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2017年11月 第212号

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 モシターンきりしまでは折に触れ上野原縄文遺跡に関連する特集を掲載してまいりました。お よそ一万年~五千年も前のこの列島に暮らした縄文人の社会、その暮らしぶりを想定し、その平 和な生き方と弥生時代以降の戦いの歴史と比較したり、ある時は土器の謎を追いかけ、上野原縄 文遺跡の発掘発表者新東晃一氏の素焼き窯の土器つくりに立合ったり、またつい5年前には今回 の企画の基となった上野原縄文の森10周年の記念イベントやサミットの記事を載せたり。さらに縄 文の森のイベントの掲載はお知らせ欄で毎月不動の位置を占めています。
 一方で「火山灰考古学」を提唱しつつ南九州の縄文文化の特徴を研究発信し続ける新東氏の連載 「南の縄文世界―縄文文化観の転換を図る」は、今年8月号に至って82回の最終回を迎えたばか りです。本誌はなんと縄文文化に造詣が深いこと、この地の縄文時代に精通していること と思いきや、自信のあることは何一つないのが印刷屋の悲しさです。
 今回は上野原開園15周年のフォーラムの案内を本誌のお知らせで発見したことをきっかけに、さら に5年たった遺跡周辺の今を垣間見てみようと思った次第です。(文責/編集室)

 「何がすごい、どう活かす、上野原縄文の森」という副題が目に留まった。午後1時スタートとい うことで、観客としてみれば開始時刻が少々早い。会場は一般参加者の姿も見られたが、どうや ら副題から見ても関係者側、管理者側のための勉強会といった運びだったように思う。
 県立埋蔵文化財センター(以下、埋文センター)所長堂込秀人氏の挨拶も身内ベースで気 さくであったし、文化庁記念物課の水之江和同文化財調査官の講演もこうあって欲しい史跡の 姿を幾つも聞かせていただいた。さらに、埋文センターの今村敏照氏、縄文の森の古江真美氏、鹿 児島県旅行業協同組合の本田静理事のそれぞれの分野からの発表があり、最後に以上のメンバー に埋文センターの眞邉彩氏を交え、同センターの大久保浩二次長がコーディネーターを勤めるシ ンポジウムとなって、最後は上野原縄文の森園長の福山徳治氏のお話で3時間半のフォーラムを 終えた。まさしく管理と技術開発の現場で固められていた。
 くり返しになるが、15年を経た上野原縄文遺跡をこれからどうしていったら良いか、どうやっ て一層の地点へ持ち上げていくかを現場の人々が考え、再意識するフォーラムだったように思 う。本誌としては上野原の価値はこれまで何度となく記載してきた。イベントも様々な体験メ ニューも毎月号にくり返し紹介されている。そこで今回は当日語られた様々な切り口の中から、 何が新しいのか、特別なのか、新鮮に感じたポイントを断片的にレポートすることにした。上野 原の現代的評価と将来への取り組み方である。

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【縄文の風に吹かれて】

 海岸近くにそびえる高さ260メートルの絶壁、その上に広がるみどりの草原、時に雲がかか り、日常の喧噪から隔絶されたような特別な空間。埋文センターの今村氏はこの雲の上へ通うた びにモチベーションが上がるのを覚えると語っていた。憧れのテーブルマウンテンのようだと。文 化庁の水之江氏も、上野原遺跡の外にない価値の一つにその景観を上げた。今日的な人工物のな い草原と森の先に霧島連山を配した風景は、かつてここに生きた人々と同じ視野なのではない のかと。また道路から少し入ると木々をわたる風の音しかしない、聴覚的にも縄文人と同じ環 境を得られているのではないかと。
 シンポジウムでは、匂いの再現の話も出た。連結土坑から立ち上る燥された食物の匂いだろう か、集石の上での焼き物のけむりだろうか。近頃は公園を囲む植生も豊かになって、鹿や猪も出 没するようになったという。
 5年前の今頃、縄文の森10周年を記事にするために、そのときのサミットを記念する石碑の 周りを歩いたことがあった。職員の方が周辺の木々からどんぐりを採集していた。夕日は高千 穂の山容を赤くし、風が流れ、とても静かだったことを覚えている。

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【上野原遺跡の二つのピーク】

 上野原の存在が全国に知られるようになった頃、北(東)の三内丸山、南(西)の上野原と呼ば れて、縄文遺跡の双壁を成すといわれた時代があった。縄文の遺跡の8割は東日本にあり、西日 本には2割。火焔土器など圧倒的な出土品によって出来上がっていた東中心の縄文文化の認 識を、西日本の最南端の地から覆すことになったが、当時は容易にその事実を受け入れてもら えなかった。上野原はもう一つの縄文世界と呼ばれ、東日本のそれとは別の系統とされた。だが、 知っての通り、新東晃一氏の火山灰による年代設定の研究を通して、この縄文早期前葉の遺跡の 存在は不動となっていった。三内丸山に遅れること3年、上野原も国指定の史跡となる(平成11年)。
 出土した土器は、縄文土器の定義を覆すものであった。さらにそれは約9500年前(縄文時代早 期前葉)の角筒土器、円筒土器群と、約7500年前(縄文時代早期後葉)の壺型土器とに大別されて いたが、そのことを含めた近年の調査を通して、この遺跡には二つの文化的ピークが存在することが明ら かになってきたのだ。(年代の設定も最近の研究ではさらに1000年ほど時代を遡るといわれている。) 国指定の史跡となった9500年前の定住生活の遺構群は、上野原の北側のなだらかな斜面にあっ た。国の史跡指定を受けた所以の場所である。ところがさらに今日、7500年前の壺型土器が発掘 された周辺で土器片や石器など遺物の出た場所12万箇所をスポッティングしていったところ、直径1 60mから200mの環状の分布が浮かび上がった。その中心に上野原の埋納土器として有名な二 つの壺など、12の壺型土器があるという配置構造が見えてきたのだ。
 水之江氏はその壺を亡くなった人の骨を入れる再葬壺と定義し、そのように中央部の墓地を取り 囲むように居住域が環状に配置される形態「環状集落」の最も古い事例として、 その出現経緯や縄文文化の性格を究明する上でのきわめて重要な遺跡となった と話された。そしてそれによって、9500年前の定住生活の遺構の評価と並ん で、上野原縄文遺跡評価のもう一つのピークがそこにあるのだと。

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【環状集落の出現】

 日本列島の縄文文化を見ていくと、環状集落は6500年前から3500年前ごろ までに4度にわたって各地に形成されたことがわかってきている。それぞれに脈絡は ないものの、それは人口の増加に関連しているのではという。
 住居の数が増えると居住地域の統制をとらなければならなくなる。また、人々の心を 一つにまとめる必要も出てきて、土偶や呪術的な道具(上野原の耳飾りといわれてい るものなども含む)を用いて、人々の精神的なつながりを求めるようになっていく。縄 文人の社会が形成されていく過程において何か尊いものを中心にして、環状に集落が 形成されていった。
 環状集落はこれまで東北のものがいちばん大きいといわれていたが、もっと古い、規 模も大きなものが南九州の地にあったということで、7500年前の上野原が再評価 されようとしているらしいのだ。日本列島の縄文文化の最初が南九州で起こったので はないかということを全国の学者もようやく本腰を入れて認めはじめているというこ とだった。そうなると、「もう一つの」縄文文化という言い方は列島全体を視野に入れた 流れの中で解消し、ひとつながりの縄文文化の姿が見えてくる。9500年前の定住 生活の跡から進んだ段階の生活の模様を残す遺跡として。
 一方で、上野原縄文遺跡の発掘とその先進性を全国に広めた新東晃一氏は、本誌10 月号の新連載において、壺型土器は狩猟採集の縄文社会の貯蔵を目的とした入れ物の 形であるとし、あの埋納土器の周辺はこの地特有の火山爆発の脅威を沈めようとする 祭祀の場だったのではないかという見解を述べている。その方角は確かに噴煙を上げる 桜島と対峙している。いずれにしても精神のよりどころとその気持ちの共有が、平穏な暮 らしの継続を祈る場となり、その周りが人々の定住生活の場となっていったのだろう。
 だが、残念ながらその願いは届けられず、喜界カルデラの大噴火で、南の縄文人たち は生活の場を追われていくしかなかった。(7300年前、アカホヤ火山灰層の下に埋 もれた)

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【完成は劣化の始まリ】

 今回のフォーラムの目的の一つは、どうやって遺跡の新鮮さ、魅力を継続し続ける かということにあった。より関係者向けの企画であったという印象を持った所以で ある。
 「史跡指定はゴールではなく、終わりなき維持・管理・整備・活用の始まりだ」「整備の 完成は劣化の始まり。流行があり、時間とともに古臭くなる」「お金と手間がかかる」しか し、「史跡は手を掛ければ掛けるほどすばらしくなる」「10年、20年先を見越した整備活用、 その手法とは」…プロジェクターに叱咤激励の言葉が映し出される。
 史跡の指定後、整備されるまでは国の補助金などが付いて進むが、整備が終わると国は お金を出さないので、地元がずっと維持管理をしていかなければならない。あるものはだ んだんお荷物になっていく。そうならない、生きた遺跡であり続けるための方策は…。
 「もう一度発掘をしても良いのではないか。」水之江氏はそう語った。「指定遺跡にな ると発掘をしてはいけないという風評があるようだがそんなことはない。国はめちゃく ちゃに掘ってはいけないといっているだけ。遺跡は一度掘ると元に戻らない。せっかく 残った遺跡をだめにしてしまう場合も。だからちゃんとした計画と体制を持って掘りま しょうといっているだけ。今日、列島各地で比較検討されるような遺跡も出ているし、発 掘の手法もデジタル技術や自然科学分析という手法も現れ、3次元レーザー測量と いった技術も現れた。そうなるとそれに見合った遺物の掘り方、採り方、見せ方も変 わってくる。最初の発掘から25年たった。新しい技術で掘るとまた違った成果が出てく る。それにあわせて史跡のリニューアル計画をしていく。同時にそれを取り扱う側の 技術や能力も開発していかなければならないだろう」と。
 三内丸山では毎年発掘調査を続けており、その横で毎日その模様を見学者に見せ て説明しているという。だからいつ行っても三内丸山は新しい。そういう時代にして いかないと劣化を防ぐのは無理ではないかと講演を結ばれた。

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【第二の発掘、圧痕レプリ力法】

 遺跡は、その遺物や遺構から、かつての人々の暮らしぶりや文化度をうかがい、社 会の成り立ちやその変化を知る手立てである。そこに火山灰が仕切る年代推定ができ ることを上野原遺跡は私達に教えてくれた。だがさらに新たな分析法 によって一歩踏み込んだ調査が、縄文時代の環境を解き明かす鍵と なってきているという。
 土器に残る痕跡から微細な資料を拾い出す「圧痕レプリカ法」とい う技術である。一度焼成された土器は後から何かを練りこむことができないとい う事実がある。土器の表面は焼成されたときのままだということだ。だ から土器製作の際に粘土の中に入ったり表面に付いたりした種子 や昆虫などはそのまま焼け落ちてくぼみや穴として残り、年月を経て もその形状を維持していたということになる。それを圧痕といい、そ の圧痕にシリコン剤を流し込んで型取りし、元の形状を取り出す。そ れを電子顕微鏡で覗くと、土器製作当時の種子や昆虫の姿が確認できるという わけだ。
 まるで刑事ドラマの科学捜査のような世界だ。だがこの方法で縄文時代中期にはダイ ズやアズキが栽培されていたこと、また米栽培につき物だったコクゾウムシが縄文時代 早期から人々の生活の周りにいたことなどがわかってきたという。
 圧痕を探し出す調査は膨大な資料に向かわなければならず、サンプルをどう選ぶかと いうことだけでも従来の遺物に頼っていれば良いのか、などと課題も出てくるようである。 また逆に数多くの破片資料など、収蔵遺物に再び目が向けられることにもなる。この方法によ って、自然科学的にも遺跡を新しい目で見つめなおすことになるということだった。

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【保護か、活用か、観光か】

 「本物でないとじっと鑑賞する気持ちが湧かないでしょう。本物だからこそ見に行こうとい う意欲も生まれ、人々をひきつける史跡の意味があるのでしょう。」本物の複製、レプリカの 技術がどんどん進む中でも、やはり本物であるかどうかはそこに行く価値を決定する大き な問題だ。縄文時代当時と同じ視覚、聴覚、そして臭覚まで感じられる広大な台地というこ とはそれだけで本物的大きな魅力ともいえるだろう。
 遺跡への関心は高齢者ほど高いが、発掘された文化財については若い人の興味度も高いことがアンケ ートなどでもわかっているようだ。リアルタイムの発掘現場こそ本物とふれあえる今日的観光の一つ なのかもしれない。先日国指定の史跡となった喜界島の城久遺跡の発掘現場を巡る旅や、鹿児島の各 地にある山城を訪れる旅も人気だとか。
 一巡しようとしている上野原遺跡の次の物語は、最新の技術と目的を持った新たな発掘からしかな いのか。フォーラムの結論はその辺りに集約された。遺跡や遺物の理解を深めたり面白く史跡に接す るための展示技術もたくさん紹介された。だが展示予算などは頻繁に付くわけではない。また様々な 活用手法も全国的に開発実施されて、ついには金太郎飴のようなイベントや体験が増えてきたとい う反省もあった。
 国内観光を取り扱う旅行社が、鹿児島の観光コースの一角に上野原縄文遺跡を組み込みたいと思うような 魅力は何か。遺跡の価値を考えるときの評価の一つが観光誘致ということにある。ちなみに有名な東北の弘 前の桜まつりのポスターには三内丸山遺跡がコースとして載っていて、首都圏では掲示されているという。 三内丸山は平成11年に国の「特別」史跡となった。上野原の、ゴールはまだ見えない。

 上野原縄文の森は広い。数年前、還暦の同窓会の際に大阪の友は上野原を再会の第一の訪問地に選んだ。 ふるさとはこう変わったと皆に見せたかったのだ。
 南側の「7500年前の森」は照葉樹とビオトープと青々と茂る草の大地で同窓生を迎えてくれた。そこ は縄文のむかしも、多くの人が幸せを紡ぐのに絶好の場所であっただろうと感じられる風光だった。


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