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2015年12月 第189号

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その一、朝野新聞投書欄の衝撃


 モシターン二〇〇三年八月号の天降川シリーズの記事、もしくは二〇一〇年九月の特集『湾奥きりしまの進歩性』の 中で述べられた竹下弥(彌)平の憲法草案という記事に目を止められ、関心を寄せられたことがあったかと思います。
 そこに登場した我が郷土の『竹下弥平』を名のる人物がどういういきさつで憲法草案を投稿したのか。それはいった いどこの誰なのか。当時のタイトル「竹下弥平を探せ!」が未だ解決を見ないまま今日に至りました。ところが…
 この竹下弥平と憲法草案をめぐる問題についに答えが出ようとしています。憲法は(今は日本国憲法ですが)いまこ の国の国民と国家との間において再び特別な意味を持つ問題として浮上して来ました。二〇一五年夏は近年になく憲 法が関心を持たれた時として歴史に記録されることでしょう。そのゆく年くる年に、竹下弥平がモシターン誌上に三度 目の登場をすることになりました。ついにその姿が見えて来ようとしています。

 来る二〇一六年一月号以降の記事のために、今号では二〇〇三年八月号 の記事を掲載することに致しました。
 それは、(故)伊地知南さんがモシターン記者としてはじめて竹下弥平と明 治の黎明期に起草された民主憲法草案に出会った時の驚き、そしてそれが 我が霧島の地との関わりにおいて発表されたことの謎と向き合いはじめ たこと、それらを大前提としてこれからの展開を見て欲しいと思ったから です。
 正月の正の字は一(いち)に止(とど)まるという意味があると聞きま す。正月にこそ、今年の夏あった出来事について、明治近代化のはじまりか ら現代を考えてみては…。
 竹下弥平を巡る今後の展開に是非とも乙注目くだざい。(編集部)


03

 去る六月七日、志學館大学の公開講座(隼人学)で同志社大学教授出原政雄さんが明 治初期、民主憲法を提唱していた竹下弥平について講演、天降川流域に非常に進歩的な思 想があったことに来場者の驚きを誘った。
 明治八年三月四日付けの東京の朝野新聞に鹿児島県大隅国曽於郡襲山郷の竹下 弥平が投稿した憲法草案の全文が掲載されていた。
 幕末から明治維新にかけて各方面の有識者から憲法の制定と議会開設について建白書 が出されたおり、新政府も実施に向けて検討に入っていたが、一民間人が具体的な草案とし て発表したのは初めてのこと。またこの時、初めて憲法という言葉が使われていた。
 草案は前文で八力条の法案からなっている。
 先ず、前文で憲法の趣旨(国の基本姿勢)を述べている。この中で国の中心として君主(天 皇)の存在は必要としながらも、君主のために国民があるのではなく、国民のために君主が あるという国民主体の国家像を明確に打ち出している。そして個人の自由は国家より優 先するという、当時の欧米の最先進の国家観が前面に出ているのが注目される。
 次いて八条からなる条文に、国の最高機関としての国会の構成と機能が続いている。
 第一条で憲法とは君主(国)が勝手に政策方針を変えないよう、国政の基幹として制定され るものとその権威を示している。
 二条以下は国会の構成。国会は左右両院からなり、定員は各百人。左院(衆議院)は政府役 員、知識人(福沢諭吉など)、地方からの選出者が三分の一ずつ。右院(貴族院)は政府上級役人、 皇族から選出するが司法官や武官は入れないとしている。
 国会は最高機関として法律を制定、行政のトップ(大臣等)を任命する権限を持ち、行政、司 法、軍部の権力の介入を許さない存在と位置づけしている。
 そして国会の目的は国民の福祉であることを強調している。
 草案は国会(立法府)に集中しており、一国の憲法による議院内閣制や三権分立の基本形が 見られ、現在に続く近代的国家体制の骨格が見事に表されている。

01gif  何より主権在民の思想が強調され、これは現在の日本国憲法の精神を先取りしたもの と驚かされる。
 出原さんは今年三月まで志學館大学で教鞭を執っており、政治史を研究する鹿児島史 の会の会長を努めていた。
 一方、加治木町の郷土史家で鹿児島大学非常勤講師の川嵜兼孝さんは一九八一年、自由 民権運動百周年全国大会の機関誌で朝野新聞の写しを発見、史の会で発表した。
 竹下弥平とはどのような人物か。
 当時の襲山郷とは霧島、隼人町松永、国分市重久にまたがる湾奥、天降川辺の地域。
 草案前文には英語やラテン語の例文が引用されていることから、かなりの教養を持った 人物像が浮ぶ。草案の革新性から福沢諭吉などに連なるか(西郷隆盛は諭吉を非常に評価し ており若者達に「学問をしたかったら諭吉の所に行け」とすすめていた。このため明治時代の慶 応義塾には大分県に次いで鹿児島の学生が多かったといわれる)、あるいは自由民権論者と関 わりを持っていたと思われる。草案は襲山郷の自宅で書かれたものだが、以前に東京に遊学し た可能性は強い。
 いずれにしろ、かなり裕福な士族の子弟だったことは間違いなかろう。
 このような条件を特定して行けば、生家は限られて簡単に見つかりそうだが、今のところ全 くわかっていない。
 明治八年と言えば西南の役が始まる直前、全国的に特権を失った武士の不満が高まっていた。 西南戦争に参加した若者の多くが同様の気持ちを持っていたと思われる。
 しかし一方、百三十年も前、煌めくばかりの先進思想がどうしてこの地から発信され たのか。
 興味は尽きないものがある。
 川嵜さんは「鹿児島は非常に閉鎖的で封建性が強い風土だが、半面(一部であるが)極めて 革新的な思想もあった。特に姶良地方はその風潮があった。竹下は孤立した存在ではなく、周 りに同じような思想を持った青年達がいたのではないか」と語っている。
 しかし、明治新政府の圧力で民権思想はついえ、公布された憲法は天皇から国民に下しおか れる欽定憲法の形となり、そこには天皇主権が色濃く打ち出されていた。
 これは当時の政府が欧米の先進社会(共和国型)を嫌い、後進地であったプロシア(ドイツ地 方)の王権型を模範としたためだ。
 欽定憲法のもと、やがて日本は気違いじみた全体主義に陥り、そのあげくの惨状に見舞われることになる。
 竹下弥平の提唱した民主主義国家は六〇年余り後に実現することになった。
(以上二〇〇三年八月号)

二〇一〇年九月号には、ここに掲載した内容を再度取リ上げながら、伊地知さんなりに 竹下弥平の人物像をざらに掘り下げている。

【江戸幕府以上の強権政治に抗して】

 投稿された文章には、先ず自分が憲法草案を提案する理由がある。それは人民を苦しめ た封建政治に別れを告げ近代化を果たしたつもりだが、逆の形が現れ始めていることに対す る不信だ。
 江戸幕府以上に進む強権政治的なものに対抗して竹下が目指す近代国家には欧米で進ん でいたスタンダードとしての民主主義立国が見える。
 前文の中にラテン語や英語でも引用が目立ち「国のために国民があるのではなく、国民のた めに国(君主)はある」「個人の自由は国より重い」といった民主主義の基本理念を認識してい たことがわかる。一方で「聖誓の実現」という言葉も使っている。これは五ヶ条の誓文であろう。 おそらく感性豊かな青年は維新政府発足に出された誓文の趣旨を欧米先進国の民主主義 に重ね合わせ、理想社会実現の夢を見たのであろう。
 黒船以来、日本に入って来たのは工業技術だけではなかった。先進技術を持つ国々の学問・文 化・政治体制の知識も入って来たのだ。
 竹下の憲法草案が東京の新聞で発表されたのも象徴的だ。当時、憲法や議会制についてはそ れなりの職や地位にある人が建白書として政府に提出するもので一般の国民とは縁が無かった。

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【竹下弥平の子孫を探せ】

 竹下弥平とはかなり裕福な士族の子孫だったと思われる。そして竹下は孤立した存在では なく、同じ志を持つグループ、若者層があったとも思われているのである。
 霧島市には竹下姓が多く、このような条件を絞り込めば生家や子孫はすぐわかりそうなも のだ(川嵜さんは日当山辺りが有力と見ている)が、それがわからない。
 本誌も二〇〇三年八月号で手掛かりを呼びかけたが一向に反応がない。
 竹下弥平は民権論グループのペンネームだったのではないかとも思われている。
 いずれにしろ、鹿児島市でもないこの湾奥の・地に時代を数段突き抜けた思想が存在してい たことに驚くと同時に誇りを持てるのである。
  (以上二〇一〇年九月号より抜粋)以下次号へ


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