なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか(祥伝社新書287) 新書 – 2012/8/1
・加瀬 英明 (著), ヘンリー・S・ストークス (著)2024年1月6日 13:01:53


・学校がウソくさい、新時代の教育改革ルール、藤原和博、学校は社会の始まり、その不都合な真実を暴き、
原点回帰を唱える応援歌。2024年1月3日 9:03:46



大東亜戦争の真実・東条英機宣誓供述書・天皇に責任なし
責任は我にあり・・解說・渡部昇一・
237頁・250
・2023年12月31日 14:40:08




知ってはいけない2 日本の主権はこうして失われた (講談社現代新書) 新書 2018/11/14矢部 宏治 ()第二次大戦のあと、日本と同じくアメリカとの軍事同盟のもとで主権を失っていたドイツやイタリア、台湾、フィリピン、タイ、パキスタン、多くの中南米諸国、そしていま、ついに韓国までもがそのくびきから脱し、正常な主権国家への道を歩み始めているにもかかわらず、日本の「戦後」だけがいつまでも続く理由とは? 10万部を突破したベストセラー『知ってはいけない』の著者が、「戦後日本の最後の謎」に挑む!2023年12月28日 7:43:46


戦争犯罪国はアメリカだった!真のA級戦犯は、東条英機らではなく、対日戦争を仕掛けたルーズベルトと、チャーチル、スターリンである。ヘンリー・S・ストークスヘンリー・S・ストークス

2023年12月26日 9:47:38



理系博士が語る、真実の「近現代史」!・ナポレオンと東條英機 理系博士が整理する真・近現代史

大東亜会議で見える意外に知らない本当の東條英機【真・日本の歴史】

真・日本の歴史チャンネル登録者数 7.1万人9:37 2023/11/14




目次

まえがき・ 東條英機を正しく教えない歴史教科書・2


・序章【冷静な歴史の見方】過大評価のナポレオン、過小評価の東條英機・


・英雄とA級戦犯・18

・近現代史は「人種差別撤廃」の歴史である・12

・ナポレオンと東條英機の遺言・25

・東京裁判は「裁判」ではなく、「集団リンチ」・・28


1章 【フランス革命とナポレオン】差別が横行していた、暗黒時代の中世ヨーロッパ・

・フランス革命前夜その壱~「国」がなかった時代・

・世界の中で日本は稀有な国?!34

・戦争ばかりしていたヨーロッパ人と、ほとんどしなかった日本人・38・戦争ばかりしていたヨーロッパ人と、ほとんどしなかった日本人2023年12月12日 14:20:15

・イギリスの 「王室と」と日本の「皇室」は大違い!42

・「中国4000年の歴史」のウソ・45

・フランス革命前夜その弐~「人」がいなかった時代

・「人間ではない人間」がいた?48

・アメリカ独立戦争が革命の引き金に・51

・フランス革命~新時代のヨーロッパから生まれたナポレオン

・社会の矛盾が頂点に達すると・・・・・・55

・フランス国歌とルジェ大尉・58 

11/10/2023 7:25:58 AM


・「人権宣言」は日本人にとっては当然のこと? 63

・「対仏大同盟」というナポレオン包囲網・63


・第2章 【日本の特殊性】なぜ日本だけが白人支配から免れたのか?

・「侵略の歴史」を美化する、欧米目線の歴史観・68

・「大航海時代」という名の「大侵略時代」・73

・欧米人が感動した、日本社会の平等さ・79

・日本だけが独立を守った!76

・活き活きとしていた、日本の農民・漁師・職人たち・82

・「自国語に翻訳する」という画期的な行動・85

・科学技術もどんどん導入・86

・薩摩藩の武士だけで作った「蒸気機関」・89

・西洋人の助けなしで、「蒸気船」を回航させる・92

・日本が独立を保つことができた必然的な理由・95

 特別な国家日本の3つの特徴・97

・「白人には敵わない」とは思わなかった日本人・100


・第3 章【白人の秩序への挑戦】白人優位を打ち破った「日露戦争」

・白人側から見た「世界秩序」・106戦争の理由から考えるととんでもないもので、「清王朝はイギリスが支那で販売している麻薬のアヘンを禁止したからケシカラン!」というような理由でした。 2023年11月12日 18:09:51・

・悲惨な悲惨な植民地・109

・正当化されていた、女性に対する卑劣な行為・111

・人権は「白人男性」だけのもの・114

・ロシアの南下を許す、 清王朝と李氏朝鮮・117

・ロシアと日本の激突!!122

11/10/2023 7:39:32 AM

・戦争をするか、植民地になるか・125

・ 世界史を塗り替えた、日本の勝利!127


・第4章【人種差別との戦い】「第一次世界大戦」と「人種差別撤廃」への日本の努力・

・弱肉強食の国際社会・136

・「人種差別撤廃運動」は日本発・140

・「パリ講和会議」での画期的な提案・142

・「人種差別撤廃条約」をなぜ歴史教科書に載せないのか・146

・共産主義の台頭・150

・「満洲事変」と「スパイ戦」・152

・満洲は植民地にしたほうが良かった?!?!154

・「リットン調査団」とは何者か・156

・リットン調査団の報告書・161

・欧米の歴史観に追従する日本のマスコミ・164

・「満洲事変コンプレックス」を捨てよ・167


・第5章 【大東亜戦争の真相】戦争を仕掛けたのは日本ではなくアメリカである・

・新秩序を許せなかったルーズベルト大統領・174

・「自作自演」が得意なアメリカ・179

・西へ西へと進軍するアメリカの狂気・183

・本来、アメリカは日本と戦う必要がなかったが······187

・アメリカに追い詰められた日本・189

・日本側の問題点・194

・白人の秩序VS, 人種差別撤廃・198

11/10/2023 7:47:38 AM


・決して悲観的ではなかった。開戦時の日本人・204

・まずは、「石油」の確保・207

・世界が驚いた日本軍の強さ・211

・ 「 リメンバー・パールハーバー」・214

・日本軍の躊躇・218


・第6章 【大東亜会議の意義】 世界の植民地を解放した、東條英機の偉業・

・忘れ去られた「大東亜会議」・222


・「大東亜会議」の説明から書かなければならないことはとても情けない気がします。長い日本の歴史の中で、国際的に言えば、大東亜戦争と大東亜会議こそ日本が世界に貢献したもっとも大きなことだったのですから。2023年12月12日 14:33:01




理系博士が語る、真実の「近現代史」!

・ナポレオンと東條英機・理系博士が整理する真・近現代史・武田邦彦・

目次

まえがき・ 東條英機を正しく教えない歴史教科書・2

・序章【冷静な歴史の見方】過大評価のナポレオン、過小評価の東條英機・

・英雄とA級戦犯・18

・近現代史は「人種差別撤廃」の歴史である・12

 

1章【フランス革命とナポレオン】差別が横行していた、暗黒時代の中世ヨーロッパ・


・フランス革命前夜その壱 〜「国」がなかった時代

世界の中で日本は稀有な国!?!?

・フランス革命前夜のヨーロッパは現在の日本の「常識」からみると、とんでもない状態でした。その一つは「主権国家」、つまり「国」がなかったこと。もう一つは「完全な人間」と「不完全な人間」がいたということです。

・私は講演会や研究会で議論することが多いのですが、いつも感じるのは、多くの日本人にとっては「国がない」「不完全な人間がいる」ということを理解するのがなかなか難しいということです。そもそも、誰もそんな(不道徳な)ことを受け入れる気持ちにはなれないのです。

35頁・


・日本人が世界史や近現代史を勉強しても、その本質を理解するのが難しい原因は「日本だけが世界で特別な国だった」からでしょう。それでいて、日本人は「自分たちだけ が特別」と考えることをイヤがります。つまり、日本人は謙虚なので、自分たちが特別な国に住んでいるのに「特別ではない」と思いたいという気持ちがあって、よけいに歴史がわからなくなるというわけです。

・もう少し具体的に言いますと、日本は四方を海に囲まれた島国で、日本に「国」ができたのは今から約2000~1700年ほど前です。

・日本に国家が成立したのは、「九州が最初」という説や「畿内が最初」という説があることでもわかるように諸説粉々です。そして、その時代の「日本の領土」は、現在の「西日本と朝鮮の南部」が一体として認識されていて、東日本から北は「日本」として意識されていませんでした。

・ハッキリと意識されていませんでした。

・また、北九州で発見された有名な「金印」(「漢委奴国王」と刻まれた印章)はすでに紀元60年ぐらいのとき、つまり支那の後漢の時代に、日本には支那の天子が「金印」を授けるほどの「国」があったことを示しています。中華思想の支那の王朝は周辺の国の状態に応じて金印や朝印を与えていますが、日本には金印、朝鮮には銅印を授けています。

36


・したがって、ややあやふやな歴史をいれると、日本が「国」としての体裁を整えたのが2000年ほど前、明確な王朝ができたのが1700年ぐらい前としたほうが良いでしょう。

・その当時、世界を見渡してみると、一つの国になる程度の大きさを持つ世界の島と言えば、台湾、ハワイ、フィリピン、インドネシア、スリランカ、ニュージーランド、マダカスカル、イギリス、アイルランドなどです。このうち、イギリスを除く島は人口が少なく、部族社会はあっても、およそ「国」と呼ばれるものはありませんでした。

・一方、大陸では5000年ほど前からエジプト、メソポタミア、インドや支那などで国家や都市がありました。

・なぜ島には国がなかったかというと、「国」というのは少なくとも数万人の人間が一カ所に集まらないと作る必要はありません。部族単位で住み、そこには「王様」ではなく「村の長」がいれば十分だったからです。

・人間が多く集まると、集団内では利権争いや犯罪などややこしいことが起こるので、誰か圧倒的な権威を持っている人がいないと始末がつきません。それに、みんなが頑張って豊かになると、こんどは外の人たちが武器を持って侵入してくるのでそれを防がなければならないという事情もあります。

37頁・


・そこで、王様や裁判所、それに軍隊を作って人々の生活を安定させる必要が生じます。それでできたのが「国」であり、世界の島国では最初に日本、次にイギリスに「国」が誕生しています。

・グレートブリテン島という大きな為には、今から2000年ほど前、ケルト人が部落を作っていましたが、ローマに占領されたので、「国」という段階までは発展しませんでした。その後ローマが衰退すると、西暦500年代にはケルト・ゲルマン人が侵入します。そして、ゲルマンの中でもアングロ・サクソン人が勢力を伸ばしてきました。

・さらに時間が経ち、イギリスが一つの国になったのは西暦900年頃で、アルフレッド王がイギリスを統一したときにさかのぼるのが妥当でしょう。

・このように、日本という国ができたのは2000年前、イギリスは1100年前ということになります。

38頁・12/11/2023 3:58:57 PM


・戦争ばかりしていたヨーロッパ人と、ほとんどしなかった日本人

・日本とイギリスに「小さな国が何個かできた時代」と「小さな国が統一された時代」とに分けると、日本が2000年間に「邪馬台国」などの複数の国ができ、1700年ほど前に奈良地方に大きな権力ができて(巨大な前方後円墳が作られている)1500年には「大和朝廷」というハッキリとした中央政権ができたと整理できます。

・これに対して、イギリスは1500年ほど前に複数の小さな国があり、それが1100年前に統一されたという感じです。比較すると、日本のほうが1000年ぐらい古いということになります。ところが日本には、日本に住みながら日本を非難するのが好きな「反日日本人」が多くいて、その人たちから「イギリスも同じくらい古い」という反論が必ず出てくるので、さらに深く考えてみましょう。

・実は、イギリスはアルフレッド王によって西暦900年に統一された後でも、「一つの国」とは言えないところがありました。それは、ヨーロッパ大陸とイギリスは民族が同じなので、イギリスと大陸の国は一体感が強かったからです。その例を二つ示したいと思います。

39頁・


・一つはイギリスとフランスの間に起こった戦争の歴史です。この両国の戦争と言えば、「百年戦争」が有名ですが、それだけではありません。過去にイギリスとフランスが戦った「戦争」をまとめて見るとビックリされると思います。同じ国と長い間にわたって戦争をするということは、それだけある種の一体感 (=親近感)があるということです。

・日本と朝鮮の間にもときどき戦争があり、日本が朝鮮を侵略したという人がいるのですが、世界はそれとは比較にならないほどダイナミックなのです。それは日本と朝鮮の間に、一体感(=親近感)がなかったからとも言えますが……

・それでは、世紀から14世紀までの、イギリスとフランスの主な戦いを挙げてみましょう。


1337-1453年 百年戦争

1508-1516年 カンブレー同盟戰争

1522-1526年 第一次イタリア戰争

1542-1546年 第四次イタリア戦争

1618-1648年 三十年戦争

1666-1667年 第二次英蘭戰争

40頁・12/11/2023 4:07:23 PM

1688-1697年・年九年戦争

1701-1714年・スペイン継承破争

1740-1748年・オーストリア継承戦争

1756-1763・七年戦争

1775-1783・アメリカ独立戦争

1792-1802年・フランス革命戰争

1808-1814年・ナポレオン戦争(半島戰争)

1815年・ナポレオン戦争(第七次対仏大同盟)


・このように、1337年に百年戦争が起こってから、「イギリスとフランスは戦争ばかりしていた」と言えます。イギリスとフランスはドーバー海峡を隔てて対峙しているのですが、その距離は約34キロメートル。

・それに、に対して、日本と朝鮮半島の間の対馬海峡は約200キロメートルです。ちなみ「津軽海峡冬景色」の歌で有名な、本州と北海道の間の津軽海峡は約20キロメートルです。

41頁・


・つまり、同じ海を挟んだ国同士と言っても、フランスとイギリスの距離は日本と朝鮮の6分の1程度で、どちらかというと本州と北海道のほうが距離感としては似ています。そのため、日本と朝鮮、日本と中国の間でも2000年間で少しのいざこざはありましたが、その回数はイギリス、フランスと比べて圧倒的に少ないのです。

・日本側が朝鮮に出て行ったのは、「白村江の戦い」(まだ日本が西日本と南朝鮮で構成されていた時期でもありますが)と「豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」「日露戦争」、朝鮮側から日本を攻めてきたのが「元寇」で、どれも短期間で終結していますから、先ほどの一覧でわかるようにイギリスとフランスの間の戦争の数とは比較になりません。

・また、イギリスはたびたびフランスや周辺国の領土を占領しています。日本では1910 年から1945年までの35年間、日本が朝鮮を占領していたことで、韓国からは「この怨みは、千年は忘れない」と言われていますが、そんなことを言えば、イギリスとフランス は、1万年以上は憎しみ合わなくてはならないでしょう。

・もっとも、ヨーロッパ、さらにはアーリア人の世界では侵略は日常的なことで、アジア民族、特にアジア海洋民族とヨーロッパの人たちとは戦争に関する考え方がそうとう違うことも原因しています。

42頁・12/11/2023 6:44:26 PM


・つまり、感覚としてはイギリスとヨーロッパ大陸はほぼ一体でしたが、日本と支那大陸は別のものだったのです。

イギリスの「王室」と日本の「皇室」は大違い!

・もう一つは、王室」と日本の「皇室」の違いです。

・もともとのイギリスの王室は、イングランド、スコットランド、アイルランドの王であったスチュアート朝です。スチュアート朝の最後の王様はアン女王です。彼女は子供をたくさん産んだのですが、すべて早世して跡継ぎがいませんでした。

・ イギリスに適当な王位継承者がいなくなったので、当時の神聖ローマ帝国、現在のドイツの有力な貴族だったハノーバー家のジョージ一世がイギリスに来て即位し、現在のハノーバー朝となりました(その後、イギリス流の名前が良いと言うことで「ウィンザー朝」名前だけは変わっています)

・王様が絶対的な権限を持つのではなく、王権が制限される「立憲君主制」はイギリス発祥ですが、それはドイツから来たジョージ一世が英語をほとんど話せなかったことによると言われています。言葉が通じないので王としての統治ができず、その結果、議会が実権を握って、立憲君主制が始まったというわけです。

43頁・


・一方、日本で天皇の跡継ぎがいないときに、大陸(たとえば朝鮮や支那)から天皇がやって来るということは「日本の常識」で考えられるでしょうか。そんなことはあり得ません。日本語を話せない外国の王族が日本を統治するなど考えられないことでしょう。天皇は「日本民族」を象徴する存在ですから、「日本の中の皇族」を天皇に立てること以外はとうてい受け入れられないのです。

・この二つの例からわかるように、世界の島の中で古くから「国」があったのは日本とイギリスですが、実はイギリスは日本のように「一つの国」というよりも、西ヨーロッ パという地域にある諸国の王室が支配する「一つの地域」でした。

・現在、「EU」と呼ばれるヨーロッパ共同体が生まれるのも、このような歴史的背景があるからです。もともとヨーロッパ、特に西ヨーロッパの民族はアーリア人で、ドイツのゲルマン、イギリスのアングロ・サクソン、そしてスウェーデンやノルウェーなどのノルマン系の人たちはほとんど同じ民族です。

・フランス革命前のヨーロッパに、日本の常識で考えるハッキリとした一つの「国」というものがなかったことは、次頁の地図(1) を見てもわかります。

44頁・12/11/2023 6:58:14 PM


・この地図は、フランス革命以前のヨーロ 、ヨーロッパの多くの地域ハプスブルク家」の領地を(灰色)で示しています。

・現在のオーストリア、ハンガリー、スペイン、オランダがすべて領土で、そのほかにイタリア南部。クロアチア、チェコ、スロバキア、ポーランドの一部、ウクライナの西部、スイスなどが支配下にありました。

・つまり、フランス革命以前のヨーロッパ 国」があったのではなく、「ある王族 ()に支配された地域」が点在していたという状態だったのです。

・ヨーロッパの中心部からやや離れたイギリスやロシアなどはややまとまっていたので、「なんとなく国」という感じでしたが、それも王族の栄枯盛衰で変化していました。

45頁・


・さらには、ハプスブルク家とブルボン家という二つの王族は異なる家ですが、頻繁に王族同士が結婚していましたので親戚関係にありました。だから、王族同士でいつも戦争をしていましたが、負けたほうの王族でも殺されることはありませんでした。

・後に、王族ではないナポレオンが皇帝になりますが、彼は王族と結婚しました。ナポレオンが戦争に負けても処刑を免れたのは、ナポレオンが王族と結婚したからでもあります。

「中国4000年の歴史」のウソ

・「ヨーロッパの地域と国」の歴史を詳しく書きましたが、「国」がなかったのはヨーロッパばかりではありません。フランス革命まで日本を除く世界は、「地域」をある「王族」が支配するという状態だったのです。

・たとえば支那ですが、「中国4000年の歴史」というのはウソで、「中国(中華人民共和国)」という国は今から10年ほど前にできた新しい国です。

46


・それまでは「支那(チャイナ、china)」という地域に、「高」「唐」「 」「火」「明」「清」と 王朝ごとに、別の「国」になります。当然、支配地域も違いまですから、正式には「中国の明」とは呼ばず、「明国」と呼称します。

・つまり、「中国」という国に「明」という政権があったのではなく、「支那」という地域に「明国」という国があったということです。ですから、国が代わると次の国は前の国の歴史を書き換え、天子の墓を暴き、その骨を捨てて別の国になったことを示したのです。

・日本ではそんなことは起こらず、天皇のお墓は今でもそのままです。

・天皇が直接統治する時代を経て、その後、天皇から「関白」や「征夷大将軍」に任命された者が統治する時代に変わっていきますが、統治者が藤原氏、平家、源氏、足利家、徳川家と変わっても、いずれも天皇の部下でしたから、支配層でも庶民でも「日本」という国が実感できたのです。

・それでもまだ、ヨーロッパや支那は「地域」ぐらいはハッキリしていましたが、ユーラシア大陸の中央部から中東と言われるところは「地域」もハッキリしませんでした。なにしろ大草原が広がっていて「どこからどこまで」かハッキリしなかったので、いわは自由自在に王朝が生まれたという具合です。

47頁・


・たとえば、最近紛争になっているシリアでも、紀元前はアッシリア、それからローマ帝国の属州、さらにイスラムになるとウマイヤ朝、蒙古に占領されてイル汗国、さらにはいろいろな王朝の一部になり、第一次世界大戦が終わるまでの長い間はオスマン帝国 (かつては「オスマン・トルコ」と呼んだ)の領土で、「シリア」という国がハッキリ歴史に出てくるのは1920年代、つまり今から100年ほど前からという状態です。

・日本でシリアのことが報道されるときには、「IS (いわゆるイスラム国)は、イラクとシリアにまたがっていて、国ではない」などと言われますが、もともとはイラクとシリアは同じ国だったのです。

・しかし、ヨーロッパのように近代化が進んでくると、民族と民族が対立し、その民族を代表する国がないことに違和感を覚えることも多くなりました。その一つが「フランス革命」で、「国がない」という不満が爆発したものでもあったのです。

46頁・12/11/2023 7:44:03 PM

48頁・12/11/2023 7:58:03 PM

= フランス革命前夜その弐~「人」がいなかった時代

・「人間ではない人間」がいた?

・フランス革命前夜は、現代の人から見ると、もう一つ理解できないことがあります。それは、フランス革命の前は「人が人ではなかった」ということです。

・当時のヨーロッパでは、人間は「高貴な人間」「完全な人間」「不完全な人間」「人間ではない人間」の4つに分かれていました。インドのカースト制度では、最上級のパラモンから最下級のシュードラまで4つに分かれた人間がいて、どんなに出世してもそれを破ることができないことが有名ですが、それはヨーロッパでも同じだったのです。

49頁・

・「高貴な人間」の代表が王族と貴族で、社会の指導層として特別豊かな生活をしていました。次は「完全な人間」で、「白人」+「男性」+「成人」+「社会的な義務を果た十」という4つの条件が必要でした。簡単に言うと「独立した生活を営むことができる成人の白人男性」ということです。

・では、女性はどうだったのでしょうか。失礼な話ですが、女性は「不完全な人間」とされていて、単に「人」と言った場合、女性を含まないのが普通でした。たとえば、フランスの人権宣言では「人は生まれながらに平等」としていますが、この場合の「人」 は「高貴な人間」と「完全な人間」だけを示した単語が使われていて、「不完全な人間」 や「人間ではない人間」は含んでいません。

・有色人種も「不完全な人間」、そしてアフリカから連れてきた奴隷やロシアには農奴がいて 、これらの人は「人間ではない人間」でした。

・つまり、フランス革命の人権宣言は人類に「平等」をもたらしたとされていますが、その実、平等は「成人の白人男性」だけに限られていたのです。このことからも、現在の常識で歴史を考えてはいけないことがよくわかります。

・ただ、現在の社会で「人は生まれながらにして、みんな平等か」というとそうでもありません。

50頁・12/11/2023 8:20:16 PM


・たとえばイギリス王室に子供が生まれると、日本人までが大騒ぎをしますが、 それは現代人ら、「イギリス王室の子供は普通の人とは違う」と思っているからです。

・身近な例では、親のお金や土地は原則として子供に相続されますが、これも人間がまた「生まれながらに平等」ではなく、血筋や社会的立場によって「不平等なスタート」をしていることを意味しています。

・それでも、やはりフランス革命の前後と、現在の「平等、不平等」では雲泥の差がありました。

・フランス革命の前には、白人男性でも、第一身分(僧侶)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)に分類されていました。人口比率は、第一身分が0.5%、第二身分が15%、そして第三身分が98%を占めていました。

・第一身分と第二身分で国民全体の2%しかいないのにフランスの土地の40%を所有しましたから、第三身分一人当たりの土地を10とすると、第一、二身分の僧侶と貴族は実に33倍の土地を持っていたことになります。

51頁・


・フランス革命当時のヨーロッパは、江戸時代の大名が「石高」でその力を示したようです。だから、土地の面積が3倍ということは収入が3倍と考えてよいでしょう。

・現代の日本では、年収が1000万円以上の富裕層は全人口の4%。富裕層の平均所は1500万円です。これに対して、1000万円未満の人は全人口6%で。その平均所得は360万円です。なので、格差はちょうど4倍になります。

・現代の日本の収入格差が4倍なのに対して、フランス革命当時は3倍ですから、いくら今から300年ほど前といっても、庶民に不満がたまるのは当然でした。

・アメリカ独立戦争が“革命”の引き金に

・加えて、フランス革命が起こった前後に、いろいろな事件が起こります。その一つが「アメリカ独立戦争」でした。フランスはアメリカが独立するのを嫌って介入しましたので、それで大きく戦費がかかりました。ルイ十六世時代の王室の贅沢三味の費用がそれに加わり、国家財政はかなり逼迫します。税金の取り立てが厳しくなり、庶民には不満がたまっていました。

・また、フランスがアメリカ独立戦争に介入したことによって、皮肉なことに「アメリカの思想」がフランスにも入ってきます。

52頁・12/11/2023 8:21:34 PM


・まさに、思想的に進歩していたはずのフランスに、できたばかりのやや野蛮なはずのアメリカの思想が輸入されたという感じです。

・アメリカはイギリスからの「平民の移民」で国を作りましたから、貴族がいません。

・そこで最初から「国民はみな平等」という思想しかなかったのが、フランス王室として大誤算だったのです。

・その頃のヨーロッパは「身分制のない地域」というのはありませんでしたから、「王様のいない社会」を考えることもできなかったのです。しかし、アメリカという国ができてみると、「王様がいなくても社会は成り立つじゃないか」ということに気づいたというわけです。

・したい放題の王様、豪華な暮らしを続ける貴族、苦しい生活の平民——不平等な取り扱いが普通だったヨーロッパの人たちには、全員が平等な新しい社会(アメリカ)を目の当たりにして、フランス革命が起きる基礎的な状況ができあがっていたのです。

・また、イギリスの思想家ジョン・ロックが理論的に「革命によって、平等な社会を作ることができる」ということを示していましたので、これもフランス革命を起こす大きな原動力になりました。

53頁・


・歴史を勉強すると、「原因」は徐々に進みますが、「変化」は急激に来ることがわかります。「ローマは永遠だ」と思っていたら、突然、北のほうから民族が大移動してきて、ローマはあっけなく東西に分裂して衰退の一途をたどりました。ローマの支配下で過ごしていると、ローマはとても大きく、制度も安定していましたので、まさかローマの外側から人が入って来て、あえなく国が崩壊するなどと考えることはできなかったでしょう。

・地球はもともと「温暖な時代」と「寒冷な時代」を繰り返しますが、その頃、地球の気温がかなり冷えて、今のドイツなどの地域では住むのが難しくなりました。太陽の活動は、ほぼ600年ごとに大きくなったり小さくなったりしますから、西暦400年頃 から寒くなり、西暦1000年ごろには逆に温かくなりました。

・それが原因で、ヨーロッパでは西暦400年から500年にかけて、北の国の人がイタリアなどに逃れてローマ帝国 (厳密に言えば、西ローマ帝国)は滅亡しました。逆に1000年頃にはノルマンという北方民族が北極圏、アイルランド、グリーンランドなどの北の地域で活躍しました。これも、この頃、地球が温かくなり北の海の氷が融けたので、小さいボートでも十分に北の海に進出できたからでした。

54頁・12/11/2023 8:32:16 PM


・ちなみに、現在は1700 年頃の「寒冷期 (little ice age)」から太陽の変化で温暖化それは2300年ぐらいまで続くと考えられています。

・このように、フランス革命前夜は、それに気がつかずに生活をしているのに、それに気がつかずに生活をしていたのですが、「アメリカの独立」という刺激が人の心に影響を与え、フランスはどっと雪崩を打って新しい時代に突入したのです。

・そして、新しい時代が拓かれると「なんで、あんなに不合理な社会に住んでいたのだろう?」という疑問が沸き、フランス革命時には「貴族などいらないのに、なぜ貴族だけが仕事もしないのに豊かな生活を送っているんだ!」ということに、みなが突然気がついたのです。

・不満の爆発は激しく、歴史的に有名な「バスティーユ監獄」の襲撃には、男性ばかりではなく家庭にいた夫人までが槍を手にして襲撃に加わっています。まさに、時代が爆発的に変化した瞬間でした。

55頁・


≡フランス革命~新時代のヨーロッパから生まれたナポレオン

・社会の矛盾が頂点に達すると・・・・・・

・社会の矛盾がある頂点に達したとき、社会は徐々に変化してその矛盾を解消するので劇的」なことが起こってその矛盾の解消に向かいます。

・フランスの市民は「王政」という不合理な制度に反発して革命運動を起こしたのですが、周囲の国はみな王政ですから、それらの国からの総反撃を受けて、激しい行動に出ざるを得なくなりました。しかし、どの時代でも、古い体制の価値観を持つ人が、自分自身で、時代の変化を読み取って、自らも変化するなどということはありません。常に旧体制に未練を持ち、そして最後まで頑張り、その結果、大量の人の殺戮などとなって不幸な結末を迎えるのです。

56頁・12/11/2023 9:05:25 PM


・このように、旧体制の抵抗と、新時代の力は衝突し、いつでも悲惨な血が大量に流れました。フランス革命では他国との戦争ばかりではなく、国内的にも「ギロチン」という新しい処刑装置が考案され、パリの広場で次々と首が跳ねられたのも、激しい社会変化の中での人間社会の必然的な結果とも考えられます。

・考えも及ばなかったブルボン家の王 (ルイ十六世)と后( 断頭台の露と消えたのも、そんな人間社会の激しい変化の結果でした。

・歴史の流れとは実に不思議なもので、大きな社会の矛盾が一気に解消に向かうと、そこで革命とか大戦争が起こり、それらはいったん始まると止まるところを知りません。最初は、ちょっと変わるだけと思っていても、矛盾が大きければ大きいほど、徹底的な破壊にまで進みます。

・フランス革命のきっかけは、「パスティーユ監獄の襲撃」という小さな事件でした。誰もが「王政をひっくり返そう」「ギロチンで王族をみな殺しにしよう」と思っていたわけではありません。そのときの体制のままで「ちょっと自分たちの待遇も良くしてほしい」というぐらいだったのです。それはちょうど、たき火をしていたら、折からの強風と乾燥した空気で家に燃え移り、瞬く間に一つの町を焼き尽くす大火になってしまったというのに似ています。

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・そして大火になった後、振り返ってみると、「なんであんなところでたき火をしたのだろうか」「最初に家に火がついたときにもっと早く消火すれば良かった」「あいつがパケツの水を持ってくるのが遅かった」「風が強かったのだから町の人にもっと早く危険だと呼び掛けるべきだった」などと反省しきりになります。

・冷静に考えると、フランス革命もあれほど多くの人たちをギロチンにかける必要があったのかは疑問です。

・フランス革命は最後の段階でロベスピエールという過激な革命指導者が登場し、次々と政敵をギロチンで粛正して革命を完成させます。今考えると、ロベスピエールという人物の登場と、彼が行ったものすごい数の処刑は非難されるべきものですが、同時に、彼は「歴史が必要とした人間」でもあったのでしょう。

・古いものを一掃し、新しい時代を拓くには、少し乱暴でも古いものを徹底的に破壊してしまう人が登場し、その後に真に新しい社会を作る段階に入るのです。

58頁・12/11/2023 9:18:37 PM


・フランス国歌とルジェ大尉

・フランス革命でも、新しい時代を作るために登場したのがナポレオンです。そして、そのナポレオンの登場という人類の歴史の唇を演出したのが、後にフランス国歌になる「ラ・マルセイエーズ」を作曲したルジェ・ド・リール大尉でした。

・その時間。まだ革命は大きな流れにならず、国王ルイ十六世は生きていました。ですから、状況は流動的でした。外国との関係でも、革命を阻止しようと干渉してきたオーストリア皇帝とプロイセン王に対して宣戦が布告され、フランスは挟撃されて危機に陥り、危機を感じた市民は「自由の子よ、武器を取れ! 戦旗はひろげられた!」という興奮の中に入ろうとしていました。

・長い封建制の時代を破るエネルギーが次第に沸き返り、その熱気がパリに集まっていました。今から見ると無計画に進んだフランス革命は、時代の重みがパリ市民を駆り出し、その熱気はやがてルジェ大尉が住んでいたパリ郊外のストラスブールの町にも伝わって来たのです。

・ストラスブールのディートリッヒ市長に軍歌の作曲を依頼されたルジェ大尉は机に座りながら、たまにしかしない作曲に取り組んでいました。戦争が始まり、進軍が開始されると軍歌の一つも必要だろう、それもこれまでのような傭兵が歌う古くさいものではなく、新しい自由のもとで、市民の軍隊の前で演奏されるにふさわしい曲が必要だと市長は考えたのです。

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・ルジェ大尉は趣味で曲を作ることはありましたが、専門の作曲家ではありませんでした。軽い気持ちで市長の頼みを聞いたものの、現実には詩も曲も沸いてこなかったのです。曲が浮かばない中で、螺旋階段を上りながらルジェ大尉は、突然、フランスの畑が外国の軍隊に踏みにじられて、肥料の代わりにフランス人の血が畑に注がれ、農民が叫ぶ声が聞こえたと伝えられています。

・行こう祖国の子らよ

・栄光のときは来た!

・祖国への神聖な愛よ

・みちびき支えよ、こらしめのわれらの腕を!

・自由よ 最愛の自由よ

・たたかえわれらのその守り手とともに!

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・突然、沸いてきた感激の中で、ルジュ大尉の手は動き続け、歴史的な曲作りを終えたは、夜明けを迎えた光がストラスプールの町を照らし始めた頃でした。ルジェ大尉は自分の体から興奮が消えて、そのまま深い眠りについたと伝承されています。

・その日の夕方、市長の家で市長夫人同席の中で新しいこの行進曲が披露されました。

・歴史的な多くの場面がそうであったように、その場に居合わせた人々は、まさかこの曲が未来のフランスの国歌になるなど誰も想像もしていませんでした。

・「お集まりのみなさんは大変満足してくださいました」

・記録に残っている市長夫人の手紙にはそう書いてあります。

・不滅のメロディーが普通のほめ言葉でそのデビューを飾るのも、仕方のないことです。そしてルジェ大尉の作曲したその歌はそのまま忘れ去られ、軍歌として作られたのに、行軍のときに演奏されることもなく、歴史の中に消え去ろうとしていました。

・でも、これも歴史が証明するように、作品に宿っている本来的な力はやがて目を覚ますもので、そのまま消え去ることはありませんでした。しばらくすると、この歌は再びとこからともなく歌われ始め、新しい歌 「ラ・マルセイエーズ」は革命さなかのフランス全土に爆発的に拡がっていきました。

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・「なんという素晴らしい、心を奪う歌なのか!

・不思議な力を秘めたこの歌は、瞬く間にフランスのあらゆる職場で唱われ、自由になった感激を味わいながら多くの兵士が死んで行ったのです。

・ところで、ルジェ大尉は一夜の作曲で大作曲家になりましたが、もともとはそれほど才能がある男ではなかったので、再び優れた曲を作曲することはありませんでした。むしろルジェの晩年は、罪を犯して監獄に入ったり、ナポレオンの誘いを断って毒づいたりという偏屈な老人になり、片田舎でその一生を終わります。

・なぜ、ルジェが「一夜だけ天才」になったのでしょうか。世界の歴史の大転換点にあって、軍靴の響く夜に彼は霊感を受けたのでしょう。歴史はナポレオンのような巨大な人物を作り出すばかりではなく、ルジェ大尉のような人を「一夜だけ天才」にさせたりもするのです。

・日本でも幕末から明治維新にかけて、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟など多くの傑物を一気に生んだことを連想させます。

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・「人権宣言」は日本人にとっては当然のこと?

・フランス革命が成功すると、フランスの周辺国はフランス革命の直接的な影響と、さらにその思想(人間はみな生まれながらに平等という思態)が自分の国に蔓延するのを恐れて、フランスに「干渉」をするようになりました。

・王政の国々が、フランス革命を怖がったのは当然です。それはそれまでの秩序、つまり「王様の秩序」が崩されるからです。

・この感覚が世界と日本では少し違うようです。もともと人間には王様も庶民もなく、長い歴史の中で社会が歪み、身分制度が発生し、それは時に酋長だったり、王様や皇帝であったりしたのですが(日本では殿様など)、特に日本では身分制がハッキリしていなかったので、日本人は心の中では「どうせ、人間はみんな同じ」という感覚も強かったのです。

・江戸時代、参勤交代の行列を作って殿様が江戸に向かうとき、街道筋に土下座して殿様の行列が通り過ぎるのを見送るのが庶民でした。駕籠に乗った殿様が周囲を武士や侍従に守られて土下座する庶民の前を行くのですから、これほどハッキリした身分制度はありません。

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・しかし、実際はそれほどでも なかったようです。土下座している庶民たちは「とりあえず土下座しているが、あの若殿様も小さなころは俺たちと同じやんちゃ坊主で、ただの人間だ」と思っていたと記録に残されています。

・人間は表面を縄うことができても、誰もが生まれて死に、好き嫌いがあり、セックス をしてトイレにも行きます。当時から日本の庶民は、「偉い人は人間的なことを他人に見せないだけで、同じことをしている」ということもよく知っていたのです。

・ですから、ひとたびフランス革命の「人権宣言」のような「こくこく当たり前のこと」がおおっぴらに宣言されても、日本人はかえって当惑してしまいます。人間社会は アンデルセンの描いた「裸の王様」のようなもので、真実がわかってはいても、とりあえずは社会のしきたりに沿っているというだけ。そんなことは、「建前」と「本音」の国、日本社会では常識でした。

・「対仏大同盟」というナポレオン包囲網

・「ルジェ大尉が「ラ・マルセイエーズ」を作曲した時間、まだナポレオンはマルセーユで不遇な時を過ごしていました。コルシカ島出身で親仏家の家族だったナポレオンは親

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・英派からにらまれて、マルセーユでいわば亡命生活を送っていたのです。ですが、すでに陸軍士官学校の砲兵科を卒業していたナポレオンは、手薄なフランス革命後の軍の中で功順を上げ始め、翌年には

師団少将。さらに翌々年には師団中将に昇進しました。ポレオン、若干26歳のときです。

・その後のナポレオンの活躍は本音ではあまり触れません。ナポレオンの伝記は非常に多いですし、また波乱万丈の人生はそれを記録するだけで大変な文量になってしまうからです。

・ともかく、いろいろあって、28歳頃のナポレオンは連戦連勝、革命後のフランスに大きな力を与えるとともに、ナポレオンが台頭する前にフランス革命を失敗に終わらせるべくイギリスを中心として結成された第一次対仏大同盟を消滅させるまでになりました。

・さらに、ナポレオンの出現で脅威が増したフランスを封じ込めようと、ヨーロッパ諸国はイギリスやオーストリアを中心に、ロシア、オスマン帝国など多くの国が参加して、次々と「対仏大同盟」を結成するようになります。結局、1793年からナポレオンが失脚する1815年までに、七回の同盟が結ばれました。

・しかし、ナポレオンが天才だったのか、あるいは歴史がナポレオンを天才にしたのかは判然としませんが、ナポレオンの勢いは衰えず、歴史的に名高いアウステルリッッの「三帝会戰」(皇帝ナポレオン、オーストリア皇帝、ロシア皇帝の三帝が相まみえたことからこの名がついている)など大きな戦いにすべて勝利を収めて、一時はイギリスやロシアを除いてすべてのヨーロッパ諸国を征服するに至ったのです。

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・歴史家はナポレオンのすごさ、フランス革命後のフランスとヨーロッパ、それにその後のヨーロッパや南アメリカなどの変化があまりに劇的なので、ナポレオン戦争の一つひとつ、ナポレオンが皇帝に上り、権力を得、ロシア遠征で破滅するまでを詳細に研究し、著述しています。

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・でも、それらは人豚の大きな歴史の流れを理解するという点ではあまり重要なことではありません。

・文学的には、ナポレオンというある意味での魅力的な人生を知ることは楽しいことです。

要なのは、「人はみんな平等だ」という新しい思 想と「共和」という政治形態が出現し、旧 守派がつぶしにかかったのに対して、歴史は ナポレオンを台頭させ、その中で彼は輝き、しかしやり過ぎ、破壊され、敗北したということです。

・それはナポレオン個人の生い立ち、能力、 運命などとはそれほど強く関係せず、むしろ 作家トルストイが表現したように、「歴史が ナポレオンを生んだ」と言うべきか、あるい は歴史的必然でもあったということです。

 

 

2章 【日本の特殊性】なぜ日本だけが白人支配から免れたのか?

67頁・12/12/2023 7:03:37 AM

 

 

35 1章 【フランスとナポレオン】が横行していた、期限時代の中世ヨーロッパ

36頁・12/11/2023 3:45:52 PM

・世界の中で日本は稀有な国?!34

・戦争ばかりしていたヨーロッパ人と、ほとんどしなかった日本人・38

・イギリスの 「王室と」と日本の「皇室」は大違い!42

・「中国4000年の歴史」のウソ・45

・フランス革命前夜その弐~「人」がいなかった時代

・「人間ではない人間」がいた?48

・アメリカ独立戦争が革命の引き金に・51

・フランス革命~新時代のヨーロッパから生まれたナポレオン

・社会の矛盾が頂点に達すると・・・・・・55

・フランス国歌とルジェ大尉・58

11/10/2023 7:25:58 AM

・「人権宣言」は日本人にとっては当然のこと? 63

・「対仏大同盟」というナポレオン包囲網・63

・第2章 【日本の特殊性】なぜ日本だけが白人支配から免れた





・第6章 【大東亜会議の意義】 世界の植民地を解放した、東條英機の偉業・

・忘れ去られた「大東亜会議」・222・「大東亜会議」の説明から書かなければならないことはとても情けない気がします。長い日本の歴史の中で、国際的に言えば、大東亜戦争と大東亜会議こそ日本が世界に貢献したもっとも大きなことだったのですから。2023年11月11日 9:48:42

・ 大東亜共同宣言・226

・歴史が証明する「大東亜会議」の正しさ・229

・差別をし続ける共産主義国家・231・この会議はアメリカ、イギリスにとっては脅威でしたし、戦争が終わっても宣言に謳われたような「正しいこと」が世界で行われるのは自分たちにとって困ることだったのです。2023年12月11日 14:23:23

・今なお 大東亜戦争後、植民地は解放された!233

・「平等」で読み解く近現代史・239

・日本人が知っておくべき 東條英機〟・244

・あとがき 〜論理的で誠実な歴史観を!250

写真提供:TARO NAKAJIMA/アフ

国立 図書館 近代日本人の肖像 制作: 真一 (ロスタイム)

11/10/2023 7:55:35 AM







理系博士が語る、真実の「近現代史」!・ナポレオンと東條英機 理系博士が整理する真・近現代史

・第3章【白人の秩序への挑戦】「白人優位を打ち破った「日露戦争」

・白人側から見た「世界秩序」

・日本が明治維新を迎えた頃の世界には、どんな秩序があったかを整理して、理解することは明治、大正、昭和と続く日本人の歴史を知るうえでもっとも大切です。それも「日本人から見た世界の秩序」ではなく、「白人から見た世界秩序」こそが日本の運命を決めていったので、まずは白人の秩序を整理したいと思います。

・鎖国を解いてからの日本の大きな戦争は「日清戦争」「日露戦争」 「第一次世界大戦」日中戦争」そして「大東亜戦争」でした。そのほかにも幕末の長州で起こった「下関戦争」同じく幕末の薩英戦争」や、ソ連との激しい戦いになった「ノモンハン事変」、大東亜戦争直前の「仏印進駐」などがありますが、やはり大きな歴史を考えるときには 大きな戦争だけに注目したほうが良いので、本者では日露戦争、日中戦争、そして大東亜戦争に絞って「白人の作った世界秩序」との関係を整理してみたいと思います。

・江戸幕府が鎖国政策をやめたのは、そもそも白人が日本を狙って襲ってきたからですが、それは長く日本が付き合ってきたオランダではなく、ロシア、イギリス、フランス、アメリカの国々でした。

・これらの国々が日本を植民地にしようとしたのは当然です。すでにイギリスは、インド・ビルマ→シンガポール→香港とアジアの海岸線を東に進んできて、当時の支那を支配していた清王朝と1840年代にアヘン戦争を起こしています。

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・七つの海を支配していたイギリスの海軍力は圧倒的でした。清王朝との間に起こったアヘン戦争でも、戦闘が起こると清王朝の犠牲者が2000人、イギリス軍は10人程度というぐらいの差があって、まともな戦闘とは言えないようなものでした。戦争の理由から考えるととんでもないもので、「清王朝はイギリスが支那で販売している麻薬のアヘンを禁止したからケシカラン!」というような理由でした。

・このような不当な戦争の理由はイギリス国内でも全員が賛成していたわけではなく、特にアヘン戦争のときにはイギリスの代議士ウィリアム・グラッドストンが国会で「醜悪な戦争」という演説をしています。しかし、結局戦争が起こり、清王朝が敗北して、その結果麻薬のアヘンを強制的に買わされ、支那の領土の一部がイギリスに割譲されるということが歴史的に起こっているのです。

・日本で教えられる歴史では、白人が行ってきた醜悪なこと、暴虐行為はほとんど伝えられていません。むしろ「イギリスは七つの海を支配した」とやや輝かしいように伝えられますが、もちろん2000万人から3000万人ぐらいしか人口がなかったイギリスが数億人が住んでいる「七つの海」を支配するには、暴虐の限りを尽くさないと支配できるものではなかったことも事実です。

・138頁・11/12/2023 7:32:15 AM


・イギリスの大きな植民地だったインドでは、有望なインドの若者が出現するとイギリス軍が二列縦隊を作ってそのインドの若者の家に行って、若者を引きずり出し、両手首を切り落とすということもありました。

・インドに有望な若者が現れて、インドが発展し、インドの人たちが「理由なくインドになって圧迫されている」ということを知れば、反乱が起こり、数の力でイギリスが負けるのが予想されるからでした。

・経済面でもイギリスは巧みな方法を用います。インドから輸入する香料などを「ただ同然で買う」という悪辣なことをしていました。

・当時インドの通貨はルビー、イギリスの通貨はボンドでしたが、イギリスはインドか香料などを輸入するとその代金としてポンドで支払いをしていました。インド人はポンドを受け取っても国内で通用しませんし、当時はインド人が国外に出るということはほとんどなかったので、ポンドはまったく使い道がなく、その大半をイギリスのロンドンの銀行に預けました。

・そして300年ほど経つと、イギリスはポンドの価値を切り下げます。そうすると、たとえば100ルピーに対して1ボンドという比率だったものが、10ルビーで1ポンドに切り下げると、それまでインドが持っていたボンドの貯金は実質的に10分の1になってしまいます。つまり、イギリスは巧みな方法で植民地として圧迫したばかりか、インドの人々をただ同然で働かさせたことになります。

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・悲惨な悲惨な植民地

・白人の植民地の酷い状態は、イギリスの植民地ばかりではありませんでした。当時のフランスはアフリカの南部のチュニジアやマリなどと、アジアではインドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア) と清王朝の南のほうを植民地にしていました。

・そしてフランスのやり方もイギリスと似ているのですが、街角で屈強な若者が歩いていると、何かのことできっかけを作り、しょっぴいて監獄に入れます。その監獄は独房になっていて一つの独房が長さ2メートル、幅1メートルぐらいの小さな部屋で、床はコンクリートがむき出しになっていて、トイレに使うために直径が15センチメートルぐらいの穴が空いています。

・若者の手首には鉄の枷が付けられ、その枷からつながっている鎖は床に固定されます。

・110頁・11/12/2023 7:51:03 AM


・その中に不運な若者は閉じ込められ、死ぬまでそこで過ごすというわけです。

・現代の社会では考えられないことが起こっていたのですが、そのほとんどは闇に葬られています。アメリカでは一説に600万人と言われるインディアンの虐殺が行われましたが、その大半はインディアンの持っている土地を奪うためにインディアンを騙し、騙されたことに怒って攻めてくるインディアンを逆襲して全滅させるというのが彼らの常套手段でした「インディアン」という単語だとして、現在では主に「ネイチイブ・アメリカン」と呼んでいますが、この新しい用語も白人のアメリカ人が作ったものです。現在でもインディアンは自分たちのことを「ネイティブ・アメリカン」ではなく「インディアン」と呼んでいますので、ここではそれによっています)

・また、アフリカから奴隷を連れて来るのも、「白人の秩序から言えば何の問題もありませんでしたが、連れて来られる黒人からみると耐えられないことでした。奴隷船に乗ってアフリカに来たアメリカの荒くれ男たちが、ライフルを片手にアフリカの西海岸に上陸し、男の奴隷が必要だったら目についた家に押し入り、泣き叫ぶ家族を振り切って男を拉致します。

・女も同じでその家の男が抵抗したら即座にライフルで撃ち殺して を連れ出すという方法だったのです。

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・さらに、アフリカからアメリカ大陸に奴隷を移送する奴隷船には「詰めるだけ奴隷を積む」という方針でしたから、途中で嵐が来ると、満載していた奴隷を「捨てる」という方法で沈没を免れていました。このようなときに「殺して捨てる」のは手間がかかる。で、20人ぐらいの奴隷の手首を鎖でつなぎ、そのまま甲板から海に投げ捨てるという殺害方法がとられました。

・日本ではこのような歴史を知らない人が多いので、アメリカ人が偉そうなことを言うそれをそのまま信じてしまう人がいるのですが、アメリカ人を含めた白人 (人種的アーリア人と言ってよい)という人たちは常に二面性があり、「まともなことを言うけれど、裏では酷いことをする」というのが平気なのです。

【高校世界史B】「アーリヤ人がつくりだした社会とは?」 | 映像授業のTry IT (トライイット) (try-it.jp)


・正当化されていた、女性に対する卑劣な行為

・日本と韓国の間で起こった安婦問題」で、朝日新聞や日本の婦人団体などでも、「日本は酷いことをする」としているのが多いのですが、白人がしてきたことはそんな生やさしいものではありませんでした。

・インド、ンドシナ、そしてアメリカで行われていた「有色人種の男性に対する酷い暴虐」という」というのは女性に対してさらに過酷だったのです。

・112頁・11/12/2023 8:05:18 AM


・たとえば、ポルトガルがニューギニア植民地にしていた頃、「現地の女性は好きなだけ犯して良い」というお触れ悪びれもせず出しています。

・これはポルトガルの兵隊と現地女性のハープを作り、男の子が生まれると父の名前の一部をつけ、エリートとして育て、さらに成人になると銃を持たせて現地人の抑圧に使うという植民地政策があったからです。

・白人の植民地で「現地の女性はいつでも犯して良い」というのは比較的広く行われていたことでそれほど珍しいわけではありませんでした。

・先に示した日本軍「慰安婦問題」は貧しい女性が身売りするという話ですが、アジア諸国で白人が行ったことはそういうレベルではなく、まったく普通の生活をしている女性を自由に犯して良いというのですから、まったく観念が違います。

・第二次世界大戦中ではソ連軍が東ヨーロッパに進軍したとき、暴行された女性は10 0万人単位あったとされています。さらに戦争が終わり、ヨーロッパや日本で女性が参政権を得たあとでも、たとえばベトナム戦争のときには韓国が前線に出ると、そこの住民の女性に対して猛烈な暴行を働いたことはよく知られています。

・113頁・


・当時の韓国軍の暴行はかなりのもので、さしものアメリカ軍司令部も「韓国軍は前に出さない」ということが検討されたぐらいです。

・女性に対する暴君は、単に性的暴行するということだけではなく、オーストラリアでは植民地時代のイギリス人が、現地に住んでいたアボリジニーの女性を大量に殺害した記録が残っています。

・たとえば、何かの祭りのような行事があると、アボリジニーの女性を大きな岩の上に乗せて、下から大声でしながら銃を乱射し、その岩の片隅に追いやった後、さらに女性が脚を滑らせ岩から転落して死亡するのを「楽しむ」ということすらあったのです。

・もともとフランス革命で言う「人」というのが「白人男性」であったのですが、白人には白人男性、白人女性そしてその下に有色人種の男性、有色人種の女性という序列があり、特に黒人やアボリジニーは奴隷にしても良いし、どう扱っても良いという考えだったのです。

・このアボリジニーの女性の殺害は、アメリカ人が西部で行っていた「スポーツ・ハンティング」と似ているところがあります。

・114頁・11/12/2023 8:17:20 AM


・「当時の西部で普通に行われていた「楽しみ」の一つに、大草原に列車を走らせ、それと平行して爆走するパイソン (大型のウシ) 列車の窓からライフルで撃つという「スポーツ」がありました。パイソンの肉が欲しいわけでもなく、パイソンの数を減らす必要もなかったのに、単に楽しみでバイソンをしていたのですが、当の白人の植民地統治にはそんな雰囲気があったのです。

・本著でも繰り返しているように、「白人がやった歴史的」はほとんど日本に伝わっていません。それは事実そのものが「白人の作戦」で伝わっていないということに加えて、日本では「人間がそんなことをするなんで······ 悪いことを口にしてはいけない」 という不文律のようなものがあり、ほとんどの歴史家や知識人が書かないからです。

・人権は「白人男性」だけのもの

・明治時代に入り、日本は白人諸国と接するようになりましたが、日本人は「白人の正体」がわかっていたわけではありません。日露戦争を開始するときに明治天皇が、「よもの海、みなはらからと思ふ世に、など波風のたちさわぐらむ」と謳っておられますが、当時の日本人が相手にしていた白人の国家というのは、そんな世界の人がみな「同胞」というような意識を持つ人たちではなかったのです。

・115頁・


・つまり、白人の秩序というのは、白人の男性だけが世界を支配して良く(白人女性の第二次世界大戦後の1946年に認められている)、その他の人は「意見を持つだけでも不適切で、まして白人男性に刃向かうなどとんでもないことだ」という意識でした。

・具体的には、「白人以外の国家は国家として認めない」というのが第一原則で、イギリス、フランス、ドイツ、オランダ、スペイン、ポルトガル、北欧などの西ヨーロッパの国がまずは優先、そこから少し離れたアメリカとロシアが同等の国という考えでした。

・白人国家でもややアジアの血が入っている東ヨーロッパの国は、一段下に見られていました。そのため東ヨーロッパは植民地をほとんど持っていませんでしたが、植民地になるのは免れました。

・次に、純粋なヨーロッパ系の民族ではないけれど、3000年ほど前までは同じ民族だったイランなどの中東の地域、また現地の人をスペインとポルトガル、それにアメリカに進出したイギリス人がほとんどみな殺しにしたために、実質的に白人とのハーフを中心としていた中南米の国(メキシコ、ブラジル、アルゼンチン、チリなど)も召使いの國という感じの取り扱いでした。

・116頁・11/12/2023 8:32:38 AM


・そのような中で「自由に植民地にしても良い」とされていたのがアジア諸国で、インドから日本、インドネシア、南太平洋諸国、オーストラリア、ニュージーランドなどがそれに当たっています。

【高校世界史B】「アフリカをもらうなら「早い者勝ち」!?」 | 映像授業のTry IT (トライイット) (try-it.jp)

・さらに、「最低の取り扱い」を受けたのがアフリカです。前述したように、1885年、ヨーロッパはベルリンで「アフリカ分割会議」を行ってアフリカを勝手に分割しています。アジアともって白人から見ると「最低の地域」だったので、一つひとつの国を軍事的に攻撃して地にする必要もなく、単に会議を開いて「自分たちが勝手に線を引けば、自由に領土になる」と考え、ヨーロッパ人だけで植民地にする国を線引きして決めてから軍隊を送るという方法をとりました。

・また、人間の階層としては、中東、中南米、アジアの人たちは「召使い」として使い、アフリカの人は「奴隷」にするというのが基本的な考え方でした。そのうち、すでに書きましたが、女性は白人男性の所有物であり、人間としては取り扱わなくてもよいという概念だったのです。

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・「これが「白人の秩序」であり、その当時の「国際的な」でもあったのです。この感覚は今でもアメリカやヨーロッパなどの白人世界に残っていて、社会生活上の差別は当然で、さらには軍隊では突撃のときには有色人種を先頭に立たせて死なせ、通常の時は3K職場で賃金の安い仕事をつけるということも行われていました。

・また、日本の知識人も同じことをしても有色人種なら咎めるが、白人なら許される」という感覚を持っています。平均的な日本人でも茶髪にすることを好んだり、キリスト教の行事を率先して取り入れたりしています。これなども、根深く残っている人種差別の一種といえるでしょう。

・ロシアの南下を許す、清王朝と李氏朝鮮

・ロシアはもともと、現在のウクライナの首都であるキエフから、ある時代に少し北に移動して現在のモスコーに移った白人の国家で、宗教的にはキリスト教の一つであるロシア正教、社会制度は「農奴」という独特の半奴隷制度を持った国で、白人と韃靼人の混血の人もいい地域です。

・そのロシアが東へ進み始めたのは、ピョートル大帝の時代です。ウラル山脈を超え、韃靼人、トルコ人、モンゴル民族の地域に軍隊を派遣して、現在の中央アジア、シベリアなどを次々と領土にしていきました。

・118頁・11/12/2023 8:43:43 AM


・もちろん「白人の秩序」が正しい時代ですから、そこに住んでいても白人でなければ殺しても占領してもかまわないという考えでした。

そして、国を大きくするという。そして、国を大きくするという目的の他に、どうしてもうまくいかない南方への進出(トルコ方面)に変わって、東方に「温かい地方」や「冬でも凍らない軍港」を持ちたいという希望もあったのです。

・やがて東への進出は日本海に達し、ウラジオストク」という町を作ります。ウラジオストクと言うのはロシア語で「東方の制圧」という意味ですから、名前だけから当時のロシアの考え方がよく理解できます。

・ところが、北方からシベリアを経由して日本海まで来ると、少しは温かいと言ってもやはり雪と氷の世界でした。そこで、ロシアの皇帝ロマノフ二世は、さらに南に出る必要性を感じて、当時の清王朝、李氏朝鮮、そして日本に圧力を加えました。

・まず、満州の北部にあるハルピンへの鉄道と、そこから満州の南部の旅順まで勢力を伸ばすためには、清王朝と交渉する必要がありました。実際にロシアが満洲の北方に到達して、試しに清王朝に「満州を縦断する鉄道を敷いて、旅順に軍を置きたいのだが」と打診すると、意外なことに清王朝は「かまいません」とこともなげに言うのです。

・119頁・


・「国」というのはどういう状態を言うのでしょうか。現代の日本の常では「国にはトップになる人がいて、トップの人が命令する軍隊がいて、その軍隊が国を守るので国民は安心して生活できる」ことだと思います。確かに人類の最初の「国」というのは住民がある家族のところにやってきて、「王様になって私たちを守ってください」と頼んだ のが最初とも言われています。

・そのときに後に王様になる人が、「王様になっても良いけれど、お前たちの息子を兵士として登用して戦争で殺し、お前たちの娘を宮殿に入れて子供を産ませることになるが、それでも良いか?」と尋ねます。それに対して、住民は「それでも結構です。だって、毎日のように馬賊が襲ってきて家族みな殺しの恐怖におののくよりずっと安心です」と答えたとされています。

・つまり「国家」とは「国民を守るものだと思われていますが、実は当時は「北京」などの「都市」が一つの国家をなしていて城を持ち、敵に対して住民も守ったのです。清王朝でも北京や北京の付近の土地を除いて、天子(支那の皇帝)は興味がなく、清王朝のようにもともとの出身でも、守ろうとか、満州は我が国土だから守らなければならないという感覚はなかったのです。

・120頁・11/12/2023 9:21:43 AM


・それに加えて、ロシアの節は「もし満州を縦断する鉄道を敷設(ふせつ)し、旅順港を軍港として使わせていただければ、毎年、北京に朝貢(ちょうこう)してロシアの美味しいものや貴重なもをプレゼントします」とでも言えば、自分たちが得をするので、住民を見捨てることは清王朝にとって当たり前のことでした。

・事実、ロシアは何の抵抗もなくハルビンとウラジオストクを鉄道で結び、さらに満州を縦断して旅順まで鉄道を伸ばします。これが有名な「南満州鉄道」でロシアは実質的に満州を領土にしたようなものでした(通常は実効支配という言葉を使う。

南満洲鉄道 - Wikipedia


・これに味をしめたロシアは、さらに南下したいと思い、李氏朝鮮に「私たちは満州まで来ましたのでできれば朝鮮半島を縦断して釜山の近くに置きたいのですが」と打診します。

・当時の李氏朝鮮も「国」のような体はとっていましたが、宮殿にいる主様や官僚は国民のことなどは考えていませんでした。すでに長く朝鮮を支配しているうちにすっかり自分のことだけを考えるようになり、ヤンパンという特別な階級を作って自分たちだけが良い思いをすればそれで満足という清王朝の支配層と同じ考えになっていたのです。

・だから簡単に、ロシアが朝鮮の上を縦断すること、釜山のそばに軍を造ることを認めます。

・121頁・


・そこでさらにロシアは釜山の軍港から、日本の長崎、さらには台湾まで進出する計画を立てました。ロシアは南のほうに自由に出ることができる軍港や商業港はどうしても欲しい夢でしたが、まさかこんなに簡単に手に入れることができるとは思っていませんでした。

・ロシアはウクライナ方面でも黒海を経てギリシャのほうへ出ようとしていましたが、当時の強国だったオスマン・トルコに抵抗され、さらにはオスマン・トルコに戦争を仕掛けてそれを破ると英仏連合軍が出てくるという状態で苦杯をなめました。

・だから満洲や朝鮮に、何もしないで少しの付け届けで南に出ることができるのは意外でもあり、「アジアに行くとこんなことが起こるのか!」とビックリしたのです。

・そこで「図に乗って」と言って良いでしょう。ロシアは満州に鉄道を敷き、旅順とウラジオストクに軍港を造り、そこに東洋艦隊を配備します。

・もともとロシアは北海にバルチック艦隊という主力艦隊がありましたが、なにせ母港が北海にあって冬には出港できないという状態だったので、どこかに「不凍港」が欲しかったので、「いっそのこと長崎かに軍が欲しい」と欲を出したと考えられます。

・122頁・11/12/2023 10:14:47 AM


・当時のロシアは、ニコライ二世の治世でした。彼が特に凡庸であるとか、横暴であるとかいうことではなく、当時の「白人の秩序」=「白人以外の土地や土地や国は自分の思うとおりになる」という頭しかありませんでした。

・そして、さらに清王朝や李氏朝鮮が、ニコライ二世が思っていたとおりの国(国の形はしているが、指導層がよければ国民は捨てる)であることがわかったので、順調にシベリアからハルピンを経由してウラジオストクまでの鉄道と、ハルピンからの南満州鉄道建設し、旅順に軍を造ることに成功したのです。

・ロシアと日本の激突!

・このロシアの動きに「普通の国」として反応したのが、唯一、日本だけでした。ロシアが釜山の軍港を造るということは日本の目と鼻の先にロシア艦隊が来るということを示していますから、明治が始まったばかりの日本政府が「これは一大事だ」と感じたのは当然のことでした。

・日本国内の議論は沸騰し、ロシアの南下をなんとしても防ぐ必要があるということになり、戦争の気運は高まっていきます。しかし、なんと言ってもロシアは当時の世界では強国であり、領土はとてつもないほど大きく、かつロシア陸軍と言えば世界最強でしたから、日本ができるような国ではないと思われていました。

・123頁・


・ロシア側ももちろん同じ感じでした。もともと有色人種の国が白人の国に対抗できるはずもなく、東洋の国で後ろ盾もない日本など「戦う対象ではない」と思っていました。事実、大国と言われていた清王朝ですら、無抵抗で満洲を自由に使って良いと言うぐらいですから日本が刃向かうことは考えられなかったのです。

・しかし、あまりに強引なロシアのやり方に、ニコライ二世の親戚筋に当たるドイツの皇帝ヴィルヘルム二世が心配して、「そんなに強引なことをすると戦争になる可能性がありますよ」と忠告したのですが、ニコライ二世は「余が戦争をしたくないのだから、日本と戦争になるはずもない」と答えています。

・このニコライ二世の言葉に、当時の白人の心と、「白人が秩序を決めるのだ」という自信が表れています。「清王朝も李氏朝鮮も、白人の大国であるロシアが無理難題を出しても抵抗しなかったじゃないか、ましてさらに小さな日本などという国が抵抗するはずもない」と高をくくっていたのです。

・実に不思議なことで、16世紀から世界を侵略してきた白人は、東の外れ、つまり彼らから見ると土地の果てに当たるところに、白人の侵略に本格的に抵抗してくる有色人種がいるということは考えられないことでした。

・124頁・11/12/2023 10:34:53 AM


・それがちょうど、260年にわたる江戸幕府時代を経て、幕末から明治維新という日本人の活力が最高に高まったときに当たったのは、日本にとって幸運と言うべきでしよう。

・いずれにしても、ロシアは「日本が戦争を仕掛けてくるはずもない。どこまでも要求を通すことができる好機だ」と考えて、グイグイ押してきます。ついに、明治政府は「これは国家の一大事だ。日本が滅びるかどうかの瀬戸際だ」と思い詰めます。

・この切迫した気分は、当時の明治天皇や伊藤博文のようなトップの人の言動によく表れています。明治天皇は、開戦の決定をした後、一人で皇居の中に引き込まれ、「もし我が国がロシアに負けて滅びることになったら、先祖に申し訳が立たない」とはらはらと涙を流したと伝えられています。これは後に日本を批判する教科書で有名になった 歴史家・家永三郎が書いています。

・さらに、伊藤博文は戦費が足りないことを心配し、すぐに井上を アメリカやヨーロパに派遣して日本国債を売って戦を稼ぐことを決めます。「もし、日本陸軍や海軍が全滅してロシア軍が山陰に上陸してくるような事態になったら、この伊藤博文、一兵卒となって鉄砲を担ぎ、日本国のために突撃する覚悟だ」と漏らしています。

・125頁・


・明治天皇のお言葉といい、伊藤博文の決意といい、その当時の日本人の切迫した気持をよく表しています。

・戦争をするか、植民地になるか

・実はこのとき、日本は資金調達に国際金融関係にも依頼をしたのですが、後になってその見返りに満洲国や支那での日本の権益を求め、それが大東亜戦争の一つの引き金になったという裏話もあります。

・今、安保法制の関係で「平和が大切だ」と言う人が多いのですが、明治の時代のように、列強が弱い国を自由に扱う時代に「平和を守る」ということはどういうことか、当時の日本人の気持ちになって考えなければなりません。

・日本は軍隊を持っていましたが、他国を攻めるつもりはまったくありませんでした。

・しかし、ロシアが日本を植民地にするということになると、前に示したように日本の有望な若者はロシアによって両手首を切り取られ、女性は乱暴されるでしょう。

・126頁・11/12/2023 10:46:02 AM


・日本も例外ではなく、大東亜戦争後に日本にしたアメリカ軍の慰安のために日本政府もかなり苦労した経験があります。戦時における女性の権利というのはなかなか難しい問題で、日本に進駐した兵士が「普通の女性」に乱暴しないように、政府がこっそりアメリカ兵のための売春施設を作っています。

・またベトナム戦争時に、韓国軍がベトナム女性をところかまわず乱暴したように、また「世界の戦争では一度も女性の人権が守られたことがない」という状態なのです。

・また、第二次世界大戦後、今から60年ほど前に中国共産党がチベットを占領しました。チベットでどのぐらいの人が殺されたかについては諸説ありますが、ほぼ5人に1人が殺されています。

・大国が戦争をして小国を侵略して、その後、長く統治する場合、占領された国民のほぼ5人に1人に殺害されるというのはそれほど奇妙なことではありません。軍人はもちろん、抵抗する住民、焼き討ちや乱暴されて殺される女性、住居を追われて凍死する老人などが出ます。

・もし、日本がロシアに占領されたら、当時の人口が5000万人ぐらいでしたから、1000万人ぐらいが殺されていたでしょう。日露戦争は激戦が続き、将校兵士約10万人が命を落としました。

・127頁・


・つまり、「日露戦争」では、将校や兵士が10万人戦死してくれた おかげで、国民1000万人が命を救われたということになります。

・かつて、「兵隊さんに感謝」と言われたのは、敵が攻めてきたときに「兵隊さん」が 攻撃を防いでくれるから家族の命が助かり、女性が暴行されないという実感があったのです。

・「軍隊があるから戦争になる」というのは現実を見ない人の考えで、現実には敵が攻めて来るのですから「軍隊があるから命が助かり、貞操を守ることができる」ということだったのです。

・世界史を塗り替えた、日本の勝利!

・日本はロシアに開戦し、陸軍は乃木希典将軍が二〇三高地の激戦を制し、続く奉天の会戦で世界最強と言われたロシア陸軍を撃破します。

・日本海軍は、まずウラジオストクと旅順にいたロシア東洋艦隊を港に押し込め、遠く、ヨーロッパの北の北海からアフリカの喜望峰をまわって延々と遠征してきたロシアの主力艦隊であるバルチック艦隊を日本海で殲滅しました。

・128頁・11/12/2023 12:05:09 PM


・日本陸軍もかなりの奮戦をしたのですがなんと言っても世界の歴史から言うと東郷平八郎将軍が率いた日本の連語艦隊がロシアのバルチック艦隊をたった一回の日本海海戦でほとんど全部の敵艦隊を沈めてしまったのには世界がビックリ仰天したのです。

・もちろん、偶然に勝ったのでもなく、神風が吹いたのでもありません。日本はやっとのことでアルゼンチンなどから近代戦に役立つ戦艦を購入し、国内では下瀬火薬や伊集院信管という高性能と起爆剤を発明、それに加えての射撃訓練を繰り返しました。

・当時の記録を見ると、ロシア艦隊のと比較すると、弾丸の間隔と命中率を掛け合わせると、実に10倍の威力があったと計算されます。

・日本軍に精神論が登場するのはまだ先のことで、日露戦争当時は「現実に戦う力と技がなければ勝てない」というまっとうな考え方だったのです。

・世界史を見ると有色人種が白色人種に戦闘で勝利したというのは、1529年のオスマン・トルコのスレイマン一世によるウィーン包囲戦以来です。でも、トルコ民族というのは純粋なアジアの民族というより、アーリア人系でもありますので、本当にアジアの国がヨーロッパに優位に残ったのはモンゴルのチンギス・ハーン以来と言っても過 言ではありません。そうなると、日露戦争で日本が戦闘では大勝利したのは実に600年ぶりともいえるのです。

・129頁・


・ところで、ここで重要なことを書いておかなければなりません。 それは、ヨーロッパの歴史観を中心にして、日本には「日本侵略論」(日本が他国を侵略したが一般的です実は日本は歴史的にヨーロッパでいうところの侵略というのをほとんどしたことがありません。この日露戦争もその一つです。

・世界地図を広げて見てもらいたいと思いますが、ロシアという国はもともと現在のウクライナのキエフを首都とした白人国家で、後にモスコーに首都を移し、ウラル山脈の西に位置していました。現在のロシアの領土になっているシベリア中央アジア、満洲、北方、樺太や千島列島などは、有色人種の土地で、モンゴル人、トルコ系民族、漢民族、アイヌ民族、イヌイットなどが居住していました。

・ロシアがウラル山脈の西で静かに暮らしていれば、日露戦争も起こらなかったのですが、日露戦争も起らなかったのですが、日本では江戸中期に当たるロシアのピョーットル大帝の頃、ロシア東へ東へと進出、ついに日本海まで到達したのです。

・歴史に「もし」はありませんが、もしロシアが日本と同じように「自分の土地で暮らす」という思想だったら、もちろん日露戦争は起こっていません。それどころか、ロシアが領土を拡大するにしてもバイカル湖ぐらいで止まるとか、ウラジオストクで満足しでも、またさらに支那の清王朝が普通の国で、ロシアに無抵抗に満州鉄道の敷設や旅順に軍港を造ることを認めなければ、日露戦争は起こっていません。

・130頁・11/12/2023 12:18:52 PM


・日露戦争が起こるためには、ロシアがウラル山脈を越えて東方を侵略すること、それが日本海までに及ぶこと。さらには清王朝や李氏朝鮮が自国民を守らないという特別な国であったこと、などの「偶然」が必要でした。

・これだけハッキリしているのに、日本の歴史家はヨーロッパ史観によっているので、日本を「軍事国家」と呼び、その中に日露戦争も入っているのは驚きです。ここまで事実を曲げて解釈して学校で教えると、日本国民が錯覚するのは当然のことです。

・モスコーに首都を置くロシアがウラジオストクまで来てさらに東方を伺うということは、言いかえれば日本が支那、チベット、パキスタン、インド、イランなどを占領してトルコ付近まで進出することを意味していますから、ロシアの東方進出こそが世界の秩序を乱すものとして糾弾されるべきなのです。

・131頁・


・ともあれ、巨大な既存勢力に対決して身を捨てて新しい時代を拓くとき、人の集団はどんなことになるのか、フランス革命の「バスティーユ監獄襲撃」と、日露戦争の「二〇三高地の歩兵の突撃」を例とし説明します。

・上の絵はフランス革命のきっかけとなったバスティーユ監獄の事件ですが、王様の軍隊が守っているバスティーユ監獄に組織的に攻撃する訓練を受けていない市民が、銃や人によっては農具を持って襲撃しています。

・普通なら市民のほうが負けるのですが、時代の流れはそれを超えて市民の勝利に終わったのです。

・132頁・11/12/2023 12:44:30 PM


・次に、歴史に残る戦になった日争の二〇三高地の歩兵戦です。

・なにしろ堅固な要塞から機関銃の弾丸が雨あられと降ってくるところを突撃するのですから 、兵士はバタバタと死んでいきます。多くの兵士は子を持つ「お父さん」で、日本には家族や両親がいました。家族を必死に救おうと突撃をしたのです。

・戦後、乃木希典将軍は兵士に無駄死にをさせたと批判され、将軍自身も二人の子供二人とも将校だった)をこの戦いで失いました。もともと乃木は二〇三高知への突撃は損害が多くなるということで最後まで大本営に抵抗しますが、中央からの命令を受け、現地司令官として、兵士に「死ぬ」ことを命令することになったのです。

・この戦いは、二〇三高地という要街を奪ったことばかりではなく、いろいろな後日談があります。

・その一つが旅順の戦いに続いて起こった奉天の会戦で、乃木の率いる第三軍が来るという噂がロシア軍に広まると、ロシア軍の指揮が急に落ちたと言われています。

・戦いは後になったら「どちらの死者(損害が大きかったか」が関心事ですが、戦っているときには「どちらが勝ったか」だけが問題です。いくら損害が大きくても敵を全滅させたら、させたほうの勝ちです。

・133頁・


・事実は勝った日本軍が15000人。負けたロシア軍が16000人でした。戦後、冷静になって計算したらわずかに日本軍の損害が少ないのですが、ともかく戦闘で死んだ日本兵が多かったので、「大きな犠牲を出したい」と思われています。

・奉天のロシア軍は乃木の第三軍が到着すると聞いて、「殺しても殺しても突撃して来る。やがて最後は俺が死ぬ」と思って戦意を喪失したのです。

・もう一つは、多くの兵士を死地に向かわせ、二人の息子を失った乃木夫婦のその後です。

・乃木将軍は多くの兵士が横たわる寒い満洲の高地を巡回し、深く絶望の淵に立たされます。日本に凱旋後、明治天皇の前で泣き崩れ、夫婦で行脚して外地で死んだ兵士を弔います。

・鳥取県米子市の近くに美保が関という場所がありますが、美保神社に兵士の慰霊で訪れ、近くの旅館に宿泊したのち、朝方、夫婦ともに白装束を着てお参りした記録が残っています。その部屋がまだ現存していて、著者はその座敷に座ってかつて乃木夫婦が見たと思う美保の海を感概深く眺めました。

・134頁・11/12/2023 1:03:49 PM


・明治天皇が崩御されたとき、乃木将軍は自決、夫人もとみに自決します。その時に乃木将軍が使用した刀や夫人が死んでも衣服が乱れないように膝を縛って絶命した部屋がそのまま残されています。

・人は時に時代の子になり、巨大なものに突撃して我が身を犠牲にしてまで新時代を拓こうとします。

・また、それが白人の攻撃から日本を守り、「戦争をしない場合」に比べて「多くの日本人の命と貞操を守った」という事実は、現代の日本人が知らなければならないことでしょう。

・134頁・11/12/2023 1:19:19 PM


4章【人種差別との戦い】「第一次世界大戦」と 「人種差別撤廃」への日本の努力・


 


理系博士が語る、真実の「近現代史」!

・ナポレオンと東條英機 理系博士が整理する真・近現代史


・第6章 【大東亜会議の意義】 世界の植民地を解放した、東條英機の偉業・

・忘れ去られた「大東亜会議」・222


・「大東亜会議」の説明から書かなければならないことはとても情けない気がします。長い日本の歴史の中で、国際的に言えば、大東亜戦争と大東亜会議こそ日本が世界に貢献したもっとも大きなことだったのですから。

・小学生の誰もが「徳川家康」を知っているように、すべての日本人が「大東亜会議」会議を主催した「東條英機」について熟知していなければならないはずです。日本の歴史上もっとも輝かしいとも言えるこれらの事実を日本人がほとんど知らないということ自体、日本の歴史教育や日本人の歴史認識が大きく間違っていることを示しています。

大東亜会議を簡単にわかりやすく解説するよ | まなれきドットコム (manareki.com)


・まず、大東亜会議の初歩の情報から示していくことにします。

・大東亜会議は、大東亜戦争が始まって2年目、1913年の115日と6日に東京で第一回が行われています。

・参加したのは、主催国の日本と「日本が植民地から解放して独立したアジアの国」でした。本当は第二回が行われるはずでしたが、それが終戦の年の1945年の5月になので、「大使会議」だけが開催されています。

・223頁・


・本当は 第一回の大東亜会議の参加国と参加国の代表は次のとおりです。

・日本(東條英機首相)

・支那(中華民国・汪兆銘行政院長

・満洲(張恵首相

・フィリピン (ホセ・ラウレル大統領)

・「ビルマ (バー・モウ 首相)

・タイ(ワンワイタヤーコーン首相代理)

・インド(自由インド政府首班チャンドラ・ボース)

・参加国は7カ国、そのうち6カ国が大統領や首相、タイは首相代理でした。日本が白人を追い出した主要な国の中では、インドネシア、インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)が参加していませんでした。長い白人の植民地支配からとりあえず白人の軍隊が出て行ったというだけですから、日本の影響力が大きい政府もありました。

・日本人は、日本人がすることに対しては完璧主義を求めるところがあるので、大東亜会議に出席した国の中には日本が力を持っている。いわゆる政権が含まれているということで、「本当の意味で、日本が解放したアジアの植民地の国の会議」とは言えないとケチをつける人がいます。

・224頁・11/10/2023 10:47:37 AM


・でも、会議の2年前に大東亜戦争が始まり、そこから活動したのですから、2年ぐらいで完璧な会議ができるはずはありません。

・ヨーロッパ人がアジアに来てから、 完全な植民地にするまでには、たとえば東インド会社のような国会社を先に使ったことからわかるように、国の支配にも、支配から解放にもかなりの時間がかかります。まして、イギリスやオランダ東インド会社を設立したのは17世紀の初めですから、それから350年も植民地だった国が、2年で完 全な形になることはあり得ません。

・まずは、白人を追い出した日本の影響を強く受け入れ、それから徐々に自らの国の形 をなしていくということです。でも、日本は戦争をやっている最中に、ともかく「歴史上初めて有色人種の国際会議」(それが大東亜会議)を行ったこと、実質的には多くの問題があったにしても、会議の前には、ビルマ、フィリピンなどを独立させたことだけでもたいしたものです。

・225頁・


・ビルマは戦争が始まった翌年に、「ビルマ独立の父」アウン・サン将軍(アウン・サスー・チー女史の父)が率いるビルマ立義勇軍と日本軍が協力してイギリス軍を追放し、監獄に入っていたバー・モウ(後のビルマ元首)を解放したのです。その後。さらに翌年には日本の河辺正三ビルマ方面司令官が軍政を解き、バー・モウを中心にビルマ国を建国したのです。

・また、アメリカ統治下でも、フィリピンの若者がアメリカ軍の小隊を襲撃したということだけで、その島全体の住民が虐殺されるという事件も起こっています。そのときに殺されたフィリピン人の数は40万人から60万人と言われています。

・アジア各国がそんな状態だったのですから、日本軍がアジア諸国を開放したのは歴史的にも画期的だったのです。

大東亜共同宣言2023年12月11日 14:00:12

・日本軍が解放したアジアの国に声をかけて開催までこぎつけた大東亜会議は1943年に開催されましたが、会議前日に天皇陛下が各国代表とお会いになり、会議の終了に合わせて「大東亜共同宣言」が全会一致で採択されています。

大東亜会議を簡単にわかりやすく解説するよ | まなれきドットコム (manareki.com)


・このときの宣言文は、フランス人権宣言とならび、世界の歴史上もっとも輝かし 、少し難解ですが、原文のまま掲載したいと思います。

・227頁・


・世界各其ノ所得相ケテ邦共榮樂倍ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ。然るにルニ米英の自画/ノニハ池岡家他民族ヲ抑特二大東二對シテハクナキ侵略搾取行に大東野ユウシニハ大東ノ安定 サントセリ大東亜戦争ノ原因茲ニス。 大東京各相提携シテ大東亜戦争完シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衛ヲ全ウシ左ノ綱領二基キ大東 建設シテ世界平和ノ確立二寄輿センコトラス大東亞各協同シテ大東亜ノ安定確保道義二基ク共存共栄秩序ヲ建設ス

・一 大東亞各相互ニ自主獨立尊重シノヲゲ大東亞/確立ス

・一 大東亜各国の相互ニ其ノサシ各民族ノ創造性ラシ大東文化ス

・一大東亜互恵ノ下緊密二提携其ノ経済発展り大東亞ノヲ増ス

・一 大東亜各高邦トノ交誼ラウシ人種的別ランク文化交流シン資源開以テ世界ノニス

・228頁・11/10/2023 12:11:47 PM


・大切な文章なので、現代文で少し解説を加えておきたいと思います。

・まず、前文で、

1,世界が共存共栄を図ることが世界平和を築くために第一に大切なことである。

2、ところが、アメリカとイギリスが自分の繁栄のために他国を圧迫しているので戦争が起きる。

3. だから、アジアの国が協力してアメリカとイギリスを追い出せば苦しみから解放され、世界平和のもとを作ることができる。

・という原理原則を述べています。

・日本を除くアジアの国はアメリカとイギリスが不当な占領を止めればまずは平和になるということですが、それは後も続いています。 アメリカと共産主義国家がなければ、戦後の戦争もほとんどなかったからです。戦後すぐに起こった朝鮮争はアメリカと 共産中国との戦い。その後のベトナム戦争(アメリカとベトコンと言われたベトナム共産党政府)、アフガニスタン紛争、イラク戦争など、すべてはアメリカが関与しています。

・近年ではパリの銃撃事件などのテロが頻発していますが、これも第一次世界大戦が終わってオスマン・トルコが崩壊したときに、人種差別を止め、中東を中東の人々に任せれば良かったのに、せっかく独立したイラク、シリアをイギリスとフランスが出て行って占領したのがその後の中東の混乱の火種となっています。

・二二九頁・


・イギリスとフランスは自分たちが白人であり、白人が有色人種(といってもトルコ、シリア、イラクは民族的にはイギリス人、フランス人のもとになっているアーリア人の血もかなり入っています)を自由にして良い、暴力の強いものが弱いものを自由にして良いという思想で中東を分割したり、歴史的に名高いウソの条約(サイクス・ピコ協定)を結んだりしたのです。

サイクス・ピコ協定 - Bing images


・つまり、大東亜共同宣言の前文だけでも守られていたら、多くの戦争も、現在の中東の混乱も生じなかったという点ではこの思想は歴史的にも正しかったのです。

・歴史が証明する「大東亜会議」の正しさ

・さらに項目別に具体的な行動が述べられています。

・二三〇頁11/10/2023 12:23:04 PM


第一、軍事力ではなく道義に基づく共存共栄。

・第二、互いに自主独立、互譲親睦で行く。

・第、伝統、創造性、文化を尊重する。

・第四、互恵の精神で経済発展を目指す。

・第五、人種差別撤廃し、文化の交流、資源の開放を行う。

・それまでヨーロッパとアメリカがやっていたこととは正反対の方法がまとめられています。ヨーロッパとアメリカがそれまでの500年間ぐらいの長きにわたってしてきたことは、

1,道義を無視して軍事力で相手をねじ伏せ、

2,相手を独立させずに植民地にし、

3,相手の伝統や創造性、文化などを無視し、

4,自分だけが経済発展すれば良いと考え、

5. 人種差別を行い、資源を独占して相手を苦しめる、ということだったのです。

・こうして文章にしてみると、大東亜共同宣言が歴史的に見ても、現在の考え方に沿って見ても、実に正しいことがわかります。そして、ヨーロッパやアメリカが「正義」としてきたことがいかに間違っていたかもよくわかります。

・二三一頁・


・今なお差別をし 続ける共産主義国家

・また、人種差別撤廃については、すでに第一次世界大戦後のパリ講和条約で、日本が 提案した追加条項からの考え方が踏襲されています。

・講和会議で日本が提案した考え、「各国均等の主義は国際連盟の基本的綱領なるに依り締約国は成るべく速に連盟員たる国家にある一切の外国人に対し、均等公正の待遇を与え、人種或いは国籍如何に依り法律上或いは事実上何等差別を設けざることを約す」と同じです。

・もともと人種によって 人間を差別することは不適切ですし、フランス革命の「自由、平等、博愛」が本当に正しければ、日本が主張する人種差別などは当たり前なので す。しかし、当時はまだそのフランスですら女性に参政権が与えられていなかったのですから、フランスの言う「平等」などは「白人の口先だけのことだったのです。

・ともかく、東條英機首相のもとで日本は世界でも初めて「有色人種だけの国際会議」を実施し、そこで「大東亜共同宣言」を採択し、その内容はその後の世界の本流となっていくのです。

・232頁・11/10/2023 12:33:53 PM


・この会議はアメリカ、イギリスにとっては脅威でしたし、戦争が終わっても宣言に謳われたような「正しいこと」が世界で行われるのは自分たちにとって困ることだったのです。2023年12月11日 14:22:37

・それは中国共産党も同じで、中国共産党は「共産主義」、つまり「人間はすべて同じなのに、資本者と労働者階級があって、労働者階級が圧迫される。だからそれを開放するのだ」というお題目だけを掲げていますが、それはまったくのウソです。 歴史的には、国内では資本家階級の代わりに共産党党員が支配し、対外的には周辺国を侵略するということになったのです。

・戦後、中華民国との内戦に勝利した後、周辺諸国、つまりチベット人が住んでいたチベットからイギリスが撤退すると、白人の代わりに占領し、イスラム教徒の国だったウィグルを侵略、モンゴル内の政治的な混乱を利用して「内モンゴル」をとり、さらに日本がソ連に敗北して撤退した満洲国を併合し、さらには、朝鮮、ベトナムにも軍を出したのです。

・233頁・


・戦争が終わっても、まだ旧態依然とした考えで世界に争をもたらしたのは、アメリカと中国でした。だから、現在でも彼らは必死になって大東亜会議の存在と、大東亜共中国でした。同宣言を無視しているのです。

・もし共産主義がこの大東亜会議の精神を少しでも取り入れれば、現在のチベット、ウィグル、内モンゴル、そしておそらくは満洲も独立することでしょう。

・大東亜戦争後、植民地は解放された!

・最後に、日本の戦争と大東亜共同宣言がもたらした歴史的事実をもう一度整理してみましょう。

[第一の視点]

・日露戦争以来、日本が戦ったのは、ロシア人、イギリス ドイツ人と白人側についた清王朝と中華民国です。

・最近の中国、つまり中国共産党と日本はほとんど戦っていません。ですから、抗日70周年」で中国が「日本と戦って勝利した日」というのは歴史的にはまったく事実を反します。

・二三四頁・11/10/2023 12:48:18 PM


・「第二の視点」

・日本は世界が戦争に巻き込まれるのは、第一に人種差別、第二に力の強いものが力の弱いものを攻めるということであることを指摘しました。パリ講和会議では「人種差別撤廃」大東亜会議では「道義による国際秩序」を訴えました。

[第三の視点]

・日本は自国が白人から経済封鎖を受けたことをきっかけにして、自ら白人と戦うことを決意しました。戦いの最中でも、アジアの国々を次々と独立させていきました。

・日本が白人と戦って一時的にせよ白人を追い出したので、戦後、独立を果たした主な国は、ビルマ (ミャンマー)、マラヤ(マレーシア)、インドシナ (ベトナム、ラオス、(カンボジア)、インドネシア、フィリピン。

・シャム(タイ)はイギリスとフランスの間で外交的にやっと独立をしていて、戦争中は日本の同盟国でしたが、戦後、 完全な独立を果たしています。

・235頁・


・第四の視点

・日本がイギリスなどのアジア、中東地区の軍事力を弱めた結果、独立できた国は、インド、パキスタン(イギリス領インド帝国から独立)です。国が大きいという意味では、大国と言えば支那とインドですが、そのうち、支那の清王朝やその後の中華民や中国共産党は白人側についたのですが、インドは終始、イギリスと敵対する独立運動を展開して多くの犠牲を出していました。

・そのインドも大東亜戦争の後、イギリスから独立することができたので、日本の功績を認め、戦争後に行われた東京裁判(何度でも書きますが、本当は裁判と呼ぶべきものではなく、「東京リンチ」とするべきです。しかし、日本のマスコミが「東京裁判」という戦勝国の名称を使っているので、本著では不本意ですが裁判という名前を使用しています)で、東條の絞首刑に反対しています。

・第五の視点

・オスマン・トルコの支配下にあった中国 は、戦後しばらく白人支配の下で苦しんだのですが、結局、次々と独立していきます。

・236頁・11/10/2023 1:03:30 PM


・シリア、イラク、ヨルダンなどがそれらの国に相当します。

・また、さらに軍事的には日本がイギリスの東洋艦隊を撃滅し、東洋の基地だったシンガボールを陥落させたことによってイギリスは広大な植民地を維持できなくなりました。それに加えて、大東亜共同宣言で「人種差別撤廃」を掲げたので、アジア、アフリカの 諸国は思想的な基盤を持つことができました。

・第六の視点

・アフリカ諸国では1951年から1960年代にかけて続々とヨーロッパの植民地を脱して独立国家になります。日本が白人に対して戦いを挑み、部分的にせよ勝利したことによって、世界の「人種差別」と「力の政治」は大きく後退し、その勢いはアフリカ まで及んだのですから、すごいことです。

これはフランス革命の後のナポレオン戦争で、南アメリカの諸国がヨーロッパ支配から独立していったのと同じです。

・237頁・


・日本が白人と戦ったことによって起こった「世界全体の変動によって、有色人種の向上しました。そして、戦争が終わってから7年目の1955年、アフリカ独立していくさなかに第一回バンドン会議 (アジア・アフリカ会議)が行われます。

・日本は自らが行った偉大な功績に気づかず、細かいことを考え、戦いに負けたショックもあって、ビクビクしながらバンドン会議へ望んだのですが、

「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と慮っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。

・出てみるとアフリカからもアジアの各国も「出てみるとアフリカからもアジアの各国も「よく来てくれた」「日本のおかげだ」と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。

・それにあのとき出した「大東亜共同宣言」が良かった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。

・・238頁・11/10/2023 5:26:50 PM


・「アジア民族のための日本の戦とその意義を打ち出した大東亜共同 宣言は歴史に輝く」と大変なもて方であった。やっぱり出席して良かった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ」まさに、大東亜戦争と大東亜共同宣言こそが、その後の世界の植民地を一掃した大きな方になったことを歴史が証言したことになったのです。

・この輝かしい項目の歴史的貢献は、ぜひ日本人全部が共有し、子供たちに教えたいものです。誇りを持って子供が育てることは、私たち親にとって最大の義務であると考えます。しかし、占領軍によって歪曲された歴史、それに追従した知識人からなる反日日本人、朝日新聞などの大手メディアが日本の功績を隠蔽し、その中で多くの日本人が錯覚しています。

・日本が戦って世界が変わったことについて、アジアでもまだ旧態依然とした「力の政治」をしているのが中国(中国共産党政權)です。 共産党政権というのは「労働者のため」という理想を掲げていますが、レーニンがソビエト連邦を作ったあと、「王様の代わりに「書記長」か「主席」がその位置に就き、「自分が正しいと思ったことは正しい」は正しい」という論理で国を支配するようになります。

・239頁・


・さらに王様と違ってたちの悪いことには、「他の国も共産主義が良い」と錯覚していて、中国の場合は、チベット、ウィグル、内モンゴル、満洲を攻撃して獲得し、さらに北朝鮮、ベトナム、尖閣諸島、南シナ海と絶えず「力による支配」を目指しています。

・さらには現在、中国が日本を激しく批判するのは、アジア諸国の中で中国だけが白人ついたことを隠蔽したいという劣等感が原因になっていると考えられます。

・せっかく東條英機が「道義」に基づく世界を求めたのに、未だに「アメリカ、ロシア、中国」が「力」による政治をしていますが、これもやがて人類の進歩とともに、すべては大東亜会議の宣言文どおりになるでしょう。

・「平等」で読み解く近現代史

・「平等」というキーワードで世界の歴史を整理すると、

1,白人の男性はみな平等である

・宣言文の起草者マリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ (ラファイエット侯爵)

・240頁・11/10/2023 6:07:55 PM


・初期の指導者・マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール

・完成時の指導者・ナポレオン・ボナパルト以上、3人ともフランス人

2,労働によって格差を付けない

・理論の構築者・カール・ハインリヒ・マルクス

・初期の指導者・ウラジーミル・イリイチ・レーニン

・完成時の指導者・(不在······変質して強化)

3、人種も男女も平等である

・理論の構築者・福沢諭吉

・初期の指導者。明治天皇 ムスタファ・ケマル・アタテュルク(トルコ共和国大統領)

・完成時の指導者・東條英機

・フォロワー・ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(南アフリカ大統領)、マー ティン・ルーサー・キング・ジュニア

・241頁・


・平等という視点で見ると、近世の世界は「フランスの人権宣言」「レーニンのソ連邦建設」そして「東條英機の人種差別撤廃」の3つに集約されます。このうち、共産主義は途中で変質して、封建制度と同じように共産党の指導者の独裁に戻ってしまいました。だから、今でも社会の所得格差問題は解決していません。

・戻らなかったのは、フランスの人権宣言と日本の大東亜宣言で、ともに1945年の日本の降伏後に実現して、フランスの女性参政権が1946年、アフリカ諸国の独立が 1960年代でした。ただし、女性参政権はトルコが1934年にアタテュルク大統領が世界で最初に実施しています。

・人がみな平等であるという考え方は、日本が白人と全面的に戦ったこと、その中で、常に人種の平等を求めてきたことによって達成されました。だから、世界の多くの人に「平等」という考え方を与え、それを実施する力をもたらしたのは実は日本であり、その中でも「人の上に人を作らず」という名言で有名な福澤諭吉、パリの講和会議で人種差別条項を提案した西園寺公望そして大東亜戦争を戦い、大東亜会議を実施し、絞首刑に処せられた東條英機がもっとも功績のある人物と言えるでしょう。

・また人類に大きく貢献した活動は明治以来の日本人によってもたらされたという点でも、私たちの大きなプライドになるものです。

・242頁・11/10/2023 6:18:32 PM


・さて、このような大きな功績を残した日本 人である「東條英機」とはどういう人物だったのでしょうか。

・日本人は自ら行った大東亜戦争が負けたので、その責任を指導した政治家、軍人にかぶせて、その人たちが日本人を代表して死につい たのに、さらに批判するという恥ずかしい言動を行ってきました。

・しかし本著で整理をしたように、日本の日露戦争から大東亜戦争に至る道筋こそ、世界誇るべきものだったのです。

・それにしても、人権宣言の決着を付けた ポレオンと、人種差別撤廃を完成した東條の「死後の取り扱いにあまりに大きな差があるのに愕然とします。

・243頁・


・ナポレオンはセントヘレナ島に流された後も、世話をする副官などに囲まれ、指導者としての待遇を受けます。そして、死後には遺言どおりパリのセーヌ川河畔にあるアンヴァリッドという立派な建築物の中央に、これも豪華な棺の中に祀られています。

・これに対して、東條英機は戦争犯罪人として東京リンチ(東京裁判で裁かれて絞首刑になっています。さらに、その遺骨は一時は行方不明になりましたが、数人の日本人の決死の活動によってかろうじて骨が散逸することなく集められ、志のある人の浄財によって、愛知県の海岸近くにある山の中に葬られています。

・244頁・11/10/2023 6:31:38 PM


・今では「殉国七士欄」に参る人もあまりいないのですが、誰が参ろうが、歴史の中に朽ちようが、東條英機が人類にとってもっとも素晴らしい功績を挙げた人の一人であることは間違いなく、それは世界史の中でも一、二を争う績であると考えられます。

・日本人が知っておくべき。東條英機

・東条英機に関する最も基本的な事柄を整理して本著を終わることにします。

・東條英機(とうじょう・ひでき )。明治17730日、東京都千代田区で生まれた。父は陸軍中将の東條英教、母は福岡県出身の徳永千歳。三男。陸軍大将従二位勲一等功二級。大東亜戦争を首相として指導。敗戦後に拳銃自殺を図り失敗。東京リンチ(東京裁判) にて開戦の罪 (A) および殺人の罪 (BC)として起訴され、昭和231223 日、巣鴨拘置所で死刑を執行された。享年63

・陸軍の中でも中心的な役割を果たし、陸軍大臣時代の彼の考え方は次の話でよく理解できる。

・245頁・


・陸軍大臣のときに、支那派遣軍総司令部から「アメリカと妥協して事変の解決に真剣取り組んで貰いたい」と言われたとき、 東條は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」と言ったと近衛日記に記録されている。軍人として骨のある人材だった。

・首相になるとき、本命は対米協調派であった東久運宮稔彦王だったが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えられるのは東條しかないこと、また天皇の意向に従うが首相として適当と木戸幸一内大臣が天皇に推挙、昭和天皇は「虎穴に入らずんば虎児を得ず、だね」と承認した。

・木戸内大臣は「東はお上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材である」と述べている。

・東條は首相任命の昭和天皇から対米戦争回避に力を尽くすように指示され、


・246頁・11/10/2023 6:40:05 PM

・それまで開派的姿勢をとっていたのをあらため、外相に対米協調派の東郷茂徳を起用して、戦争を前提としていた帝国国策行要領を白紙に戻した。

・陸軍が強硬に反対していた日本軍の中国からの徹兵要求についてもアメリカに妥協案を出した首相就任後の東條の方針は、陸軍大臣時代のものとまったく異なっていて、昭和天皇の意思の実現 (平和路線)に全力を尽くそうとした。

・しかし、もともとアメリカは戦争を望んでいたので、妥協案はすべて拒否。11月末にはハル・ノートを日本に示して、(1)日本軍の中国からの即時全面撤兵、満州国を認めない、という内容を通告した。対米協調派の東郷外務大臣ですら「これは日本への自殺要求に等しい」と受け止め、外務大臣として「これは最後通牒である」と認めている。

・対米開戦決定を上奏した東條は、天皇の意思を実現できなかったことで、開戦日の未明、首相官邸の自室で号泣したと記録されている。日本はアメリカの陰謀に勝てなかった。

・大東亜会議は、重光葵外務大臣の提案をもとに194311月、東京で開催し、同盟国のタイ王国、満洲国、中華民国 (汪兆銘政府)と、白人国家の植民地だった国で日本軍が白人を追い出したアジア各国そして日本の占領下であったが独立準備中の各国政府首脳を召集し、「大東亜共同宣言」を採択して欧米の植民地支配を打倒する政治的 連合を作り上げた。

・247頁・


・旧オランダ領でまだ独立準備中にあったインドネシア代表の不参加など若干の欠陥はあったが、当時日本に在住していたインド独立運動活動家のナイル氏など幅広い協力を受けて会議は成功、各国代表からは会議を緻密に主導した東條は高く評価されている。

・東條は単に会議を開いたというだけではなく、前年には、大東亜圏内の国の外交について「既成の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我が国を指導者とする所の外交あるのみ」としている。昭和1 83月には満洲国と中華民国( 汪兆銘政府)5月にフィリピン、6月から7月にかけてタイ、シンガポール、インドネシアなどを歴訪して準備をしている。

・また、東京裁判中の「東条英機宣誓供述書」では、「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我が国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」としている。

・248頁・11/10/2023 6:57:17 PM


・実に立派な考えで、現在の外交も「相手の国は」という対立的な考え方であるが、東條は「国同士が対立しない外交」を念頭に置いている。

・敗戦後は自殺を図る。

・短銃で心臓を撃ったのだが、自決を予想していたアメリカ軍、軍は、銃声を聞いて一斉に突入、救急処置の後、あらかじめ準備していた た(アメリカ軍アメリカ人軍医ジョンソン大尉が救命した(アメリカ軍は東條をどうしても処刑したかった)

・ところが日本の新聞は 、政府高官が次々と自決するなか、自決に失敗した東條の記事を大きく掲載。その結果、多くの日本人から顰蹙をかった。入院中はアメリカ軍のロバート・アイケルバーガー中将などが見舞いに訪れたが、日本人の見舞客は家族以外ほとんどなく、東條は日本人の豹変振りに大きく落胆したとされる。

・東京裁判になっても彼は自己弁護は一切行わず、「大東亜戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争であり国際法には違反しない」という論理展開で「国家弁護」を貫いたが、自分は「敗戦の責任」戦争ではなく負けたことの責任は負うと宣誓書で明言している。

・リンチ風の裁判だったが、東條の国家介護は理路整然とし、アメリカの対日戦争準備を緻密な資料に基づいて指摘し、「こうしたアメリカの軍事力の増大に脅威を感じ日本が自衛を決意した」と主張した。

・249頁・


・また「開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得され嫌々ながら開戦に同意しただけである」と明確に証言し、天皇の免訴を最終的に確定することになった。

・他の被告と違い、東條が一切の自己弁護をせず国家弁護と天皇擁護に徹する姿勢であったことが次第に明らかになり、評価も持ち直した。ただ、田中隆吉をはじめリストに名前がある人が、裏切り行為を行ったことも東條には不利だった。

・残念ながら敗戦から「東京リンチ」の結末が出るまで、日本人の中には武士(軍人)であっても「卑怯者小物が多くいたことは確かだった。日本は70年経て、まだ独立を果たしていない(アメリカ軍が駐留しているが、それもこの「東京リンチ」のときの指導部の一部の裏切り行為が尾を引いていると考えられる。

・戦後70年を経て、世界史のうえでもっとも功績のあった東條英機を、まずは日本の中でよく整理し、できれば国民の合意のうえで高い評価をしたいものと思います。

第6章終わり・250頁・11/10/2023 7:14:39 PM


 

 

・ 大東亜共同宣言・226

・歴史が証明する「大東亜会議」の正しさ・229

・差別をし続ける共産主義国家・231

・今なお 大東亜戦争後、植民地は解放された!233

・「平等」で読み解く近現代史・239

・日本人が知っておくべき 東條英機〟・244

・あとがき 〜論理的で誠実な歴史観を!250