19. 正興寺跡
正興寺墓地 |
「三国名勝図会」より |
正興寺は禅宗系の臨済宗のお寺で、本尊は釈迦如来、大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の三ヶ寺の一つです。三ヶ寺としては他に正高寺(真言宗)・正国寺(律宗)があり、いずれも正八幡宮の正が付きます。江戸時代までは神様と仏
様が一体だったので、神官と僧侶はともに仕事をしていましたが、お寺は明治維新の廃仏毀釈で壊されてしまいました。
創られたのは、永仁年間(1293~1299)といわれ、39代には薩南学派の桂庵玄樹、40代に雲淑、41代に文之玄昌がいます。文之和尚は島津義弘の外交顧問であり、鉄砲伝来の記録「鉄炮記」を書いています。
豊臣秀吉が朝鮮に攻めた文禄・慶長の役の
時、薩摩と明がカを合わせて、秀吉を討ち取
ろうという計画があり、大隅半島の内之浦に
しきりと明の工作船が出入りしていました。
その時、明人と交渉したのが、玄龍という正
興寺の僧侶であったことが、中国の「敬和堂
集」という記録に出てきます。この「倭僧玄
龍」が40代の雲淑和尚か41代文之和尚なのか
はまだ分かっていません。
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