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2017年5月 第206号

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 モシターンきりしまはこの地域の「目からうろこ」な情報をずっと求め 続けてまいりました。これまでの取材で、本人には当たり前なことも改 めて記事にすると皆さんから「もしたーん」といっていただけるような ステキな話題とめぐり合ってきたのです。
 今回出会ったのは、背高のっぽのフランス人、知る人ぞ知るディモテ・ ベガンさん。「カフェ・ル・パリジャン」のオーナーシェフにして、日本歴15 年。ほんの200メートルほど一緒に話をしながら歩いたばかりの彼 に、筆者はやさしい人付き合いのリレーションを感じたのでした。
 例によって前知識もなく、お店での取材を行うと、熱心なお話のうち に人生の切り拓き方と、そこに寄せる人の心模様をたっぷり感じさせ ていただき、トレボンーな時間となりました。
 お二人のプロフィール
ティモテベガンさん 1982年フランスパリ生まれ
京子ベガンざん 1978年旧国分市生まれ現在、2児と共に国分中央在住
※詳細は本文にあります


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【田舎とお菓子作りの好きなパリの少年】

 戦前ならともかく海外旅行でもしない限り、日本という国籍のことなど日ごろ心に浮 かぶことはない。しかし、冒頭からティモテさんの話はフランス国籍がらみだった。ティ モテさんの両親は彼をお腹に宿したときロンドンで仕事をされていた。いろいろ方法も あろうが確実に子供の国籍を得るため、出産の時はパリに帰省した。そして再びロンドン へ。2年後にパリに戻ると、そこからフランス人にして都会育ちのパリジャン、ティモテ さんの幼少年期が始まる。
 パリの生活にはカースト(階級)があった。そして比較的高いカーストの家族だった ティモテさんの受けた教育は服装から礼儀まで伝統的な格式に添ったものだったとい う。パリの中心街、歴史あるアパルトマン(邸宅)で両親の厳格な教育のもと、フランスの伝 統的な考え方と都会的な感覚が自然とそなわっていく。それは庶民性の強い日本では考 えられない、はっきりした区別意識だった。
 しかし一方、ティモテ少年の楽しみはほぼ毎週末訪れる田舎のおばさん(父親の一番下 の妹)の農場だった。田舎の楽しみは次第に彼を人と人の気持ちの触れ合う関係に目覚め させていく。
 「パン屋さんにしても田舎ではパン屋さんの方から一軒一軒売りに来てくれて、や さしいリレーションを結ぶことが出来ました。パリは忙しく、お金のやり取りばかりで したから。」
 やがて都会の学校生活より、小さいころから好きだったお菓子づくりに夢中になり、12 歳の時には夏・冬のバカンス(フランスではーヶ月半に2週間の休みで夏休みは2ヶ月) も休まず、パティスリーでお菓子作りのアルバイトを始めていた。遊ぶことより働くこと の方が好きな少年だった。
 16歳になるとさらに料理の道を極めるべく、両親とも相談して世界中に料理学校を展 開するル・コルドンブルー・パリに入学。18歳でグラン・ディプロームを取得し、しばらく はパティシエとしてパリのショコラティエで働いていた。しかし、やがて両親から離れ て自立しなければという人生の転機を感じ始める。
02gif  「働いて稼いだお金は休暇の旅行や趣味のために貯めていましたが、実家暮らしのため 日常生活に必要なことはすべて親から貰っていました。なんでも贅沢に与えられて、普通に は考えられない良い生活でしたが、そろそろ自分の人生の基礎を考えるべきときでした。 自分の肉は自分で稼いで買わなけれぼという意識があり、20歳になったらフランスを出た 方がいいんじゃないかと考えるようになりました。パリの繁多な社会にも嫌気がさしてい たので、ちょうど知り合った日本人女性に誘われるままに日本に向かったのです。(2003年)」  「その女性の田舎の家(千葉)に招かれて、おいしい物をたんと食べさせられもてなされていた のですが、ホームシックになって…。そのとき彼女が元気付けにと連れて行ってくれたのが銀座の 紅茶専門店マリアージュ・フレールでした。そしてそこで仕事してみたらということになり、京子と 出会ったのです。」

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【パティシエへの夢をかなえた京子さん】

 奥様の京子さんは、そのとき念願かなってマリアージュ・フレールのパティシエとして銀座の店 で働いていた。
 国分に生まれた京子さんは改名したばかりの国分中央高校から短大を経て鹿児島の ケーキ屋さんで働いていたが、ふらりと旅をした東京でパティシエの道を極めようと決 心。21歳のとき改めて上京し、マリアージュ・フレールの募集に応募したがそのときはか なわず、ケーキ屋さんで見習いやケーキの販売の仕事をしていた。2年目にして思いが通 じ、フランスに本店を置くこの世界的な紅茶専門店のパティシエとして勤めることに なったのだ。
 少し年上の京子さんだが、ひときわ可愛かった(ティモテさんの弁)彼女とお店のま かないなどで一緒になると、ティモテさんの猛烈なアタックが始まった。
 「同僚に恋文の書き方を教わって、パティスリーのスタッフに、京子に渡してもらうよう に頼んだら、みんなの前で読み上げられたりして…」。まるで朝ドラのような二人の物語の スタートだった。お菓子作りが好きな二人が意気投合するのに間はいらなかった。
 「知り合って2ヶ月、大晦日の夜においしいものやワインをいっぱい用意して京子にプロ ポーズしました。フランス人ならこれくらいすると、大感激してワー!と表情に出してくれ るものですが、京子は意外と冷静で、プッ…」。(そんなことはなかったよ!と京子さん)
 「ワーキングホリデーでの来日だったので、今度は同じ制度で京子を連れてフランスへ帰 りました。でも大変!両親は日本に行くときと帰ってきたときの連れの女性が違ったこと に驚いて、『少し時間をください』といわれ、それからは京子とともに、今度はフランスのあ ちこちでパティシエのアルバイトをしながら1年を過ごしました。」

【フランスで入籍、国分で結婚式】

 2005年、二人は二人のお店を持つという共通の夢を抱え、再び日本へ。東京での生活 が始まった。ティモテさんは日本語学校に通いながらオーバカナル(フランスの飲食店を そのまま再現したお店)で働き、京子さんも昼も夜も休日も夢を目指して働いた。
 東京での開業を目指していろいろ試行錯誤していたが、良い条件に恵まれなかった。そん な中だが、2006年4月にはフランスブルターニュで入籍をすることになった。
 「けれどカトリックの家族は神様の前で結婚の約束を交わさなければ本当の夫婦と言え ません。」
 やがて開業の夢は、京子さんのふるさとへと展開していく。ティモテさんの意識の中でも京 子さんのふるさとが次第に現実的な場所となっていった。もともと田舎は好きだった。
 「東京に疲れたときに度々里帰りして霧島や温泉など案内しているときに、こちらに住 むフランス人のプログを読んで、海も近いし、こういう生活がいいのかなと言い始めたんで す」と、京子さんがご主人の気持ちを代弁してくれた。
03gif  そして2008年4月、カトリック国分幼稚園の教会で、フランスの家族を呼んで念願の 神様の前での結婚式を挙げ、翌5月には二人の夢だったフランス料理とお菓子の店、カフェ ・ル・パリジャンがオープンしたのだった。

【文化の違いの乗り越え方】

 ティモテさんは子供の頃からおばさんの田舎が好きだった。だがこれまでのティモテ さんの主たる人生の場所(都会)と、その場所を田舎に定めることへの決断が容易ではな かったことがティモテさんの説明の端々からうかがえる。その選択の鍵は京子さんの存 在だった。それは京子さんを理由にしているのでも、京子さんへの愛がそうさせているの でもなく、この国で生きるために京子さんを必要とし、京子さんと共に幕らしを立てるこ とが人生だとわかってきたからに他ならない。「京子のおかげ」という言葉に、やさしさ と強さの入り混じった決断への思いが感じられるのだ。
 霧島暮らしは二人で望んだものになった。しかしパリ育ちの都会人感覚ではどうしても 受け入れないものがあった。たとえば、日本人が普段着として身につけ平気で町を歩く(寝 巻きのような)ジャージ姿。例えばスーパーやディスカウント店の(日焼けしそうなほど)明 るすぎる照明。例えば1円でも安いものを買いに走る人々。軽自動車ばかりの町。外国人に 慣れずに好奇の目で見られること…。
05gif  「とくに嫌なのが、フランスに里帰りしてまたこっちへ戻ってくるときです。自分の作 り出した生活の中に返るのは嬉しいのですが、その周りのことを考えるとカルチャー ショックに悩みます。自分のパリのおしゃれな日常へのホームシックもあって、毎回戻っ てくるときの大きなストレスです。」
 ティモテさんにとっては、フランスと日本という文化の違いと都会と田舎という生活の違 いというダブルのショックがあったのだろう。
 しかし積み重ねた年月の間に、いやなことは替わって引き受けてくれる京子さんの支え があって、開店以来、日本の田舎にティモテさんの生活の基盤はどんどん拡大していった。 「京子に私に従えとは決して言いません。それぞれの育ちでそれぞれの変えたくない気質 があるのでお互いに好きなことをしていい。だけど京子は僕がこの地で嫌なことは引き受 けてくれるようになって、いろいろ経験して1~2年前からここでのライフスタイルが出 来上がってきた気がします。」

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【霧島で、ライフワークを広げる】

 店舗は開業して最初の6年間は賃貸で、生活は国分や隼人のあちこちに仮住まいしてい たが、店舗の大家さんに相談すると後ろのアパートも含めてなら売ってもいいということ に。そこで半年のあいだ手堅い交渉を繰り返した結果、譲らないティモテさんに大家さん が根負けし、銀行からも家賃収入なども考慮して融資が決まり、ついに店舗を含む自分達の城 を手に入れることが出来た。(2014年)」早速後ろの2階建てアパートは内装をがら りと変え自分達の住まいとし、また倉庫を中庭にし、店舗のある建物の2階は「メゾンフラン セーズ」という4室のアパートに改装した。
 「これで二人の子の子育てと仕事の両立もスムーズに出来るようになりました。」と京子さん。
 「ここから5分で、私の畑…私の世界。20分で私の舟(モータ1ボート)。自分の性に合わない ことでいらいらしているときは舟で海に出ると何にもなくて自分を取り戻せる。山の方に行 けば温泉があり、店のお客様の山で樵をしたり、椎の木の原木作りから始めて家族で菌打ち をして椎茸を育てたり…。」
 「フランスでは山の仕事、樵の仕事の人はひげを生やしています。だからこうしてひげを生 やし、斧で薪を割り、畑の小屋で乾燥させて薪ストーブに使うようにしています。普段はそう していますが、パリに帰るときはひげはだめです。パリだとありえません。 近頃はテロリストとも間違えられる。だから剃ります。」今でも剃って欲しいと京子さんが笑う。で も暮らしの場面ごとのファッションにこだわり続けるあたり、フランス人の気質健在というとこ ろか。
 「霧島は私の国じゃない。私の大好きな場所ということでもない。でもその中で私の世界を作っ ている。それが私にとって一番大事。京子が、日本に住むのがそんなに大変ならフランスに帰りな さいといっても、もうフランスには住めない。もうフランスのことはわからない。知っている人も いない。逆にフランスのことも好きじゃない。住むのが無理。それは私がほかのフランス人と違 うから。働くことが大好きな人だから、2時間おきにお茶する休み好きのフランス人とは合わ ない。」
 「今は仕事も趣味も一緒だから9ヶ月は夜も日もなく働いて、1ヵ月半をフランスに帰省し、 残りを子供達の夏休み、冬休みと付き合おうとしています。今は畑の一番忙しい時期。夕べも木 野田さんから紹介してもらった草が生えないシートを夜の11時ごろまで満月の下で敷いていま した。私の畑の種は全部国分種苗から。寛さんと彰さんにいつもお願いしています。」

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【ティモテさんの夢の途中】

 カフェ・ル・パリジャンの経営、畑仕事(京子さんの遠い親戚の土地に加え、その隣の高齢を理 由に畑を続けられない方々の土地など合計で800坪)、樵と椎茸栽培、貸しアパート業のほか に、ティモテさんには幾つかの役割が付いてきた。ひとつはフランス人ということで県下のマスコミ の取材を受けること。また鹿児島高専に留学してくる海外の生徒の物心のサポートをすること (カレッジアンバサダー)。また外国人の観光案内や家具のそろった外国式アパートの賃貸、暮 らし方のアドバイス業など。
 「霧島市の現状はまだ外国人の扱いについて開発されていません。案内なども不整備。外国 人のサポートをする仕事は霧島市のためにもっと広げていきたい。」
 「メインはお店、そこに畑仕事や外国人の住まい方も絡んで、これらはひとつながりになってい ます。」「だから日々忙しいですよ」と京子さん。
 「お店の昼営業は京子。私は昼間は畑やほかの仕事をしています。夜はワインの販売のために私が お店をします。」
08gif  「ワインは私のいとこの一人がワインの製造をしていて、去年と今年、プロバンス地方でいちば んおいしいワインとして雑誌に載りました。そこで私からいとこに、『経験はないけれど日本で売 ってみない』と声をかけ、去年からワインの販売を始めました。自分で輸入して、ワインセラーを 作って、これから日本全国に販売しようとしています。来週東京に営業に行きます。『シャトー・ド ・カラヴォン』と言います。そのアジア地区正規販売店となりました。このワインも、うちの畑もオ ーガニックという点でつながっています。」もうひとつの夢として、外国人向けの旅館、日本 旅館をやってみたいと聴いた。物件探しの最中だ。
 「日本に来た外国人に、日本の本当の自然が息づく霧島までもっと来て欲しいと思うけれど、私 みたいな人がしないと、行政力だけでは追いつかないのではと思っています。」
 「日本人は自分の意見を言うのが怖い。自分の事を決めるのが怖い。私はそういう人じゃないから失 敗してでも勉強になるからやっていきたいと思っています。」
 日本人はその土地に自分を合わせていこうという傾向が強いが、ティモテさんは自分を益々押し出 そうとする。この地に溶け込もうなどとは微塵も思わない。嫌なところは京子さんが引き受けてくれ る。合理性の国、スタイルにこだわる国フランスを身にまとって、ティモテ・ベガンさんの存在がやがて 霧島の未来に何かを生んでいくかもしれない。まさにアンバサダー(大使)の仕事となればいいが。

09gif あっという間の2時間だった。畑を案内してくれるというのでしばらく待っていると、ワークスタイ ルに着替えたティモテさんが現れた。お話を聞く前はこのスタイルで朝の畑仕事をしていたという。 軽トラの運転席に大きな身体を押し込んで、着いた畑には1000株のジャガイモが白く可憐な花 を咲かせていた。赤いワークシャツに短パン、ブーツ。外光の中に立つひげ面のティモテさんの姿を写真に 収めながら、ふと思った。「ここは日本だろうか…。」何でも気さくに話し、相手の気持ちに 応えようとするティモテさん。自分の生き方を成し遂げようと日夜励む、ベガン夫婦の意 気込みの未来を信じてみようと思った。  (文、編集室)


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