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2017年9月 第210号

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 宇宙への思いとまちづくり、一見すると相反する方向を持つ二つのテーマのように思えますが、この 二つがひとつの線上に並んでくるお話を今回お届けいたします。
 もう30年以上前、まちづくりの構想作りの中で初めてお会いし、その後も旧国分市時代のざまぎ まな局面でご指導をいただいた増水紀勝氏から、久しぶりに話を聞く機会に恵まれました。
 その頃の国分近辺は、テクノポリスの構想が軌道に乗リはじめ、町が大いに発展の機運にあると 思われましたが、大資本のショッピングセンターやチェーン店の進出計画が相次ぎ、町中の事業者は 危機感を抱きつつ、一方ではコンピュータ社会の普及前夜を迎え社会構造が大きく変化し始めようと するときでした。
 いつお会いしても優しい笑顔と穏やかな口調。しかしかつての会議の中では、顔を赤くしてその場 に足らぬものを指摘するシーンも。霧島市合併後は職場のせいもあリ、お会いする機会が減っていま した。
 お話をうかがっていると、近頃ベストセラーを続ける「アドラー心理学」のキーワード「共同体感覚」 という概念に思い至リました。家庭や学校、職場の人間関係、社会関係から身の回リのもの、小石や板 切れ、自然が提供するすべて、そして宇宙全体まで、また過去から未来まで、ありとあらゆるものを 共同体として自分の仲間だと見なし、そこに自分の居場所を感じるところから始まる勇気ある一歩。
 宇宙少年団と書かれた名刺から始まったお話でしたが、その矛先は長く住み続けられるこのまちの未来を向 いていました。

【プロフィール】  増水紀勝氏
昭和16年大ロ市(現、伊佐市)生まれ/地元高校から福岡工業大学へ、さらに助手として勤務/ 昭和4Z年より坂元学園(短期大学)に移る/昭和43年同学園が4年制九州学院大学となリ電子工 学科助教授に就任/旧国分市の街づくりに若い教授陣でRlSAを組織し参加/昭和60年から は都築学園第一工業大学助教授として勤務しながら1市6町合併まちつくリフォーラム委員代表 など未釆の地域つくリ構想に参加、日本手宙少年団鹿児島地方本部の設立に参加/定年後都 築学園福岡医療福祉大学教授、第一薬科大学教授/現在情報処理学会シニア会員・電子情報通 信学会終身会員、日本宇宙少年団鹿児島地方本部長/工学博士/霧島市国分在住(76歳)

【九州学院大学 波乱の中で地域貢献】

 大口に生まれ、地元の高校から福岡工業大学へ。卒業後、大学に助手で残ったが、そこ が全国の私立大で初めてという破産状態となった。その時の恩師が鹿児島出身で、国分 に新しい大学ができるので行かないかと誘われ、まだ短大であった坂元学園に移って来た のが当地との縁の始まりだ。1年後に4年制の九州学院大学がスタートした(昭和43年)。
 「ところがここでも学生の学園民主化運動などがあるうちに大学が破産状態となりま した。後に都築学園に引き継がれ第一工業大学となりましたが、人生で2度の破産を経験 し、そのうち大学の中では一番の古株となりました。」
 旧国分市民にとってはとても懐かしい時代である。地域の人しかいなかった地方都市 にいきなり全国から学生がやってきた。学生向けのアパートを建てたり、アルバイト学生 が目立ったり…ソニー、京セラ工場等の相次ぐ拡張、さらに志学館大学も開校し、人口増 加の著しい都市とか若者の多い町とか、経済も潤い、全国から注目を浴びた。だが、ある時 期、大学がなくなりそうなうわさが町に不安の影を落とした。
01gif  「破産管財人の下でしたが学生がいるので一般の会社のようなことにはなりません。し かし学内では30歳そこそこの我々の意見が聞き入れられることは少なく、思いが鬱積する 中で、何か役立つことを地域の中でやりたいと、国分市のまちづくりに参加させてもらい ました。地元大学との連携という地域づくりの形は当時珍しく、地元からも歓迎されまし た。電子工学科から私、一般教養から石田尾博夫氏、建築からは入来兵衛氏、土木工学科 からは田中光徳氏(いづれも助教授)という4人。RISA11地域情報科学研究所というグルー プを作って、ひとつの物事も4つの方向から見られるというメリットを活かしつ つ、商工会青年部の方々とともに地元力で地域ビジョン計画を策定しました。」
 この成果は県やそのころの地域ビジョンに関わっていた方々からも認められ、県の総合 開発委員として意見を述べたり、このメンバーで宮之城、串木野、栗野のビジョン策定 に参加したり。さらに国分地区企業行動会議で理想的なまちのビジョンづくりなどを 通して当時の地域全体の気運が形となっていった。
 「大学が地域に結びつく形ができて、破産という状況の打破の一歩につながったんだと 思います。」

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【人工衛星データを使った画像処理活用の可能性を探る】

 「私立大ではここだけだった航空工学科の存在が第一工業大学に大学校名変更してからの 立ち直りを早めた一因だとも思います。何しろ7~8倍という倍率。全国から応募があって、 地元が入れないというので問題にも。外の評判と県内の評価に生徒を送る意識の差があった ことも一因でしょうが。」
 こうして昭和60年には第一工業大学となり、増水氏は電子工学科の助教授そして主任教授 となり、定年まで勤め上げた。
 大学での専門は、と尋ねると、「人工衛星のデータを使った画像解析」、それによる地表の 経年変化を様々な方面に役立てること、と明快な解答をいただいた。
 「人工衛星のデータを使って地球の表面を観測するのが研究テーマでした。鹿児島大学に先 駆けて、鹿児島大学の先生方もこちらに来て、当初の研究が始まったのです。アメリカの衛星ラン ドサット、気象衛星ノアのデータから地表の解析をし、時間の経過を比較するとその変化が見え ます。それは農業から工業まであらゆる産業に役立つ情報となるのです。例えば海水温度の 変化で海流の動きが見えると漁業への情報となったり、林業なども宇宙からの植物分布画像 が現地調査にも役立ちます。」
 「博士の学位論文を取ったのは大気中に含まれている微粒子を衛星データから赤外線セン サーでどれだけ分析できるかというものでした。特に大陸の黄砂の流れを分析して、実用的 に画像化などできないかというテーマでした。」
 人工衛星データは気象予報や地図情報など今日では一般にも当たり前のようになってきて いるが、その当時は鹿児島県一帯の地図データを手に入れようとすると、アメリカのランド サット衛星データで2400フィートの磁気テープ(データ購入費用約30万円)が必要だっ た。今日では無料で手に入る。また画像解析ソフトも開発者の意向で無償で利用させてもら えるよう図られている。小中学校のパソコンに解析ソフトを入れ、データの取り方を指導する ことで、子供たちは自分達の地域から世界まで、あらゆる地球の姿のデータを手にでき、ま た比較できるようになってきているのだ。

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【日本宇宙少年団】

 財団法人日本宇宙少年団(YAC)は昭和61年に発足し、国際宇宙少年団機構(YAI…本 部アメリカ)加盟団体として設立された。その後平成24年には公益財団法人として事業基盤 の一層の確立を図るために再出発している。自然環境の保護や生命の保全など、様々な問題が 人類にとって緊急な課題となってきている今日、次世代を担う青少年とその家族にこれらの 課題について考える重要性が増してきたのだ。
 増水氏はその当初からYAC設立に関わることになった。
 「私は人工衛星データを通じて宇宙というものに携わりたいという思いを持っていましたが、 JAXA(宇宙航空研究開発機構)の前身のNASDA(日本字宙開発事業団)のころから種 子島や内之浦の宇宙開発基地の方々と衛星データの解析などで交わっていました。そのう ちJAXAの中に宇宙教育センターというものができ私も宇宙教育リーダーとして現在も 活動しています。」
 「昭和62年、県が宇宙少年団を作ろうとしたときに声がかかり、国分市にも作ろうというこ とになりました。第一工業大学の航空工学科と電子工学科の研究室の学生が乗り気で、彼らが リーダーとなって子供たちにも声をかけていきました。国分市が県内で日照時間の長い地域で あることとテクノポリス地域であることを思って、国分分団ではなく『サンシャインテクノ分 団』と命名しました。」現在も活動中です。
 「今、宇宙少年団は全国に138の分団があり、約3000名の団員がいます。鹿児島はロ ケット基地が二つあることで県に宇宙開発促進協議会があり、そこで宇宙少年団の鹿児島地方 本部というものを作ろうということになり、平成4年に設立されました。事務局も県の企画部 地域政策課が、またその課長が事務局長を担ってくれています。」
 今、県全体で220名ほどの団員がいて、基本的には月一回のイベントや集会を分団ごとに 開いているということだった。星空の観察、科学館の見学、星座づくり、水ロケットの制作・打 ち上げに加え、県レベルの活動として、種子島スペースキャンプ、九州地区の分団を集めての 合同キャンプ、また通常の教育の中に宇宙のことを入れていかれるように小・中・高の先生 を対象に宇宙教育セミナーの開催など、鹿児島地方本部で計画してやっているということ だった。

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【宇宙から生まれたものみんな宇宙のいのち】

 「一言でいうと、大人でも子供でも、宇宙とはいったいどんなところなのか、私たちは宇宙の わずか3%しか知られていないという未知数の対象に向かうところに、科学するこころを育 てていこうということです。ただ単なる知識やその時々の関心に留まらず、宇宙の中のひとつ が地球であり、その中に生まれている人聞ひとりひとりも、生き物も石も木も川も海もみん な宇宙から生まれてきたものだと。宇宙から生まれたものだから全てが宇宙のいのちです。人 間のいのちと同じ。だから宇宙から生まれたもの同士、何がつながっているのか考えていくのが 科学するこころかなと思っているのです。」
 子供達の発想はものすごい可能性を持っているのが、成長するにつれいつの間にか薄れてい く。宇宙への計り知れない興味が、それをたゆまず育んでいくのではと思えた。
 「私は宇宙少年団の中に『2020年宇宙のたび計画』と題して全国の宇宙少年団がひとつ のテーマに向かっていろいろ自由なものを発想してみようというプログラムを打ち出しまし た。例えば宇宙での生活という発想を抱く中で、真空とか放射線とかを学び、衣食住や環境 のあり方の中に夢を広げ、発想の可能性を広げていくことをやっていくのです。全国の分団 長会議の中で申し合わせをして持ち帰ってもらっています。」
 「夢はもっと活かされていい」…増水氏のリーダーとしての活躍を見る思いがした。宇宙 での生活として語られたことはそのまま実生活の中に繁栄されてくる。科学する可能性が 子供たちから家庭、そして関わった先生達を通して豊かな研究心につながっていく。
 生活に追われ、日常の中にある人々の心の中にも、こうしたことを通した豊かな発想と自 分らしい研究心、発言する勇気を作り上げれば、社会は様々な場所で生まれ変わりを見る のでは。その確信が明快な意見として述べられる増水氏に溢れていた。

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【霧島市合併その意義と役割の見直し】

 霧島山の南麓に当たる1市6町が合併して12年が経とうとしている。当時、広域合併推進 の嵐の中で賛否様々な意見が交わされた。合併に伴う甘い蜜の話もあった。
 現実の合併は、その当初こそ意義や成果が期待されたものの、時が経つと現実を如何に乗 りこなしていくかに時間を裂かれ、合併前夜の気運は棚上げされてしまっていないか。
 かつて、都市としてのポテンシャルの高まった旧国分市の時代に、増水氏は大きな思いを 掲げてまちづくりの会議に臨んでいた。空港を擁するテクノポリス、大学の学生は市の提供 する空き店舗を活用し24時間体制で家電の修理を無償で請合いながら、普及の始まったばか りのインターネットを使って町や商店、企業のホームページ作成とその更新までを手がけて いこうという産学協同のまちづくり。また、鹿児島空港との関わりで、そこに降り立った人が 必ず国分を経由してから鹿児島、宮崎、大隅に赴くという中枢拠点(ミニアジア交流施設)を 造り、その上で空港と国分を結ぶモノレール建設やその資金、償却の試算まで行った。
 その頃、飛ぶ鳥を落とす勢いのこの地域だからこそできた構想と発展的考え方は、当時の 行政や若者に向けての強いメッセージが含まれていた。「もっと夢を描き、研究し生かそうと するエネルギーや勇気」である。やがて氏は1市6町合併まちづくりフォーラム委員代表と して、合併の意義とまちづくりについて方向性をまとめ上げることになった。(氏自身は合併 には納得がいっていなかったようだが。)
 合併12年目の今、そのとき掲げられ採択されたテーマの見直しのときではないかと氏は 言われる。
 ●霧島市の基本理念「世界にひらく、人と自然・歴史・文化がふれあう都市を目指して」
 ●霧島市のサブタイトル「霧島山系から錦江湾の鼓動が時空を超え、躍動する新都市」
 ●まちの将来像「人と自然が輝き、人が拓く、多機能都市の創造」
 いまこの地域のオリジナルな取り組みが世界に発信されているか…時空を超えた多機 能な新都市と呼べる内容は…それを人がどのように拓こうとしているか、地域の人の役に 立っているのか…数々の優秀な地域特性を自慢し、人寄せに使うことばかりでは、総合戦略 としての観光の質や将来もおぼつかなくなる。
 「合併したら合併しただけのメリット、そして合併したことによってできる新しいものとい うのが生まれてきていないところが不満です。合併都市のネーミングもその都市の可能性を 固定化しているところがあるように思いました。空港のネーミングも、アジアに、世界に通 用させるものとして、方向性を固定化しないものであって欲しいと思います。」

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【福祉ビジネスと霧島問いかけ、夢を描き、拓く】

 「第一工業大学を定年してからも、グループの大学で情報科学が必須の科目となり兼任し つつ福岡の方に行くことになり、また第一薬科大学が6年制となるときに国家試験をコンピ ュータで受験するためのネットワークを整備するために3年間通いました。それから福岡 医療福祉大学に勤務。医療とか福祉、介護は素人でしたが、そこで医療福祉とビジネスを 考えることができました。」
 「今の世情の厳しさは現行のまちづくり構想を見直す千載一遇のチャンスだと思います。 思い切った発想の転換を図ろうとすると、そこには世界一の高齢化社会、高レベルの健康と 医療環境などがまちづくりの根底にあるということです。つまり、医療・福祉ビジネスを地 域産業化していくこと。そのことは、建築、食品、医療、製薬、教育、通信、ゲームなどの各業 界に関係があり、これは今までのIT産業と比較しても大きく伸びる可能性を秘めている のです。健康、医療のために霧島を訪れるという海外展望の可能性も持っています。」
 地域のヘルスケアシステムを充実させ、医療・介護システムと併せて霧島のブランド化をし て売り出す。やがては観光面でも健康・医療ツーリズムというものになって、霧島の風景から 風土、温泉、文化、教養、伝統産業までを包括した総合的な地域特性を持った新しい霧島の 誕生となる。
 「しかしそこには、そういった市場全体をターゲットとせず、この地域のほかにはない特性 を見出し、他企業と競合しないような市場内適所を見つけ、民間企業や若い企業家の独特 な世界をも応援しようとするようなニッチ(すき間)な感性も求められます。」
 ほかにも県レベルのこととして、航空・宇宙産業、空港、港湾のビジネスや、文系と理系を 超えた実用分野の総合教育、70から80歳まで働ける社会づくりなど多くのアイデアを披 露していただいた。お話される表情、語気には、30年ほど前と少しも変わらない、情熱と 力強さを感じた。
 時に、とんでもない発想に周りがあきれることもあったと笑われる。自分の発言は明快に伝 え、人の意見もしっかり聞き、大切にされる。正攻法で誠実な人柄を久々身に受けながら、こ の霧島で、再びの活躍を期待したい気持ちを残しながらお話のときを終えた。
一(文、編集室)


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