4. 鹿児島神宮(大隅正八幡)

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鹿児島神宮
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初午祭
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初午祭
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境内境界杭
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宝暦6年正宮造替灯籠
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正宮造替灯籠の梵字
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酒井季時正宮修理職補任状
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古印
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紺糸威鎧 兜・大袖付
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色々威堂丸 兜・大袖付
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色々威堂丸 兜・大袖付
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名刀 相州住秋廣 一口
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昭和初期の神宮
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神宮境内
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神宮境内から見た錦江湾(桜島)

 鹿児島神宮は、かつては「大隅正八幡宮」・「国分八幡」などと呼ばれていた。祭神は、山幸彦である彦火々出見尊・豊玉比売命・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・中比売命などである。地元では、今でも「オハッマンサー」(御八幡様)などと呼ばれる。明治時代の初めの廃仏毀釈までは、神と仏が同体として祭られていた。この呼称は、神仏分離前のようすをよく示している。現在の呼称、鹿児島神宮は、明治7年からで、初めて、文献に登場した時は、鹿児島神社であった。

 927年の『延喜式』に書かれた神社は、式内社と呼ばれる。薩摩・大隅・日一向三国の中で、鹿児島神宮は唯一の大社であった。「大隅国五座大一座小四座桑原郡一座大鹿児嶋神社」とあるのが、大隅正八幡宮の前身だと考えられている。その後、11世紀後半の応徳4(1087)年には、「八幡正宮」と呼称されるようになり、記録からみて、少なくとも、11世紀後半には八幡化している。

鹿児島神社:延長5(927)年、『延喜式神名帳』

八幡正宮:応徳4(1087)年、永逞大徳補任状、『旧記雑録前編1』

大隅国正八幡宮:寛治6(1092)年、中右記

八幡宮:寛治6(1092)年、百練抄

大隅国正八幡宮:寛治7(1093)年、八幡造営日時勘文等、「石清水文書」

八幡正宮:保安2(1121)年、酒井季時補任状、「神宮文書」→古印

八幡正宮:天承元(1131)年、執印行賢寄進状、「台明寺文書」

1 祭神:天津目高彦穂々出見尊(彦火火出見尊、山幸彦、神武天皇の祖父)・豊玉比売命・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・中比

  売命など旦目隈正守氏によると、本来は八幡神を祭っていたが、18世紀後半から山幸が中心となってきたらしい(2008『鹿児

  島地域史研究』第4号で

2 火災の記録(『隼人郷土誌』より)⇒焼土層の存在?

  ①寛治5(1091)年12月

  ②嘉保元(1094)年11月

  ③建長5(1253)年3月

  ④正平3(1348)年2月18目

  ⑤文安4(1447)年

  ⑥大永7年(1527)11月→国分清水城の守護代本田董親(ただちか)来襲

  ⑦天文12(1543)年

3 今の社殿:宝暦6年、島津重年によって再建(県指定)

4 社領:建久図田帳(1197年)によると、およそ1,300町(大隅国の半分近く)明治維新当時は763石。

5 社家:桑幡・留守・沢・最勝寺の四社家、隼人十家、衆徒十五坊、殿守十二家、山伏法体行者職、隼人四十七家、隼人十八家

  など百十家(明治維新時)

6 寺院:別当寺(弥勒院)、三ヶ寺(正興寺・正高寺・正国寺)、正行寺(時宗)

7 伝承①:今の石体神社付近に昔はあったが、その後、現在地に移転した。

  伝承②:宮坂麓(石体神社付近)で2基の石に「八幡」の文字が現れた(長承元年(1132)、行賢の」頃、石清水文書の記録に残

       る)→神威を高め、社領を拡大。

  伝承③:宇佐の人たち(14人)が神宮に火を付けて逃げたところ、煙に「正八幡」という字が現れ、逃げる途中13人が亡くなり、

     

 一人は宇佐に戻り報告した。13人が亡くなった場所が十三塚といわれる。→宇佐との正統争い

8 明治以後:神仏分離令で、仏教を切り離し(鹿児島は廃仏毀釈の運動になる)、神道のみとなる。初代の宮司は三雲若麿。

9 宝物:神宮文書(県指定文化財)、南北朝期の紺糸威鎧など三領(国指定文化財)の他に、保安2(1121)年の補任状に押捺さ

  れている「八幡官印」の古印、14~15世紀前半のタイ産灰釉印花象文壷、明代の龍泉窯系青磁壷など海外の陶磁器。刀剣として秋

  広(国指定)。

10 祭祀:古代隼人族の祖先である海幸彦が溺れる様を表現しているとされる隼人舞が8月15目。旧暦の1月18日に近い日曜日

  には、馬踊りで知られる初午祭。旧暦5月5目に近い日曜日にお田植え祭。

11 玩具:海幸・山幸神話に因む香箱・鯛車や初鼓など。


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