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2017年1月 第202号

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 四半世紀前、NHK大河ドラマで司馬遼太郎原作の「翔ぶが如く」が放送されよう という時代の前夜、鹿児島から全国へ、西郷隆盛を中心とした明治維新の若者の群 像を題材にした歴史画で打って出た人物がいました。ちょうど来年に大河ドラマ 『西郷どん』が放送されようというこの正月号に、その人物北斗南舟こと川野努さん のインタビューを、とお話しすると、快く引き受けていただきました。
 一年後は明治維新百五十年・・・遠い記憶に明治維新百年という時代を通過したこ とを思い出します。われわれはいったいこの50年をどう過ごしてきたのでしょう。有 史以来、鹿児島の地は三度中央政権に抵抗し、三度敗れたといいます。隼人の乱、島 津の抵抗、そして西南の役。「西南の地に不穏な動きあり!」・・・それでも尚、地方か ら中央を見る確かな眼差しを私たちは失わないでいたいものです。
(取材・文/編集室)

 きっかけは鹿児島空港前にある西郷公園、その外壁の内回りに作られた展示ス ペースに西郷隆盛を中心とした何枚もの歴史図会の展示を見たことだった。その時 の西郷公園は少し手入れが悪く、ガラスは曇り、展示された絵画も色あせて見え、若 い作家の顔写真や解説もほどほどに通り過ぎた。また次の機会にその場所に立った とき、北斗南舟という作家名に記憶が呼び起こされたのは、毎年12月に霧島神宮から 送られてくるカレンダーにその名があったからである。
 モシターンの毎月号の置き回り配達で訪れるスカイロードみぞべのおそば屋さん、手打ちの「南舟」。そ のご主人が神宮のカレンダーの絵を描いていると知ったのは数年前。店内にそのカレンダーの絵が額入 りで展示されているのを見た時からだ。
 昨年暮れ午後2時過ぎ、仕事を終え、「本日売り切れました」の看板が掲げられたそば屋の店内で、改め て名刺をもらい、およそ30年前から始まった川野努氏の人生の物語をきかせていただいた。 01gif

【年月日、時間、天候まで正確な現代錦絵】

モシ 「このそば屋を開いてどのくらいになりますか。」
川野 「平成12年からですから16年になります。」
モシ 「名刺に、現代錦絵作家北斗南舟とありますが…。」
川野 「若い頃、東京で工業デザイナーをしていました。鹿児島に帰らねば、と言ったら、 当時の同僚から鹿児島には工業デザインの仕事はないと諭されました。しかし長男だった ので帰らざるを得ず、25歳で帰郷。その時、いつかは東京へ向かって何かをしたいという思い を残しました。南の小さな舟で北へ北へと挑んでみたいという思いから自分の雅号を『北 斗南舟』としたんです。
 絵が好きで、歴史画を手がけ始めた頃、鮮やかな色彩を元に描かれた錦絵の多くが、その 場面ではその場にいない人が描かれていたり、時刻や天候もいい加減で史実に沿ってお らず、現代的な見方で明治10年何月何日何時の天候がどうだったかまでを描くリアリズム に則った錦絵にしなければと思い立ちました。それを現代錦絵と名付けたのです。
 私自身も初めの頃、新聞紙大の鉛筆画を描いて、当時の南洲顕彰館の館長に見せたとこ ろ『この絵はなんだ、この絵には今日も明日もあさっても載っている。こんな絵は漫画だ よ。』といわれたことがあって、一念発起したのです。」
 川野氏は帰郷するまで電機メーカーの工業デザイナーとして勤めながら、桑沢デザイン 研究所でデザイナーの素養を磨いていた。その中で絵を描くことは日常的な仕事として あった。今日のようにパソコンの中で何もかもが構築されるのとは異なる時代のことであ る。その経験の上に現代錦絵にふさわしい画材としてアクリルガッシュ(不透明アクリル 絵具)にたどり着き手法も確立させた。

【西南の役と武家の魂】

 鹿児島に居を移した川野氏は、設計事務所を開いて生活を築き始めた。しかし時が平成 になろうとする頃、自分はこのままでいいのか、何か人生に残してみたいという、強い思い に駆られていた。
 川野 「私は鹿児島市の加治屋町の生まれなんです。5~6歳の頃、真冬の寒い最中はだ しで木刀を担いで近くの公民館へ行くと、示現流を教えてくれました。その行き帰りに通 る村田新八の家の前で、開け放った木戸口から80~90歳にも見えたそこの娘さんらしい老女が頭 を下げて、『お疲れさん』と声をかけてくれました。家でそのことを親父に話すと、『武士は違うん だ、平民とは違うんだ。』と、武家の心構えの違いを親父から教わりました。また親父が好きだった 話に城山の西南の役の話があり、その話になると親父はいつも機嫌が良く話を聞かせてくれたこ とを思い出します。」
 話が進むにしたがって、川野氏と史実に基づいた歴史画、そして人生をかけた挑戦という要 素が自然と絡まり始めた。幕末に活躍した薩摩の下級武士、その出生の地が並ぶ甲突川河畔の 加治屋町周辺で育った川野氏にとって、西郷さんを中心とした若者達の無私無欲の戦いの足跡 は、その真実を錦絵として後世に残したいという意志、そして使命感に変わって行った。それま で目にした錦絵の多くがいい加減な史実把握に終わっていたところを、川野氏は本気で探り始 めたのである。

【「西南の役」制作の決意】

 設計事務所を始めて10数年、38歳になった頃、現代錦絵と名づけた自らの表現をスタートさせ た。だがそれは、わからないことだらけの始まりだった。人に聴き、文献を探り、現地を訪れること を重ねるしか方法がなかった。
 川野 「まず西南の役の現地を回り始めました。田原坂も20回くらい通いました。解らないこ とだらけでしたが、手探りで題材となる日の状況を探り、絵にしていったのです。土日はこの絵 のことに付きっ切りになりました。その頃の溝辺町に家を借りて制作をしていたこともありま した。」
 描き進めながら、西南の役に向かった若者達の心情が追体験されて来る。
 現代、「無私無欲、義を感じる」という長年継承ざれた日本人の心が私利私欲に押し流 されている。今日益々世の中の動きが混迷を深め、人間と人間の関係が歪な方向に進みつ つある。(中略)当時の若き青年達が西郷隆盛という一個人の為、或いは国を憂い、無私 無欲の情熱を持ち一身を投げ出した。その彼らの足跡をまわり(3年で2万キロメート ル)、転戦ルートの情景と史実の追及を計リ、現代人が過去の歴史を見て少しでもその意 気を感じ理解できればと制作し、現代の目で歴史を見る意味で「現代錦絵」と名付けまし た。(後略)
 丸善株式会社から出版された「現代錦絵、西南の役」画集には当時の川野氏の思いがこ のように綴られている。

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【丸善で画集出版、そして個展へ】

モシ 「平成元年、出来上がった作品が日の目を見ていくことになる、その場所が東京 日本橋の丸善だったとは驚きました。いつかは東京へ、という思いが実現したということ ですか。」
川野 「作品を5点ほど持って丸善に乗り込んだのですが、担当の部長からは1日8万 円(当時)の使用料を提示されました。こちらは無料で展示してもらうつもりで臨んでい たので、後日、西南の役に参加した若者達の無私無欲の思いを現代の社会の中でも汲ん でもらえないかと手紙で訴えたところ、社長の目に止まり、丸善の企画で開催すること と、同時に出版もしてくれることが決まったのです。」
モシ 「すごいことですね1川野さんのその当時の自信、調査や創作活動の成果、その 勢いが伝わって来るようです。丸善というと歴史ある巨大な本屋ですし、洋書も広く扱 い、名のある商社でもあるわけですから。」
 1冊6000円の画集が出版されると、まずは激戦田原坂の地熊本の紀伊国屋書店で、 ついで大阪梅田の紀伊国屋、鹿児島の山形屋、延岡の百貨店、福岡天神コアの紀伊国屋 などでの個展を経て、平成2年の3月にはついに丸善本店での個展となった。
川野 「二つあるギャラリーで、一方は著名な天気予報士の方の出版、こちらは無名。 展示の手伝いをする人数も随分差がありましたが、最終的には本の売り上げだからとい われていました。オープニングには社長も来て、良く鹿児島から出てきたね!とねぎらっ てくれました。本の価格が高かったこともあり、成果が上がり、社長の面子も立って良 かったと思います。
 丸善の向かい側は日本橋高島屋です。その階上の窓から向かい側の丸善ビルにかかる自 分の個展の看板を見て、感無量でした。」

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【戊辰の役を描く】

 個展が終わリ、自ら次作の構想を考えている折に、会津若松出身の作家早乙女貢先生の戊辰 の役の文章に感嘆しました。それは「勝てば官軍、負ければ賊軍の中で、勝った者のみ正義で あリ、負けたものに情義はないのか」の一行でした。(中略)史実を史実として、義の精神で 戦った先人達の意気込みと、歴史の過ちを現在自問するときではないでしょうか。(現代錦絵 戊辰役現代学舎刊、あいさつ文より)
 西南の役の画集を発刊したあと、奇しくも放送されたNHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」が 追い風となって川野氏は各地で個展を開催するに及んでいたが、その中で彼がこだわりぬい たのが、義の精神で戦いに参加し、散っていった人々の人生と価値であった。史実に忠実に描 くことは敵も味方も、官軍も賊軍もない、歴史の事実としてあるだけである。本当の価値、戦 う者たちの志の尊さはどちら側に就いていても、その場面から立ち上るはず・・・。
 戊辰の役では取材先が全国に及んだ。戦いで家を焼かれ、田畑を荒らされた人々の思い も加わった。歴史画を英雄や戦勝の記録としてはおけない、現代錦絵の精神がさらに作ら れ積み重なっていった。
 「現代錦絵戊辰役」33景の発表展と画集の発売は、平成5年5月に京都市の東山霊山歴史 館で行われた。その後新潟の百貨店や鹿児島でも展示されることになる。
 モシ 「40代前半に随分活躍されましたね。その頃の自分を振り返ってどう思われます か…。」
川野 「焦っていましたね。あれも描きたいこれも手がけたいという思いの中で、腕と作品が 結びつかなかったりで苦労したこともありました。絵は好きだったので画想を粘ることや色彩作 りも身についていきました。工業デザインをしていたことで、繰り返し発想することを体 得していたことが役立ったと思います。」
 しかし、戊辰の役の取材のため、今回は遠く東北の地まで取材に出かけることなど、制作は 川野氏の設計事務所経営に負担を与えていた。そんな折、溝辺の地での開発事業がその人生を 次なる段階へと導いた。

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【スカイロードみぞべの開発】

モシ 「ところで、このそば屋さんのお店、場所との関係はどこから始まったのですか。」
川野 「設計事務所をしている時に、当時の溝辺町の空港前開発の動きの中でこの土地を 商業施設にすることになって、私の計画案で工事が始まりいま現在の形、「スカイロードみぞ べ」になったんです。おかげで溝辺町から表彰を受けました。またここにあるさぼんラーメン (継いで与次郎店も)の設計を手がけ、自分自身もここに出店することになりました。人生の転 機でした。現代錦絵に打ち込むあまり、金を遣い果たし、この店の内装などはすべて自分で やったんです。そば作りもすべて自分で工夫しました。借金も抱えましたが最近やっと返済し 終えました。
 絵の世界は永久の世界、究極の世界です。そばはおいしければ多くの人が食べにきてくれ るけど、絵はうまいから綺麗だからといって、すぐさまどうにかなるものではないですね。」
モシ 「今はどんなものを描いておられますか。」
川野 「もう22年になりますが、霧島神宮のカレンダーの絵を描いています。ただ、いまは 6月から10月は絵に専念しますが、それ以外は友達と山に入って、西南の役の遺物調査をして います。『草莽の会』と称して、仲間と金属探知機を使って鉄砲の玉や大砲の破片、古銭などを探し ているのです。昨年は宮崎県の山の頂上で探し当てたものをその地の教育委員会に寄贈しました。
 後にそのいくつかがドイツ製銃の珍しいものだとわかったりして感謝されています。ほかにも鹿児 島の市民文化ホールの『平成の鹿児島市』(3.6x1.8m)を描いたり、霧島神宮とのご縁のきっかけに なった霧島七不思議や六社権現などに取り組んで来ました。」
モシ 「毎年、暮れに霧島神宮から届く祭事暦カレンダーは、なんともいえぬ神宮らしさという か、神宮の依代のような存在感があります。変わらぬものの持つ魅力の一つです。」
川野 「毎回世の中の平安を祈りながら描いています。維新後、霧島神宮は官幣神社になりまし たが、西南の役当時の宮司はその資金を西郷側に寄付し、それが元で死罪にされています。その後 も敗残者の中から権宮司、権禰宜を選ぶなど、西南の役との関わりも深いのです。」
モシ 「川野さんの仕事の中で、不思議と結び付いて来ていますね。」

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【明治維新百五十年へ向けて】

 話は再び西南の役の話へと戻っていった。川野氏自身の人生の物語もこの短い時間の中で語りつく せるものではなさそうだ。一枚一枚の絵に込められた思いはどれほどだろうか。本気で西郷とその 周辺の歴史を探りきった人の持つ奥ゆかしさを感じつつ、やがて店内のあちこちに散在する資料の 説明を聞くことになった。時を重ねた様々な取り組みがそば屋のテーブルの上に広がった。
 ファイルには展示会のたびに各地で話題となった新聞の記事が何ページもあったし、また西南の 役の複製画も何枚か見せてもらった。さすがに画集よりも大きい故の迫力がある。
モシ 「原画はどうしておられますか。」
川野 「旧溝辺町が購入してくれましたので、いまは霧島市の所有になっています。」
モシ 「西郷公園の複製画展示場所は、近頃はガラスも磨き上げてあるのですが、額のガラスと 展示コーナーのガラスに庭などが二重に映って、気持ちよく鑑賞できません。川野さんのプロフィ ールなどは昔のままです。ぜひ原画をじっくり見る機会を与えてもらいたいもの ですね。ところで、特に自慢の絵はどれでしよう。」
 川野氏はテレホンカードになった作品など、数枚を示してくれた。いずれも、現 代錦絵の名にふさわしく、細かく描きこまれた人物と名前、軍隊の布陣の場所、 天候や時刻までが示されている。
川野 「そばでも召し上がってください。」
 そういわれると、ササッと厨房からそばの膳が運ばれてきた。柚子の香りの立つ大人の味だ。さ らに柚子の絞り汁で作った温かい飲み物も添えられ、すっかりご馳走になった。
 70歳を超えて、一見穏やかな川野氏だが、話に夢中になると若い頃の鋭い目線、それと自分で経 験してきた史実への自信に満ちた語り口が復活していた。
 歴史はいまの時代に語られてこそ歴史の役割が現れる。まさしく今鏡なのだ。地域に何時でも それに触れられ、観光資源や地域自慢、資料としての展示に留まらず、現代の目で150年を飛 び越える歴史との対話が出来る場所があってもいい。30年近く前、川野氏はそのことに気付いた。 そしてその思いは今も少しも変わっていない。
 明治維新百五十年へ向けて再び力強い発信をされないかと期待を抱きつつ、すっかり暮れなず んだスカイロードみぞべをあとにした。(16,12,9)


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