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2017年4月 第205号

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 2000年4月に発行が始まった地域情報誌モシターンきりしまが昨年十一月で 200号に達した折、これまで関係していただいた方々と読者の皆様との交流を図るよ うな集いは出釆ないかという計画がスタートし、ついにその実行日の4月2日(日)が やってきました。開催への準備の中で感じたのは、やはり最初から圧倒的な存在となっ ていた伊地知南ざんの取材と執筆の力でした。
 モシターンが動き始めてまだ一年も経たない2000年十二月から2001年一月、 折から地域のイベントとして確立されつつあった龍馬ハネムーンウォークを実体験し ながら、伊地知さんが手がけた坂本龍馬の記事があります。一部の人の手元にしか送ら れていなかった頃の取材です。それから十六年を経て少しも古びを感じないその内容 を、今回アーカイブ掲載することといたしました。この掲載をもって伊地知さんも今回 の企画に参加している様子になればと思いました。
 「龍馬と天降川」「龍馬と霧島」の中から歴史描写の部分を大幅に省略して、浜之市から 始まった龍馬とおりょうの旅路を中心に掲載いたしました。読みながらいつの間にか幕 末と現代が混じリ合う筆の妙を感じていただけたらと思います。 (全編ご覧になりたい方は編集室まで)

 日本人にとって、もっとも人気のある歴史上の人物は坂本龍馬。その龍馬は薩摩と深い 結びつきがあった。その関係で龍馬は新婚の妻、おりょうと霧島で遊ぶ。
 日本で初めてのハネムーンといわれる旅だ。明治維新への大舞台を回すため、昼夜を問 わず走り回り、三三歳で凶刃に倒れた龍馬に天が与えたつかの聞の安らかな時間だった。(中略)
 歴史的な薩長同盟の夜、龍馬は伏見の船宿寺田屋に帰ったところを幕府の捕り方に襲わ れる。寺田屋は薩摩藩士たちの常宿であり、龍馬もよく利用していた。
 ここにおりょうという女性が働いていた。おりょうの父は京都の町医者だったが、尊皇、佐 幕のどさくさの中で殺され、途方にくれていたのを龍馬が救い出し、寺田屋に傾けていた。
 二人はすでに恋仲であった。捕り方が踏み込んだ時、風呂に入っていたおりょうは素裸 で飛び出し、二階にいた龍馬と仲間の長州藩士に急を告げる。二人はからくも囲みを破っ て、薩摩屋敷にかくまわれる。この時、龍馬は左手に傷を負い、出血多量で死にかけるが、お りょうの献身的な介護もあり一命をとり止める。見舞いに来た西郷や小松に「これは俺の嫁 さん」と紹介する。時代劇そのものの展開だ。
 幕府の手から身を守るのと傷の治療のため西郷から薩摩行きを奨められたのはその時 だ。薩摩としては薩長同盟での慰労の意味もあったのだろう。二人は四月二四日(西暦)鹿児 島に入り、三〇日鹿児島から浜之市港に上陸。日本で初めての新婚旅行と言われる霧島の旅 が始まる。

【龍馬とおりょう霧島へ】

 浜之市港は一五九五年、島津義久が富隈城を築いた時に整備したと言われる。城から港 周辺にかけて武士の居住地が作られた。湾奥の内陸部と鹿児島城下を結ぶ物資の物流拠点 であり、役人や鹿児島神宮参拝客の乗降で賑った。龍馬達が来た頃の港の回りは廻送屋 の倉庫のほかに、宿屋、料理屋、焼酎工場等が建て込み、活気のある港町だった。
 港から約四キロ、北へ延びる道は、昔からある参宮道。継月、六五年ぶりに復活した浜下り の行列もこの道を通った。一〇号線を渡ったところに熊野神社があり、三キロほど先に隼 人塚がある。現在の道は鉄道を超えてすぐに右へ曲るが当時はもっと山寄りを通って神宮 へ至ったと言われている。
 二人の案内役は吉井友美という侍。吉井は寺田屋で傷を負った龍馬を救出する時大活躍 した。龍馬ファンでもあった。神宮参拝の後は、裏道の宮内用水沿いの道から蛭子神社へ 抜けると、すぐ下が日当山温泉だ。日当山温泉はまだ寂しい所で、温泉街は二~三軒しかな かった。この中の一軒が、西郷隆盛が愛用していた龍宝家の宿。龍馬達の宿もここだったと 言われている。
 翌日もよく晴れていた。龍馬研究家のグループが本人の日記や手紙、小松帯刀の日記 等を詳しく調べているが、それによると二人の旅の間、ほとんど雨は降っていないそうだ。 霧島は最高のコンディシヨンで二人を迎えた、ということだ。
 さて二日目は日当山から塩浸温泉まで。これは少々遠い。
 ところで日当山から塩浸温泉までどのコースを取ったのか、研究家の間で意見が分れて いる。ひとつは天降川本流沿いに新川渓谷、妙見、安楽温泉と登る直線コース。
 もうひとつは霧島川沿いに小鹿野へ行き、そこから古道(ふるみち)坂を登り、荒田の台地から旧道 に下り、現在の和気神社の脇から一山超えて塩浸に下るというもの。それぞれに一理ある。

【天降川ルート】

 先ず天降川沿いの道を辿ってみよう。川向うに姫城山、南に桜島、正面には霧島連山、足 下は天降川、季節は春。川沿いの道を進むとまもなく霧島川との合流点。そのあたりから渓 谷が左右に迫り、川は白い泡がうずまく急流となる。
 現在の牧園―隼人道路は終戦後整備されたもの。当時は谷の下を通らなければならな かった。時々山肌がきり立った所では対岸に渡ったりしなければならない。こんな辺ぴな 所にも川岸にはポツポツ家があり、生活に必要なだけの道はできていた。そして三キロほ どでおりはし温泉がある。
 この温泉はケガに効きキズ湯と呼ばれていた。この並びに妙見温泉街が続くが、当時はま だなかった。そしてさらに登ると安楽温泉。これは天降川沿いに最も古くから開けた温泉で 当然、龍馬の頃にはあった。
 龍馬達より三〇年ほど前、江戸の伊東凌舎という講釈師が安楽温泉に行ったという日記 が残っている。川を渡るのにタライの舟に乗ったりして大変だったようだが、ともかく この道はあった。安楽温泉から塩浸には、川沿いでも山越えでも一キロほどの距離だ。
 このコースを主張する理由は龍馬の手紙。それによると龍馬は一たん塩浸に着いて後 日、犬飼の滝を見て感動した話を書いている。旧道越えをしたとしたら、その道筋に滝 や和気清麿呂神社はあるから、塩漫に着く日の日記にそれが出ているはずだというもの。 だがこのコースは近道ではあるが、当時ではかなり歩きにくかったようだ。そこで今回、 二人にはもう一度日当山に帰り、別の説である松永-古道坂のコースを歩いてもらうこ とにする。
 ところで二人は、自分達がやっているのが新婚旅行だとの意識があったろうか。(当時 の日本にはそんな風習はない。男女が連れだって歩くことさえはばかられた時代だ)だ が、これはあったと思いたい。
 龍馬が勝海舟に出会った時、海舟は幕府の(国立の)軍艦操練所頭取(司令官)だった。龍 馬は海舟の後楯で自由に操練所に出入りできるようになる。
 その操練所の教官だったのが中浜万次郎(ジョン・万次郎)。万次郎は土佐の漁師だっ たが、一四歳の時出漁中、嵐に合い漂流しているところをアメリカの捕鯨船に救われ た。アメリカで様々な西洋の知識を身に付け一八五一年、一〇年ぶりに帰国した。 その同郷の万次郎が目の前にいるとすれば人並み外れて好奇心の強い龍馬のこと、政 治や軍事のことだけでなく庶民の生活に至るまで根掘り葉掘り話を聞いたことはまち がいない。欧米で新婚夫婦が旅をするハネムーンの習慣があると知っていたのは容易 に想像できる。龍馬はハカマの下に皮のブーツをはき、懐にピストルを持つ新しい物好 き。二人の旅は単なる湯治ではなく、まさに日本で初めてのハネムーンであったと思い たい。

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【松木-古道坂ルート】

 さて、日当山温泉を後にした二人は天降川を渡り(渡し場は泉帯橋付近かもっと上流な のかわからない)川の反対側の土手に沿った道を進む。春と言ってももう初夏の陽気、広々 とした田んぼでは麦が色づき、空高くヒバリのさえずりが聞こえる。
 お供の吉井友実は張り切ってあれこれと説明をする。ところどころ言葉がわからず二人 が笑いころげる。そんなのどかな三人旅が目に浮かぶ。やがて松永、大きな霧島川(松永川) にぶつかる。松永から小鹿野の古道坂登り口までには、松永用水沿いの道(東側)と川の反 対側の山の下に連なる集落(西側)を通る道がある。
 この道は古代から開かれ、島津藩の公道みたいなものだった。松並木もあったと言われ 道筋にはいくつかの史跡も残っている。一行は再び川を渡って西側の旧道を進んだと見る のが自然だろう。
02gif  川沿いに進むにつれ、両脇の山が迫って谷の奥へと誘い込まれるようだ。振り返れば、桜 島が薄く煙をたなびかせ旅を見守っている。約三キロで小鹿野、古道坂の登り口。
 この一筋の坂道は古来から牧園の台地と国分平野を結ぶ幹道として開かれた。水上輸送 が重要な時代、錦江湾からの物資は広瀬川(天降川)を逆上り、ここ小鹿野が船便の終点だっ たと伝えられる。そして人や物はこの古道坂を使って内陸部へ送り込まれた。戦乱時には 多くの兵士が上下したことだろう。坂道の入口には室町時代の作とされる磨崖仏や薬師堂 も残つている。
   古道坂は二〇〇メートルもの落差をうねうねと曲がる急坂ではあるが女の足でもさほど 無理ではない。木立ちの間から見下す谷の風景は箱庭のように可愛らしい。
 京都の街育ちのおりょうさんにとってこの旅は何とすばらしいプレゼントであったこと か。何分この時代、女性が旅行をすること自体むつかしかった。龍馬は西へ東へと歩き回っ ているが、それは殺伐とも言える政治的大役を抱えてのこと。こんなに心安まる道中は経 験したことはなかった。
 昼なお暗い木立ちの中を登りつめた所が稼原(かせぎがはら)の台地。一面田んぼが広がる国分の平野と は全く趣を異にする風景となる。風除けの林に囲まれた畑が広がる高台、空が広い。そして 正面に霧島連山が間近かに広がる。日当山を出てから半日足らずで劇的に変化する。これ がこの旅の魅力。おりょうさんにとっては現代の海外旅行以上の興奮であったろう。
 畑中の道を荒田で折れて中津川べりに下る。この途中に地元の有力郷士の田島家の屋 敷があった。役所ではないが、用向きで牧園に来た役人達はここで休み、情報交換をしてい たらしい。朝立ちの龍馬達もちょうど昼食の時間だ。ここで弁当をすませ、中津川沿いの山 道を下る。犬飼の滝、和気神社を見て、一山越えると目的の塩浸温泉。
 塩浸温泉は谷川に迫る急峻な崖にへばりつくように宿舎が並び、湯場はその下のほとん ど川の流れを目の前にする所にあった。
 その昔、一人の猟師が、一羽の鶴が湧き湯につかって傷を治しているのを見てこの温泉 を開いたので一名、鶴の湯とも言われる。

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【塩浸温泉に逗留】

 龍馬達はまずここで十一泊する。湯治の間も龍馬はじっとしていない。一山越えて改めて犬 飼の滝や和気神社を見学に行き「この世のものとも思えぬ美しさ」と乙女姉さんに手紙を書い ている。そして暇を見ては魚を釣ったりピストルで野鳥を撃って楽しんでいる。
 幕末の頃、割と手軽に鉄砲が使えるようになると余裕のある侍達は狩りをして楽しんだ。西 郷隆盛の狩り好きは有名である。龍馬もそれに習ったのだろう。因みに以前龍馬は高杉晋作か らもらったピストルで寺田屋襲撃の時防戦したが、相手の刀をこれで受けて壊れてしまっ た。塩浸の時の銃は薩摩に来る時、誰かにもらったものと思える。
 地元の牧園町や隼人町でも一部の歴史家を除いてごく最近まで幕末の偉人と地域の関わ りを知らなかった。それが一躍日本中に知られるようになったのは、実に司馬遼太郎氏の小説 「龍馬が行く」によるものだ。昭和三十年代後半、小説の取材で訪れた司馬氏は隼人駅でタク シーに乗るが、運転手は龍馬のことはおろか、塩浸温泉の場所さえ知らなかったと言う。人気 の無い山道をたずねてやっとたどり着いた地の果てのような所に、さびれた湯治宿がぽつん とあったと書き残している。
   坂本龍馬は歴史上の重要人物だから新選組の近藤勇等と並んで昔から知られてはいた。よ く映画や講談の主人公にもなった。戦前、戦後にかけての龍馬像とは「我死して護国の鬼とな らん」と見栄を切るような忠君愛国の勤皇の志士といったところだった。
 今、私達が愛するはつらつとした青年龍馬像は司馬氏によって発掘されたものだ。
   一遍の小説で人物像が決まってしまうことは他にもある。「龍馬が行く」より一〇年程 前、吉川英治氏が新聞に連載した「宮本武蔵」は日本人に武蔵像を定着させたのだ。

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【山中の出会い、硫黄谷、栄之尾】

 さて新婚夫婦が塩浸にいる同じ時、島津家家老小松帯刀が丸尾の栄之尾温泉にやはり湯治に 来ているというので、二人は見舞いがてら挨拶に行くことにした。(五月一二日)十一日間も温 泉三昧だった二人にとってはちょうど良い体ならしだ。
 また裏の山を超え、中津川沿いの道を進む。現在中津川小学校がある横瀬のあたりか らきついコースだ。登りつめると再び視界が開け霧島連山はいよいよ近く、連山の右端に 高千穂の峯が神々しい姿を見せる。目的の温泉郷は韓国岳の麓、白い湯煙がいく筋も立ち 上っている。天に近い高原の旅を行く。
 二人が入ったのは硫黄谷温泉。現在の霧島ホテルだが、当時は数百メートル川を逆登っ た谷の奥にあった。栄之尾温泉はこの谷の崖の上、現在の林田ホテルの所にあった。
 荷物を下ろした龍馬は小松帯刀を訪ねる。
 時代劇で御家老様と言えば、初老の落ち着いた人物が現れるが、小松は龍馬と同じ年、 西郷隆盛より八歳年下だ。明治維新をなした薩摩では西郷、大久保が代表と思われるが、近 年の研究でこの二人と同等に小松の存在が大きかったといわれるようになった。
 斉彬亡き後の薩摩藩では久光の息子忠義が藩主となったが、実権は久光が握っていた。久 光は非常に保守的な人で斉彬の薫陶を受けた西郷や大久保とは肌が合わない。最後まで維 新の意義を理解できなかったようだ。外部では評価されても二人ともしょせんは下級武 士、藩主と直接話ができる立場ではない。
 両者の間を調整していたのが若き家老の小松。斉彬の意志をひき継ぐ頭脳明晰な人物で 西郷等の活動を助けた。革命活動にはぼう大な金と兵力が必要で、家老である小松の協力 なくしては西郷等も動けなかったのだ。当時の薩摩はこの三人が動かしていたと言われ る。だが、小松は病弱で三五歳で若死にする。
 この時も療養のため霧島に滞在していた。龍馬との仲は深い。勝海舟の依頼で最初に来 た時も今回の新婚旅行の前後にも龍馬は鹿児島の小松邸に泊まっていた。薩長連合の調印 も京都の小松邸であり、寺田屋で襲われた時も西郷と共に藩の総力をあげて龍馬を救い出 したのだった。同じ歳でもあり、身分は違っても二人には友情のようなものがあったのでは ないか。
 「おかげんはいかがですか」
 「まあまあですよ。君の手はすっかり良くなったですか。」
 「おかげさまでこの通り。それに楽しいハネムーンをさせてもらって感謝しています。明日は二人で高千穂に登ります」
 「ほう、元気ですな。だけどおりょうさんは大丈夫ですか。相当きつそうですよ」
 「まあ、何とかなるでしょう」
 そんな会話が聞こえそうだ。龍馬が高千穂に登る気になったのはいつからだろう。荒田の 台地に立ち連山を間近にした時からか、硫黄谷への道々、いよいよ近づいて来た時か。
 当時、一般に登山を楽しむ習慣はない。それはごく一部の宗教的な行事で、無論女性が登る ことはない。平気な顔で妻をともなう姿に龍馬の世界観がうかがえる。この霧島旅行そのもの が当時では異例だった。龍馬は三二歳、おりょうは二七歳。
 普通の人なら「なるほど立派なものだ」と頭で理解できても実行することはしない。自分の 立場や身についた習慣、しきたりを捨てることができないからだ。龍馬にはそんなこだわりは ない。その姿勢が時代を動かした。
 このハネムーンは庶民レベルで彼の思想を私達に伝えるメッセージにもなった。

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【旅のハイライト⊥局千穂峰登山】

 硫黄谷から高千穂河原まで約九キロ。今では使われていない北側の山道だった。赤松とミヤ マツツジのうさぎ道を約三時間。いよいよ二時間余りの登山が始まる。龍馬は乙女姉さんへの 手紙で高千穂峰とお鉢をスケッチし、登山コースでの様子を書き込んでいる。
 お鉢頂上までは今でもザラザラした火山礫で足を取られる。当時はもっとひどかったろ う。「焼け土さらさら、少し泣きそうになる、五丁ものぼれば履き物が切れる」とある。ワラジ がすり切れ、足袋はだしでべそをかいているおりょうさんのことだろう。馬の背超えあたりも 当時は道幅が狭く危なかったのだろう。おりょうさんの手を引いてようよう超えたと書いて いる。
 だがここがこの旅の最大のハイライトだ、お鉢のふちに立った二人の驚きを想像してみ よう。何しろ映像による情報が何もない時代。他藩の者がめったに足を踏み入れることので きない薩摩の地。原始の地球を偲ばせる荒々しい風景、息を呑む大きさ。おりょうさんはお そらくここに立った初めての日本女性だったのではないか。
 さらに登って峰の頂上に立つ。そこには青銅の天の逆鉾が立っている。天孫降臨の聖な る記念碑である。ここで二人はけしからぬふるまいにおよぶ。何と、逆鉾を引き抜いて長さ を確かめてみるのだ。そして二人、大笑いしながら埋めもどしている。世の権威、神がかり的 なものを何とも思わない。好奇心あふれる自由人龍馬の面目躍如たるものではないか。よ くやる、お二人さん。
 頂上で昼食を取って、下りは二時間足らず。朝から山道を歩き通しで、体力も限界に来る 頃だが、ここからさらに霧島神宮まで約七キロ、原生林の中を二時間余り歩かなければな らない。ハネムーン中最もハードな日だ。
 おりょうさんは大変に気の強い女性だったと伝えられている。どこまでも続く原生林の 中。棒のような足はマメだらけ、すり傷だらけ。
 「もう二度とあんたなんかと旅するのはごめんだからね」
 「まあ、まあ、もう少しだから」
 「さっきももう少しって言ったじゃない。だいたいあんたさんは天下の為だとか言っていつもフラフラ出歩いてばかりじゃないの。所 帯を持った私はどうなるの」
 「まあまあまあ」

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【英雄たちのうしろ姿】

 龍馬は始めて薩摩に来た時、加治屋町の西郷隆盛宅に一泊する。今や朝廷や徳川幕府か らも頼りにされている大実力者が古ぼけたマッチ箱ほどの家に住んでいることに驚く。
 それに兄弟姉妹が多くひしめくような生活だ。自分はどこに寝かせてもらえるのかと 思っていると、家族はお客さんのために皆よその家に泊りに行く。夜、ふすま一枚へだてて 西郷夫婦の寝物語が聞こえる。
 妻が「お客さんが来ると恥ずかしいから屋根の雨漏りだけは直して下さい」と頼むのに 対し困った西郷はただ黙っているだけだった。天下の英雄も奥さんには弱い。龍馬は闇の 中でニヤリとしていた。(龍馬の日記より)
 後世の庶民が維新の英雄達をこよなく崇拝するのは実に彼等の清潔さ、私利私欲の無さ によるものだ。本当に大きな志を持った人々に、豪邸や高級車がいかほどの値打ちがあろう。 さて、二人はそれでも夕方までには神宮に到着。この夜は神宮裏の勤彬寺に泊った。当時は 神仏混合、この大きな寺の坊さん達が神宮を管理していたが、明治の廃仏きしゃくで打ち壊さ れた。
 翌日、再び硫黄谷温泉で一泊、そして塩浸しに七泊して五月二二日、日当山に帰りここで三 泊している。この最中、鹿児島から西郷がやって来て、霧島から小松が帰って、三人が合流し ていたことが、最近の研究で明らかになっている。三日間、龍馬は何をしていたのか。おそらく そこら中を歩き回っていたのではないか。国分の煙草工場も見に来たかもしれない。
 そして五月二五日、船待ちのため浜之市にもう一泊し、二六日鹿児島に帰った。以上二七日 間が龍馬、おりょうの天降川、霧島ハネムーンの全行程だが、この後二人はさらに五〇日間、 小松邸に滞在、七月一三日(旧暦六月二日)鹿児島を後にする。二人はつごう八四日間を鹿児島 で過ごしたことになる。
 龍馬のハネムーンは同時に薩摩と龍馬の蜜月期でもあった。薩長連合以後、薩摩はこの土 佐の脱藩浪人を最大級のVIPとして偶している。この長い滞在中、薩摩は完全に龍馬を 握ったと思ったに違いない。
 だが、その後龍馬は奇妙な動きに出る。(中略)そして一八六七年一一月一五日夜、龍馬は京都河 原町のしょうゆ屋の下宿で友人の中岡慎太郎と話をしていたところを何者かに襲われ命を絶た れる。明治維新まであと半年余り、奇しくもそれは三三歳の誕生日の日であった。ドラマチックな 男は最後までドラマチックだった。
 犯人は誰だ。
 新選組、見廻り組、あるいは薩摩の西郷黒幕説さえある。今でも犯人を特定することはでき ない。ただはっきり言えるのは自由、平等、平和、一〇〇年後が見えていた龍馬的なものの存在 を困ると思う勢力によるものだということだ。
 今日、龍馬人気が高まっているのは、閉鎖的な世情を何とか変えなければという人々の意欲あ るいは焦りの表れでもあろう。時代の変わり目に、人々は龍馬に思いを馳せる。
 しかし、考えてみよう。明治維新は偉大なる事業だったが、それは武士階級の人々によってのみ 行われたこと。当時の国民の九割を占める庶民は蚊帳の外に置かれていたのだ。
 今、救世主のように龍馬のような人物を求めることはできない。私達、一人一人が龍馬となり、ま ず自らの身を被っている与えられた現在の常識やライフスタイルを見直すことから始めるべき だろう。日本初のハネムーンで龍馬とおりょうさんはそのことを私達に伝えたかったのではない のだろうか。
(以上、伊地知南ざんの2ケ月分の取材を大幅に省略しつつ掲載しました)

今回の写真等はすべて塩浸温泉、龍馬公園の資料館の渡辺英彦氏のご協力により複製掲載、たしました。


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