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2017年10月 第211号

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 来年の明治維新百五十年に向かって、西郷隆盛はじめ薩摩の志士たちへの興蛛が高 まっていく昨今です。モシタンきりしまにおいても、1月号で北斗南舟氏の描いた現代 錦絵「西南の役五十三景」の周辺を、また4月号では龍馬とおりょうの霧島旅の模様を (アーカイブとして)載せて、霧島に関連のある目線でこの歴史の転換点を捉えようとし てきました。
 今年七月のある日、以前から面識のあった山口茂さんが、「これを本にできますか」と持 ち込まれた原稿の束がありました。表題には「鹿児島郷中教育総まとめ」とあります。山口 さんが様々な場面で出会い、また伝えたいと腐心されたあとが見えるような薩摩の教えの 数々、それに本人の意見も加えた歴史の副読本のような一作です。編集を進めるうちに、一筋 縄では行かなかった300年の、最終的に郷中教育と言われるようになった仕組みの時代背 景、そういう掟や教育を必要とした歴代藩主の知行の苦心が見えてきました。そして西郷へ、 竹下弥平へ、ボーイスカウトへ、山口さんの思いは連鎖していきます。
 今回は、薩摩の教え、とりわけ若者への教育がどれほど大切なことであったか知っていた だきたく、この「総まとめ」本の意図を反映させていただきながら特集を組んでみました。 (文/編集室)

【郷中教育とは】

 さて、本誌の編集者は教育者でも歴史家でもないので、郷中教育の何たるかを語れる立場には ない。そこで今回の話題に踏み込む前に、郷中教育なるものの予備知識を得ておかなければなら ないと思い、冒頭に簡略にまとめることとした。
 それは、薩摩藩独自の青少年教育法だった。鹿児島城下では城下士の居住区が幾つかの地域 (郷中・方限などと呼ばれた)に分かれており、その地域ごとに青少年の教育機関を作っていた のだ。もっとも有名なのが明治の偉人達を多く輩出した加治屋町で、6つの郷中があった。郷中教 育の構成員は城下士の子息たちで、稚児(ちご:6・7~10歳=小稚児、11~14・15歳=長稚児)、 二才(にせ:14・15歳~24・25歳)、長老(24・25歳以上)からなっており、先輩が後輩を指導し、同輩は助け合 う。教師なき教育、学びつつ教え、教えつつ学ぶという教育の仕組みだった。学問も教えた が、徳育、訓育、体力づくりを重視し、武術の修練も重要で、特に鹿児島の剣術を代表する 示現流(東郷示現流…主に上級武士、野太刀示現流…主に下級武士にたしなまれる)の先 制攻撃型、一撃必殺の精神を学ぶことになった。一方で相撲や川遊び、山遊びなどもあり、 一日は時間で区切られ、カリキュラム化されていた。
 郷中の教えは生活の場にも生かされ、質素を尊ぶ気風が浸透した。また上下関係に厳し く、「義を言うな」「長老衆には従え」「弱いものいじめをするな」「嘘をつくな」といった躾も 徹底して行われた。薩摩藩には幕末時、33の郷中があったという。

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【戦国大名島津の教え】

 ところで、郷中教育は明治維新に多くの偉人を薩摩から輩出し、最大の功績をなした が、それは本当に幕末に合わせたように完成されたのであって、歴代藩主の知行の果ての結 実だったことが今回の「総まとめ」の編集過程で解ってきた。
 思えば大名の支配地域ごとに社会制度があり、刑罰の掟があり、それを守らせる教育 があってこその領地支配。如何に自国を治めるかに踏み込んでこそ歴史が見えて来ようと いうものだ。戦場となった土地での兵の振舞い、乱暴狼籍、士風や風紀の乱れ、また平安な 世の若者達の振舞い…その折々に島津の殿様の苦慮、そして工夫があったことをこの著作 は追いかけている。
 戦国時代の覇権争いは国レベル、地域レベルの争いに留まらず、藩内においても当主への せめぎ合いを繰り返していた。薩摩では伊作家の島津忠良が覇権を握る頃から国の統一、 そして安定した政権運営が始まっていくが、それより先の時代、京の戦乱を逃れる形で招 き入れた桂庵玄樹を中心に朱子学を基とした薩南学が生まれ育っていった。儒教と仏教の 思想の調和を図り、忠良をはじめ貴久や義久もその元で学ぶことになるのだが、忠良はそ れにさらに日本の神道の考えも加えて三教一体の薩摩の教えを創り上げる。そこに生まれ たのが「日新公いろは歌」である。
 島津家の家訓であり、子弟教育の教典として、後の郷中教育でも必読の書となった。もち ろん今日でも時代を超えて新鮮に触れ合うことができる。
 それから半世紀後、戦乱の世が終わりを告げた頃、忠良の孫島津義久の「伊呂波歌」が生 まれた。「総まとめ」本には二つのいろは歌のすべてが注釈つきで掲載されているが、乱世と平時、 50年をまたいだ当時の殿様の心持ちを味わい知ることができるのである。
 だが、戦いに明け暮れた時代、戦士が皆この家訓を報じて身を処すことができたかという と、そうは行かなかった。九州制覇の折の兵たちの悪行狼籍、また三州統一、九州制覇、朝鮮出兵 など長い戦に借り出されて留守になった国元の二才衆の風紀の乱れなど、人を導き束ねるに は、リアルタイムの対処が施されなければならなかったようだ。
 島津家では家臣団に五人組の制度を作り、互いに忠孝の道と親睦といざという時の軍事編成 の基本としてきた。さらに、武士相互、農民相互の監視互助の掟を取り入れ、中国唐の律令や大 宝律令「伍法」にならった5人10人という単位での共同体管理を実施。その「伍・什」が「郷中」 に発展したという説もある。

【平和な時代の若者教育】

 先に述べた島津義久の伊呂波歌には平穏となった世の中の反映を見ることもできた。しか し幕府は、大名に様々な難題を課してその力を削こうとする。参勤交代はその最たるもの だった。
 薩摩藩の初代藩主となった家久(義弘の三男、忠恒から改名)以降、外城制度(領内を11 3の区画に分け地頭を置き武士集団を分散定住させ、鹿児島を内城、他を外城として領内各 地の山城、砦のもとに小さな城下体制をしき、農山村浦を支配し、いざという時にも備える体 制)も整い、郷中、郷士という形も一層鮮明になって藩主の知行は確立されていくかに見えた。 しかしそこに参勤交代である。莫大な費用もさることながら、国元を空ける三年という月 日は、徐々に領民、特に二才(にせ)教育の不備を示し始める。
 四代吉貴の頃となると国元の変化も著しく、刀の刺し方から行儀作法、衣類等の 体たらくや大勢連れ立っての非法ぶりが目に余ってきた。六代宗信も、年少のもの でもすぐ喧嘩し刃傷(にんじょう)沙汰に及ぶことを気にしていた。七代重年の時には小稚児相中 掟、長稚児相中掟が出されているが、果たして効果のほどはどうだったのだろう。
 重年の死去で十一歳で八代藩主となった重豪(しげひで)には、五代藩主継豊が後見として就 くことになった。藩政開始から八十年が経ち、武の国薩摩も変わらなければならぬこ とを意識し、文化、政治、経済の変革を推し進める計画が動き出す。戦国遺風の一掃、 造士館や演武館の創設による開化策、都化策を推し進めていこうということになっ た。何しろ上方を中心に町人文化が花開き、平和な治世が全国にも広まろうとして いた時代である。

【橘南谿「西遊記(せいゆうき)に見る二才(にせ)の振舞い】

 安永2年のお触書では、「他国者入り来たり候義、苦しからざること」の一文に見 て取れるように、薩摩への旅人の往来が緩和されたり、日本各地の繁栄振りを薩摩に も招き入れ、思慮が薄く野蛮で喧嘩っ早く刃傷沙汰が絶えない城下の様を刷新しよ うとする思いが伺われる。しかしそれでも事態は容易に好転せず、私闘禁止や芸妓買 いの禁止令が出される始末だった。
 そんな最中、一人の旅人が鹿児島城下を訪れた。京都の医者で文化人の橘南谿であ る。本誌2007年の6~7月号で彼の五ヶ月にわたる薩摩滞在の様子を掲載して いるが、当時の伊地知記者をも驚かせた激烈な内容がその中にあった。キレ易く、命よ りも義烈に走る薩摩の若者達の姿をいくつか紹介してみる。
 その一つ。南谿が逗留していた家の隣の商人宿に千七という二十歳過ぎの息子がい た。ある日、島津家に仕える若党と町で口論になる。しつこい若党は千七の家に押しか け罵署雑言(ばりぞうごん)を吐き帰っていったが、千七は我慢ならず刀を持ち出し若党を切りつけ 帰ってきた。大怪我をした若党は家に担ぎ込まれ一命はとりとめたが、親類一同が集 まり「武士たるものが町人に後ろから斬られ一太刀も返さず帰ったとは恥だ。潔く腹 を切れ」と諭され、納得しすぐに切腹した。
 一方の千七も相手が切腹したと聞いて友人親戚を集め、切腹の準備にかかった。喧嘩 沙汰で相手が死ねば自分も死なねばならないのだ。千七は友人に介錯(かいしゃく)を頼み、腹に刀を 突き立てる。見守る親類達は「見事、見事」と声をかけ、友人も見事に首を落とした。
 南難は隣からこの模様をつぶさに見聞きしていたが、「この間、両親は涙一つ流さな い。何と無残なこと」と嘆いている。鹿児島では日常茶飯事のことらしく、ひと月に数 十人が命を落としていると聞いてさらに仰天した、とある。
 また一つ。ある四人の仲間が隣村に行こうとしていたが、そのうちの一人が用事で、 三人が先に出かけた。途中で反対側から来た二人連れと喧嘩になりこの二人を斬り倒 した。そこに遅れて来た一人がその現場を見て驚くのだが、三人が「お前は関係ないから 立ち去れ」と告げたところ、遅れて来た男はいきなり刀を抜き、横たわる二人目がけてズ タズタに斬りつけ、「俺も仲間だ」と答えたという。四人は役所に届け、揃って腹を切った。 さらに、剛胆振りを見せ付けるこんな話も。五~六人輪になって焼酎を飲んでいる 時、ある男の発案でとんでもないことが始まる。天井から弾を込めた火縄銃を吊るし、 導火線に火をつけ銃を回転させる。一同の前で銃はクルクル回り、やがてドカンと弾 が発射された。その時は運良く弾は一人の頬をかすめただけだったらしいが、彼らは 笑いながらまた飲み続けたという。
 南谿によると、刃物を持ち出しての喧嘩沙汰は侍だけでなく、町民、農民でも広く あったということだ。当時の記事を書いた伊地知記者は、こういった若者の風潮の根 底に薩摩の郷中教育の美風とされる「義を言うな」「負けるな」「地域の結束」などの負 の影響を見ている。
 南谿が薩摩を訪れた時代、全国的には文化が行き渡り、町人の子息も読み書き算盤 を習うことができた。江戸の後期に次々と形を成す学問、講義の面白さは、金持ちが遊 興よりも楽しみにし、遠方から豆袋一つで話を聴きに来る者がいるほどの盛況だっ た。平和な世が続くと、この世の道理が解り、人の道が解るということほど面白い事 はなかったのだ。
 しかるに薩摩の閉鎖社会にある若者は、戦で身を立てることもできず、突き上げる 情熱のはけ口が見当たらなかったのかもしれない。南谿の驚きとその丁寧な書き残し ぶりは、そのような環境の若者への同情もあったのでは、と伊地知記者は轡き残した。

【島津斉彬の時代に完成】

 一方、重豪の時代から外城の郷中化が積極的に進んでいった。藩内各地の郷士達の 郷中教育の場が作られていき、鹿児島城下士を模範として藩独自の体制が生まれつ つあった。さらに、外国船が姿を現し世情が再びきな臭くなり始めた十代斉興の頃 には、国学や洋学も盛んになる。造士館では島津三州統一時代への復古を持ち出し て文武の充実を図ろうとした。行き所のなかった若者の気持ちを束ねる好機が近付 きつつあったのだ。
 十一代斉彬の時代には造士館を中心に学問、知識の習得が士風一新の場となり、 上級士の子弟は国内各地へ遊学を、郷士からも人材の登用をし、斉彬の新しい考え方 は藩全体に浸透していった。西郷隆盛が斉彬に見出されたのも、完成されつつあった 郷中教育の賜だった。
 ただ、郷中教育は武家の子息のためのもの。日本国内では庶民への教育も寺子屋や 私塾などで進んでいたが、薩摩藩では民間の商いも藩が関与し藩商に琉球貿易など やらせていたことなどから、庶民教育の場はあまり育たなかった。明治になり学校が 整備されていったが、鹿児島県の就学率は全国最低のレベル、女子にいたってはほぼ 0%だったという。

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【竹下弥平と西郷隆盛】

 さて誌面上、話は現在へ飛ばなければならない。
 去る8月20日、連日猛暑日を記録する中、樟南高校の久米雅章先生に率いられた鹿児 島近代民衆史研究会のメンバーが霧島を訪れた。一行は島津義久の居城だった富隈城 跡、鹿児島神宮での研修を経て、竹下弥平こと松元弥一郎武元の生家とされる松元一郎 宅を訪ねることになっていた。
 久米先生に声をかけられて、日当山東郷の立派な門構えの残るお宅で、竹下弥平の 人物特定に尽くされた鶴丸寛人氏から話を聴く。その様子を少しはなれた畑の入り口 で、弥平の墓碑像が静かに見守っていた。
 そのお宅に入ると、まるで時が止まったように保存されている旧家の二間。神道の神棚 の前に、最近齢90を過ぎて亡くなられた松元史子氏の十字架と遺影。南の梁の上には弥一 郎武元の次弟竹下武彦、末弟松元武裕の写真などがずらりと掛けられていた。
 これまでのモシターンで最も多くのページを割いてきた維新の人物、日当山東郷の愛国 愚夫と称する竹下弥平。明治私儀憲法起草者(民間人初の民主憲法草案起草者)として 近年研究が始まり、その出自を探ることが関心事となっていたが、ついにその生家を訪れる 機会が巡ってきたのだ。久米先生も当初から弥平研究をされていた一人だった(詳細は過 去の誌面参照)。弥一郎武元は幼少より優れた才能を発揮し、特に曾子の「大学」に共感を 得ていた。これは世の中の役に立つ立派な人物、特に政に携わる者のあるべき姿を解いた 書である。
 彼はいったいどういう環境を得て学問することができたのだろう。安政2年(1855 年)の生まれというから、ちょうど幕末の郷中教育が盛んな頃の薩摩で育ったことは間違い ないのだ。明治7年巡査として上京する前、数年間郷校の教師をしていたということもあ る。そして明治8年の朝野新聞に憲法草案を発表し、病を得てその年帰郷すると、明治10 年には西郷隆盛とともに出陣、西南の役の熊本で重傷を負い亡くなっている。

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【南州翁遺訓が伝えるもの】

 松本家には西郷隆盛が揮毫した書が残されていた。今は黎明館が保管している。一方山口 さんの「総まとめ」本は、最終到達点として「西郷南州翁遺訓」が掲載さ れる。そしてそれをまとめた東北庄内藩の藩士にも松元家のものと同じ内容の書 が揮毫されているのだ。
 ふと、竹下弥平と西郷、そして郷中教育と南州翁遺訓が、この揮毫によって一つにつな がったように思われた。同じ内容の書が二幅、明治7年~8年、旧庄内藩士の鹿児島訪問の 折揮毫されたのである。
 戊辰の役の果てに厳しい処分を予想していた庄内藩に、西郷は寛大な処置をした。西郷の考 えに感銘を受けた庄内藩の藩士たちはくり返し鹿児島を訪れ、西郷と交わされた問答を後 年(明治22年)発刊した。そこには薩南学、日新公以来の、郷中教育の中で若者に求め続けられ た精神が溢れていた。それが、実践を踏まえた西郷の言葉として遺されたのである。
 「総まとめ」本は未だ編集過程にある。山口さんはその中で竹下弥平を取り上げ、さらに 明治期からのボーイスカウト運動の軌跡を追いかけた。郷中教育の規範となった考えと、ボ ーイスカウトの誓いや掟とが世界の東西を超えてリンクする。郷中教育の今の時代への反映 をボーイスカウト精神の中に見ているのだ。
04gif  西郷が竹下弥平や庄内藩士に揮毫した内容も、人間の純粋な本性の尊さだった。今日の社 会に掟や行動規範の遵守を強いるわけではないが、かつて士風の乱れた薩摩の若者達の行動 をもう一度かえりみて欲しい。我々は先人の遺した言葉を踏まえ、若者を育てることを一時も 忘れていてはならないと、この「総まとめ」本は訴えているように思われた。


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