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2016年12月 第201号

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 夏の暑さが一向に衰えを見せない9月のある日、1枚の鮮やか なリーフレットが届けられました。
 「和田英作展」、都城の市立美術館で10月22日から11月27日ま で。日ごろ掲示板ページに様々な掲載はしてもなかなか足を運 べない編集者ですが、この時はとっさに取材を思い立ったので した。
 和田の生地である垂水市が、近年その名を掲げて公募展を始め たこともありますが、明治の黎明期に日本洋画壇を率いた薩摩の 三傑といえば、黒田清輝、藤島武二、そして和田英作です。隣市の 出身でありながら私たちは和田の画業についてどれほどのこと を知っているだろうと思いつつ、リーフレットを裏返すと、えっ、 この肖像画はもしかして・・・。こんなところに和田の現代との関 わりが・・・と思いつつ、取材の日を心待ちにしておりました。
 当日お話をしていただいた学芸員の祝迫眞澄さんは鹿児島の 出身。「近頃は都城弁が普通に出るようになりました。」といいつ つ、若いけれど、しっかりした展示内容への理解と応対に感心さ せられました。取材・文/編集室

 取材には、ビデオカメラを抱えて福留湖弓氏が同行してくれた。和田英作展の 会期がモシターン12月号発行時点ではすでに終了しているため、ケーブルテレビ やFM放送で霧島方面への告知をかねてのことである。
 美術館は、国道10号に立つ市役所を右折したすぐ横にある。その周辺は史跡の一 角で、風格ある木々が生い茂りへこの町の歴史につつまれて、「美術館前」というバ ス停にも豊かな市民生活の香りがした。
 早速美術館の成り立ちを聴くと、地元で活躍する多くの絵描きさん達の意向の 中で昭和56年に立てられたのこと。収蔵庫など設け、年4回のテーマを決めた収蔵 作品展や市美展、それと今回のような企画展を年1回開催しているという。人ロ 10万人超の都市の中で、美術分野のシーンがこうして計画的に動いている。その場しのぎで ない文化の根の深さを感じた。歴史や文学、演劇や音 楽にも、市民ペースの文化がこの町では運ばれてい るに違いない。

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【和田英作の生い立ち】

 和田英作は、和田秀豊とトヨの長男として明治7年、鹿児島県肝属郡垂水村に生まれた。和田 家は垂水島津家に仕えた旧藩士の家柄だったが、秀豊は明治の転換期になる と自ら新しい生き方を切り拓いていった。英語を学び、都城県で教員 をしたあと明治6年には上京し、慶応義塾では福沢諭吉にも教え を受けた。また、外国人教師からキリスト教を学び、後に洗礼を 受けている。
 明治10年垂水に戻ったが、西南戦争が勃発。戦争終結の翌年家族を連れて 東京に移住し、牧師となって社会福祉に生涯をささげた。当時三歳半の英作もこのとき垂水を 離れた。
 6人の弟妹を持つ長男として、また時代を生き抜く感覚を身につけていた父のおかげで、英 作は時代を背負う人々の只中へ果敢にデビューしていくことになる。
 13歳で芝白金台の明治学院に入学、図画教師上杉熊松から洋画の基礎を学んでいたが、16歳 の時、内国勧業博覧会に出品された原田直次郎や曽山(大野)幸彦の油絵に感銘を受け、本格的 に絵を志すことにした。翌年、同郷であった曽山の画塾に通うが曽山が急逝したため原田直 次郎の門下に入った。18歳で美術展への出品作が7円で売れ、初めて自分で油絵具を買ったと いう。

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【明治洋画壇の曙】

 和田英作が生まれた頃、日本の洋画の歴史も始まった。この国で初めて本格的に油絵を使い こなし『鮭』や『花魁』の作品で知られる高橋由一が画塾を開いたのが明治5年、洋画教育の必 要に迫られて工部美術学校が開かれたのが明治9年だった。輸入絵具は高価で、チューブ一 つが白米10キロほどの値段だったという。この時代はまず国産の油絵具作りから始めなけれ ばならなかった。
 そのころ洋画の指導に当たっていたのはイタリア人サン・ジョバンニやフォンタネージな どのお雇い外国人。上杉も、曽山もサン・ジョバンニの指導を受けていた。同郷の藤島武二(7 歳年上)や、佐賀の岡田三郎助(5歳年上)もその中にいた。青年たちは機あらばヨーロッパへ の留学を夢見ていたのだ。
 明治26年、和田英作19歳の年に黒田清輝がフランスから帰国すると、そこから明治の洋画界 が大きく動き出した。それまでのイタリア式指導のもとでの重たく暗い写実と違い、フランスの外 光派表現を持ち帰った黒田のもとには多くの青年が集い始める。黒田が久米圭一郎とともに開いた 天真道場、そこを訪れた和田も、黒田の絵の描きっぷりにすっかり魅了されてしまったのである。
 やがて明治29年には黒田らが中心となり白馬会が結成され和田もその会員となった。相前後して 日本画が中心だった東京美術学校に西洋画科が開設されると、黒田が教授に、藤島や岡田に加え て若輩の和田も助教授に任ぜられた。

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【渡頭の夕暮】

 目まぐるしい西洋画の導入、変遷の申で、和田の技量はめきめきと上達する。黒田をして「その 進歩の早いことは一種の天才」といわせたほどだ。だが美術学校では若干22歳の者がいきなり助 教授になったことに外部や内面の軋礫が生じ、和田は校長の岡倉天心を説得した上で黒田と相談 し、学生として四年生に編入、卒業制作に取り掛かるという身の処し方を得た。出来たばかりの西 洋画科、和田はひとりだけ第1回卒業生ということになった。
 この時の卒業制作が「渡頭の夕暮」である。黒田清輝の強い影響の下、夕暮れの外光と人々 が作り出す情景を調和の取れた描写で映し出した大作が第2回の白馬会展に出品される と、田山花袋の小説「渡頭」の発想源ともなり、その中で「模糊たる光線の描写!」と主人公の 画家の理想の表現として語られている。
 黒田は外光派の手法を用いながら、日本の油絵のあり方を模索していた。「渡頭の夕暮」 はその黒田の気持ちを反映した作品となり、当時流行していた文芸界の自然主義と呼応し ながら、また日本画の横山大観が酷評されたという朦朧体なども交えて、自然の感情を そのままに表現しようとする時代の潮流を作っていくのである。
 和田は卒業後も助手として美術学校に残つた。

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【欧州留学後の作風】

 明治32年、25歳の時欧州へ渡航の機会を得た和田は、その翌年から3年間のフランス留学が 認められ、黒田清輝の師であったラファエル・コランに就いて本場の油絵を学ぶことになった。 そして明治36年までの5年間に欧州各地に赴き、またルーブル美術館では名画の模写をし、 浅井忠(東京美術学校教授、黒田とは別の流れで後に関西美術界を牽引する)とパリ郊外のグ レー村での生活を楽しむなど、充実した留学生活を送った。
 名画「落穂拾い」などをルーブルで模写し、ミレーやコローが活躍したバルビゾンの森や 村々を訪れ、コランの指導を受けた「思郷」がサロンに入選する。今日のような精巧な複製物 など少ない時代、海外に出て学ぶ事は大きな使命感に裏打ちされたことだった。父親から受 け継いだ気質かもしれないが、まじめで忠実な感性に、西洋の分厚い絵画史がその真髄である アカデミックな素養を植え付けたかもしれない。留学の経験で和田の作風は外光派にとら われない変化を見せ始める。

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【黒田、藤島、和田】

 明治の黎明期に政界、軍人など、鹿児島出身の英傑の活躍が華々しかったが、洋画壇におい ても黒田清輝、藤島武二、和田英作と続く郷土の画家達の果たした役割はめざましい。だが、彼 らは少しずつ世代を分けていたことで、その役割や個性を異にしてきた。
 学芸員の祝迫さんは語る。
 「黒田はもともと法律を勉強していたこともあって、日本に新しいもの伝えるため幅広い目 で西洋画の技法を持ち込み、後進に勉強の道を作っていこうとしていましたが、藤島と和田は まったく性格も画風も違っていました。和田は黒田の画風を忠実に勉強してその後も自分な りの展開の中で、写実を基本にアカデミックな画家であり続けたことが特徴です。藤島は少し 時間がたってからイタリアに留学したりして芸術の展開がどんどん進んでいく先端の部分を 見聞きしてきたので、写実だけではない主観的な表現というのを求めていきました。若い学生 達にも人気があり、いろんな画風をチャレンジしていきます。一方和田は、基本を守り続けた という感じです。」
 和田は留学時代の活躍が認められ、帰国後すぐに29歳にして西洋画科の教授に迎えられた。 「和田のまじめでまめな性格は、芸術家でありながら美術行政や学校運営にも手腕を発揮 し、やかまし屋的な事務能力が黒田にも認められていました。その仕事ぶりから昭和9年に は画家としては初めて東京美術学校の校長として迎えられることになったのだと思います。」
 「和田は人間的には非情に純粋であり、頑固者だったと思います。明治人らしいとも思いま す。学生を連れての写生旅行先で、わずか15分ほどの朝日を受ける富士を描くために毎朝寒い 中道具を持って通う姿に学生もついていけないくらいで、それぐらいまじめにコツコツと積み 上げることをまったくいとわない人でした。」

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【公務と画家の使命】

 帰国し、美術学校の教授となった和田には審査員や評議員等多くの公務が課せられたが、律 儀な性格はそれをこなしつつ、画家として白馬会や文展への出品も続けられた。残念なことに 日本の神話や古典に想を取った作品、建造物の内部を飾る壁画など、大作の多くが関東大震 災や太平洋戦争の空襲で消失している。アカデミズムの画家の活躍は西洋化する日本社会の 中に必要とされ、溶け込んでいた。
 その一方で一途に富士を描き続け、日本の湿潤な大気に移ろう風景を描き、各界で活躍す る人物画も多く残した。
 大正10年から翌年にかけて2度目の欧州滞在の機会が訪れると、フラ・アンジェリコの「受胎告 知」の模写などを行い、西洋の古典芸術を改めて学ぶ姿勢を見せる。帰国後は黒田亡き後の洋画 アカデミズムの牽引役として、黒田が理想としていた構想画を意識しつつ、歴史風俗を題材に大作 「野遊」を発表した。今回の展示の顔ともなった作品だ。洋画と日本の融合へ、ともに歴史画や神話 を描くことで、その人物群像表現を取り入れながら、一つの典型を見出そうとしていたように思 える。その細やかな装飾にボッチチェリの「春」の一隅を想起するのは行き過ぎだろうか。

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【混乱を逃れて】

 要職につき、洋画界の頂点にいた和田だったが、次第に画壇の統制を強める国と、反発する画 家達との間で板挟みにされ、混乱に巻き込まれていく。美術学校の校 長に就任した和田に、横山大観から「画家が校長になる必要はない」といわれた経緯もそうい う混乱を見越してのことだったのだろう。昭和11年には東京美術学校の職を辞したが、長年の 功績で昭和18年に文化勲章を受けた。
 だが、世は太平洋戦争へと流れていき、ついに昭和20年3月になって東京空襲が激しくなる と、愛知県知立町へ疎開した。和田は、妻滋(しげ)の支えもあって、知立で6年を過ごす。穏やかな田園風 景や薔薇などを描きつつ、戦後の混乱期を乗り切った。
 その後、富士や羽衣伝説を描きたいとの欲求から、昭和26年8月には静岡県清水市の三保に 画室を立て転居。季節や時間で移り変わる富士や三保の松原を描き、「勉強」(制作のこと)に打 ち込みながら、昭和34年1月逝去した(享年84歳)。葬儀は明治学院の講堂でキリスト教式で 行われた。生涯を、日本における油絵のアカデミズムの追求にささげた人生だった。
08gif  さて、出生の地、鹿児島とのかかわりはどうだったのだろうか。
 「何回か墓参りなどで垂水には帰ってきたようですし、土地の方々を描いている肖像画も何 点か残っています。ただ、自分が描きたい光や瞬間とかにこだわりのある人ですから、短期間で の帰郷では描き上がらなかったのではと想像しています。県内の美術館は数多く和田の作品を 収蔵していますのでぜひ観に行ってください。」
 短い時間ではあったが、祝迫さんと明治黎明期に起きた油絵始まりの歴史を和田の仕事を 通して話していくうちに、そのまっすぐな情熱と個性のぶつかり合い、そして国の歩みの中での 個人の使命感が絡み合うさまを、短い時間で通り抜けた気がした。
09gif   今年ノーベル医学・生理学賞を受賞した大隅良典氏は「人が科学することそのものを、文化と して大事にし、育てて欲しい」という旨の発言をしておられたが、どこか和田の制作=「勉強」と いう言い方と相通じるものを感じた。和田は留学で描き方を学んだわけではなかった。ルネサ ンスの巨匠達につながる自然への探究心、そしてそれを自分の形にして表す表現の追求こそ彼が 会得してきたものではなかったか。
 表現メディアが圧倒的に多様化する今日において、その足跡と残された絵画から、もう一度、「 文化」なるものの真髄を感じ取ってみたら、と思いつつ都城をあとにした。

 
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