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2017年7月 第207号

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 天降川の中流、二つの水力発電所のある水天淵は筆者が足繁く通う場所のひ とつです。モシターン発行のごく初めよリ、天隆川の流れのこと、発電所のこ と、鮎の遡上と野鳥達の景観、そして今回特集しようとしている農業用水の取 り入れ口のことなど、頻繁に話題とされてきました。
 以前は国道223号線の交通量の多さから、立ち止まった取材が容易ではあ りませんでしたが、妙見へまっすぐ抜けるトンネルが完成して以来、そこは歴 史的な出来事を自然が取リ巻いて、谷川の流れと堰のよどみを中心に静かな一 キロほどの歴史遺産の場所となっています。
 ところが今回、霧島市薩摩義士顕彰会の機関誌に掲載された隼人史談会会 長有川和秀さんの「宮内原用水の工事工夫と技術の流れ」という研究文章に触 れ、その景観の底にただ事ではない歴史の眠っていたことを知ったとき、再びこ の用水のことをモシターン流に扱ってみたいと感じたのでした。昨年が用水完 成から300年ということでもあリ、宮内原土地改良区制作の記念誌も参考 とさせていただきながら、用水と懐かしい交わりを持っていた入々の思い出ま で有川さんに語ってもらいました。


【用水に生き、遊んだ時代】

 有川さんを初めて知ったのは山ヶ野金山の調査とそれを基にした金山ウォークの始まりの ときである。その研究発掘の中心的存在であった。
 「最後の勤務地が横川の安良小学校でした。そのあと教育委員会に入ると横川の歴史史跡 の担当ということになりまして。安良小の校区に山ヶ野金山があり、調べるととんでもない歴 史的役割をしてきたことがわかって、ぜひ世間に知ってもらいたくて没頭しました。」
 金山のことは横川を離れてもずっと関わりが続いていた。生まれ在所の隼人に戻ると、今回 のインタビューの地である歴史民俗資料館に勤めたこともあり、今度は自らの郷土の歴史に取 り組む事となった。
 「私は隼人町宮内の生まれで、小さいときから用水(当時は新田川と呼んでいた)でいっぱい 遊んだほうでした。今の体育館手前の土地改良区の辺りが水浴びの場所です。当時の子供たち はそこで遊び、田んぼの手伝いをし、反土といって用水の溝さらいなども手伝いました。何しろ まだ用水の三面が土でしたから3~4メートルにもなる長い藻が生え、水の流れを悪くして しまうのです(藻ひきともいい田んぼの土用干しのころ水が流れないときに行った)。三面がコ ンクリートで造られた今でも、この用水清掃は地域に残っています。」
 流路に当たる田んぼの所有者は家族から誰かが参加しなければならない。男親がいなかっ た有川少年は幼いながらその作業に行き、星(出席の印)をもらったという。
 用水の幹線から支線、そうして田んぼの中に入る辺りは格好の魚とりの場だった。コブナや ドジョウ、箸のようなサイズのうなぎなどをショケで捕らえた。また、土用干しのときは子供た ち同士年長の者の号令で堰切りされた用水で魚を追い込み、最後は土手を作って水を汲み出 し、魚の背が見えてもさらに号令を待ってからいっせいにつかみ取り。空き缶などに入れて集 めると、あとは大将(グループのリーダー、5~6年生)が分配をしてくれた。大変楽しい時期 だったとしばし当時を振り返っていただいたが、戦後すぐのころの話にしては屈託のない子供た ちの世界がありありと見えるようだった。昭和30年代まではそういう世界だったという。
 その後コンクリートによる三面張が進み農薬のこともあったりで、子供達の世界は縮小し ていったが、上流の方では牛馬を引いて水に入れたり、野菜を洗ったり、スイカを冷やしたり する親水性の良い水路を造るなどして、用水はその流れる地域の生活と一体になって保たれて きた。今でも湯田地域(223号線、空港方面行との交差点を妙見方向にーキロほど入った 集落)などは生活と用水が密接につながっている様子が見られる。
 「宮内原用水をずっと歩いて調べたときに、それぞれの地域で川との関わりをたくさん聞 けました。水泳の場所なども決められていて、プールが各校で完備されるまではプール替わ りにも使われていました。」

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【全長12キロの難題づくめ水路計画】

 今の時代、ごく当たり前に日常の中に溶け込 んでいる宮内原用水だが、これが広範囲の水田に水を引くために作られた100パーセント 人工の水路、それも江戸時代の中期に人力で作られ、今日もその形で利用され続けていること を知る人がどれほどいるだろうか。有川さんの文章と語りの中にその当時の 様子を求めてみた。
 江戸期の安定化する世情の中で、各藩の最大の課題は米の増産だった。ど の藩も全国的に土木、灌概事業が盛んに行われる。薩摩藩でもそのひとつとして天降川の流路 を替えて耕地を確保しようと川掘り(川筋直し)事業が行われた(1662年~1666年)。その川跡に田んぼを開くためにすぐさま 松永用水(霧島川からの取水、灌概)が整備された。
 「ところが宮内原用水は良い場所を持っていながら、松永用水から50年程手が付けられな かったのです。そこにはこの用水計画に困難点が幾つもあったからでした。」
 その第一は、天降川の国分側より隼人側の海抜が5~7メートル高かったこと。そのた めに、より高い上流に取水口を取る必要があった。その困難さが開発の決断を遅らせて いたのだ。
 そこに登場したのが藩の郡(こおり)奉行汾陽盛常(かわみなみもりつね) である。郡奉行は農政全般と年貢の取り仕切りを行う役職で、年貢のために新田開発をす ることは役目上の眼目となっていた。
 しかし、取水地を予定する水天淵一帯は大岩が多く、工事の困難さは計り知れぬものと 思われた。当然国家老は難色を示し、この計画は3年ほど宙に浮いたままになっていた。
 汾陽盛常の用水工事企画書が、「国分宮内御新田溝臺流見賦并見立覚」(宝永5年)と して残されている。用水完成後立てられた「大隅国桑原郡西国分郷鑿溝崇水神記」の碑 文(水天淵にある)とともに、有川さんの研究の中でその内容を知ることが出来る。そこに は当時の気運と可能性、また完成後の成果がありありと見て取れる。
 この計画にGO!を出したのが種子島久基(ひさもと)という家老だった。彼は山ヶ野金山で金 山奉行をした経験があり、現地に赴くと早速地元の人々、長老達とこの工事のことを話し 合った。金山の技術を持ってすれば固い岩盤を砕くことも可能だと踏んだのだろう。取水 から海への出口まで約12キロ、現在の富隈小学校から10号線の辺りまでを終点とする工 事が1711年(正徳元年)に始まる。日当山から神宮周辺、宮内原から浜の市までの耕地 を水田にしようとする大水量の流路作りだ。

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【水天淵の格闘】

 汾陽盛常の計画書には工事全般に関わる費用から各現場における工事の見通しまで詳細 に記されているが、実際の現場に直面した人々はその困難さに改めて心を引き締めたに 違いない。大岩に囲まれた水天淵に水路用の幅を広げながら均一な水路を作るのだが、つ るはしや鍬で対処できるような場所ではないのだ。大きい岩は崩して、また焼き崩して(火 をたいて熱し水を掛けひびを入らせ割る)、また重い物を引くときに綱を巻つけるカクラサ ンという道具で岩や大木を川に引き落としながら徐々に水路スペースを確保していく。川 面より高い位置に平らな水底を作りその脇に土手を築きながら、取水地点からの谷は切り 開かれていった。
 水天淵の岩だらけの景観にはいつも少し奇異な感じを抱いていた。岩の形に妙に直線的 なところがあったり平らな面があったり何かを打ち込んだようなあとがあったり。長い間 で多少風化しているが、これらの大小の岩が川の流れの中に次々と落とされていったのだ ろう。落とされた岩々は取水のための堰から流れ落ちる水の力を分散する働きもあったと 聞いた。だがここの難題はそれだけではなかった。
 水天淵には山間からひとすじの川が流入していた。現在の新川発電所近くに流れ落ちる嘉 例川だ。自然の川と交わっては緩やかな水路は流れに飲み込まれ元も子もない。果たして水路 はその上を越すかそれとも下をくぐるか。自然の川とどう交差するか水天淵の嘉例川に限らず、水路の行方には いくつかの河川があった。空港方面に行く道路沿いにある西光寺川や、神宮の南を流れ宮 内の町の中を横断する角之下(すみのした)川である。それぞれの川の影響を受けず、しかも水路の要件 である緩やかな勾配と高度は出来るだけ保たなければならない。そこでいくつかの回避 策が考えられた。
 「例えば上に橋を渡して樋を通す方法がありますが、下の川の氾濫で橋げたが流された り、常に多量の水の重さがかかり長くなればなるほど壊れやすい。そこで採ったのが川の 下をくぐらせるという方法でした。水天淵の嘉例川ではそのまま川の下を潜らせると用 水の高度を損ないます。そこで上流にさかのぼって、流れ下る勾配角度の大きなところを 選び、勾配の斜面の上で石組みして川底を水平に持ち上げ段差を作り、持ち上がった下に 水路を組んで通したと考えられます。直接川底を掘っただけではいずれ底が削られ用水 の天井が壊されることになるでしょう。西光寺川も同じ理屈で川の下を潜らせました。」
 223号線から空港方面への道に入ると西光寺川と併走しながらしばらくすると急 な坂道にかかる。その下を隧道となって水路が通り、現在ではコンクリートで固められ川 底の段差にしか見えないが、宮内原用水がまさしく川の下を横切っているのだ。
 また、角之下川では、段丘的に深い谷を作る川筋のために水路が川の上を越えなけれ ばならない地勢だった。初め樋を使った渡し方が試みられた跡もあるがうまくいかな かったようだ。そこで角之下川の流路を変える方法がとられる。
 ちょうど双方の流れが交わる辺りに宇都山の鼻先が突き出ていたが、この岩盤の下を 角之下川が流れるように燧道を掘り流れを変えた。さらに水路は高い位置で交差するの でこちらも隧道を掘り、その先の従来の段丘の谷を一部埋めて先(野崎の原方面)へと続け たのだ。世間に「鼻んす」の呼称で知られる宮内原用水の名所はこうして出来上がった。こ こは2穴の隧道道同士が立体交差している場所なのだ。

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【鼻んす工事の測量技術】

 さて、もう一度水天淵に戻るが、嘉例川の下をくぐるように山側に流路をとったためにそ の先にはまた山塊の岩盤が立ちはだかった。これから先は隧道を掘るしかない。
 「私はこれらの工事の随所で、山ヶ野金山の技が役立っていたのではと推測しています。 鉱山では見通しの利かない地中で高度な測量と穴掘りの技術が必要とされました。金山の 振矩(フリガネ)師と呼ばれた技術者の手法を用いて水平や方向を定めながら岩盤を掘り進 んでいったのではと思っています。しかも2穴で、いわゆる鼻んすなんです。真っ暗な地中で 2つの穴が交わらぬようにひとつの方向を目指すことは簡単ではなかったはずです。」
 「2穴で掘る理由は、ひとつには水量の確保、もうひとつは落盤に備えた形ですが、その 発想も山ヶ野金山の坑道の落盤防止技術だったろうと思います。出水の五万石溝には20 幾つもの鼻んすがあります。風邪を引いたときにも片っ方の鼻の穴は通りますから、大切 な用水のあり方も鼻んすのようにありたかったのでしょう。(笑)当時の人々のその場に応 じた工夫、建設機械などない時代の人力、普請師などの技術で、水天淵の岩山に100メー トル以上隧道を通し、水源は下流へとつながったのです。」

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【鹿児島神宮の境内を通過】

 鹿児島神宮の境内、階段の途中に石橋のまたぐ水路があるのは一見ごく普通の神宮風景だが、 用水工事の当時、境内に用水を通すことへの配慮についても先の提案書の中に述べられている。 山際にある神宮を避けて用水の高度を落とすわけにはいかなかったのだ。
 「この聖域に水路を通してもらうために200石くらいの田んぼの寄進や、境内の景観をよ くするための石橋を建設することなどの記録が残っています。社家(神宮の執印職の四社家)の 人たちも納得してもらえるのではと。200石の田んぼは神宮を管理していた弥勒院(宮内小学 校のところにあった寺院)に寄進されています。聖域に関わりたくないという風評との戦いもあっ たことでしょう。」
06gif  用水建設にはそのほかにも工事上、利用上の様々な課題があった。例えば水を少しずつ下流 へ流すための勾配について。天降川へ放水路を作り部分ごとに発生する土砂も流し込みながら 水平・勾配加減を確認していたと考えられる。
 その具体的な方法は如何なるものか、このあたりにも山ヶ野の振距師の技術があったのではと 思われる。
 また、働き手の様子はどうだっただろうか。「まず関係するところの集落の人々は借り出 されたことだろうと思います。碑文の中に『民』とあるのはそれでしょう。また『普請』という表 記にある普請夫の人たちですが、半世紀以上も採掘されている山ヶ野の掘工や技術者も多かっ たのではと考えています。金山に働くことは大苦労でした。一方藩の方も米の増産という大き な課題を抱え、また借金も抱えた藩経営のために必死だったでしょう。人々の様々な悩みの中か らそのときの最善が見えて、ひとつの工事が動いていたのでは。碑文には村役や地頭、検者の名前 なども見えます。ややもすると大筋の用水のことだけを考えますが、目的はそれに付随する圃場 整備、そして石高の向上です。畦を造り、小さい溝をたくさん作って田んぼを整備していくとこ ろには多くの民の結束が必要だったでしょう。これが今日も現役に機能しているところを見ると、 本当に感動を覚えます。」

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【資金・人・技術の大もとは…】

 こうして汾陽盛常の当初の計画より3倍の工期がかかったが、取れ高も2 倍となる圃場が整備されていった。1716年(正徳6年)、宮内原用水の完成で ある。
 「宮内原用水で6000石の増産になったといわれます。単純にいうと6000人の人が1年間食べる米 が生産出来るようになったということです。増産と一緒に人口も増えてきました。藩の各地でもこの 地の川筋直しから続く干拓や用水工事が手本とされ、大島や出水や高山などに関係者を通じ て伝播していきました。」
 「ところで、天降川川筋直しにしても宮内原用水にしても、人物名(地頭や家老など)が皆山ヶ 野金山の記録と重なっています。そしてどこの工事にいくら資金を出したかという金山資料も残っ ています。こうしてみるとお金も技術も人物も、ある意味では金山がこれらの開発を請け負ったとも 言えそうです。お金も出すし技術も出すし指導する人も出す。その流れが藩のあちこちの開発でも 行われていると思うのです。」
 「金山というと、大判、小判をイメージしますが、実は私達の生活のいちばん大本の農業を開発して いった、山ヶ野は藩にとってそういう場所だったというのが私の意見です。」
 長年、山ヶ野金山に取り組まれた有川和秀さんが更なる郷土史家として到達した見識である。『山ヶ 野金山、天降川川筋直し、宮内原用水工事は、人物で連鎖しながら、郷土の人々の生業を作り上げてい った大事業だった。』有川さんの文章は最後にそう結んであった。
 取材の日、資料館前の宮内原用水路は梅雨空気味の6月にもかかわらず豊かな水を湛え、アジサイ の土手の下を神宮の石橋のたもとへ音も無く浴々と流れていた。
 (2017年6月14日取材、隼人歴史民俗資料館にて文/編集室)


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