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2016年1月 第190号

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 明治維新150周年を迎える平成30年を目前に、新たな事実が発掘されようとしている。そのきっかけと なるのが、年末号の特集で取り上げた民主憲法草案者竹下弥(彌)平である。
 この人物については、さまざまな歴史研究家が追い続けながら、手がかりとなる資料は、憲法草案以外にはな く、これまで謎とされてきた。
 ところが平成27年の秋、その子孫にあたるとされる人物から編集部に連絡があり、竹下弥平の出自を明らかに する論文が完成しつつあるという。論文を発表するのは「竹下弥平研究会」。研究会は、どのようにして真相にた どり着いたのか。また、竹下弥平とはどんな人物なのか。2回に渡ってその謎を解き明かす。
【取材・文/御門あい】

【竹下弥平研究会】
2014年10月に、鹿児島大学稲盛アカデミー准教授の吉田健一
氏と、自ら竹下弥平の子孫なのではないかとする鶴丸寛人氏の
二人によって組織された研究会。それぞれの立場で論証を進め
ながら議論を重ね、2016年12月に論文「竹下弥平の出自と明治
私擬憲法草案への明六社の思想的影響について」を発表。

 本題に入る前に、前号(2015年12月号)のアーカイブで掲載した竹下弥平について簡 単に触れておきたい。
 明治8年(1875年)3月4日付けの東京の『朝野(ちょうや)新聞』に、史上初の民間人による 「私擬憲法草案」が投稿された。それは、国民の自由権を尊重する現在の議院内閣制に近 い、驚くほど進歩的な内容であった。投稿したその人物が、鹿児島県大隅国曽於(そお)郡(こおり)襲山郷(そのやまごう) (現在の霧島市隼人町東郷)に住む竹下弥平である。しかし、この人物はこれまで、鹿児島 の片田舎に住む、いち民間人ということしかわかっていなかった。
 ところが、国民文化祭開催中の平成27年11月、竹下弥平の真実を解き明かす論文が完 成間近との連絡があり、かごしま県民交流センターに向かった。そこに集まったのは、「竹下 弥平研究会」の吉田健一氏と鶴丸寛人氏(以下寛人氏)、竹下弥平の子孫である鹿児島県 議会議員の鶴丸明人氏(以下明人氏)と大窪三郎ご夫妻であった。
 筆者は正直、それまで竹下弥平について興味があったわけではない。だが、そこで語られ た内容は、推理小説のようなワクワク感に満ちており、いつの間にか、その物語の世界に引 き込まれていた。

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【家系図から直感した「竹下弥平11松元弥一郎武元」】

 すべては、平成17年、鹿児島を訪れた小説家の田辺聖子氏と、寛人氏の父、明人氏との出 会いから始まった。田辺氏は秘書から「私の従兄の家に、西郷隆盛からもらった揮毫(きごう)があっ た」という話に大変興味を持ったのだという。
 西郷から揮毫を贈られた人物は、松元弥一郎武元(以下武元)という。安政2年(185 5年)に松元家の長男として生まれ、23歳の若さで亡くなった、明人氏の母方の先祖である。
 その書は現在、鹿児島県歴史資料センター黎明館(れいめいかん)に寄託(きたく)されている。
 田辺氏は、この書を見た際、西郷隆盛が旧庄内藩士、菅実秀(すげさねひで)に揮毫したものと同じ内容 であることに気づいたという。菅実秀は、東北人として「西郷南洲遺訓」をとりまとめ、廃藩 置県により庄内藩が酒田県(現在の山形県)になった際、大参事に任命された人物である。
 当時、国分市長であり、武元の子孫として田辺氏に同席した明人氏は、『もう一人の西郷 隆盛』というタイトルで、松元武元について書きたい。西郷から菅実秀と同じ書を贈られた この方は、西郷から将来を嘱望(しょくぼう)されていた大人物なのでは」と田辺氏が語った言葉が強く心に 残ったという。
 それからしばらくして、明人氏が、2010年9月号の『モシターン』に掲載された竹下弥 平の記事を目にしたことから、話は急展開する。この人物は、西郷から書を賜ったあの武元で はないかと直感し、息子の寛人氏に「竹下弥平は、うちの先祖にあたる人物かもしれない」と 語ったという。明人氏は、親戚である松元家を訪ね、「松元弥一郎武元の名の横に、姉の「へい」が あり、その上に竹下から嫁入りした武元の母クラが並ぶ家系図を見て間違いないと思いまし た」と話す。武元と姉のへいは、仲が良かったという。へいは松元家に嫁ぎ、明人氏の曽祖母にあた る人物である。
 母方の姓である「竹下」、武元の幼名、弥一郎の「弥」、姉の名「へい」をとって『竹下弥平』。武元 の変名(ペンネーム)であると確信した瞬間であった。

【竹下弥平の第一候補だった二従兄弟(ふたいとこ)の竹下次郎右衛門】

 前出の大窪三郎氏は、武元の二従兄弟、竹下蔵左衛門の孫である。実は、歴史研究家の中に は、蔵左衛門の兄で、大窪氏の伯祖父にあたる竹下次郎右衛門が竹下弥平なのではないかと 着目する人もいたという。それは、次郎右衛門が、当時の日本で最先端の教育が行われていた 「鹿児島開成所(かいせいじょ)」で会計係を務めていたことが理由だった。
 鹿児島開成所とは、幕府の洋学校「開成所」にならい薩摩藩が作った海陸の軍事学を中心とする  学校で、海陸軍砲術(ほうじゅつ)、兵法、天文学、数学、医学、外国語など、西洋の技術や知識を学ばせ たという。場所は、鹿児島城下の小川町、現在のかごしま県民交流センターの近くにあり、 ここで学んでいた者の中から薩摩藩英国留学生に選出された者もいる。
 竹下弥平の憲法草案の前文には、外国語が引用されていることから、西洋の知識や語学 に明るい人物であろうと推測されていた。しかし当時の鹿児島で、そうした知識を得られ る環境は限られているから、鹿児島開成所に勤めていた次郎右衛門が注目されたのは、当 然の流れであろう。
 「竹下家は霧島の士族で、屋敷には洋書がたくさん残っていたようです」と大窪氏。だが、 「次郎右衛門は長生きしたので、草案を書いた手がかりが出てきてもいいはずですが、 何も見つかりませんでした」と話す。
 大窪氏も、自ら竹下弥平の存在を調べたものの、立証できずにいたという。鶴丸氏から連 絡を受け、松元家の系図と大窪氏が持つ竹下家の系図が合わさったことで、武元より2歳 年上の次郎右衛門と武元が二従兄弟であることが判明する。こうして竹下弥平と武元が 同一人物という確信が深まり、これまでたどり着けなかった人物の輪郭がはっきりと見え てきたのである。

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【真実を解き明かす竹下弥平研究会が設立】

 「それぞれが調べたことが、パズルのように埋まっていき、推理小説の謎が解けていくようで した」と語る吉田氏は、現代日本政治や東洋思想に精通する、鹿児島大学稲盛アカデミー 准教授である。鶴丸明人氏と寛人氏が、かねてから知り合いであった吉田氏に、収集した 竹下弥平の資料を見せて相談したことから「竹下弥平研究会」が立ち上がった。平成26年 (2014年)10月のことである。寛人氏は、「松元武元が竹下弥平である」という父親の直 感を確信に変えるため、「吉田さんは時代背景や思想などから、私は子孫でなくては知り得な い事実から検証し、互いの立場から竹下弥平の実像に迫っていきました」と語る。
 これまでの竹下弥平は、「封建的な鹿児島の、湾奥の片田舎に、先進的な民主主義の思想を持 つ人物がいた」と、驚きを持って受け取られていた。人物を特定できず、正確な追跡ができなか ったことがその理由だが、研究者の中には、竹下弥平は鹿児島から一歩も出ずして憲法草案を 書き上げたと想定していたため、謎が生まれ、「民主主義、自由主義の思想の先祖」といったロ マンチックな推測も多くされてきた。
 家系図に残された記述によると、竹下弥平こと武元は、明治7年(1874年)8月に東京 警視庁巡査として上京している。明治8年(1875年)には病を患って帰郷。東京に滞在し たのは、19歳から20歳にかけての短い期間であるが、新しい時代の胎動を直に感じていたので ある。

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【謎を解く鍵となった「明六社」の人物たち】

 明治8年2月1日に『朝野新聞』に投書された竹下弥平の憲法草案は、3月4日に掲載され ている。このことから、武元は当時、東京で盛り上がっていた啓蒙(けいもう)思想や自由民権運動に触れ、 知識人らの議論を聞きながら自分の思想を深めていったのだろう。吉田氏はそう仮説を立て、 検証を始めた。
 「竹下弥平がなぜ、近代的な憲法草案を提案できたのかというヒントは、第3条で左院議 員に相応しい俊傑として挙げられている6名の人物にありました。そのうちの、福澤、福 地、箕作、中村の名前を見て、明六社(めいろくしゃ)の人間であるとピンときました。憲法草案の基本思 想や条例を詳しく読み解くうちに、武元は間違いなく、明六社の影響を受けていたと確 信しました」と吉田氏。
 福澤は慶應義塾の創始者、福澤諭吉を指し、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)もしくは箕作麟祥(りんしょう)、中村正直と ともに明六社の主要メンバーである。残りの3名は当時、日本を代表するジャーナリスト の成島柳北(なるしまりゅうほく)、栗本鋤雲(くりもとじょうん)、福地源一郎だという。
 明六社とは、明治6年(1873年)7月に、アメリカから帰国した森有礼(もりありおり)と西村茂樹の呼びかけで、福澤諭吉ら、当時の日本を 代表する知識人が集まり、民衆を文明国に相応しい国民にしていくために啓蒙する目 的で結成された団体である。翌年には機関誌『明六雑誌』が創刊され、記事は、東京の各地 で行われた定例演説会や意見交換をもとに作られた。
 発行部数は全国で月平均3200部に達し、当時の知識人、啓蒙家にとって必読書で あったという。ところが、次第に森有礼と福澤諭吉の意見が対立。明治8年(1875年) 6月に施行された饞謗律(さんぼうりつ)などの言論弾圧が加わり、9月には雑誌は廃刊に追い込まれ、 明六社は解散する。
04gif  「国家権力側の福地源一郎を除けば、竹下弥平が憲法草案で掲げている民撰議院の設 立を是とする自由民権系の思想を持った人たちです。しかし、各人がどういう考えを持 って活動していたかは、鹿児島で容易に得られる情報ではありません。演説を聴き、雑誌 を入手しやすい東京にいたからこそ詳しく知り得たのでしょう。また、これらの人物を よく知っていたとも考えられます。
 なかでも、成島柳北は、竹下弥平が憲法草案を投稿した朝野新聞を創刊した主催者で あり、新聞社が明六社と同じ場所にあったこともわかっています。
 推測の域を出ませんが、武元は成島と親しかったからこそ、朝野新聞に投稿したと思 うんです。もしかすると、朝野新聞社に出入りをしていて、成島や明六社の人間と議論を する機会があった。武元は明治8年に病で帰郷していますが、憲法草案を成島に渡してか ら帰ってきた可能性は高いと考えています」と吉田氏は解説する。

【将来を嘱望ざれながら西南戦争で散った武元】

 とはいえ、民主主義という概念は、まだ一般的にはなかった時代である。生まれつつある新 しい思想に共感し、自ら行動を起こすには、それらを理解でき、受け入れられる器も必要だ ろう。その鍵が、冒頭で田辺聖子氏が明人氏に語った、「武元は西郷隆盛から将来を嘱望され る傑出した人物であったのでは」という言葉である。
 「武元は、西南戦争が起こる明治10年(1877年)1月、西郷隆盛とともに出征し、熊本 の吉次(きちじ)峠の戦いで重症を負い、3月4日に亡くなっています。父、松元佐太右衛門は、長男の武 元の骨を抱えるようにして泣きながら持ち帰ったそうです。武元は幼少から学問に秀で、他の 兄弟とは比べものにならないほど優れていたそうで、松元家の家系図には、彼の実績が詳細に. 書き記されていました」と寛入氏は証言する。
 次男の武彦は、第3、4、5代日当山名誉村長を務め、三男の武裕も18歳で東京警視庁巡 査になり、太政大臣三条実美、内閣総理大臣伊藤博文の守衛を務めたというから、兄弟も 負けず劣らず優秀であったことは間違いない。
 だが、武元が生きていれば、弟たち以上に活躍し、大人物となっていたかもしれない。そうと 考えると、天折したことが悔やまれる。
 惜しまれて亡くなった武元とは、どんな人物であり、どのような経緯を得て憲法草案を 投稿するに至ったのだろうか。それについては次号紹介する。


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