15. 宮坂麓

 宮坂麓の記録は天承2(1131)年の石清水文書に登場します。大隅正八幡宮の 執印行賢の頃、宮坂麓で石が割れ、その中から八幡という文字が現れたという ものです。先ず、そのことが当時の県庁のような組織、大隅国府に報告がなさ れ、そこから大宰府、朝廷へと伝えられました。朝廷からは清原氏が調査に来 て、これは当時の崇徳天皇に王子が生まれる良い兆しではないかと解釈したよ うで、それが回りまわって、石体神社は安産の神様となったようです。当時、勢力を伸ばしてきた日本最大といわれる島津荘に対抗するため、大隅正八幡宮 の権威を高めようとした事件といわれています。

 行賢という人物は父親が大隅国司で、かなりカがあったため、大隅国分寺や隼人塚の石の塔、正国寺の石仏などを造り、今に残る石の文化を築いた人だと いわれています。


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