日本国憲法の問題点なかほど おわりさいご小室直樹2002年4月30日集英社インターナショナル

縮小ニッポンの衝撃 (講談社現代新書) 新書?2017/7/19

 

NHKスペシャル取材班 () 5つ星のうち 4.613件のカスタマーレビュー

私たちが生きる日本。これから先、どんな未来が待っているのだろうか。


 

2016年に発表された国勢調査(平成27年度)によると、我が国の総人口は12709万人となった。5年前の調査と比べて、962667人の減少である。「人口減少」と言われて久しいが、実は、大正9(1920)の開始以来100年近い国勢調査の歴史上初めて日本の総人口が減少に転じた、ひとつの大きな節目であった。

今回、大阪府も初めて「増加」から「減少」に転じるなど、全国の実に8割以上の自治体で人口が減少した。しかも、減少の幅は拡大傾向にある。私たちがこれから経験するのは、誰も経験したことのない「人口減少の急降下」だ。

明治維新が起きた1868年、わずか3400万人あまりだった日本の人口は、医療・衛生状態の改善や食生活の向上、経済成長によって、昇り竜のような勢いで増え続けてきた。いま私たちが立っているのは、急上昇してきた登り坂の頂上をわずかに過ぎたあたり。ジェットコースターで言えば、スピードがゆっくりになり、これから先の凄まじい急降下を予感させる不気味な「静」の時間だ。この先には、目もくらむような断崖絶壁が待ち受けている。

2017年に発表された最新の予測では、人口減少のペースが若干弱まってはいるものの基調はほとんど変わっていない。国立社会保障・人口問題研究所は、出生率や死亡率の高低に応じて3パターンの予測値を発表している。真ん中の中位推計では、2053年には日本の人口は1億を切り、2065年には8808万人になるという。これから約50年間で実に3901万人の日本人が減少することになる。

しかも、人口減少と並行して、急速な高齢化が進む。日本は既に15歳未満の人口割合は世界で最も低く、65歳以上の割合は世界で最も高い水準にあるが、これから8年後の2025年には、日本は5人に1人が75歳以上の後期高齢者が占める超高齢社会に突入する。

これらは国が想定する未来図であり極端な悲観論ではない。日本社会は、これから世界で誰も経験したことのないほどのすさまじい人口減少と高齢化を経験することになる。

 

著者について

NHKスペシャル取材班・植松由登(うえまつ よしと)

NHK札幌放送局ディレクター。1980 年京都府生まれ。プロローグ、第2章、第3章を執筆。

 

清水瑶平(しみず ようへい)NHK報道局スポーツニュース部記者。1983年大阪府生まれ。第1章を執筆。


 

鈴木冬悠人(すずき ふゆと)NHKグローバルメディアサービス報道番組部ディレクター。1982年東京都生まれ。第1章を執筆。

 

田淵奈央(たぶち なお)NHK松江放送局ディレクター。1990年島根県生まれ。第4章を執筆。

 

花井利彦(はない としひこ)NHK報道局社会番組部ディレクター。1976年岐阜県生まれ。第5章を執筆。

 

森田智子(もりた ともこ)NHK報道局社会番組部ディレクター。1985年群馬県生まれ。エピローグを執筆。

 

大鐘良一(おおがね りょういち)NHK報道局チーフプロデューサー。1967年東京都生まれ。第1章、エピローグを執筆。

登録情報

新書: 200ページ出版社: 講談社 (2017/7/19)言語: 日本語

発売日: 2017/7/19

目次

1

東京を蝕む一極集中の未来23区なのに消滅の危機(東京都・豊島区)


 

2章破綻の街の撤退戦(1)財政破綻した自治体の過酷なリストラ(北海道・夕張市)


 

3章破綻の街の撤退戦(2)全国最年少市長が迫られた「究極の選択」(北海道・夕張市)


 

4当たり前の公共サービスが受けられない!住民自治組織に委ねられた「地域の未来」(島根県・雲南市)


 

5章・地域社会崩壊 集落が消えていく「農村撤退」という選択(島根県・益田市、京都府・京丹後市)

 

エピローグ

東京郊外で始まった「死の一極集中」

(神奈川県・横須賀市)

「ニッポンの現実」と「未来の危機感」を認識できました

 

投稿者saku2017816

 

昨年9月に放映されたNHKスペシャルを題材にした本書を読むことで、改めて高齢化社会の到来と人口減少が祖国に与えるマイナス影響を理解できました。人口が増えているが、中身は30代以上の単身のため将来負担が増えるという豊島区や、すでに衰退に向かっている横須賀市など、行政の数字と取材を基に描かれております。読んでいると、時に涙すら覚えました。お盆のため、なおさら故郷は大丈夫だろうか、自分にできることはないかなど考える機会を得られました。

ドMが得する時代に

投稿者トニ・エルドマン2017724

 

処方箋は考えつかなかった。。。というNHK取材班の結論は笑えない冗談だが、ここに誠意を感じた。

 

人口減少のもつ恐怖を楽観論でお茶を濁そうとするお気楽本が蔓延する中、特にそう感じる。

 

本当に、一発で解決できるような処方箋などないのだろう。

 

本書の取材にも出てきたが、集落が消失するのは時間の問題なのに、自分がユデガエルであることに気づけない、、、これが人間の本質的な性質なのだろう。

 

気づいたら茹で上がっていて、全員お亡くなりになるわけだ。。。

 

また、消滅寸前の集落から「撤退」はせず「玉砕」を本気で選ぶ人がいるそうだ。我ひとりとなろうとも、、、この陣地を死守すべし。。。これは日本人的精神??。。。まるで太平洋戦争の旧日本軍のようだ。

 

太平洋戦争のときは、たくさんお亡くなりになったが、まだ国内にやり直せるだけの人間の数が残っていて、奇跡的に日本は再生した。

 

しかし今は、このままではやり直せないかもしれない。

 

相変わらず、短期的な成果を求める株主どもにケツを叩かれて、短期主義・スピード主義・業務マニュアルに支配される労働者。。。日々のことに忙殺され、少子化問題どころではない。

 

そして、、、周りを見渡せば老人だらけで、子どもを再生産できず、やがて日本人の遺伝子は根絶やしに。。。

 

まあどんな文明もやがて滅ぶから、平和ボケしたユデガエルである日本も時間の問題。栄華を誇ったマヤ文明の破滅みたい?

 

こうなると、滅びゆく苦痛に耐えながら一人一人、身の丈レベルで楽しい人生送るしかないですね。苦痛を楽しめる、ある意味、ドMの人が得をする時代に突入。。。!?

「ニッポンの現実」と「未来の危機感」を認識できました

投稿者saku2017816

昨年9月に放映されたNHKスペシャルを題材にした本書を読むことで、改めて高齢化社会の到来と人口減少が祖国に与えるマイナス影響を理解できました。人口が増えているが、中身は30代以上の単身のため将来負担が増えるという豊島区や、すでに衰退に向かっている横須賀市など、行政の数字と取材を基に描かれております。読んでいると、時に涙すら覚えました。お盆のため、なおさら故郷は大丈夫だろうか、自分にできることはないかなど考える機会を得られました。

負債の責任はどこに?

「縮小ニッポン」の将来像を夕張などの自治体に見出し、日本社会の影の部分をあぶり出し、わが国の将来に警鐘を鳴らす意欲作。とりわけ関心を呼ぶのは本書の柱ともいえる夕張市の事例だ。

本書の刊行とまったく同時期に私は夕張を訪ねて取材を行い、街を歩いて回った。ほとんどの施設が閉鎖もしくは廃墟と化しており、本書に記されているとおりの衰退状態だった。その惨状を目の当たりにすると、責任がだれにあるのか考えざるをえない。炭鉱から観光へと大きく舵を切り、不適切な会計処理を行った首長や市の行政当局にあるのか、石炭など国策で翻弄した国にあるのか。いずれにしても最大の責任者が直接責任を取らない政治の仕組みに割り切れなさを感じる。

なお本書では自治体間格差は「命の格差」(105)だと述べられているが、拙著『個人を幸福にしない日本の組織』(新潮新書,2016)でも夕張市などを取り上げ、「サービスの格差は命の格差」(148)であると指摘したことを付け加えておきたい。

まずは絶望するところから

昨年の放映時にも衝撃を受けたが、その取材内容をさらに克明に記した本書からは「絶望」しか感じられない。でも一度、深く絶望するところからしかこの国は立ち上がれないところに来ている。

 

人口のネガティブ集中、無居住化地域、夕張は40年後の日本、政策空家、最高の市民負担・最低のサービス、子どもを引きとめない自治体、危機的集落、集団移転、むらおさめ、東京・死の一極集中・・・これから一般化されそうなキーワードも多数。まずは自治体職員は必読の書、だと思う。

具体例が多く説得力がある

投稿者ICHIROベスト500レビュアー2017811

少子化、人口減少は、避けられない現実だろう。だがこうして具体的に地域を挙げるなどして、

解説されると、さらに説得力が増す。

本書ではこれといった対策は示されていない。

取材班自身「なかった」と書く。どなたかも書かれていたが、これはある意味で「誠意」でもあると思う。

それでも全く対策がないわけではない。しかしそれはほとんど、

焼け石に水レベルだということだ。日本はそういう時代を乗り切らなければならない。覚悟を決めさせられる好著。

「人口急減社会」の日本の厳しい未来図はよく描かれていたとは思うのだが、その処方箋が提示されていないのが残念だった

投稿者gl510ベスト500レビュアー2017725

『プロローグ』によると本書は、2016年9月25日に放送されたNHKスペシャル『縮小ニッポンの衝撃』をもとにしたもので、巻末のクレジットによると、番組で取材、ディレクター、プロデューサーを担当したスタッフたちのうちの一部、7人が分担して執筆しているようだ。 

 

その『プロローグ』では、これから約50年間で実に3901万人の日本人が減少するとともに急速な高齢化が進み、日本社会は、世界で誰も経験したことのないほどの凄まじい人口減少と高齢化を経験することになり、2050年までに、2010年時点で人が住んでいた地点の約2割が無居住化地域となり、6割以上で人口が半数以下になるという驚くべき推計を紹介している。 

 

本書では、そんな未来の日本では、どのようなことが起きるのかを見通すために、第1章では「消滅可能性都市」のリストに挙げられた東京都豊島区を例に現在の「東京への一極集中」の真の姿と東京の深刻な将来の姿を、第2章と第3章では数十年後の日本の未来図ともいわれている財政破綻した夕張市の現状を、第4章と第5章ではすでに地域の消滅に向き合い始めている過疎地の取り組みを、『エピローグ』では社会保障費の増大と収入の減少という二重苦に直面している東京の未来図・横須賀市の取り組みを、それぞれレポートしている。 

 

このうち、特に注目されるのが、40年後の日本の人口ピラミッドと同じカタチをしており、ピーク時の人口11万人あまりから8500人台にまで落ち込み、街には高齢者の姿ばかりが目立つようになったという夕張市の、財政破綻→住民サービスの容赦ない切り捨て→若い世代の市外への転出→さらなる税収低下→さらなる行政サービスの切り捨てという凄まじいばかりの負のスパイラルぶりだ。現在の夕張市民は、まだ市外へ転出すれば充実した行政サービスが受けられるが、夕張市が未来の日本の姿ということになってしまえば、未来の日本人は逃げ道が全くないということになってしまう。 

 

また、第4章と第5章では、行政がその決断に干渉することなく、住民組織に毎年一定額の交付金を支給して地域に必要な事業を企画・実行してもらうという仕組みの実施状況を島根県雲南市で、新たにそのための住民組織を立上げたわずか人口300人足らずの地区の準備状況を島根県益田市で、それぞれ取材しているが、成功例として紹介されている事例でさえも、住民が思っていたような成果には結びついていないようだ。取材陣は、「住民組織の互助努力の支援といえば、響きは良いが、過疎地域での行政サービスを切り捨て、住民に丸投げしているだけではないか」との疑念を捨てきれないと書いているが、私も全くそのとおりだと思う。雲南市の場合、30組織に対し総額2億8000万円交付しているそうだが、いわば街づくりの素人集団に丸投げして一律に少額交付するよりは、同じお金を街づくりを自らの責務とする行政が統一的に使った方が、私はよほど自治体の将来のためになると思う。 

 

最後に、本書を読んでいて、このままでは将来間違いなく訪れるであろう「人口急減社会」の日本の厳しい未来図はよく描かれていたとは思うのだが、では、そうした未来に対しての処方箋ということになると、「これが処方箋ですと勧められるような策は見当たらず、その提示を諦めざるを得なかった」で終わってしまっているのが残念だった。学者が書いた本であれば、絶対にそこまで踏み込んでいたと思うのだが、その点は、やはり、基本的に製作スタッフの取材だけでまとめたテレビ番組の限界だったのかもしれない。 

ドMが得する時代に

処方箋は考えつかなかった。。。というNHK取材班の結論は笑えない冗談だが、ここに誠意を感じた。

 

人口減少のもつ恐怖を楽観論でお茶を濁そうとするお気楽本が蔓延する中、特にそう感じる。

 

本当に、一発で解決できるような処方箋などないのだろう。

 

本書の取材にも出てきたが、集落が消失するのは時間の問題なのに、自分がユデガエルであることに気づけない、、、これが人間の本質的な性質なのだろう。

 

気づいたら茹で上がっていて、全員お亡くなりになるわけだ。。。

 

また、消滅寸前の集落から「撤退」はせず「玉砕」を本気で選ぶ人がいるそうだ。我ひとりとなろうとも、、、この陣地を死守すべし。。。これは日本人的精神??。。。まるで太平洋戦争の旧日本軍のようだ。

 

太平洋戦争のときは、たくさんお亡くなりになったが、まだ国内にやり直せるだけの人間の数が残っていて、奇跡的に日本は再生した。

 

しかし今は、このままではやり直せないかもしれない。

 

相変わらず、短期的な成果を求める株主どもにケツを叩かれて、短期主義・スピード主義・業務マニュアルに支配される労働者。。。日々のことに忙殺され、少子化問題どころではない。

 

そして、、、周りを見渡せば老人だらけで、子どもを再生産できず、やがて日本人の遺伝子は根絶やしに。。。

 

まあどんな文明もやがて滅ぶから、平和ボケしたユデガエルである日本も時間の問題。栄華を誇ったマヤ文明の破滅みたい?

 

こうなると、滅びゆく苦痛に耐えながら一人一人、身の丈レベルで楽しい人生送るしかないですね。苦痛を楽しめる、ある意味、ドMの人が得をする時代に突入。。。!?

人口減少のリアル

投稿者服部弘一郎ベスト500レビュアー201785

人口減少によって何が起きるのか? 人口減少に対して打つ手はないのか? 日本の未来に対するそんな疑問を抱えて、NHKの記者たちが国内のいくつかの場所を取材したルポルタージュだ。

 

本書では北海道夕張の事例を「日本の未来」だと述べているが、それは半分は正しく、半分は間違っていると思う。正しいのは「いずれ日本中が同じような人口減少に見舞われる」ということであり、「自治体は深刻な財源不足に見舞われる」ということ。しかし夕張は日本の未来のモデルケースには成り得ない。

 

夕張の財源の多くは、国や県からの交付金なのだ。夕張はそれでせっせと借金を返済し、残ったわずかな金で自治体を運営している。しかし日本全体が人口減少で財源不足になった時、日本にお金を融通してくれる上位の組織は存在しない。夕張は国や県からの金でなんとか生命を維持しているが、国が同じ状態になったときは誰も助けられないのだ。

 

ここに登場する地方自治体の取り組みは、あまりにも深刻で、それだけに部外者の目からは滑稽ですらある。「そこまでひどい状態なら、他の場所に移り住めばいいではないか?」と思っても、なかなかそれができない当事者の事情や気持ちもあるのだ。

 

日本は人口減少で衰退していく。どうすればいいのか? その特効薬を出してくれる処方箋はないし、今さら体質改善をしても手遅れだ。(こうなる原因はおそらく高度経済成長期の1960年代頃にあったのではないだろうか。)日本は人口減少の現実に、否応なしにハードランディングするしかない。しかしそれに備えてしっかりとシートベルトを締め、頭を抱えて衝撃に備えるぐらいのことはできるはずだ。

参考になった

具体的に実際にある市町村県がでてきて、その対策まででてくる。参考になりました。

不可避

タイトルに「衝撃」とある書籍は数多くあるが、これほど衝撃的なものは他にないのではないだろうか?自分はこれを読むまで、ここまでの状況や出来事をまとめた内容に触れる機会はありませんでした。

読み終えて直ぐの今、モヤモヤしてます。

処方箋はないので、日本を出る準備を考えている

投稿者amazon1user201786

・処方箋はない夕張に処方箋はない。だから出られる若者が流出している。

出られない者は文句を言いながら、なくなる。そして執筆者が言うように、

日本にも処方箋はない。だから、真剣に出る準備を考えている。

 

・負担が上がり、サービスが低下する夕張から若者が流出し、人口が3割減っている。

ただ、夕張からの脱出であれば仕事・言葉の面では問題はないだろうが、

日本から出るとき、年齢・仕事・お金・語学力が壁となる。

それを超えられないとどうなるか、イメージが湧いた。

 

・他の評者が仰るように、夕張は日本の未来ではない。

国庫支出金・地方交付税交付金があるからだ。日本全体が夕張のような高齢社会になる40年後は、

誰が日本に金を出す?夕張以上に深刻になるだろう。

 

*グラフの原点を弄った誇張表現や、ポエムのような自嘲文体が気に障る。普通に書けと言いたい。

他の資料まで信頼性が下がるだけ。

9:45 2017/08/18


差出人: 逢坂誠二事務所 浜谷

<ohsaka-jimusyo3@cpost.plala.or.jp>

送信日時:       201758日月曜日 16:22

宛先:   Takita

件名:   書籍のお知らせ、ありがとうございます。

瀧田さま

こんにちは、お世話になっております。このたびは、書籍(「富国」喪失)のお知らせ、ありがとうございます。

おおさか誠二は今日も予算委員会で質疑の時間をいただき、お陰様で多忙にしておりましたので、のちほど瀧田様から書籍の紹介がありましたこと、伝えておきます。いつもお気遣いをいただき、感謝申し上げます。

 

逢坂誠二事務所 浜谷

: 【おおさか誠二】連合後援会の受付[自動返信]

拝啓浜谷さん、日本の政治が、危機的なことと思いますが、逢坂議員は日夜努力しておられるのを、感謝しています、私は逢坂議員が、この本を知らないのならばと、お知らせしますが、読んでほしい本です。

「国富」喪失 (詩想社新書) 新書 - 2017327 植草一秀 (), 発行詩想社 発売

星雲社 (その他) 5つ星のうち 4.45件のカスタマーレビュー

内容紹介

戦後、日本人が蓄えてきた富が、いま、流出していく! !

読んでいましたらごめんなさい?

 

鹿児島県大島郡龍郷町大勝

瀧田 好治

平成29511

17/5/6 538


日本国憲法の問題点なかほど おわりさいご小室直樹2002年4月30日集英社インターナショナル

第四章、憲法を殺す官僚の大罪


175頁、「官僚独裁」の国・日本

日本国憲法はまさに瀕死の状態である。

カトリックの僧侶なら、今ごろ終油の秘蹟を行って「汝の魂が天国に行けますように」と祈っているくらいの段階である。日本国憲法の棺の蓋はまさに閉じられようとしている。
こと、ここに至るまでには、すでに述べられてきたとおり、さまざまな「病因」がある。

戦後教育の問題、首相の指導力の問題、だらしない政治家の問題、さらにはマスコミの問題・・数え上げていけばキリがない。さまざまな弊害によって、日本のデモクラシーは弱体化し、
ついに今日の状況に至った。


だが、そこで我々が絶対に忘れてならないのが「官僚」の問題である。官僚、ことに「エリート官僚」と呼ばれる一群の
役人どもが、日本の憲法を棺桶の中に押し込め、その蓋に釘を打ち込んでいる。

まさに、官僚こそが憲法殺しの直接の下手人。

そういっても決して誇張でもなんでもない。

何しろ、昨今の役人は日本の三権を壟断(独占)し、
権力を恣にしているのだ。

立法府には議員はれども、法律の原案を実際に作っているのは
役人たちである。

行政府に政治家はあれども、その政策の大綱は役人が作成し、
政治家はその書類に判をつくだけの存在である。

176頁、8/30/2003 7:21:17 PM

ことに産業界に対する行政指導においては、
官僚の力は万能と言えるほどであった。どんな大企業であろうとも、
役人の一顰一笑に汲汲としなければならないのが日本なのである。

さらに司法においても、それは同じである。

本来のデモクラシーにおいても、言うまでもなく司法は裁判所のもの。
だが、この日本では実際に「これはよし」、
「これはいけない」という判断を下しているのが、役人である。
すなわち、司法も役人(行政官僚)に乗っ取られている。

たとえば、ある村に「この橋を牛や馬は通るべからず」
という条例があったとする。この橋を象をつれて渡ろうとする人
があった場合、そうするか。果たして、この橋を渡ってよいのか、
悪いのか(この例は元自治官僚であった加藤栄一教授に拠る)。

村役人に問い合わせたが埒が明かない。さて、そこでどうするか。

これがアメリカやイギリスなら、裁判所に訴えるところだが、
日本では県庁に訴える。すると県の役人が行政実例集を参考にして、
これを判断して、その是非を教えてやる。

しかし、県のレベルで判断が出なければ、今度は中央官庁にお
伺いを立てる。まるで市町村が第一審で、都道府県が第二審、
中央官庁が最高裁という三審制みたいではないか。
この日本では裁判所の代わりに役人が法判断を下して、
それが通ってしまう。

177頁、8/30/2003 9:16:40 PM

これはまさに司法権の簒奪(うびとること)ではないのか。
つまり、日本のデモクラシーとは所詮、名ばかりであって、その実態は
「官僚独裁」に堕してしまっているのである。

無能な独裁者たち

とはいえ、それでもこうした役人たちの「独裁」
の中身が優れたものであるなら、まだ弁護のしようも。ある

現実の世界は所詮、結果論である。

たとえデモクラシーが完璧に実現していても、政治がうまく行われず、
人民が今日の暮らしにさえ困っているとすれば「民主主義万歳」
とは言いにくい。

逆に、独裁制であっても、それによって人民の暮らし振りが
向上していくのであれば、独裁イコール悪とばかりは言えない。

では、そこで日本の場合はいかに。エリート官僚たちが
三権を牛耳るようになって、日本国民は果たして幸福になれたのか。
あるいは今後、幸福になる可能性があるか。

その答えはもちろん「ノー」である。すでに一章でも述べたとおり、
旧大蔵省のエリート官僚たちは自分たちの命令によって、
マーケットが自由自在に動くものと信じて疑わなかった。

178頁、8/30/2003 9:27:24 PM

だが、実際に総量規制の通達を出したら、地価が下がったのみならず、
日本経済そのものが壊滅的なダメージを受けた。
下がった地価はいまだに上がることもなく、
国民の財産千数百兆円分が吹き飛んだままになっているのである。

彼らの「大罪」はそれだけに止まらない。厚生省(当時
(の官僚たちは血液製剤によって血友病患者がエイズになる
危険を知りながら、それを放置した。国民が病に苦しもうとも、
官僚たちは何の痛みも感じなかった。

今回の狂牛病問題にしても、しかりである。
狂牛病が現実のものになったとき、農水省や厚生省は
機動的に対策を行ったか。自分たちとゆかりの深い関連業界の
利益を優先したために、その対策はまるでザル法ではなかったか。

こうした数々の失政に加えて、最近では官僚の
腐敗・腐朽ぶりがますます顕在化しつつある。

その筆頭が他ならぬ外務省である。

事故の飲食や遊興の金を、数億円以上も機密費から
流用したというスキャンダルが判明したかと思えば、
今度は一国会議員の利益誘導のために、対ロシア外交そのものが
翻弄されていたことが天下に明らかになった。

かつての外務省といえば、その採用も独自の外交官試験によって行い、
「外務省は他の省庁とは格が違う」いわんばかりのエリート
集団だっはずなのに、もはやそのプライドは影も形もない。

このような腐敗・腐朽した独裁者たちの存在こそが、
日本のデモクラシーを損ない、日本の憲法を殺した。
このことこそ、我々は注目しなければならない。

179頁、8/31/2003 7:26:59 AM

アメリカの民主主義を前進させた西部人

本書で再三再四、指摘しているように憲法の実体は、
憲法だけを見ていても始まらない。たとえ立派な
憲法があったとしても、憲法の精神が活かされるような
「土壌」が実際にあるのか。それを見ない限り、
憲法を論じたことにはならない。

ところが日本の憲法学では、そうした実体面を一向に語らない。
憲法学者は「論語読み」ならぬ「憲法読み」、
つまり憲法の注釈やに堕してしまっているのが現状である。

憲法を活かすために必要な土壌には、さまざまなものが挙げられる。
前章で述べた教育も重要なテーマであるのだが、それにもまして
忘れてはならないのが官僚制の問題である。

官僚制がどのように行われているのか、そのことと憲法とは
重要な関連がある。かつて丸山眞男教授はマックス・ウェーバーの
論文を引きつつ、官僚制の恐ろしさを次のように喝破(ずばり言った)。


絶対君主でさえも、いなある意味ではまさに絶対君主こそ官僚の
優越せる専門知識に対して最も無力なのである。
(丸山眞男「増補版現代政治の思想と行動」未来社。125〜
126n)
絶対君主といえども、官僚制にはかなわない!

180頁、8/31/2003 8:47:18 AM

とすれば、憲法なんて官僚制に食い殺されてもおかしくない。

しかるには、日本の憲法学者で、憲法と官僚制の関係を徹底的に
研究した人がどれだけあるだろう。筆者の知る限り、
そうした本格的な論文は存在しない。

その意味において、憲法学者もまた「憲法の死」
の片棒を担いでといえるとも言える。それはさておき、憲法、
そしてデモクラシーと官僚制がどれだけ緊密な関係にあるのか。

そのことは、19世紀アメリカの「ジャクソニアン・デモクラシー」
を思い出してみれば分かる。

アンドリュー・ジャクソン第七代大統領の時代のころを、
アメリカの民主主義はさらに一歩前進したと
考えられているからである。

ジャクソンは、それまでの大統領とはさまざまな点で異なっていた。
まず第一に彼は「丸太小屋に生まれた西部出身者としては
最初の大統領」(中屋健一「明解アメリカ史」三省堂。79n)
であった。

ジャクソンはノースカロライナで、1767年、
開拓民の子供として生まれた。二歳の頃に父親を亡くして、
独立戦争中に母と二人の兄が死んだので、14歳で孤児になった。

このため、ジャクソンはほとんど正規の教育を受けることが
できなかった。後年、彼は発奮努力して弁護士の資格を得、
州の最高裁判事にもなったのだが、それらはあくまでも独学だった。

181n、8/31/2003 9:09:38 AM

ジェファソンのような教養人とは、まったく異質のタイプである。
これは有名な話だが、大統領になったとき、
側近たちが驚いたのが彼がまともなスペリングを知らないことだった。

彼がサインした書類を見ると「OIIKORCT」と書いてある。
もちろん「ALLCORRECT(万時良し)」の間違いである。

このジャクソンの間違いから[OK]という言葉ができたとも
言われているが、一事が万事で、従来の政治から見れば、
ジャクソンはまるで無教養な山猿に見えたことだろう。

「スポイルズ・システム」とは何か

ところが、このジャクソンが大統領に就任して、
アメリカの民主主義は一歩前進した。
その理由は彼がアメリカの官僚制度を大きく変えたからであった。
この改革こそが、ジャクソニアン・デモクラシーの
要点、急所であるといってもいい。

大統領になったジャクソンには、一つの信念が合った。

それは「どんな平凡な人間だろうと、役人は務まる

ジャクソン大統領は、その第一期目の就任演説で次のように述べた。
すべての官吏の職務責任というものは、はなはだ
簡単明瞭なものであるから、一定度の知能のあるものは、誰でも、
それらの職務遂行する資格条件を、
すぐ備えるようになれるものである。

(中屋「新大陸と太平洋」中公文庫「世界の歴史」第11巻。149n)

182n、8/31/2003 9:26:35 AM

そこで彼が行ったのは「スポイルズ・システムと呼ばれるものである。
ジャクソンは前任者のアダムス大統領時代に任命された
官吏をほとんどみな解職し、彼の選挙に功労のあった人たちを任命した。つまり、選挙の手柄に応じて、官職を与えるというのが、
この制度のポイントなのである。

ちなみにスポイルとは「戦利品」という意味である。
スポイルズ・システムのことを日本語では「猟官制度」とも呼ぶ。

以後、このスポイルズ・システムは、アメリカ民主制度の
一部として定着した。

最も徹底的にこれを行ったのがリンカーンで、かれは1639の
公職のうち、実に1457という史上最大の更迭を行った。

日本人から見れば、こうした猟官制度は所詮、情実人事であって、
非常に問題が多いもののように思えるだろう。

事実、アメリカでもスポイルズ・システムが乱用されたために、
まったく職務能力や知識を持たない人間が政府の高官
になったりして社会問題になった。

また、猟官運動に失敗した男が逆恨みから大統領を暗殺するという
事件もおきた(第二〇代ガーフィールド大統領)。

そこで1883年、メリット・システム(資格任用制)、
つまり試験によって公務員を選ぶ制度が作られたわけだが、
だからといってスポイルズ・システムが廃止されたわけではない。

今でもアメリカでは政権が交代するたびに、
各省庁の局長以上の上級公務員もまた入れ替わる。
ジャクソンのスポイルズ・システムは今なお生きているわけである。

アメリカは「貴族政治の国」だった

ジャクソン大統領のスポイルズ・システムが、アメリカ民主主義を
一歩前進させた。こういわれても、おそらく多くの読者は、
その意味がすぐには呑み込めないだろう。

だが、これは紛れもない事実。

というのは、ジャクソン大統領以前のアメリカは、
実は民主主義ではなかった。
ある歴史家はジャクソン大統領の当選を持って
「アメリカ貴族政治の終結」と言っている位である
(中屋「新大陸と太平洋」150n)。
確かに、アメリカの合衆国はあの華々しい独立宣言を、もって
民主主義をスタートさせた。

だが、その民主政治の実態は、一部の特権階級、いわゆる
「エスタブリッシュメント」の手に独占されていた。
事実、それまでの歴代大統領にしても、いずれも資産家で、
高等教育を受けた人間ばかりであった。

政治に一般庶民の出番はなかった。
つまり、憲法の精神はちっとも生きていなかったわけである。
じじつ、独立宣言にも憲法にも、またワシントン大統領の就任演説にも
「デモクラシー」という言葉が出てこない
(中屋「明解アメリカ史」77n)。

184n、8/31/2003 10:17:11 AM

またリンカーンのディスバーグ演説にも「デモクラシー」
という言葉は直接使われていない(堂右125n)。

これは官吏の任命にしても同じことで、連邦政府の職員になれるのは
エスタブリッシュメントの子弟とか、あるいはそうした人と
コネを持っている人間ばかりであった。

ちなみに、この時代、官吏を試験で選ぶという方法はあるにはあったが、
完全に定着したとは言えない。イギリスで試験制度が
設けられたのは1855年のことである。

さて、こうした一部の人間が長い間、官職を独占していれば、
どのようなことが起きるか。

貴族政治の発生である。

アメリカは民主国家だから、もちろんヨーロッパのような
貴族は存在しない。だが、一部の階級が行政組織を独占すれば、
それは貴族と何ら変わることはない。

彼ら「アメリカの貴族」は自分たちの既得権益だけを守り、
国民のことを考えなくなるだろう。だからこそ、ジャクソンが
大統領になって官職を一般人に開放したことは、アメリカの
民主主義にとって大いなる前進だと歓迎されたわけである。

また、ジャクソンの時代から「デモクラシー」の語が
直接に使われるようになった。

官僚抜きに政治を語るなかれ

政治を実行に移していく上で、官吏をどのように登用していくか。

185n、8/31/2003 10:46:24 AM

これは洋の東西を問わず、古来から大きな問題であった。
なぜなら、役人の登用法いかんで政治そのものが大きく
変わっていくからである。この点、現代の日本で、憲法学者でさえ、
「官僚と憲法の関係」なんて考えないのとは大違いである。

なかほど

たとえば、古代アテネは「民主制」が行われていたことで有名だが、
古代のアテネ市民たちは、自分たちの民主制の特徴を
「公職への参加に差別がないこと」であると考えていた。

つまり、都市国家アテネの政治を少数の人間に任せずに、
なるべく多数の人間が公平に参加させることが大事だと思っていた。

同じ人間が一つの公職に長期間に渡って就いていたら、
必ずそこでは腐敗や不正が行われるし、それが続けばやがては
貴族政治になってしまいかねない。

そこで、アテネでは役人の在職期間をなるべく短くし、しかも、
その役人を抽選で決めることにした。それによって、
貴族やそれに類する特権階級が現れることを
徹底的に防ごうとしたわけである。

官僚制のあり方によって、政治そのもののあり方も変わる。
そのことを古代アテネの人々はよく知っていたのである。

かたや中国においても、宋以前の歴代王朝もまた官吏の問題に
頭を悩ませていた。というのも、五代(梁、唐、晋、周)の
戦乱によって社会制度が大きく変わるまで、中国では地方の
有力貴族がのさばっていたからである。

186n、8/31/2003 11:00:40 AM

こうした貴族たちは、王朝が変わり、皇帝が代わっても地方の政治を
壟断し続けた。

地方の公職はすべて貴族に独占されていたので、
統一国家といってもその権力は地方にまで及ばなかった。
どんな皇帝であっても、地方貴族の存在を無視しては
政治を行えなかったのである。

何しろ、貴族の中には「自分たちの家柄は天子の家柄より古い」
と自慢するものがあったくらいである。

この貴族の既得権益に対抗するため各王朝の皇帝は知恵を
絞りに絞った。そこで隋の文帝が考え出したのが、「科挙」
という制度だった(6世紀)。

皇帝が自由に政治を行うには、皇帝直属の部下、つまり
官僚が必要である。官僚を皇帝自ら任命することで、
貴族の影響力を排除できるのではないか。

だが、そうした有能な官僚を登用するには、常に多数の
官僚予備軍が必要である。そこで隋の文帝は公開の試験によって
官僚候補を募集しようと考えた。これが科挙である。

といっても、貴族と皇帝の戦いには何も科挙が最初ではない。

実はそれより700年も前、漢の武帝の時代に「考廉」制度といって、
家柄などに関係なく優れた人物を官吏に登用するというやり方を
実施している。

また、三国志で有名な魏の曹操は「九品官人法」という制度で、
人材抜擢を行うとした。しかし、そうした制度はいずれも
貴族によって骨抜きにされてきた。

そこで文帝が最後の切り札として出したのが、この科挙
であったわけである。といっても、この科挙の制度も簡単に
定着したわけではない。

187n、8/31/2003 1:32:40 PM

隋、そしてその次の唐の時代においても、貴族は完全に
無力になったわけではない。この間、皇帝が任命した官僚と、
貴族との間には熾烈な戦いが繰り広げられた。

科挙がようやく定着したのは、五代の動乱を経て、
貴族のほとんどが没落した宋の時代になってからのことだった。
つまり、科挙がきちんと機能するまでには四世紀近い時間が
必要だったわけだが、そのくらい皇帝にとっては役人
の登用が重要なものであったのだ。

「無階級社会」を作り出した明治維新

さて、そこで近代日本の官僚登用制度とはいかなるものであったか。
そのことを考えてみることにしたい。

すでに前章で述べたように、明治の新政府は日本を近代国家にするため、
「国民」を作ることに最大の努力を傾けた。

近代資本主義も国民なくして興り得ず、近代資本主義なくしては
日本は近代国家として認められないからである。

そこで明治政府は、教育勅語によって「臣民」という思想を
国民に普及させ、それと同時に「四民平等」政策によって、
江戸時代の階級制度を廃止した。

これぞデモクラシーではないか。この結果、
日本は近代国家への道を歩み始める。ことに教育の成功は、
世界史的に見ても驚くべきものがある。

188n、8/31/2003 1:48:50 PM

何しろ日本では日露戦争の直後、1907年には初等教育就学率
がほぼ100%に達した!

国民の教育に対して、これほどまでの努力を傾注したというの
には西洋の常識では考えられないことであった。

何しろ、同時代のロシアにおいて初等教育を受けた人間は
全体の10%に満たなかった。国力においてロシアと比較
にならない小国の日本にとって、
教育負担は決して軽いものではなかった。

しかし、当時の明治政府は「教育こそが近代国家、
資本主義国家を作る」と信じて疑わなかった。

これは驚くべき卓見である。この当時の世界において、
教育が経済発展の最大のファンダメンタル(基礎条件)
であることはほとんど知られていなかったのだから。

ところが、この大成功は一方において深刻な問題をもたらした。
というのも、「天皇の下における平等」を実現させ、
国民を作り出すことに最大の努力を傾けた結果、日本は
「無階級社会」になってしまったからである。

準貴族以下がいなければ、貴族社会は機能しない

明治維新は、武士や公家といった従来の階級を廃止した。
この結果、日本には特権階級はいなくなった。
日本は無階級社会になった。

189n、8/31/2003 2:02:34 PM

もちろん、戸籍上では士族という名前だけは残ったが、
士族にはなんの見るべき特権はない。むしろ明治維新によって
最も経済的打撃を受けたのは、他ならぬ士族だった。

その後、明治政府はイギリスの真似をして華族制度を導入し、
かつての公家や諸侯をこの中に収めて、「新時代の階級」
を作ろうとしたのだが、この政策は決してうまく行かなかった。

というのも、イギリスでもドイツでも貴族の下には準貴族、準々貴族、
準々々貴族と呼ぶべき階層を設けていた(痛快!憲法学73n参照)
のに対して、日本にはそういう制度がなかったからである。

このことは近代日本の社会を考える上で、決定的に重要である。
ヨーロッパの貴族制度を見る上で重要なのは、
こうした準貴族や準準貴族といった階層の人たちが
国家や社会の柱石にとなっているという事実である。

たとえば、イギリスの初期資本主義経済を支えたのは、ジェントリー
(準準貴族)やヨーマン(準々々貴族)といった地方の
名望家たちであった(前章参照)。

ジェントリーはイギリス全人口の10分の1よりずっと少なかったが、「生まれながらの支配者」と呼ばれ、地方の支配権を握っていた。もちろん自前の富もあり、周囲から尊敬を集めていた。

一方のヨーマンは「独立自営農民」とも訳されているが、プライドが
高く、勇武を誇り、冒険心を持っていた。「英国社会の華」
とも呼ばれていた。アメリカ開拓者となった人も多い。
また、たとえばプロイセンやドイツにおいて、その政治や軍隊の
中核となったのはユンカーと呼ばれる下級貴族であった。

ドイツ統一を実現したビルマルクもまた、このユンカー出身である。

190n、8/31/2003 3:25:42 PM

ノンブレス・オブリージュとは

いったい、なぜ、ジェントリーのような人々が、イギリスやドイツ
社会の中核となったのか。そして、なぜ彼らが憲法やデモクラシーを
確立させたのか。このことについて触れておかねばならない。

言うまでもないことだが、ジェントリーやユンカーには財産的な
裏付けがあった。そうした安定した生活基盤がなければ、
教養を身につけることもできないし、事業を起こすこともできない。

だが、そうした経済的安定があれば、それで充分かといえば、
そうではない。さらに重要なのは、プライドであり、責任感である。

自分たちの国家、社会の柱石である。そうした特権意識、
エリート意識がなければ、万難を排して事業を起こすとか、
国家のために身を挺して奉仕するという行為も生まれてこない。

ちなみに、こうしたエリート意識のことを「ノブレス・オブリージュ
(勇者の責務)という。天下のことを自分の任務だと自覚し、
そのためには自己の利益をも犠牲にできるという意識である。

プロイセンのユンカー達の子弟に軍人になるものが多いのも、
このノブレス・オブリージュの現れである。
こうしたエリート意識は貴族制度、あるいは
階級制度なくしては生まれ出るものではない。

191n、8/31/2003 3:40:51 PM

ところが、近代日本の場合、こうした準貴族や下級貴族に
相当する人々に政府は特権を与えなかった。

本来なら、地方名望家と呼ばれる人たちに一定の特権を与え、
彼らにノブレス・オブリージュの意識を涵養させておけば
よかったのに、見捨てたのである。

この結果、日本における華族は一般社会から浮き上がった存在になった。かつての大名たちは軍人になるわけでもなく、
また事業を興すわけでもなく「太平の惰眠」になってしまった。
この結果、日本の華族制度は社会的にはほとんど意味が
なくなってしまった。

いや、そればかりか不良華族が頻出し、社会から軽蔑され
嫌われることになった。

「社会には階層が必要である」という理由

ギリシャやローマの哲学者がすでに指摘し近代社会学者も
認めたように、社会を運営するためにはどうしても
階層がなくてはならない。

社会の運営のためには分業と協同が必要であり、そのためには
階層を設けなければならないのである。全社員が平等な
会社などがありえないように、国家においても階層は不可解である。

もっと具体的に言うならば、社会を指導するエリート層が存在
しなければならないということである。

社会にはエリートが必要である。

こう書くと、戦後の平等教育になれた読者の中には反発を覚える
向きもあるかもしれない。

192n、8/31/2003 3:57:38 PM

だが、これは厳然たる事実である。たとえば、階級をなくすために
ロシア革命を行ったソ連でもノーメンクラツーラと呼ばれる
特権階級が出来てしまった。人民中国においても、またしかりである。

国家の構成員、つまり国民に階層がなければ、国家運営はできない。
ことに近代国家のような複雑な社会においては、なおさらである。

指導的階層がなければ、その国家は麻痺してしまうことになる。
したがって、エリートの存在は不可避であると言ってもいい。

問題は、そのエリートの質である。

もし、そのエリートたちが自己の利益と特権を守ることだけに汲々としていたら、国全体が腐敗・普及していくことになるであろう。

一方、イギリスのジェントリーやヨーマンのごとく、あるいは
プロイセンのユンカーのごとく、エリートとしてのプライドと
責任を感じていたとしたら、その社会はうまく運営され、
発展するかもしれない。

では、この観点から社会科学的に見たとき、明治以後の
日本はどうであったか。

維新を起こし、維新に滅びた下級武士

明治の新政府は江戸時代の階級制度を廃止した。
この結果、旧来の武士が持っていた特権はすべて失われ、
建前であるにせよ、四民平等ということになったわけである。

193n、8/31/2003 4:27:07 PM

このことは日本を中央集権の近代国家とするためには
必要不可欠なことだったともいえるわけだが、一方で深刻な
問題をもたらした。明治の日本社会から階層構成原理が
なくなってしまったのである。もっと具体的に言えば、
将来の指導者層をどこからリクルートしてくるのかという問題である。

本来ならば、それに最もふさわしいのは、かつての武士階層であった。
江戸期における武士は、エリート階層としての倫理を「武士道」
という形で叩き込まれてプライドも高かったし、また教養も高かった。

「武士は食わねど高楊枝」。己の懐具合を思い煩うのは
武士として恥ずべきこと。いったん事あらば、自分の身命を顧みず
公に奉じるのが武士道の教えである。

この武士道を強く自覚していたのが、幕末の下級武士たちであった。
幕末期の下級武士といえば、イギリスのヨーマンとは比べ物に
ならないほど貧乏であった。

幕府や藩財政の窮乏で、下級武士にはほとんど禄らしい禄は
回ってこない。町人のほうがはるかに下級武士より
生活ぶりはよかった。ところが、その下級武士たちが
町人よりも勝っていたものがある。それは武士としての
プライドと志であり、高い教養であった。

そのことがあったからこそ、明治維新において下級武士が歴史の
中心になれた。たとえば、江戸城明け渡しの談判において
主役を務めたのが、西郷隆盛と勝海舟であったことはよく知られている。

その西郷と勝は、紛れもない下級武士の出身であった。

194n、8/31/2003 4:44:14 PM

このようなことは欧米でも絶対に考えられないことである。
これほど重要なことであれば、組織のトップが行うのが通例である。

いや、日本の戦国時代にしても同じである。本来なら、
官軍側の代表は東征大総督たる有栖川宮熾仁親王、
幕府側は徳川慶喜と主席老中、この両者が相まみえて
交渉すべき問題である。

ところが、維新期の日本ではそうではなかった。なぜか。

上級武士の大多数には、もはやノブレス・オブリージュのかけらも、
教養も志もなかったからである。

まさに、下級武士こそが日本のヨーマンであり、ユンカーであったのだ。
かつて黒船が来航したとき、吉田松陰は決死の思いで
ポウハタン号に乗船し、ペリー提督に「是非渡米したい」
と申し入れをした。

この松陰の願いは残念ながら叶えられなかったが、ペリーは松陰を見て、
「きっと、この人物は貴族であろう」と考えたという。

松陰の身なりは粗末であったが、その振る舞いが気品とプライド
に溢れていたから、そう感じていたのであろう。幕末の下級武士は、
まさに精神において貴族であった(拙著「歴史に見る日本の行く末」
青春出版社57〜61n。

ところが、その下級武士から明治政府は階級的特権をすべて剥ぎ取り、
ただの「士族」」にしてしまった。維新の中心にあった
下級武士の大多数は、革命によって報いられるどころか、
かえって以前よりも生活に困るようになってしまったのである。

「教育を持って階層構成原理となす」

憲法調査のためにドイツ帝国に渡った伊藤博文は、
ドイツ初代皇帝ウィルヘルム一世に謁見を許された。
そのとき、老帝は親しく伊藤にこうアドバイスをしたという。

「貴国の武士階級は日本の宝だから、大切にしなければならない」
ウィルヘルム一世は自国のユンカー達
(股肱の臣たるビルマルクもそこに含まれる)をよく知っているから、
日本の武士階級の重要性に気が付いたのであろう。

だが、時すでに遅し。本来なら、次代の日本を担うべき
「日本のユンカー」たる武士階級は影も形もないのである。
かつての下級武士たちは今や、失業者になってしまっている!

そこで伊藤博文が考えたのは「教育を持って階層構成原理となす」
というアイデアであった。すでに日本にはイギリスの
ジェントリーやヨーマン、あるいはプロイセンのユンカーのような
階層は存在しない。とすれば、後は失業した武士階層の子弟を
中心に教育を与え、その中からエリートを育てるしかないと
考えたわけである。

196n、8/31/2003 5:58:34 PM

そこで帰朝後、初代内閣総理大臣となった伊藤博文は、早速明治19
1886)、帝国大学を創設した(この当時、帝国大学は一つ
しかなかったので、東京帝国大学と呼ばない)。

この大学の主目的はきわめて明確であった。
すなわち、それは高級官僚の養成である。
ちなみに、この帝国大学の前身となったのが東京大学であるが、
東京大学と帝国大学とでは「平民と貴族ほどの違いがあった」
(竹内洋「学歴貴族の栄光と挫折」中央公論社。

「日本の近代」第12巻。62n)。

というのも、最初に生まれた東京大学は決して突出した存在ではなく、
単に文部省所管学校の名称に過ぎなかった。この当時は、
各省庁が自前の大学や学校を持っていた。法学校、工部大学校、
札幌農学校などがそれで、東京大学もその一種に過ぎなかった。

したがって、この頃の東大を出ても、何らかの特権などが
与えられたわけではなかったのである。ところが、
その東京大学が帝国大学に変わるや否や、その性格が一変する。
高級官僚(学歴貴族)を
作るための特権的大学に様変わりしたのである。

エリート養成学校として作られた帝国大学

明治19年に誕生した帝国大学は、主に高級官僚養成学校として
生まれた。そのことは初代文部大臣の森有礼が作った
「帝国大学令」の中に明確に謳われている。

すなわち帝国大学の目的は「国家の枢要に応ずる学術技芸を授受」
することにある。卒業生は国家の枢要、つまり高級官吏となることを
期待されていたわけである。

この当時、帝国大学には法・文・医・工・理の五学部
(正確には分科大学)があったが、法科大学長が帝国大学総長を
兼任する事になっていた。もっと重要なことは帝国大学の卒業生は、
当初、試験を受けなくても高級官吏(高等官)
になることができたという点である。

帝国大学の学生に限り、試験を免除する!

これ、まさしく帝国大学が官吏養成学校として作られたことの
証明に他ならない。この当時、高等官を採用するための試験はあった
(高等文官試験)。しかし、その試験は難関であって、
容易に合格のできるものではない。

ところが、帝国大学の学生なら、試験を受けなくても短期間の
見習い期間を経れば、高等官になれるのである。

さすがに、この露骨な特権に対しては世論の反対も強く、
後に試験免除の制度はなくなるのだが、東京帝国大学はその後も
官僚養成学校でありつづけた。明治27年から昭和二十二年に
至るまでの高等文官試験(行政科)の合格者のうち、
なんと62%は東京帝国大学出身者によって占められていた。

198n、8/31/2003 6:31:51 PM

198n、8/31/2003 6:31:51 PM

しかも、そのほとんど(94%)は法学部出身である。つまり、
高級官僚の二人に一人は東京帝国大学法学部の出身で
あったということになる
(竹内前掲書。70n)

伊藤博文と森有礼の計略は見事に的中した。彼らの望んだとおり、
東京帝国大学は「エリートを作り出す」学校になった。

いや「的中した」というだけでは、まだ充分ではない。

なぜなら、東京帝国大学ブランドは単に官界のみならず、
経済界にも広がった。民間企業でも東京帝国大学卒業生は歓迎され、
その月給も飛びぬけて高いものになった。

まさに、帝国大学は日本の「階層構成原理」そのものに
なったといっても過言ではない。

日本と欧米の大学は正反対

日本の大学は、国家のために作られた。
このことは多くの日本人にとっては当たり前のように
思われるかもしれないが、実はこれ、大変なことである。

というのも、欧米の大学は日本の大学とはまるっきり
正反対の歴史と性格を持つからである。

ヨーロッパで大学が誕生したとき、それらはすべて「私立」
であった。権力と関わりのある大学など、一つもなかった。

199n、9/13/2003 10:47:29 AM

そもそもヨーロッパにおける大学とは、公権力からの自立を
目指して生まれたものであって、「権力が作る大学」なんて
矛盾もいいところなのである。

ヨーロッパで大学が成立したのは12世紀から13世紀にかけての
ことだが、これ
以前のヨーロッパに高等教育機関がなかったわけではない。

立派な設備を持ち、書物を多数蓄えた学校はあちこちにあった。

しかし、そうした学校はすべて、「紐付き」、つまり権力の
保護を受けていた。具体的に言うと、教会や王権が作った学校であった。

したがって、そうした学校は教会の聖職者や王の官吏を
養成するためのものであったわけである。

だが、ヨーロッパも12世紀から13世紀に入ると、
そうした学問に飽き足らない人たちが現れた。
権力とは関係なく、自由に学問を追及したいという
風潮が生まれてきたのである。

その直接のきっかけを作ったのは、
イスラム世界に対する十字軍だった。

当時のイスラム世界はヨーロッパとは比較にならないほど
学問が発達した地域であり、中でも古代ギリシャや
古代ローマの古典研究に力を入れていた。
十字軍によってイスラム世界を訪れたヨーロッパ人は
知的刺激を受けて、ヨーロッパの学問水準を
向上させようと考えるようになったのである。

どこでイタリアのボローニャでは学生たちが集まって組合を作り、
教師を雇うという動きが生まれた。
これが1088年に出来たボローニャ大学の始まりである。
これとは反対に、まず学者の組合が出来て、
学生を教え初めて出来たのがパリ大学である
(1150年頃)

2百n、9/13/2003 11:11:00 AM

このことからも分かるように、ヨーロッパの大学は最初から
権力とは無縁であった。「大学の自治」という概念、
あるいは「学問の自由」という概念は、
こうした大学の姿から生まれてきたものであった。

もちろん、権力の保護を受けないのだから、
ヨーロッパの大学はその初期において校舎も設備もまったく
お粗末なものだった。

たとえば1170年に出来たといわれるオックスフォード大学も、
筵の上に学生が坐って講義を受けたといわれるぐらいだ。

校舎もなければ、机もいすもない大学!

しかし、これこそが本当の大学なのである。

筆者がMIT(マサチューセッツ工科大学)に留学した折、
サミュエルソン博士
(経済学者。1970年、
ノーベル経済学賞受賞
)から聞いたことだが、
初期のハーバード大学もまた同様のスタートであったという。

「丸太の向こうの端に先生を坐らせ、
こっちの端に私を坐らせれば、
それが最高の大学である」この博士の言葉とおり、
創立間もないハーバード大学は設備こそ何もない、
青空教室だったけれども、当時としては最高の教育を
施していたというのである。

オックスフォードが「エリート校」と呼ばれる理由

日本の教育制度は欧米の猿真似だと言う人は多い。
事に大学の制度は戦前はドイツ、戦後はアメリカの
模倣だといわれるわけだが、そんなことはまったくの
デタラメなのである。

日本の大学は設立の思想も目的も機能も、
欧米の大学とはまるで違う。

伊藤博文と森有礼によって作られた帝国大学は権力の
保護を受けないどころか、権力そのものになった。

この結果、日本の大学は学問を研鑚(ケンサン学問などを磨き深めること)
する場所でなく、ただの通過点になってしまった。

学生にとって必要なのは「大学を出た」という事実だけであって、
そこで何を学んだかは関係ないのである。これでは学生のほうも
熱意がなくなるし、教師ももちろん堕落する。

前章で述べたとおり、明治の日本は初等教育においては世界に
類を見ない大成功を収めた。だが、一方の高等教育は、
その本来の目的を果たすことさえ出来なくなった。

ことに東京帝国大学は、単なる偏差値エリート養成期間に
成り果ててしまったのである。

と、書くと読者の中には「たとえばイギリスには、オックスフォードやケンブリッジのような超エリート大学があるではないか」という反論を持つ人があるだろう。

今ではロンドン大学などが力を持ったから、かつてのようにオックスフォード、ケンブリッジだけが突出しているわけではないが、確かに、19世紀末から20世紀初頭にかけてイギリスの官界、政界などに属する特権階級のほとんどは、この両校の卒業生だった。だが、その結果だけを見て、この二大学が日本の東京大学のような「エリート養成校」の役割を果たしていると考えるのは早計である。

202n、9/13/2003 12:16:42 PM

というのは、この時代のイギリスで、これらの大学に入ることが
出来たのは、門地・家柄の揃った生まれながらの貴族階級に
限られていた。

労働者の子弟など、は最初から門前払いに近かった。

そんなわけだから、オックスフォードやケンブリッジを
卒業できたからエリートになったのではなく、
エリートが両大学に入った。こう考えるべきなのである。

これに対して、日本の帝国大学はその性格がまったく違う。
日本では、どんな貧しい学生であろうと、ひとたび東京帝国大学、
ことに法学部を卒業すれば、それだけでストレートに
特権階級の仲間入りが出来る。

つまり、高級官僚になる道が開けてくるというわけである。
まさに、その意味においては日本の帝大卒という肩書きは、
出世のパスポートになったのである。

戦前には受験戦争はなかった

さて、欧米とはまったく違った形で始まった日本の大学教育
であったが、その結果はどうなったか。伊藤や森の意図は、
成功したか。そこが問題である。

確かに、その初期において、帝国大学は「国家の中枢を応じる」
有為の人材を供給することが出来た。

203n、9/13/2003 1:19:30 PM

これは事実である。戦前の官僚は、今日の官僚に比べれば、
ずっと「ノブレス・オブリージュ」を感じていたし、
志もプライドも高かった。そういうことが出来るだろう。

だ、そこにはさまざまな要因が関係していることを
見失ってはいけない。

おわり