四社家の館跡

隼人町宮内地区には、鹿児島神宮(大隅正八幡宮)の仕事に代々携わってきた 社家がおります。長い人で千年も続いています。有力な社家の館は四箇所あり、 発掘調査で、館を取り囲む堀と土手(土塁)を築いて防御を厳重にしていたこと が分かりました。その大きさはおよそ百m四方で、中国・朝鮮・タイ・ベトナム など外国の焼物もたくさん見つかっています。

4. 桑幡家館跡

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北側の土塁
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氏神と土塁
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堀跡
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桑幡家墓地
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高麗青磁
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陶器壺(南方系)
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青磁碗
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建久図田帳
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平面図

 神仏混淆であった大隅正八幡宮には、別当寺も含め多くの神官・神人・僧侶が係わっている。「四社 家」、「十家」又は「一家」、「衆徒十五坊」、「殿守十二家」、「四十七家」「隼人十八家」など 百十家があり、中でも世襲の四社家は、それらを統括する立場にあった。

 桑幡氏は、息長姓をもち現在の当主で76代目となる。中世には「社家の筆頭」とされる。長く大隅正八 幡宮の四社家として、留守・沢・最勝寺氏とともに神宮の繁栄を支えてきた。桑幡氏は、「火闌降命よ り出、欽明天皇御宇息長姓を賜う」とあり、隼人の子孫であるともいわれ、また、大分県の宇佐から来 たともいわれる。平安~鎌倉時代には助清・清道親子152・53代)が活躍した。『平家物語長門本』に第 53代息長清道が登場し、平清盛と親交があったことが記されている。

 平成12年度から宅地造成やマンション建設・保存整備目的等でこれまで6回調査された。第1・2次 調査では、館を取り囲む堀や池状遺構などを検出。堀は底面が狭くなる薬研堀を呈し、幅約4m、深さ 3mの規模である、その後に検出された堀や現存する土塁からみて、南北方向は90m、東西100mの区 画をもつ。

 発掘調査で発見されたものは、弥勒院跡と同様、海外の陶磁器や土師器などが多量に出土。中国製青 磁・白磁,高麗青磁、タイ・ベトナム産陶器、国内産中世陶器、近世陶磁器など。国内産の中世陶器に は、東播系、東海系、備前系など。近世では、肥前系や在地系のサツマ焼も多量に出土。この他に、滑 石製品,瓦,鉄釘,煙管,古銭,砥石,硯など。注目されるものとして,畿内産の楠葉・和泉型瓦器圷 や土製鍋、15世紀頃の風炉などがある。

 出土した多量の土師器は、この館内で行われた様々な儀式とも深く関係していると思われる。『上井 覚兼日記』には、この館内で式三献の儀式が行われていることが記録されている。

 大宰府編年C期から遺物が多くなることから、桑幡氏は11世紀後半頃には、ここに居住していること が考えられる。

 島津氏が南九州を治める前は、この周辺でも激しい戦いが行われている。16世紀前半の「隅州の乱」 では、本田薫親による正八幡攻めによって、周辺が戦火に巻き込まれ、桑幡氏は櫛間に逃れ、留守氏は 25,6年もの間、宮内を離れざるを得なかったこともあったという。また、16世紀後半に活躍した正八幡 司官の留守式部大輔藤景なる人物は、天正12(1584)年の肥前の有馬氏の合戦に参陣している。戦国期の 体制に組み込まれている神官の姿がそこには看て取れよう。


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