23. 隼人塚

《もっと詳しい地図を見る》

《ビデオを見る》

027
国指定史跡隼人塚
029
神宮下出土四天王像
028
復活した浜下り
030
隼人塚での神事

 隼人塚は正八幡宮より南西へ約し5キロメートル行った所にあり、正八幡の四至(お宮内)の西の外れに位置する。国は大和朝廷に反抗し討たれたクマソ・隼人に関連した場所として、大正10年3月に国の史跡に指定した。隼人塚は、指定当時は不完全な形の石塔3基と完形2基の石像および塚左前面の胴まで埋まった石像2基で構成されていた。

 石塔と石像の関係が明確でなかったため、一頃までは、明治初年の廃仏毀釈の時、付近の寺々から寄せ集めたものだといわれたりした。

 しかし平成8・9年の発掘調査により、塚内部から石塔の元の部材が多数出土した。石像も足首まで残っていただけでなく、邪鬼を彫った台座部分も出土した。それらの部材を最大限に用いて平成10年から11年にかけて修復した結果、五重石塔3基と四天王石像4体が復原されたのである。

 石塔が3基あることについても、これまで疑問視されてきたが、最上部の笠石が3つとも出土したことと石塔を取り囲む長方形の石列の竪2分割、横3分割の交点に、基盤石が据えられていることが分ったことにより、問題が解決さ れた。元々今の位置に石塔は初めから立っていたことも分った。

 発掘調査によれば、奈良時代の遺物などは、隼人塚からは見付かっていない。それより後世の平安時代の遺跡と見られる。

 江戸時代の天保14(1843)年に書かれた『三国名勝図会』には、正国寺という寺の跡地の原口という所に、五重石塔2基と四天王像が有ると書かれている。また正八幡宮の由来を書き記した『古記』という古文書(鎌倉時代原本か)に 「放生会の大路に三基の五重石塔在り、四天王石像有り」という記述がある。

 これらの記録にある正国寺跡地の五重石塔及び四天王石像が、今の隼人塚に相当すると見られる。

 ここに言う「放生会」とは、,奈良時代の養老4(720年〉に反乱を起こし殺された隼人の霊をなぐさめるため、宇佐八幡宮で始まったとされる行事のこと。この放生会がいつの時代か当地にも伝わり、正八幡宮の御神事になった。放生会は平安時代には行われていたと思われるが、記録としては、鎌倉時代から文献に見える。

 正八幡宮から隼人塚前を通り、海岸(浜)の浜之市までお神輿が下るので、こちらでは放生会のことを「浜くだり」と称する。隼人塚は放生会の道(コース)のちょうど中間点に在る。

 『三国名勝図会』はまた「八月十五日、浜殿くだりの時、神輿を安鎮し、放生会ありしとぞ」と記述している。『鹿児島神社旧記』という古文書には「御神輿、浜御下ノ時、御休ミ玉ウ石コレ有り」という記述も見える。このように隼人塚は放生会の神事、隼人供養を行うための場所として設定され、石塔・石像は、神事の精神(目的)を表さんがための対象物として作られたものであると考えられる。

 隼人塚の石塔・石像の創建年代については、一つの推定方法として、大隅国分寺石塔と比較するやり方がある。大隅国分寺の石塔は、「康治元年」(1142年)の年号を持っている。大隅国分寺の石塔と隼人塚の石塔とは、その造りにおいて、塔身の大きさ、笠石の厚み・反り方など似かよった部分があってほぼ時代であまり差は無いと見られる。しかし両者は、構造に異なった点がいくつかある。

 その一番顕著な点は、笠石の隅木の部分に在る。大隅国分寺の隅木は、角材を示すかのように彫り出しがやや深く、隼人塚の隅木は彫り出しが浅い。熊本県南部、湯の前町明導寺の七重塔は、銘文によって鎌倉時代の寛喜2(1230)年に作られたこと分かっている石塔であるが、隅木ははっきりと角材と分かるほどに深く彫り出している。したがって隅木の彫り出しが深くなっていくのは、時代が新しいと考えられる。

 また隼人塚の初重の塔身は、お堂の構造を忠実に真似し、連字窓や観音開きの扉を刻み、真ん中に藤原様式の仏像を浮き彫り状に彫り出している。仏像は3塔の各層全て、四面に彫られていたと思われる。まさしく隼人塚石塔は木造塔を石に引き写したものである。これに対し大隅国分寺の塔はまったく仏像が彫られていない。

 ただし元は仏像が描かれていた可能性もある。隼人塚石塔は、以上のような相違点から見て、大隅国分寺石塔より時代がやや先行しているように見受けられる。

 なお大隅国分寺に関連した遺物に、隼人塚に在ったとされる正国寺が移転した寺地より発見された「正国寺石仏」がある。「正国寺石仏」は3体で2体(如来形1・観音形1)に「康治元年九月六目供養」の銘文が刻まれている。1体は無銘で如来形。2体の年号が大隅国分寺石塔と一致するだけでなく、文字の書体・彫り方ともに両者共通しており、同じ工人、造立者の関与がうかがえる。これは正八幡宮を通して、隼人塚と大隅国分寺がつながって当時宗教活動を行っていたことを示している。

 隼人塚の四方に立って石塔を取り囲んでいる石像は、邪鬼を踏まえている姿から、仏国土守護の四天王像である。石塔と石像は別々に作られたもので、制作年代が違うとの見方があるが、仏教の教義よりすれば両者は一体で仏国土を構成しているとされるから、同一年代にセットとして造られたと考えたい。

 『古記』の中に正八幡宮近辺の諸堂を列記した「一切経蔵 七重石塔 四天王石像在リ」との一節がある。これにより正八幡宮周辺にも、石塔と四天王像がセットで置かれていた例があったことを知ることができる。

 鹿児島神宮の下に在る隼人歴史民俗資料・館の庭からも、隼人塚四天王と同タイプの天部像が発見された。(隼人塚史跡館に展示中〉隼人塚四天王石像は等身大を超える大きさに造られ、しかも一石造り丸彫りで成形している。五重石塔と同じく全国的にもあまり類を見ないものである。

 

 【隼人塚の造立者】

 放生会は正八幡宮の最大級の御神事であったと考えられる。『鹿児島神社旧記』という古文書には「御神輿、浜殿御下リノ時、御供ノ騎馬武者二百六十甲、先例也」「当日御神事ハ勅使代執印コレラ勤ム、奉幣使権政所コレラ務ム」とあり、隼人塚は正八幡宮にとって放生会を行うための重要な場所(聖地)であった。そこに隼人供養の石塔と四天王像を建立した。石塔は真中の塔が最大で高さ6メートル余りを測る。

 原石の切出し、運搬、加工、彫刻、組立て、開眼供養、永代の維持、これら一連の費用を考えてみた場合、平安時代の当地方において、その負担に耐えうる財力をもっていたのは、正八幡宮のみであったといえよう。これは鎌倉時代の『建久図田帳』の正八幡宮領の広さと数量を見れば理解できる。また石塔建立を成さしめる権威においても、正八幡宮に優るものは無かった。

 隼人塚は正八幡宮の権威のシンボルでもあった。隼人塚は正八幡宮なくしては存在しなかった。平安時代の当地仏教文化の様相を知る上で、正八幡宮と共に隼人塚石塔と石像はその存在を見逃すことはできない。


戻る
Copyright(C)KokubuShinkodo.Ltd