スキームでも、特定の問題については関係閣僚だけが議論する閣僚懇談会の制度がある。国家戦略局について、予算と財政問題を担当する重要な閣僚想談会と読み替え、財務相ら経済関係閣僚と有意な各省副大臣、政務官クラスを集めれば、かなり踏み込んだ議論ができたのではないだろうか。

・この問題について話を聞きに行った時、菅は「国家戦略局で予算を考えようなんて簡単にできるわけがないんです」と語っていた。

・確かに限られた人数の政治家だけで国家予算のすべてを考えていくことは、不可能なことにちがいない。しかし、政官関係を考える時、「官」の問題の中心に座るのは常に財務省であり、予算編成を真に国民本位のものに据えることが最も重要な政治問題だ。

・現に民主党政権が成立した二〇〇九年九月下旬、一時期仙谷由人から改革官僚として期待されていた古賀茂明が反対に政権構想から外されてしまったのは、これ以上の霞が関改革を進めれば「予算の越年編成」も余儀なくされるぞ、という財務省による圧力、警告があったのではないか、と古賀自身に推測されている。

52頁・2023/12/22 15:44


・しかし。二○○元年の秋から冬にかけて、

右の戦局が沈んでいく一方で、民主権内で 驚くような物が始まっていた。民主党幹事長室を『イトモとして、まさに食事の予算編成が 始動したのだ。その中心にいて思配していたのは、党幹事長の小沢一匹だった。 愛と内閣を一体化させるために議員を生みやすい調査会をなくし、地方などからの情

各問に一本化させたことは先に触れたが、二〇〇九年十二月十六日、小沢は 的な夏の目二十五人とともに百官に鳩山由紀夫を訪ねた。二〇一〇年度予算案ないر 関する要望書を手渡すためだった (121日、写真整 要望書の中では、マニフェストに掲げていたガソリンの定規廃止について「現在、石油価格 は安定しているので、ガソリンなどの物は現在の水準を維持する」と書かれていた。

民主

女は二〇〇八年一月に「ガソリン値下げ隊」をつくり、暫定税率の変止キャンペーンを繰り広げてい

たため、この方針変更については強い批判を受けた。

・「あの時は本当に苦しかった」

・私のインタビューに答えた鳩山由紀夫はこの時の経緯を振り返って、こう回確した。

・「自分としては、政権を取る時に、こういった暫定税率はもうやめにしようと話をしていたわけですから。しかし、財務省からはいろいろと資料を見せられて、また、暫定税率をなくすとガソリンがたくさん使われて環境に悪いというメッセージもたくさん流れてきて、私はここは非常に迷いました。その時に、小沢さんがスパッと助け舟を出してくれたというふうに理解しています」

・一方の小沢も、「その意味で党も泥をかぶりました」と言葉少なに認めている。

53頁・


・民主党幹事長室が小沢を中心に政治主導の予算編成作業を始めるのは、しかし、ここからだった。

・政府の方からは内閣官房長官の松井と内閣府副大臣兼国家戦略室長の古川元久、党幹事長室からは筆頭副幹事長の高嶋良充と副幹事長の細野豪志という四人が夜な夜な集まり、暫定税率の維持でど のくらいの財源が浮き、子ども手当の地方負担の制度設計をどのようにするかなどの予算編成上の間題をA4紙二枚くらいに詰めていく作業を続けた。この時、官僚がわきで計算をしてくれたが、作業は思いの外順調に進んだ。

・「結局、予算編成の最終局面は国家戦略室長の古川さんと官房副長官の私、小沢さん鳩山さんというツートップの予算に対する大きな意志をどう反映し、さばいていくかというプロセスになりました」

・松井は、山口二郎、中北浩爾らがインタビュアーを務めた「民主党政権とは何だったのか――キー パーソンたちの証言』(岩波書店)という本の中でこう証言し、続けて語っている。

・「その際わかったのは、小沢さんには極めて明確な財務省の計算がバックについているということでした。というのは、小沢さんが言っていることを予算化して落としてみると、ほとんどコンマ一兆円 という単位まで当時の財政フレームのなかにピシッと入るのです。確かに、予算編成の仕方が変わり、政府・与党が一元化し、幹事長の力を借りて予算編成を乗り切ったのですが、自分が目指した一元化とは明らかに異なるものでした」

・松井のこの回想は実に重要なことを語っている。

・これも先に記したが、小沢はそれまで聖城とされていた農水省の土地改良予算をバッフサリ削り、代わりに農産物品由化を視野に入れた農家戸別所得補償制度の財を確保した。また子ども手当や高校授業料の無償化制度を導入した。これらの予算は完全に国民生活、国民経済を背中に背負った政治の意思である。

54頁・2023/12/22 16:1512/23/2023 6:42:17 AM


・・つまり、非用した国家戦時の形は取らなかったものの、政治主導の予算編成というものが、 小川の力によって実現していたのだ。あるいは、小沢が裏の国家戦略局長となり、配下の議員四人を 使って政治の意思による質解皮を実現した、とも言える。

・実質的な国家戦略局機能がここで働いていたわけだが、松井の言うように、ここで首相の鳩山と党幹事長の小沢の意思通りの予算編成が出来ていたとすると、かつて小沢が「日本改造計画」の中で言及していた「内閣と与党が頂点で一つに」なるという形にも近づいたといえる。

・ただ、「日本改造計画」と異なるところは、この時小沢は幹事長として閣内には入らなかったという点だ。この点にはまた別の重要な問題が伏在しており、後の方の文脈で触れることにする。

・別の歴史の歩み方を考えてみることも重要だとする丸山眞男の教えに従うならば、こういうことも考えられる。イギリスの内閣のあり方を模して、国家戦略担当には鳩山首相兼務で就け、もう一人 の担当として小沢一郎を党幹事長兼務で就ける人事配置が本当はベストだったのではないだろうか。

・このあたりで小沢一郎自身に話を聞いてみよう。一九九八年の金融国会で菅直人代表の民主党が自民党と妥協し、その年の十一月に小渕恵三総裁の自民党と小沢党首の自由党とが政策協定に合意した あたりから時間の順を追って質問してみる。

・自由党と自民党の連立。小渕氏にだまされた

55頁・


・――小沢さんたちの自由党が合併する前の民主党でしたしが、1998年の金融国会で民主党はなぜ自民党と妥協してしまったのでしょうか。

・小沢・まだ考えが旧体制から抜け出していなかったのではないかと思う。古い官僚の考えに丸め込まれてしまっていたんでしょう。こういう状態が続いてしまうと、日本はいつまでたっても夜明け前の状態を脱し切れない。

・たしかに金融危機だった。しかし、そうは言っても旧来の官僚のやり方ではもう治まらない段階に来ていた。それを新しいやり方で治めようというのが民主党だったではないか。それが我々のやり方だったではないか。

・そこで、何で自民党と妥協しなければならないんだ、自民党を倒して、我々の考えで大胆な政策を展開して乗り切ればいいんだ、と私は思っていた。

・――しかしまったく皮肉なことに、小渕政権の方から、今度は小沢さんに「助けてくれ」と言ってくるわけですね。それが後の自自公の連立政権につながっていくわけですが。

・小沢・そうです。自民党との間でこんな大きな合意書を書いたんです。

――その合意書につながる最初のエピソードが、当時官房長官だった野中広務さんの口で語られています。

(一九九八年)8月の下旬、たしか23日ころだったと思いますが、亀井静香君が「一度、小沢さんに会ったほうがいい」と誘ってくれた。東京品川の高輪プリンスホテルに亀井君が部屋をとってくれて、 小沢さんと3人で会いました。そこで私が「過去にいろいろありましたが、ここはひとつ大局的な立場にとって、ご協力をお願いしたい」と言ったら小沢さんは「まあ、個人的なことはもういいじゃないか。

56頁・12/23/2023 6:46:27 AM


・天下国家のことを考えよう」と行ってくれました。私は感動するとともに、胸をなでおろしたことを今もおぼえております。そこからどういう形の連立政権をつくっていくかということになったわけです。ところが、小沢さんは原理原則の人ですから、特に外交安全保障問題についていろいろ言ってきた。(五百真ほか編「90年代の証言 野中広務権力の興亡」朝日新聞社)

・―ここのところは覚えていますか。

・小沢・よく覚えていないけれども、誰に対してもぼく自身始終言っていることですから。そういう主表で筋道を通してやってきています。

・――その筋道を通して、一九九八年十一月十九日に小渕さんとの間で合意文書にサインされましたね。

・小沢・大変な合意だった。国際安全保障のことも認めるし、こちらの主張を何もかも認めるという合意書だった。だから、これはいい、よかろう、ということになったんです。これで改革は出来上がったも同然だと、そう信じてしまったわけです。

・ぼくも、こういうところは本当に甘いと思う。自民党は約束を守るわけないのに、それを信じてしまった。

・しかし、自民党は最初からやる気がなかった。だから、ぼくも連立して一ヶ月か二ヶ月でもうだめだと思いました。小渕さんのあのあいまいな態度にだまされたと思いましたよ。

・それで、ぼくは小渕さんに迫ったんです。「どうしてくれるんだ、あの政策は。あなた、自民党総裁としてサインしたろう」と。「やれ、と指示しなさい」と言ったんです。そうしたら、「いっちゃん、申し訳ない。ぼくはそういうことはできないんだよ」と言うんです。

57頁・


・そこで改めて思い出したんです。「ああ、そうだった。この人はこういうこと ができない人だった。この人を信用した自分が馬鹿だった」と思い直してあきらめてしまった。「申し訳ない。すまん」と小渕さんは言うわけです。

――そういう言い方をするんですね。

・小沢・小渕さんは人の良さそうな感じがしますが、なかなかしたたかなんです。竹下()さんの子分でしたから。

――ところで、この自民党と自由党の連立政権は、実のところ公明党を連立に引き入れるための自民党のひとつの手段だったんですね。

・小沢・そうです。

・小沢・――ここのところ、野中さんの回想ではこうなっています。

1章 民主党政権とは何だったのか

58頁・12/23/2023 7:55:04 AM


・私は亀井君と一緒に小沢さんに会ったとき、はっきり言いましたよ。「自民党が公明党と連立すると、数のうえでは参議院で救われる。しかし、公明党は「ストレートに連立というわけにはいかない」と言うので、失礼だけども自由党と連立させてほしい」と。(同前)


・このことはどうでしょうか。

・小沢それはそうかもしれない。しかし野中さんの言っていることは覚えていません。ぼくは政策の方を重要視していましたから。簡単に言えば、ぼくが小渕さんと野中さんの車に乗っかってしまったということです。

――しかし、結局、その政策合意で実現できたものもあり、実現できなかったものもありということですね。

・小沢・自民党は最初からやる気なかったですね。ぼくが「もう連立を解消する」と言って、ようやくクエスチョンタイム(党首討論) ができただけです。

・―そして,二〇〇〇年の四月一日、小沢さんは連立の解消について小渕さんと会談しますね。この翌日の未明、偶然にも小渕さんは緊急入院されて約一カ月半後に亡くなられたわけですが、会談の途中、特別変わったようなことはなかったですか。

・小沢・まあ、その日の前に合意内容を実行しないことについては詰めていましたから。それで、小渕さんは「ぼくはできない」と言うわけですから、「それじゃ仕方ない。もうお別れだね」という話になったんです。そうしたら、本当にお別れになってしまったんですが。

59頁・


・——大きい改革はできなかったかもしれませんが、やはり小沢さんたちの努力でいくつかは実現したものもありました。党首討論もそうですが、政府委員制度(国務大臣の代理答弁などをする各省庁の職員の制度)の廃止も実現しましたね。

・小沢・今は元に戻ってしまいました。政府参考人とかになっています。

・――「政と官」の問題に関して、ちょっと歴史を振り返りたいんですが、小沢さんは一九九三年五月に出された「日本改造計画」の中ではっきり書かれていますね。この本の中で、例えば政権党から政府に百六十人ほどの議員が行くとか閣僚懇談会の事例とか、そういった与党と内閣の一体化の話が具体的に書かれています。非常に先見的で驚くんですが、これはかなり勉強会を重ねて書かれたものですよね。

・小沢・そうですね。メンバーは十人くらいで、政治家はいませんでした。官僚は時々参加する程度で、学者が中心でした。北岡伸一さんとか御関貴さんとかよく記憶しています。

60頁・12/23/2023 8:23:26 AM


・中心テーマ中の中心テーマである与党と政府の一体化は、どなたか研究されている学者はいたのですか。

・小沢・いや、その類いのことはぼくですね。

・本当ですか。

・小沢・はい、英国の議会に彼を後にすべきだという意識はずっと前からぼくは持っていますから。党から政府に百数十人行くという人数は別としてもね。日本では、官僚が上、政府という意識ですから、本来は国会議員自身が自分たちの政府を構成しているのに自分たちの政府だと思っていないんですよ。だから、自民党では、政府と交渉してこれだけの予算を自分たちは取ったなんてやっているでしょう。

・その時の政府というのは官僚なんです。本当におかしな話です。与党と内閣とが掛け合い漫才しなからやってきたわけです。だから、そんな馬鹿なことはやめるべきだとぼくは言っているんです。自分たちの政府じゃないか。自分たちでいろいろに責任を持って決めるべきことだとぼくは言うんです。

・だから、与党の中に政調会なんてものがあるのはおかしいんです。政策の決定権が党の中の開会と内閣と二つになってしまうんです。その意識の奥底には、政府というものは自分たちのものではなく官僚のものだという考えがあるんです。

・そういう考えでは、大臣というのは官僚の単なる経路でしかない、操り人形でしかない。だから、基本はそういう日本人の意識改革をしないと駄目なんです。

・ただ、意識改革を待っていたんじゃいつになるかわからないので、まず形から変えていこうとしているわけです。選挙制度もその通りで、制度を変えることによって意識を変えていくしかないと思うんです。そういう議論はぼくの持論ですから、ぼくの意見がかなり入っていると思います。

61頁・


――英国の政治制度について、小沢さんはいつごろから強い関心を持ち始めたのでしょうか。

・小沢・やっぱり象徴的なものは小選挙区制ですが、これはもう選挙に出る前から考えていました。うちの親父(小沢佐重喜)も小選挙区制論者でしたから (183頁・写真参照)

・——お父さんの佐重喜さん自身も小選挙区制論者で、一九六二年には自民党の「党近代化のための脱皮」を目指す調査会で三木武夫会長下の副会長として選挙制度改革の調査にあたっていますね。また 小沢さんが議員になる前と言いますと初当選の二十七歳より前ですから、司法試験の勉強をされていた学生のころから関心があったということですね。

・小沢・はい。基本的には英国の議会制民主主義を模範にすべきだと考えていました。官僚のシステムも同様です。官僚は、実力とそれなりのステータスを持っていながら同会や政治の場には絶対に出て こない。そういう自分たちの分に応じた職責別のきちんとした仕事の分類ができる、そういうことを考えていました。

――内閣については、議院内閣制ですから、第一党の議員たちの中央委員会であるべきだと、それが内閣となって政府と一体化するんだという考えですよね。

・小沢・うん。それと同じことですからね。

―――なるほど。そして実際に自民党議員として政府を内外から眺めながら、まるで掛け合い漫才のようなやり方では駄目だと実感してこられたわけですね。

・小沢・うん。それはだから、この世界に入ってきて余計にわかるね。

――特に、年末になると繰り広げられる予算折衝ですね。

62頁・12/23/2023 8:35:01 AM


・小沢・最初は分からなかったけど、団体でビラを配ったりしているのは、みんな役所が作ってるんだからね。

・かつて毎年何になっていた年末の次年度政府予算編成において、自民本部の会議室前は党政調会の議員に重点復活項目を書き出したビラを配る圧力団体でごった返していた。

・――あれ、役所で作ってるんですか。

・小沢・はい。もう驚くべき実態ですよ。だけど、そこまで詳しくわかったのはやっぱり部会の幹部になってからですね。特に部会長になると、役人が、運動の目標はいくらにしましょうかと相談に来る ね。それでその通りにビラを配るんです。

・――ちょっと話が脱線しますが、その科学技術部会で小沢さんが原子力政策について何か重大な疑問を呈したことがあると平野良夫さんが回想していました。

・小沢・政務次官の時ですが、最終廃棄物処理の問題です。ガラス固化体で本当にいいのかと疑問を言ったんですが、官僚はこれから技術を改良進歩させてちゃんとやりますという説明でした。だけど、いまだに同じですね。

63頁・


――おっしゃる通りですね。わかりました。話は戻りますが、そういう英国の政治制度について、自民党政治のあり方を眺めながら研究されていたわけですね。

・小沢・別に学術的研究をしたわけじゃないけど、英国に何度も行って話を聞きました。

・――何度も行かれたんですか。

・小沢・十数回は行きました。いっぺんには聞けないんですね。細かいことを聞けば聞くほど日本と違うところとか、反対に同じやり方のところとかだんだん実態がわかってくるんです。何度も行って政党や政治家、官僚、それから軍人にも話を開きました。

・――・一九九七年にプレア政権になるわけですが、その前からずっと行かれているんですね。

・小沢・プレアとクリントン、オバマは似ているね。やっぱりパフォーマンスの政治家ですね。クリントンは頭がいいそうだけど。妻の方が政治家ですね。

64頁・12/23/2023 11:11:32 AM


・実際に話してみてそう感じられたんですか。

・小沢・三,四〇分会った印象だけど、政治家という感じを持ったな。クリントンはオールラウンドの知識を持っているんだけど、フォーカスして決定する力は妻の方が強いって上院議員のロックフェラー

が育ってました。

・上院議員のロックフェラーさんも、小沢さんは親しいんですよね。

・小沢・親しいわけじゃないけれども、何度か、二、三度か会いました。ほくも、自民党にずっといればそういうお付き合いをやっていたんだろうけど、もう戦いの方がずっとありますから。

——話は行ったり来たりして申し訳ないんですが、「日本改造計画」を準備している時は一年とか1年半ぐらいかけて勉強されたんですね。

・小沢・うん、それぐらいやりました。それで集大成して。ぼくが推敲を重ねて作った本です。その出版が、自民党と離党する時に重なったんです。

・――どのくらい売れたんでしょうか。

・小沢・七十万部以上売れました。

・――すごいですね()。田中角栄さんの「日本列島改造論」より売れたんでしょうか。

・小沢・田中先生の場合は与党の実力者の段階で出したわけだから、総理大臣一歩手前のわけで、各市町村なんかでもみんな読みますからね。次の政策に関係してくるだろうということでね。ぼくの場合 は純粋に一般の人相手でしたから。

・——小沢さんとしては「夜明け」というタイトルを考えていたんですよね。

65頁・


・小沢・それも候補の一つだったかな。島崎藤村は「夜明け前」だ。日本はいまだに夜明け前ですね ()。そうしたら、出版元の講談社の人たちが、そういうのはモテないというんですね。それでぼくが、「日本改造計画」はまるで北一輝みたいじゃないかと言ったんです。北一輝は「日本改造法案大網」だからね。

――なるほど、小沢さんは北一輝をお読みですか。

・小沢・全部持ってるよ。

――あのみすず書房の著作集三巻本ですか。

ってね。

・小沢・三巻ところじゃない。ぼくはほとんど読んでるよ。若い時に読みました。今はくたびれて駄目だけどね。そういう政治思想家とか政治リーダーのものはほとんど読んでますね。

――北一輝の精神というものは、やはり共鳴するところがあるんじゃないですか。「天皇の国民」ではなく「国民の天皇」だとした北の主張は感銘を受けますよね。

・小沢・いろんなものを読んでますよ。革命家のものも読んでいます。レーニンやトロッキーから始まってね。

・小沢・二・二六事件の青年将校たちに影響を及ぼしたところですが、悪気で書いたものではないからね。だけど、あの文章がなかなか難しくてくたびれるね。

・わかります。しかし小沢さんが北一輝をそんなに読んでいたというのは新しい発見というか驚きですね。

・―そういうものも読まれているのですか。トロッキーは実に面白いですね。

・小沢・うん。トロッキーもちょっと学者肌的な要素があってね、しかし、あのスターリンの陰謀家には適わないね。

66頁・12/23/2023 11:26:31 AM


・民由合併から小沢代表へ。激動の民主党と自民党の大連立構想の舞台裏

・一九九八年十一月,自民党の小渕恵三総裁と自由党の小沢一郎は策定に合意し、翌九九年一月に自自立政権発足。しかし、協定の実行を迫る小沢に小渕はあいまいな対応を続けたため、二○○○4月に連立解消。この時の小沢の努力で国会審議の際の政府委員が廃止され、党首討論が導入された。しかし、政府委員はその後、政府参考人という名称で復活した。

・小沢さんが学生時代から考え続け、著書の「日本改造計画」でも展開された政治改革のいくつかが自自連立政権の時の国会審議性化法で一部生かされました。そしてさらに、民主党政権で大きく生かされていきますね。

・小沢・そうしようと思ったんだよ。

そうしようと思った、まさにそこなんですね。

・小沢・実現させようと思っていたんだよ。だけど、そこを(検察に)邪魔されたわけだから。いよいよこれで実現できるっていう時になあ。

――わかります。しかし、自自連立から民主党政権にかけて、小沢さんが考えていた政治改革の重要な施策がいくつか実現していきますね。

・小沢・はい。だけど、民主党の中でも自分たちが主張していたことを本当に理解している人はそう多くはいなかったような気がしますね。

67頁・


そうですか。

・小沢・だから、マニフェストは間違いだったという人もいるようですが、それは違うと思います。マニフェストが間違いだったら、民主党政権そのものも間違いだったということになってしまいますから。

・――本当ですね。

・小沢・政治改革の理念から言うと、そういう理想と理念が一番純粋な形ではっきりしていたのは自由党の時だったですね。だから、そういうところが評価、支持されて六百万票も入りました。しかし、 それじゃ過半数は取れない。だから、民主党と一緒になったんです。もっと幅広い支持を集めて過半数の票にならないと。

――そこのところで開きたいのは、二〇〇三年の自由党と民主党の合併の時の話です。前年の二〇〇二年十一月二十九日の夜、民主党代表だった鳩山由紀夫さんが記者会見をして、民主党と自由党の対等合併を打ち出しました。当然、その前に小沢さんと鳩山さんの間で合併の話があったわけですが、どんな話をされたんですか。

・小沢・それほど特別な話はないですよ。場山さんの方が合併を言い出して、ぼくは、その話は結構ですねと答えたわけです。さっきも言いましたように、自由党だけでは過半数には届かないから、鳩山さんが言い出したことについて、いいですよと答えたんです。簡単な話です。

・――鳩山由紀夫さんとは以前から親しいとかそういう関係はなかったんですか。

・小沢・ぼくが田中派のベテランだったころ、鳩山さんは田中派の新兵だったから、親しく話をするような関係ではありませんでした。

68頁・12/23/2023 11:51:22 AM


・鳩山さんが新兵だとすれば、小沢さんはすでに大佐級だったという感じですか。

・小沢・いや、そんなにはなっていないでしょう(笑い)。何期か違うんですよ。だから、それほど走らないし、話も以前はしていません。弟の邦夫さんは田中先生の秘書だったから、以前から知っていましたが。

――どういう形で連絡が来たんですか。

・小沢・普通の形で秘書に連絡が来たんじゃなかったかな。それで会って話したんだと思います。特別印象に残ってないくらいですから、大変な策略でも何でもないんですよ。

・その時は、はくは割り切っていましたから。自由党のままいるのが政治思想的には一番きれいな姿だが、それではもう大勢を制することはできない。だから、民主党から話があれば一緒になることは 必然だと思っていました。鳩山さんの方でも、一緒にならなければウイングを広げられないと思ったのではないですか。

うな関係ではありませんでした。 う感じで十 小説、そんなにはなっていないでしょう()何周か違うんですよ。だから、それほどは知 らないし、ある前はしていません。弟の思夫さんは田中先生の秘書だったから、以前から知ってい

のではないですか。

――ところが、その民主党の代表が鳩山さんから菅直人さんに代わってしばらく経ってから、一転し 合併を断ってきましたね。

・小沢・そのときは僕は直接出ていなくて、当時の幹事長が話を受けたと思います。

それで二〇〇三年三月に両党で政権構想協議会を作って話し合い、五月になって打ち切りになったわけですね。断ってきた理由は覚えていますか。

・小沢・いや、覚えていないですね。それほど高いレベルの話ではなかったような気がします。

――そして、その夏になると、今度は菅さんの方から一緒になろうと再び言ってきたんですね。そのあたりの事情については、小沢さんは別のインタビューでこう語っています。

69頁・


・小沢一郎のインタビューをまとめた「90年代の証言・小沢一郎・ 政権奪取論』(五百旗頭真ほか編、では、小沢はこの時の自由党の事情をこう話している。

・「自由党の面々にとって、民主党との合併はほんとはものすごく不利な話なんです。衆院選の比例区で自由党は五、六百万票を獲得しています。だから、時間はかかるけれども、小選挙区で当選者を一人ずつ増やしていこうと考えていた。ところが、民主党と合併して政党が大きくなると、民主党の候補者と一緒に比例区名簿に名前が載るから、自由党議員が当選できなくなる可能性が大きくなる。だ から、みんな腹の中では合併に反対だったんです。()だけど、僕は「政権をとるためならしょうがない」と言って、みんなを説得した。民主党との話し合いで、僕は何も異論をはさまないで、民主 党の言うとおりにしたんです」

・――このあたりの事情は覚えていますか。

・小沢 その通りですね。

・――そして、小渕自民党政権との連立の時は小沢さんは政策論を出したんだけど、この時はその政策論も出さなかったということですね。

・小沢・この時は、政策的にも民主党の政策に賛成してもらわなければいけません、と言われました。それほどすごい政策論だとは思いませんでしたが、まあよかろうということになったんですね。

——菅さんの再度の申し入れは政党の合併ではなく国会での統一会派を作るという案だったということですが、小沢さんはそれには反対したわけですね。

70頁・12/23/2023 12:41:27 PM


・小沢・そのいきさつはよく覚えていませんが、反対したと思います。当時の自由党は単体で六百何十万票取っていますから、民主党もこれに比べて桁違いに取っているというわけではなかった。だから、最終的には一緒になった方がいいという意見が大勢を占めたんだと思います。

・自由党と合併した新民主党は二〇〇三年十一月の総選挙で百七十七議席を獲得して躍進した。二〇四年に菅に代わって岡田克也が代表に就任。しかし、二〇〇五年九月の郵政解散・総選挙で百十三 議席と、小泉自民党に惨敗した。引責辞任した岡田に代わって前原誠司が代表に就いたが、二〇〇六年四月、「偽メール事件」の責任を取って辞任、代わって小沢が新代表に就任した。

・小沢さんが民主党の代表に就任して政権を取るまでのことをお聞きします。この時のことを民主党の事務局の方に聞いてみました。

・菅さんや岡田さん。前原さんが代表だったころから民主党事務局に在籍していた主要スタッフの方は、小沢さんが代表に就任して党内の空気がガラッと変わったことに驚いたと言うんですね。それま では「朝令暮改」が多くて、選挙準備などでも一度決めたことが後で覆されるようなケースが結構あったそうなんですね。

・しかし、小沢さんが代表に就任するとともに、幹事会などの意思決定機関の会合時間が短くなって「無駄話」がなくなったと言うんです。「以前は機関決定したものが代表の意向で急に変わってしまうことが結構あったが、それがなくなった。決めた通りに物事が執行され、機能的、効率的になった」とスタッフは私に話してくれました。このあたり、組織の動かし方について特別考えるところがありますか。

71頁・


・小沢・いや特別に考えるということはないが、民主党というのは若い政党でしたから、みんな経験が少ないし、ある意味で勝手なことばかり言い合っているような感じなんですね。見方によっては中学生のホームルームみたいな感じもありました。だから、政権、選挙、政権という目標を掲げることで引っ張っていくしかないんですね。ぼくが代表になってすぐに衆院千葉七区の補選がありましたから。

・――そうですね。

・小沢・太田和美さんが九百票か一千票の差で勝ったんです。ぼくは政権交代とマニフェスト作りに全力を挙げました。民主党と合併して、こちらの方が新参者なわけだから、最初の人事はその前の通りにやりました。その後もそんなに変えなかったと思います。

――その千葉七区補選 の時の話なんですが、小沢さんは、国会議員の選挙対策委員長にいったん情勢判断を聞いて、その後ですぐに担当の事務局にも情勢を聞いているんですね。

71まで 12/7072頁・12/23/2023 12:54:44 PM