翌1866年3月28日には早くも、ヒースの原野を開拓するために「デンマーク原野開発会社」をヴィボー市に設立しています。彼の計画に賛同し、率先して協力を申し出た人もわずかにいましたが、ダルガスは一人で各地の農民のものを訪れ、ヒースの原野を開墾するよう説得して回りました。ダルガスの行動力は今なおデンマーク人を衝き動かしているようです。


デンマークという国 自然エネルギー先進国―「風のがっこう」からのレポート [単行本] ケンジ・ステファン スズキ ()

商品の説明

内容(「BOOK」データベースより)

資源の持たないデンマークでどうしてこんなに水準の高い、教育、医療、福祉社会を実現出来たのか?人が生きるために必要な水と空気を汚染から守り、食料とエネルギーの国内自給に努力し、「弱い者を助ける」という政治の愛情が感じられる社会。デンマークから学ぶものがあるとすれば、国民の生活を守る政治のありかただ。

内容(「MARC」データベースより)

デンマークはどうしてこんなに水準の高い教育、医療、福祉社会を実現できたのか? デンマークはなぜ自然エネルギーを選択し、どんな環境政策を採用しているのか、「デンマークという国のかたち」を紹介する。

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登録情報

単行本: 182ページ 出版社: 合同出版 (2003/06)

発売日: 2003/06

 

目次

1章 デンマークという国

国土は氷河の置き土産、13、

「デンマークを育てた最良の息子」15、

ドイツとの「三年戦争」17、

ダルガスの原野開発会社、20、

農地を増やす、22頁、

略農への生産転換と協同組合方式、23頁、

グロントヴィの「国民高等学校」「のうぎゅ学校」26頁、

学校はほぼ100%公立、28.

キリスト教が国教、29頁、

デンマークは王国である、31頁、

200年前、アンデルセンが生まれた、32頁、

アンデルセン作品の世界、36頁、

讃美歌を書いたアンデルセン、39頁、

アンデルセンの生きた時代の国家予算、40頁、

世界で一番後進国を援助している、42頁、

教育費は無料、43頁、

「扶助法」の精神、44頁、

入院費・出産費用はすべて公的負担、45頁、

住宅所有のすすめ、48頁、

高い税金、48頁、

15歳から所得を自己申告、49頁、

「個人番号制度」の導入、50頁、

女性の社会進出、51頁、

税負担と「共生への責任感」53頁、

2章 「オイルショック」から転換した環境・エネルギー政策

環境政策は国民の健康管理のため、55頁、

異常に低かったエネルギー自給率、57頁、

「エネルギー計画1976年」58頁、

第二次オイルショックが政策転換に拍車、58頁、

「エネルギー2000年」が政策の柱、59頁、

洋上ウインドファームの建設が始まる、60頁、

四つの新エネルギー、62頁、

自然エネルギーの特徴、63頁、

自給率アップ政策は成功したか?、64頁、

国内エネルギーが増加する、65頁、

3章 なぜ、デンマークで風力発電か

第一選択は風力発電、67頁、

風力発電機の仕組み、68頁、

「オーバープロダクション」を防ぐ、69頁、

100年の歴史を持つ、71頁、

世界最大の風力発電設備、73頁、

デンマークの風力発電機の特徴、75頁、

発電量の計算方式、76頁、

風力発電所を設置する場合、79頁、

「自然保護法」「自然保存法」「航空法」による設置制限、80頁、

風力発電所売電価格、82頁、

デンマークが風力発電先進国になった理由、84頁、

売電収入と税金との関係について、87頁、

投資して採算があうか、87頁、

採算が取れる風速とは、89頁、

リパワーと中古風車市場の開設、91頁、

増大する洋上ウインドファーム、95頁、

洋上ウインドファームの経済性、99頁、

4章 バイオガスで電気と温水を供給する

バイオガスプラントの仕組み、100頁、

個人農業用のバイオガスプラント、104頁、

バイオガスプラント管理のポイント、107頁、

個人農場用バイオガスプラントの採算性、108頁、

バイオガス発電の売電価格、109頁、

共同バイオガスプラントの利点、111頁、

共同バイオガスプラントの構造、112頁、

投入される原料、112頁、

共同バイオガスプラント投資効率、114頁、

共同バイオガスプラントの現状、116頁、

ウスタゴー農場が導入したバイオガスプラント、116頁、

5章 廃棄物をエネルギーに換えるシステムを作る

廃棄物の収集と処理は地方自治体が行う、119頁、

市町村の廃棄物処理に関する制度、120頁、

オーデンセ市の「廃棄物計画書」、121頁、

家庭ゴミは電気と熱になる、123頁、

家庭が負担するゴミ処理費用、125頁、

産業廃棄物の収集・登録・報告義務制度、126頁、

「可燃物」の定義とダイオキシン対策、127頁、

コージェネ(熱電併用)発電所、128頁、

可燃廃棄物の処理と料金制度、129頁、

6章 メタンガス・麦わら・木材をエネルギーに換える

「ゴミ捨てガス」の利用、131頁、

ガスの発生量、132頁、麦わらの利用、134頁、

木材・廃材の利用、134頁、

7章 国民を育てる教育・起業家を育てる社会

市民が育ててきた環境産業、136頁、

デンマークの教育目標と試験制度、139頁、

卒業資格を厳しく審査する、140頁、

職に就くには資格が必要、142頁、

教育の機会均等、143頁、

起業家が生まれる仕組み、145頁、

「風のがっこう」開設までのてん末、146頁、

8章 デンマークという国の政治

投票率は87%、151頁、

国会議員の平均年齢は47歳、152頁、

難民・移民にも選挙権がある、152頁、

小選挙区制と比例代表制の併用制、153頁、

24回目の政権交代、154頁、

試される新政権の判断、157頁、

2005年の国会議員選挙、160頁、

デンマークの市町村合併と地方行政への改革、162頁、

9章 今、日本の抱える問題は何か?

食料の自給に努めていた日本、163頁、

明治時代のエネルギー消費、164頁、

省エネが進まなかった日本社会、164、

食料・飲料水を国外に依存する日本、167頁、

減らないゴミ・増加する処理費用、169頁、

増え続ける高齢者層と社会保障関係費、170頁、

際立って日本的な問題、172頁、

増大する国と地方の借金、173頁、

北海道とデンマークの産業構造の相違、175頁、

北海道の農業には安価な電力が必要、178頁、

北海道をエネルギー供給技術のセンターに、179頁、

原子力発電に依存による債務の増大、182頁、

風力発電では電力供給体制は組めない?、186頁、

日本の人口構成を分析すると、188頁、

大学卒の初任給五十万円の国、190頁、

収益力が非常に高い企業群、191頁、

10章 日本はデンマークから学ぶものがあるか

「政治家、役人には、国民を守る義務がある」193頁、

「豊かな生活」が持続できる社会が形成されつつある、194頁、

「日本の株だけは手を出すな」、195頁、

日本の教育は間違っていないか、197頁、

大学が学びの場になっていない、199頁、

形式的な大学ブランド主義、200頁、

11章 日本への私の提案

国のあり方を国民が考える、203頁、

「コンセンサス会議」を提唱する、204頁、

食料の国外依存主義からの脱却を、204頁、

水資源の公平な分配を、208頁、

エネルギー消費は公平性が重要、209頁、

水浄化のためにバイオガスシステムの普及を、210頁、

地域ビジョン作りに「可能性調査」を、213頁、

膨大な市場に参入を、215頁、

ハイブリット型発電機を世界に普及させる、218頁、

山林資源を循環的に利用する、220頁、

私の13の提案、220頁、

増補版のあとがき、参考文献、

11/11/7 93649

 

はじめに

今から39年前、国民福祉の基礎となる「所得の再分配」のあり方をデンマークの実際から学びたいと思い立ち、コペンハーゲン大学に留学しましたが、いつの間にか生まれ育った日本での歳月より長い時間が過ぎ去りました。

1967年、22歳で日本を出国した時には、三年間だけの留学計画でしたが、いつの間にか10倍以上もデンマークに住み、結婚して子供が三人、孫も三人授かり、デンマークにすっかり根を下ろしました。

1990年10月には、デンマークと日本の産業界の橋渡しを主要な業務とする「スズキ・リサーチ&アシスンス・デンマーク社」(SRA,)を設立しましたが、デンマークの大型風力発電システム、バイオガスシステムを二歩へ紹介する仕事を手掛けるようになるとは予想もしませんでした。

1997年6月には、デンマークの環境政策や風力発電、バイオガスを中心にした「自然エネルギーの自給システムと政策」をデンマークに出向かれた日本人に研修する施設「風のがっこう」を設立することができました。そして、2002年6月には、丹後半島に位置する京都府の弥栄町からお誘いで、「風のがっこう京都」を開設することもできました。

12頁、11/11/7 149

ここ数年、日本に招かれて自然エネルギーに関する入門的な講演会、あるいは風力発電、バイオガス発電に関する専門的な研修講座での講演を依頼されることがめっきり多くなりました。私としては、市民の皆さん、あるいは産業界、行政の方々など職業の別を問わず、自然エネルギーの科学的・技術的な側面だけでなく、なぜ、デンマークが自然エネルギーを選択し、どんな環境政策を採用しているのか、いわば「デンマークという国の形」をぜひ日本の皆さんにお伝えしたいと心がけています。しかし、氷河の去った後の半島にできた北欧の国の長い「物語」を、私のつたない話術では到底カバーすることは出来ません。

この本は、そんな要求不満や、日本の友人・知人の勧めによって生まれたものです。デンマークと日本の橋渡し役が書いた「デンマーク自然エネルギー事情」「共生の国デンマーク」からのメッセいーじとしてお読み頂き、21世紀の共生時代を築いていく、何らかのヒントを見つけ出した戴ければ望外の喜びです。

平成23117


1章 デンマークという国

国土は氷河の置き土産、13、

「デンマークを育てた最良の息子」15、

ドイツとの「三年戦争」17、


ダルガスの原野開発会社、20、


このようにダルガスの20歳から36歳の青壮年気は、ドイツと領土を争った激動の時代で、彼は軍人としてその渦中にいました。デンマークはドイツとの国土争奪戦争に敗北し、農に適した肥沃な平地が続くシュレスヴィヒ州とホルスタイン州を失うことで、実に国土の3分の1、人口の30%以上が減少します。これは国家存亡の危機です。


1865年3月、ダルガスはシルケボー市で開かれた「南ユトランドの母国との関係」という講演会に聴衆者として参加しましたが、話を聞くだけでは収まらず、視聴者相手に「外に失ったものは内で取り戻す」、つまり、気持ちがあるのなら行動に移すべきだという有名な演説をしています。南の肥沃な土地をドイツに取られえしまったが、嘆いても始まらない、その気持ちを胸に、国力回復の行動を起こすことを人々に説いたのです。これを契機に、ダルガスは国土開発を生涯のテーマに定め、まい進していきます。

21頁、11/11/8 1129

翌1866年3月28日には早くも、ヒースの原野を開拓するために「デンマーク原野開発会社」をヴィボー市に設立しています。彼の計画に賛同し、率先して協力を申し出た人もわずかにいましたが、ダルガスは一人で各地の農民のものを訪れ、ヒースの原野を開墾するよう説得して回りました。ダルガスの行動力は今なおデンマーク人を衝き動かしているようです。

「原野開発会社」の事業の中で重要な位置を占めたのが開墾地を乾燥と砂嵐から守るために防風林を植林する事業でした。ダルガスの植林事業は政府の補助金制度も導入されたことによって急速に拡大したしました。

ダルガスが植林事業を始める以前、1860年のデンマークの国土面積に占める山林の割合は4・7%でしたが、1907年には8・3%にも増えています。1907年当時、ヨーロッパ各国の山林面積の割合は、ドイツで26・2%、イギリスで3・7%、ヨーロッパ諸国の平均は33%でしたから、デンマークの山林面積はまだ低位なのですが、短期間のうちに山林の割合を増やしたダルガスの事業はデンマークでは、高く評価されています。1995年におけるデンマークの山林・防風林の面積は約44万5000ヘクタールで、国土面積の約10・3%を占めています。

22頁、11/11/8 126


1866年にダルガスに設立し、140年になろうとする「原野開発会社」は現在でも活動していて、国内の防風林の保全事業だけではなく、海外での植林事業、森林管理あるいは最終処分場から出るメタンガスの埋蔵量チェックなど国内外において土を守る事業を続けています。

 

農地を増やす

農地を増やす、22頁、


ダルガスが「原野開発会社」を設立し、ヒースの原野を開墾して農地の拡大を図った結果、デンマークの農地面積は1861年の約245万ヘクタールから、20年後の1881年に約286万ヘクタールと約40万ヘクタールの農地が増加しました。

1830年ごろから870年代の中頃までの約50年間、デンマークの農業は繁栄の時代を享受します。西ヨーロッパ諸国の人口増加と工業化の影響で、各国の食料需要が拡大し、農産物価格が高騰したため、ヨーロッパ諸国への農産物供給地になっていたデンマークの農業が発展したわけです。

23頁、11/11/8 1437


しかし、それも長続きはしませんでした。鉄道と船舶による輸送のネットワークが整備され始めると、東ヨーロッパ諸国やアメリカから安い穀物が西ヨーロッパ諸国へ大量に供給され始め、上昇を続けていた穀物類価格は低下してきました。また、西ヨーロッパの各国政府は海外からの穀類に高率の関税をかけて自国の農業を守る政策を採用し始め、これによってデンマークの農業は打撃を蒙りました。

 

 

酪農への生産転換と協同組合方式、23頁、


このような農業の危機に直面して、農民たちは自らの利益を守るため、協同組合方式による酪農製品の加工工場や食肉解体工場を設立していきます。これが今日の酪農王国デンマークの基礎を築き上げていきます。付加価値の高い畜産製品の輸出価格は穀物に比べて高値で安定していたこともあって、デンマーク農業の畜産への転換は軌道に乗っていきます。

1876年から下がり始めた家畜、麦の生産者価格は、それぞれ91年、1901年から増勢に転換しています。


デンマークの

農家戸数

農業人口

耕地面積

 

1971年

135.588

203・800

2・915・000f

 

2000年

54・540

79・616

2・646・000f

 

 

24頁、11/11/8 150


協同組合の推移ですが、穀類価格が暴落しはじめた1880年代以降、たくさんの協同組合組織が設立されていることがわかります。現在、規模拡大による統廃合によって絶対数は減ったとはいえ、デンマークの酪農製品の加工工場や食肉解体工場は、今でも農民たちが共同所有する事業協同組合であり、株式会社ではありません。


デンマークの農民たちが造り上げた協同組合とその精神が、今日のデンマーク国民の国を守る精神を造り上げたといっても過言ではないと思います。

私も約10年間、養豚と穀類生産などの農場を経営していましたが、そこで付き合いのあった農民や農業関係の行政マンたちは時代の流れをよく読み、農業経営の在り方を巧みに変化させていました。また、農産品の研究開発にも常に怠らない熱心な農業経営者たちでした。

 

たとえば、1967年における豆類の耕作面積はわずか6500fにすぎませんでしたが、30年後の1998年には10万fを超えています。

確かに、デンマークの農家戸数と農業人口は毎年減少し、1971年には約13万5千戸あった農家戸数が、29年後の2000年には約5万4000戸に減り、農業人口も約20万人から約八万人に激減しています。この30年の間にデンマークでも就業構造に大きな変化があったのです。しかし、デンマーク農業の変化の特徴は、耕地面積が約300万fから約265万fとあまり減少していない点です。

25頁、11/11/8 1527


農家戸数、農業人口が大きく減少しているにもかかわらず、耕地面積があまり減少していない背景には、国内外の状況に合わせて常に機械化と合理化、農業従事者の教育を通じて農業経営の改善をはかってきた、一貫した農業政策の存在がうかがえます。

よく知られているように日本の食料自給率はカロリーベースで約40%、そのあまりに低い自給率を高めることがやっと政府の政策課題に上がってきたようですが、日本と同様、農業人口が激減し、農家戸数が減少するという社会現象が起こったデンマークの食料自給率は、動物性タンパク質だけでみると約300%を確保しています。デンマーク国民535万人の約三倍に当たる1500万人分の農産品を生産するという「農産物輸出大国」なのです。農業部門の輸出額は農業人口の構成比からすれば膨大な額になり、例えば2000年における肉類と酪農製品(鶏卵含む)の輸出額は約377億クローネ(約5700億円)にも上がっています。


とりわけ、デンマークは肉類の輸出国です。1999年の数値で見ますと、自給率はそれぞれ豚肉490%、鶏肉で214%、牛肉で115%、ミルクは100%です。自給率が大きく上回る豚肉、鶏肉の輸出によって、寒冷の地では栽培できない農産品の輸入が可能になっています。日本との関係で見ますと、2001年の日本向け輸出豚肉の販売額は64億クローネ(約1000億円)で、日本人一人当たり約790円の豚肉を買った計算になります。ちなみに、2001年の対日輸出総額は148億クローネで、このうち豚肉の占める割合が約43%、医薬品26億クローネ、酪農製品・魚介類9億クローネになっています。

26頁、11/11/8 1551


デンマークの政治は、国民が安心して食べられる食料自給体制の構築を一貫した農業・食料政策をとってきました。その成果が今日のデンマーク農業の自給率になって表れているのだと思います。では、日本の農業のたどった止めない自給率低下の道とデンマーク農業がたどった政策の分岐点は何だったのでしょうか?私には、日本国民の食料自給に対する考え方とデンマーク国民のそれの違いからきているように思えてなりません。


ヨーロッパの先進国ではドイツ、イギリス、フランスなど、デンマーク以外にも食料自給率が100%超えている国があります。食料は空気、水と同様国民の生命を守るうえで不可欠なもので、これを確保することが国家の第一義的な義務であり、食料を国外に依存することの危険性を度重なる戦争の経験からヨーロッパ人は骨身滲みて知っているのだろうと思います。つまるところ、戦争は食料とエネルギーに対して国境を境にして行う争奪戦だと彼らが理解しているからでしょう。


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グロントヴィの「国民高等学校」「農業学校」26頁、


さて、デンマークを語るときダルガスに加えてもう一人、特筆すべき人物を紹介しておきたいと思います。デンマークの国の形を語るとき、国民教育がもう一つのキーワードになりますが、「国民高等学校」(フォツケ・ヒ・スコーレ)の設立を提唱した牧師のニコライ・フレデェリック・セベリン・グロントヴィ1783〜1872)は、デンマーク人の「共生の精神」を育てた教育家として傑出した人物です。

グロントヴィは1783年、牧師の息子として生まれています。コペンハーゲン市の高校を卒業し、1803年に神学の学位を所得しましたが、牧師としての活動をほとんどせず、執筆や講演を通じて国民への啓もう活動に従事し、1844年、彼が61歳の時、「国民高等学校」を創設しました。

国民高等学校は、「人間・市民としての人格形成」を教育目標に掲げ、「実践教育」をモットーにした成人対象の全寮制の学校で、受講期間は2〜3ヵ月で、受講生は冬は男性、夏は女性に分けられていました。1800年代末には21校、1950年には41校となり、2000年末現在でも85校がデンマークの各地で開校し、地域の教育文化のセンターとしてその役割を果たし続けています。


1849年には、「国民高等学校」から全寮制の「農業学校」が生み出されます。1870年当時のデータによると、デンマークの全労働人口の52%は農業従事者で、個別の農場で働く彼らを農業従事者学校に集め、系統立てた国民教育・農業教育を行うことが構想されたわけです。

全寮制の「農業学校」の開設は、グロントヴィの提唱する国民教育の必要性が社会に認知された結果でした。農業学校での教育目標は、将来自分の農場を経営するのに必要な農業理論や農業経営を実践的に学ぶことに置かれ、研修期間は受講者に合せて五ヶ月、六ヶ月、九ヶ月、17ヶ月のコースに分かれていました。

11/11/10 1736分ここまで。


2011年11月10日 19:03:38