官僚支配


官僚支配終わり

第一章                    1995年11月17日(金)14時47分

                      2 復活した大日本帝国官僚時代の指導権・

53・97頁まで

唯一の立法機関から提案権を取る

たしかに生き残った官僚の最大の懸念は対国会である。

国会は、憲法上、国権の最高機関になり、唯一の立法機関として位置付けを得た。

大日本帝国時代、優位していた「行政府」はその地位を落とした。天皇の官吏が国民

の公僕になり、国民の代表を集めた「立法府」が主人公になる。

官僚にとっては任命主体、奉仕客体の百八十度の転換を意味した。

当時の憲法大臣(憲法問題専任国務相)金森氏によれば、日本国憲法の下では、

「方針を決めるのは政治機関であって官僚ではない。国の為に働く機関が官僚である。だから官僚は方針を作る必要はない。

方針の善悪を批判すべき資格はない。方針の善悪を批判すべき資格はない。つまり頭は無いはずだ。手足ばかりのはずだ。方針を決める頭を持ってはならないものよ汝の名は官僚である。

ロボットのように与えられたる任務を遂行すればよいのである」。

更にアメリカは、大日本帝国が二度と復活しないようにするため、民主政治を基本に

置き、改正しにくい硬派の憲法を与えた。

54頁、

又、日本を法治国家にして、全ての施策は、憲法を頂点とした法秩序の中に位置付け

られ、法律として政治や国民が、それに従うこととした。そこまではいい。

 

次は、その法律の作り方である。戦前の様に、官僚が自在に立法出来るのでは駄目だ。

立法は、国民の代表たる議会の独占事項でなければならない。

そこで、国会を国の唯一の立法機関とし、原則としてその他の機関による立法行為は、これを許さないことにする。特に、官僚の立法行為は断じて許すことはできない。国会が、国の唯一の立法機関であるということは、原則として、国会が国の立法権を独占するのはもちろん、さらに、国会が、単独で、完結的に立法を行うことでなければならない。

例えば、実生活上のもろもろの利害がぶつかり合い、調整された集約点が出来る。それを条文化し、法律案として国会でもまれる。最後に議決されて一本の法律が生まれ

る。これを「立法過程」という。

この立法過程を含めて、国民の代表者の集団である国会が権限責任を持つ。

              これが、GHQの狙った「唯一の立法機関」であった。

大日本帝国の立法は、そのほとんどの過程を官僚が握り、議会は、単に、協賛するかしないかの判断を任せられるだけだった。金森流に言えば、逆に「頭」は官僚であって議

会ではなかった。

そこで「頭」は「手足」協賛がなければ、「勅命」という官僚独自の立法のよって事

態をカバーしていくので、議会は、有ってもなくてもいい、と言う、誠に、情けない

状況にあった。

55頁、

・・・これを断固として断つ。

それが、日本民主化を使命とする占領軍マッカーサー最高司令官の意思であったと見

られる。

しかし、日本の知能を集めた官僚集団は生き残りをはかる。自国の官僚と政治家との関

係にとらわれていた彼等アメリカ人は、日本の官僚の実力を甘く見ていた。

日本側からすれば、内務省という司令塔が壊されればその代わりを大蔵省にすればい

い。

ともかく、明治以来の実力を、目立たないよう、少しずつ、小出しにしてGHQをまいていく、何よりも官僚制は生き残ったのだ。

・・GHQは、たいそう議会の肩を持っているようだが、そういうわけにはいかい。明治以来、官僚集団が腐心してきたのは、国民の代表を名乗る政党勢力を封じ込め、その

信用を減殺して、これを国民から引き離し、天皇の忠実な部下、官僚の方に人心を引きつける事である。

その政党勢力に、あらゆる施策のもとになる立法権を独占させるようなことが有ってはならない。

暗闘は、まず「国会法」や「内閣法」の制定を巡って起こる。原則はすでに憲法によって勝負がついている。残るは、その実施法の内容である。

議員の法律提案権を制限することは難しいが、官僚の提案権を議員と併行して認めて

おけば、後は力関係でどうにでもなる。それに理屈を提供するものがある。

「議員内閣制」である。

日本は、アメリカと違って首相を議会が選び、首相は与党の多数と官僚を従えて行政を担当する。

56頁、

法案は、与党と官僚によって作る。その力は野党議員では、太刀打ちできない。

事実、その後の展開は野党議員でさえ、

「重要法案は、政府が出すべきだ」と考えるようになっている。

政治改革のような、立法府自体に係わる問題でも議員は、政府提案を持つ。自分で発案しようとしない。

          そういう官僚に都合のいい状況をどうやって作るか。官僚は動く。

ある日、国会法の制定を巡ってGHQの係官は、議員の担当者に、「日本政府の役人

が来て、議員というのは法律も知らなければ、予算も何も分からないんだという」と、

不満を漏らした。

米軍係官は言う。

「しかし、役人にやらせているから戦争が起きた、これからの議会は、もっと勉強して、もっと強くならなければならない」にもかかわらず、日本の官僚は実績の方をどしどし進める。大日本帝国憲法の時のように、官僚の法律提案権の明文はなくなっている。しかし、別に否定した明文もないから、後は実績の勝負だ。

官僚は、この機をうつさず、新憲法でアメリカが消しておいた事を「内閣法」という

法律で既得権益化してしまう。その五条に、「内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出し・・・」と明示する。

一九四七年(昭和二十二)年一月の事である。

57頁1995年11月17日(金)19時49分直した

 

その後の進撃ぶりは、一九四九年(昭和二十四)年の議会で法務担当大臣は、

「現在の状態に起きましては、立法はまだまだ政府の手において立案されることが多いので有ります。将来はこれは国会で立法されることがますます多くなる」という申し訳的な答弁をしている始末である。

勿論、一九五〇年(昭和二十五)年や一九五一年頃までは、政府が与党議員に頼んで立法する、いわゆる「政府以来立法」と言うものが存在していた。「土地収用法」などはその例である。

しかし実体で、議員にその能力を期待できないということを見せつけられては、GH

Qも文句が付けられない。

せいぜい「常任委員会」を作らせて、その過程で、

「議員をエキスパートにしなければいけない」と言うくらいのものである。当時、あら

ゆる議案は、英訳して事前にGHQに届ける事とされていた。一九四七年(昭和二十二)年と言えば、占領最盛期であり、この内閣法が作られた二ヵ月程前には、新しい憲法も公布されていた。

当然GHQとは激しいやり取りがあったはずである。

「アメリカには委員会にスペシャリストが居る。日本もスペシャリストを置くように

して、議員をエキスパートにしなけりゃいかん」

・・日本じゃ無理だ。明治の昔からエキスパート、スペシャリストは、官僚だ。この点に関しては、折衝に当たる政府高官も、議員の高官たちも、一致していたはずである。奇怪な事には、野党勢力もまた、立法権、法律の提案権を立法府の専権にすべきだとは思わなかったようだ。

58頁

彼等は、実際にやらせられたら大変なことになる、と、内心恐れていたに相違ない。

アメリカの議員は、立法を最重要な事後としており、その為には、下院で言えば議員一人当たり、二十二名までのスタッフを公費で雇えるようにしている。

上院に至っては、その数倍の手当てが出ている。日本の議員はたったの二名、増やして三名、此れでは、官僚の力を当てにするしか方法がない。

 

しかし、それは、議員が、それに甘んじてからであり、もし、初期議会で望めば、G

HQは、アメリカ並みのスタッフの保証をしたと思われる。悔やまれるのは明治以来

飼い馴らされた議員の政府依存体質、マザコンならぬ政府コンである。

しかし、これは、唯一の立法機関が、そうでなくなっていく、その転落の一歩を示す

ものであった。議員の側に立ってみれば、もし、官僚機構と密接に連絡を取り合うシス

テムと、習熟したスタッフを必要数与えられれば、GHQの期待に答えられたはずで

ある。

現に、そういう好条件を与えられる前に、有能な議員は、徐々に新しい活動をするようになっていた。役人たちの手を借りたり借りなかったりして、独自の法律案を作ることにも馴れてきていたのである。

・・その代表例は田中角栄であろう。田中角栄は、帝大法科を出ているわけではない。高等小学校という学歴しかない。しかし、たちまち法文いじりをマスターして次から次へと法律を作る。

!!記録によれば、田中角栄は、占領中の一九五〇(昭和二十五)年から一九五二年(昭和二十七)年のわずか三年間に「首都建設法」を始め十五件の法律を成立させている。

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当時の荒廃した国土を、一日も早く復興整備するためのものであり、役人同士の争いの中でうまく行きそうもない分野で、しかも、国民の為になる物が、田中の知勇弁力によって日の目を見ている。

この傾向こそ、GHQが狙いとした唯一の立法機関に成るための途上現象であったといってよい。しかし、田中角栄のような者はむしろ珍品である。一般の議員にそのような

力を期待するには無理があった。

まして野党議員には、その意力も能力も欠けていた。加えてGHQには、更に、別の

背景があった。彼等は、又、ニューディーラの流れを汲む人達であった。

アメリカは、一九二九年(昭和二年)に大恐慌に見舞われ、多くの企業が倒れ、巷に失業者が満ち満ちたそのとき、これを見かねて大統領に当選してきたルーズベルトが起こした「大きな政府」の政策を「ニューディール」といった。

ルーズベルトは、雇用の拡大と福祉の徹底をはかり、その為、行政権を拡大し、その政策の一部は、最高裁判所によって違憲の判決を受けるほどであった。その過程に置いてアメリカは、憲法上、行政府に法案の提出権は認められていないが、国の動きに関する重要なものは、行政府で発案、起草し、政府与党の議会指導者を通じて提案されることが増えるようになった。

又、我が国と同じ議院内閣制をとるイギリスでも、一九世紀後半以降福祉国家への歩みを通じて、政府機能は増大し、政党制の発達変化と相まって、内閣政治の様相を呈してきた。議会は立法権を内閣に委任し、委任立法は増大するに至った。

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見方によれば、今や、内閣が議会をコントロールし、議会は、政府批判、党外世論の

結集を任務として、次の選挙で内閣を倒すチャンスをうかがう存在に成り下がってい

るようにも見えた。

日本の官僚が、この傾向を見流すはずはなく、GHQの各部門の専門家たちもまた、それを後押ししないはずはなかった。

常任委員会を設けて議員をそのどこかに張りつかせ、一人一人を立法の専門家に仕立

てるのは必要なことだが、差し当たって戦後の混乱、貧困、失業のこの事態を、早期

に直していこうと思えば、官僚の力を借りるほかはなかったのである。

そうは言っても、議員のほうも様子が分かってくる。官庁にへばりついているうちに、

知恵も付いてくる。皆が、皆、田中角栄のようにはならないが、怪しげな法律をデッ

チ上げる者も現れる。

何れにしても官僚にとっては、眼の前の蠅のようにウルサイ。特に、予算を伴う立法

がやたらに増えてくる。

これは、大蔵省に取っては、予算編成権に係わる大事である。

「議員立法を制限しよう」と、こうくるのは、当然の流れであった。

しかし、それは、国会を唯一の立法機関とする憲法の趣旨に逆行する。

「占領軍のいる間はムリだ」官僚は、じっと我慢して時期をはかる。

独立さえすれば、国民やマスコミを、その気にさせることは容易だ。国民のための至

公至正の道は、明治以来、官僚ならではのものだ。

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「実態はこうです」と、議員立法の現象を取り上げれば、マスコミと世論は官僚に味方する。こうして、「全ての議員は議案を発議する事が出来る」という国会法の規定は、占領軍が引き上げた三年の後、一九五五年(昭和三〇)年に改正される運びとなる。どう直すか。

「帝国議会では、法律案は二〇人以上、予算の修正動議は三〇人以上だった。今のはゆる過ぎる」「そうだ、今の議員どもを対象に考えれば、議案の発議は帝国議会並み、予算を伴う法律案の発議は、五〇人以上と言うところか」

この改正は難なく成立した。参議院はもともと数が少ないから、議案は一〇人以上、予算を伴う法律案は二〇人以上と決まった。

中でも、予算修正に対しては、内閣の意見を聞く規定を復活したのは大きい。

「安易に予算を修正されてたまるか」と、言うものである。ここでも、大日本帝国議会の復活が一部成功したということであろう。

                            国会審議も官僚が主役

法律作成の主導権を取った。次に、官僚の頭をよぎることは何か。それは、審議の実効支配である。「法律も知らなければ、予算も何も分からない」議員に、官僚の作った法律案の「真髄・その道の奥義」が理解できる筈がない。

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それなのに、日本国憲法のどこを見ても、大臣のことしか書いてない。

大臣と言えば、勿論例外はある。しかし、大抵は、あの「何も分からない連中」の中から選ばれてくるのだ。

大日本帝国憲法は、そこのところ、抜かりはなかった。さすが、明治の元勲たちだ。あらかじめその第五四条に、「国務大臣及び政府委員は」何時たりとも、各議院に出席出来るようにしてある。

勿論、発言する事もできる。ここで言う「政府委員」と言うのは、大臣以外の高級官僚のことである。政策の立案、その法案化、そして、その審議、どの過程を取っても主役は官僚というのが明治以来習熟した立法方法である。

!!それなのに、日本国憲法は、さすが、三権分立を国是とするアメリカさんの手になるものだ、その第六三条に、「内閣総理大臣その他の国務大臣は・・何時でも議案について発言するため議院に出席することが出来る」と、書きながら、一番大事な「政府委員」を落としている。

わざわざ落とした。そこに、立案者の意図もあった。それは、大日本帝国議会のやり方を変えて、立法府の独立をはかり、又、議院の立法に対するウエイトを増しておこう、とすものであったと推察される。

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しかし、日本官僚は、「国会法」制定の中に、「政府委員」取り込みの作業を進める。

大日本帝国憲法にあった政府委員の議院出席発言権は、日本憲法では削除されている。

     憲法で認めようとしなかった物を、その下位の法律で認めていいものか。

当然、こう言う論争はあったはずだ。もし、野党でも与党でも、議員の側から問題提起があったら、揉めたはずだ。

??しかし、日本の国会議員にはその頭も力もない。官僚たちの企ては、何の不思議もなく関門を抜け、法律に明記されてしまった。

「国会法第七章、国務大臣及び政府委員」、全五条の規定である。これによると、政府委員は、内閣が任命する。その任務は、「国会に於いて国務大臣を補佐する」事である。

何ぼ、何でも、これだけなら、行政府による立法府無視のそしはまぬかれない。

そこで、「両議院の議長の承諾を得て」という文言が、これに加わる。

議長(会議で議事の進行や採決をする人、ザ・チェアマン)は、政府与党出身者である以上何の支障もない。

                             官僚の完勝である。

この大日本帝国憲法以来の政府委員制度を残したことは、それからの立法府の発達に、

重大な影響を残すことになる。

             先ず、議会審議の実質的主導権は、官僚の手に落ちた。

「この事は、重大でありますから、政府委員をして答弁させます」という発言を議会でする大臣が居た。

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???大事なことなら、政府委員に任せられない、大臣自身が責任を負わなければならない。?これは、議院内閣制の常識である。

しかし、我が国では、いつの間にやら、と言うよりは、議院を創設した昔から、どう

やらこのスタイルで通って来ている。

                         此れによって何が起こるか。

無能大臣のタライ回しである。自民党は、一九五五年(昭和三〇)年に発足してから、

つい先頃まで政権を取り続けてきた。官僚制度は政府の機関、政権交替が常態であれば、

「中立」を守らなければならないが、一党支配であれば、自然、与党と密着すること

となる。

そうなれば、政府の働きは、官僚がして、大臣はお客さまであっても実害は起きない。

大臣は、「脳漿・脳の粘液」をしぼって官僚を動かす意思も能力も必要としない。乗っかり方が上手ければいい。

官僚出身の政治家が大臣になって、古巣に戻ってくることを、その省庁は歓迎するか?「古巣に錦を飾って帰ってきた」「何かも分かっている人なので心強い」そういうだろうか。逆である。

         「ヤレヤレ、うるさいことだ」と言うのが、幹部連中の本音だ。

田中角栄という人は、大蔵大臣になって評判が良かった。就任挨拶の時に、秘書の記録のよれば、彼は、大要こう言ったという。

「君達は、帝国大学を出た天下の秀才、そして専門家だ。私は高等小学校、義務教育を受けただけの素人だ、何でも俺の所へ言ってきてくれ。大臣室の扉は開けておく。いちいち上司の許可を求めなくてもいい。

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出来ることはやる。出来ないことはやらない。責任はこの田中角栄が背負う」細かいことをガタガタ言って、いざ、と言うときは、官僚のせいにする。そういうタイプが

一番嫌われる。

何でも任せて、そしてイザと言う時部下を責めないで、自らの責任にする。そういう大臣が一番楽だ。そして、田中角栄に代表だれるように、この手の人物は、党人肌の人に多い。政策や法律の細かい事は知らなくてもいい。みんな役人がしてくれる、と言うのは楽だ。誰でも大臣が勤まる。

かくて、与党自民党の中で、戦前までは考えもしなかった年功序列、当選回数で大臣を決めるルールが出来上がった。そうはいっても、国会で下手に鋭い質問が出たらまずい。

官僚は、前夜までに質問に立つ野党の議員が、何を狙いにしてくるか、情報収集をする。大蔵省では、これを新採用の若いキャリアにさせる。これは、議員の実体を知り政策マンになる実地教育である、その情報によって徹夜してでも大臣の答弁書を作る。

 

これを、例えば、英国の議会で見ると、どうなるか、である。英国議会の本会議場は、

ちょうど、日本の予算委員会の議場と広さが同じであるという。大日本帝国議会の時からそうだ。

         二八七平方メートル、日本流に言えば八七坪にこしらえてある。

英国議会は、本会議での討論が中心になる、一一月に始まって一〇月に終わる会期で

一七〇日くらい本会議を開いている、日によって若干の違いはあるが、毎日午後二時

半から一〇時半頃まで、合計一六〇〇から一七〇〇時間をこれに当てている。

66頁

しかし、議員は、問題によっては出たり出なかったり。議場は長方形で真ん中に通路がある。そこに大きなテーブルがあり、与野党の幹部が、卓を挟んで向かい合って座る。議長席に向かって左側が与党席、右側は野党席。

野党のフトントベンチには、シャドー・キャビネット(影の内閣)の閣僚たちが座る。

その他の議員は、閣僚の後ろのバックベンチに座る。ベンチは、あの野球場のスタン

ドベンチのように、長椅子が並んでいるだけ。

日本の様にテーブルを置かないから多数座れる。

多数といっても、イギリスの議員定数の六百五十くらいの全員は座れない。せいぜい三〇〇、結局半数しか座れない。

問題によっては、議場の通路まで、ぎっしり詰まって白熱の討論が行われるが、そうではない時は、ガラガラして、出てきた議員もベンチで居眠りをしたりする。

要するに、合理的なこしらえである。そして、出席議員は、誰でも手を挙げて発言できる。政府のほうも、日本の様に遠慮せず、ぶっきら棒に答えたり、丁寧に答えたり、さあ、と言えば、「ノー」とたった一言、相手を睨み付けて座ってしまったりする。

討論で議案の成否を決めていく。原稿朗読は禁止され、当意即妙、ユーモアを交えた即席の発言能力が、物を言う。要するに、英国議会は、議場を中心に、平議員といえども、実質的に審議に参加し、修正をものにすることが出来るのである。

                    これがまた、人材の選択にもつながる。

誰が能力があり大臣が務まるか。誰が見下げ果てた人物か。議員同士の選別が有効に進み、人材起用のミスや、ロスが無くなる。選挙民は又、こういう議院内の選別を情報として得て、次の選挙に生かすことが出来る。

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法案審議に当たって、法務担当大臣が、法の番人として出席するか、駄目な時は、法制局の職員が出席して、議案の担当大臣を授けることは、英国でもやっている。

又、議案の所官省の係官も出席して大臣を補佐することは出来る。しかし、発言は出来ない。

ここが、日本との違いの大きいところである。行政官は、議長席の背後に有るボックスの中、つまり、厳密な意味での議場外にいて、大臣に必要な助言をするために待機している。しかし、一流の大臣が、こう言う助言をアテにするようでは、その場で、失言をまぬかれても、「無能」という同僚議員間の評価は逃れない。そう評価をされたら、その人の政治的進展は、覚つかなくなる。

又、どうしても、という場合でも、日本の様に、行政官が大臣席にすり寄って耳打ちしたりしない。「議場外」とされるボックスにいて、大臣の政務補佐官が連絡役を務める。即ち、日本の議会には、議員が、自分たちの足で立ち、自分たちで運営すという気迫がない。

明治以来と言うよりは、戦後、民主議会の名を得てから、ますます、過保護を喜ぶ体質に作られてしまっているのだ。

一九九〇年(平成二)、野党提案の「消費税法案廃止法案」について与野党攻守所を変えて論戦した事がある。内閣の座るべきところに、野党が座り、野党の座るところから、自民党議員が論戦を仕掛けた。

この時、さすがに野党案にはミスが多く、野党議員は、つづれを直すように四苦八苦した。この時、野党議員たちは、ハタ、と思い当たった。

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・・・そうだ。自民党にはいつも「政府委員」が付いて助けている。同じひな壇にいま並んでいるのに、俺たちには、どうして、助っ人がいないのか。

この思いは正しかった。

確かに、同じ議会内で、法案を出し、討論をしようというのに、自民党がする時は、助っ人付き、そして野党がする時は何もなし。

「不公平じゃないか」しかし、この先、野党議員は間違った判断をする。

!!「俺たちにも政府委員に匹敵する官僚の助っ人を付けろ」と。ここのところは、

 

「官僚は与党にだけ付く。不公平である。議会は、議員だけの議論にして、官僚の発言はさせるべきではない。イギリスのようにすべきだ」と、言うべきだった。

官僚が、野党の出す法案、つまり、政府施策を攻撃する体の法案に手助けするはずはない。平等を言うのであれば、「政府委員制度」という行政府への浸食を止めるべきであり、そう提案すべきであった。

しかし、過保護になれ、官僚の議会支配を支配と感じなくなっていた議員たちは、みすみす、改革、立法府復権のまともな議論をするチャンスを無くしてしまったのだ、

さすがに、細川内閣の与党になった五会派はこの問題を俎上に上げる。

五五年体制を壊して、立法府が、立法府らしくなるとしたら、それは、当然、議会討論の進展をはからなければならない。しかし、結果はどうなったか。大臣の方が尻込みした、無能大臣でいい、官僚が治める、とした吉田茂の高笑いが聞こえる。

69頁1995年11月18日(土)10時11分

 

         これに比べると、かって大日本帝国議会のほうがマシのようだ。

戦前の議会は、本会議中心であり、討論は本会議場で行われた。不思議なことに今の

民主議会よりも、遙に活気があった。

一九一三年(大正二)二月の議会は、ピンとはりつめた空気に支配されていた。時の総理大臣は、日露戦争と、日韓併合の功を持って侯爵に任じられ、いったんは、宮中に入って内大臣兼侍従長として、稀代の名君明治天皇亡き後、新帝輔弼の重任を担っていたのを、わずか四カ月で投げ捨て、第三次内閣を組織した陸軍大将桂太郎その人である。

 

しかし、藩閥内閣に反感を持つ議会政治家は、宮中府中の別を乱し、栄職をわがもの

にする桂公を憎んだ。桂公は、この避難をかわすため、優詔すなわち天皇のお言葉を

準備してみずからの出処進退を弁護しようとした。

これが逆効果になる。多年いがみあっていた、政友会と国民党がこれを機に提携する。

そして憲政擁護運動を起こして政府反対の気勢を上げ、国民的人気のある尾崎ガクドウ

ウと、犬養木堂とが、くつわを並べてこの陣頭に立った。

                            喜んだのは、民衆だ。

尾崎、犬養、この憲政の両雄は多年袂をわかって党派を別にし、国民に失望を与えていたところだ。それが今、並び立って藩閥のエース桂太郎、入っては内大臣兼侍従長、出ては総理大臣、加うるに陸軍大将、公爵。まさにこれ絶頂の権力者を正面の敵として立ち上がる。

70頁02/2/10 1137

この運動はたちまち燎原の火の如く広がり、「憲政擁護。減閥興民」の声は、全国に

満ちることになった。尾崎ガクドウ、犬養木堂の二人は、「憲政の二柱の神」とまで

言われ、国民的人気は沸騰した。

そして、一九一三年(大正二)年二月。

傲然と構える桂首相の態度に憤怒した尾崎ガクドウは登壇して桂首相を睨み付け、

「彼等は常に口を開けば直ちに忠愛を唱え、あたかも忠君愛国は自分の一手専売のごとく唱えておりまするが、そのするところを見れば、常に玉座の陰に隠れて政敵を狙撃するがごとき挙動を取っているのである。

彼等は、玉座をもって胸壁となし、詔勅をもって弾丸に変えて政敵を倒さんとするも

のではないか」と大声で疾呼しながら右手を上げ、その指先ではっしとばかり桂公に

向かって付く姿勢を示した。

その時、桂公は一瞬蒼白になり、心持ち、くずれおちるように見えた。傍聴席にいたフ

ランス人が、思わず踊り上がり、守衛から退去を命じられた。桂内閣は、その六日後倒れる。組閣して五十日余、短命内閣に終わった。桂公が、その年の内に不帰の客となったのは、何か、尾崎が殺したように後々言われた。

此れが、我が国における議会討論のハイライトの一幕である。

戦後、民主議会になってから、まだ、これほどの雄弁を聞いたことはない。

雄弁どこらか。議会討論は本会議から、常任委員会に主舞台を移された。本会議場という講堂形式の演説会場と異なり、常任委員会は、一対一の討論に向いた造りである。

71頁

此れが、英国議会の本会議場と同じ広さだ、と言うことは、先に紹介した。だから、

其れこそ英国議会の本会議のように、せめて予算委員会ぐらいは、白熱の討論が有ってもいい。英国では十九世紀末、議会政治の黄金時代と言われた。

時は、大英帝国の最盛期、ウィクトリア女王の治下、議会は、保守党のディズテーリ、

自由党のグラッドストーンが並び立っていた。この二人が、大きなテーブルを挟んで向かい合い、白熱の論戦を戦わす時は、議場は立錐の余地もなく、盛況を究めたとか。

日本の予算委員会。英国の本会議場と同じ広さである。しかし、真ん中の通路にテーブルはなく、政府側は全大臣が並ぶのに、野党側は党首の影すらない。

前日までに、官僚の情報を受け、それで準備をした議員の一人が、あらかじめ作られ

たシナリオ通りに質問を始める。官僚は何を聞かれるか先刻ご承知、ロクな知識も経験のないトコロテン式に押し上がった大臣の為に、答弁書は準備してある。

さて、この答弁書だ。

いかに、さしつかえなく、そして、曖昧に、懇切丁寧、慇懃の限りを尽くして、何を言っているか分からないように仕上げる。これが名回答書と言われるものである。

「言語明朗、意味不明」とは、此れを指して言った竹下元首相の名言だ。野党の質問者は、曖昧であっても、相手が、慇懃であり、丁寧で有れば、それでいい。答える内容などは多少どうでもいい。と、言ったら語弊があるが、実際はそれでまかり通っている。

72頁、

むしろ、率直に答弁されて、それが質問者や質問者の党にとって都合の悪いことであっ

たら始末に困る。・・まともな論戦をしたら、馬鹿を見るのは野党のほうだ。何しろ、

相手は、玉が揃って居る。

それに、情報を握っている。議場でコケにされたら、故郷の人達に顔向けが出来ない。

もちろん、例外が有るはずだ。その例外をシャドウ・キャビネットに並べて、まともな論戦を挑むことがあってもいい。

しかし、当時の野党は、此れを選択しなかった。

!!官僚に取っては、思うツボだ。「民は、寄らしむべし。知らしむべからず」曖昧

模糊、「言語明瞭、意味不明」で、時間さえ過ぎていけば、国会は終わる。

議員を官僚の従「族議員」に

日本の官僚の反撃は続く。アメリカさんは「常任委員会」と言うものを押しつけてきた。米国下院には、事項例に二十二の常任委員会が置かれている。

此れは、恒久的なものであり、前議会から、次の議会へと業務を継承していく存在である。そして、提案された法案の実質審議を行い、審議が終われば本会議への報告手続きが取られる。事項別だから、例えば、「銀行、財政、都市問題委員会」とか、

「公共事業、運輸委員会」とか、「海運、漁業委員会」など。

73頁

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