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新シリーズ

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災害・キキン・移住

【天明の大キキンの惨状】

 杉田玄白(げんぱく)といえば、最初の翻訳(ほんやく)解剖書『解体 新書』の刊行で知られる。いまは、その玄白の他の著書『後見草(あとみぐさ)』(下巻)から、東北地方のキキ ンの惨状を記した文章の一部を引用したい。

 天明年間(一七八一~一七八八)は全国的にキキンが頻発したが、とくに天明三~六年のキキ ンは東方地方で深刻であった。
 出羽(でわ)、陸奥(むつ)の両国は、常は、豊饒(ほうじょう)の国 なりしが、此年はそれに引かへて取わけ不熟(ふじゅく)にて、南部、津軽に至りては、余 所(よそ)よりは甚しく(中略)食ふべきものの限りは食ひたれど、後には尽果(つきは)て、先に 死たる屍(しかばね)を切取ては食ひし由(よし)、或は小児の首を切、頭面の皮を剥(はぎ)云りて焼火(たきび) の中にて焙(あぶり)り焼(やき)、頭蓋(づがい)のわれめに箆(へら)さし 入、脳味噌(のうみそ)を引出し、草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有(あり)しと也。〔中略)又 或人の語りしは、其ころ陸奥にて何がしとかいへる橋打通り侍りしに、其下に 飢(う)えたる人の死骸あり、是を切割(きりわり)、股(もも)の肉、籃(かご)に盛行人(もりゆくひと)有し故、何になすそと問 侍れば、是を草木の葉に交(まぜ)て犬の肉と欺(あざむき)て商ふなりと答へし由、(中略)おそろし かりし年なりし。

 まさに「おそろしかりし」実状が語られている。筆者は、各地の大小の博物館をめぐるのを 趣味のようにしているが、東北地方の博物館では、しばしばキキン食物のコーナーが設けら れていることに注目し、足を停めることがあった。
 一年の三分の一前後を雪に閉じこめられる東北地方では、夏季に食物用作物が蓄えられ ない年は、冬にはこの著述のような惨状が現出するのであった。

【南部九州の災害】

 南部九州には東北地方のような雪害が生じることは、めったにない。といって、安泰かと いえばそうではない。南部九州には、火山災害があり、台風災害などがあり、それらの災害が ひいてはキキンをもたらすことがしばしばあった。
 鹿児島県内で人類が生活し始めたのは、種子島の立切(たちきり)遺跡・横峰(よこみね)遺跡などの調査からほ ぼ三万一千年程前と推定されているが、その数千年後には、姶良カルデラの大爆発があった。
 現在の桜島を南限とする鹿児島湾奥部で、この一帯の外周には、かつての火口壁の残影が 見られる。このときに噴出した火砕流が、いまはシラスとなって広域にわたって分布してい る。
 高温の火砕流は高速度で四方に流れたので、人びとをはじめ動植物に甚大な被害をも たらしたはずであるが、その惨状は推定し、想像するしかない。以後、南部九州の人びとの住 む所には、いつも活動する火山があり、人びとは火山と共生してきたのであった。
 台風の被害も少なからずあった。延暦十九年(八〇〇)に大隅・薩摩両国に班田制が適用 され、稲作が強制されるようになると、稲の収穫期の直前に、しばしば台風被害にあい、蝗(いなご)の 害も報告されている。
 火山噴出物の表土で覆われている南部九州の耕作地は、無機質で肥料分が少なく、そのう え浸水性が強く保水力が弱いため、水田には不向きであった。このような地質の作物には 害虫が多発するといわれている。稲の不作と蝗害にはさらに悪い方への相乗作用が見られる ようである。
 日本列島は、面積は広いとはいえないが、南北に長く、東西にも幅がある。したがって気 候・風土にかなり差異がある。そのような地域差があるにもかかわらず、中央で政権を掌握 した支配者は、いつの時代も稲・米に価値観を固定して政権を存続させてきた。江戸時代に いたるまで、大名は石高で知行の大きさを表し、武士は俸禄の多少によって地位の高下が 示された。いずれも、その価値の基本には稲・米があった。
 その稲・米の反当収穫高には、地域によってかなり差があった。筆者はかつて畿内と九州、 さらには大隅・薩摩両国のそれぞれの反当収穫高を試みに算出したことがあった。その資 料は、なるべく厳密な数値を得るため、江戸時代以前の藩別の石高資料を避けた。という のは、江戸時代の各藩の表示石高は「表(おもて)高」であって、「実(じつ)高」は隠されているからである。
 また、旧藩の領域は旧国別の領域とは、多くの場合に異なっており参考にならないから である。そこで、全国的統一資料が得られるようになった明治一〇年代の三か年の資料を国 会図書館で捜し出し、その資料から試みに算出したものである。
 その結果の一部を、ここに端的に述べると、米の生産の場合で見て、政権の所在する畿内 の平均と反当収穫高を比較すると、大隅・薩摩両国の平均は畿内の四七・ニパーセントで あった。また、九州(他の七国)の平均と比較しても六〇・八パーセントである。
 このような収穫高の比率から見ても、大隅・薩摩両国の耕作地の地質がいかに米作に 適していないかが明らかであろう。それでも、江戸時代には「薩摩七十七万石」などと称し、 大藩の雄のごとく見られているが、それは他藩とは所領の広さに格段の差があり広大で あった、という背景があったことによるものである。
 大隅・薩摩両国が稲作不適地であったことは、ほぼ了解できたであろう。それでも米に価 値観が集中していたので、両国では稲作を各時代にわたって続行してきたのであった。
   しかし、両国の地域は地質不良ばかりでなく、台風常襲地帯でもあったから、古米が尽き た端境(はざかい)期にはキキンがおこったり、悪疫が流行し、多くの死者が出ることもしばしばであっ た。
 キキンは都市よりも農村や辺境で深刻であった。とりわけ、周辺の離島で悲惨な状況が 見られた。近世の記録からその一部を摘出すると、つぎのようである。
 宝暦五年(一七五五)には徳之島でキキンがおこり、餓死者が三千人におよんだという。 安永八年(一七七九)から数年は、桜島大噴火で死者一五〇余人を出したが、その安永末年 (一七八一)には奄美大島が旱ばつ、さらに台風が五回も襲来し、キキンがおこっている。天保 三年(一八三二)同四年にはさらに大島が旱ばつで、甘藷の植付けもできず、凶作・キキンとな り、そてつの実を食料とするが、結果的には死者が続出した。

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【種子島への移住】

 明治時代になると、各離島でのキキンの実状がかなり明らかになってくる。それらのなか で、とりわけ目立つのが甑島や奄美諸島のキキンの実態である。
 これらの島でのキキンの原因は、主に台風と長雨であるが、いっぽうで旱ばつの被害もあっ た。各離島では被害が出ると、島内での回復はきわめて困難な状況になり、ついには島外へ移 住する事態が生じている。
 その移住先は多方面にわたっているが、移住者が集中したのは種子島であった。種子島に は未開拓地があって、島民はその受け入れに寛大でもあったようである。
 移住の状況については、南日本新聞社編『鹿児島百年』(〈中〉明治編)に詳しいが、その記述 を参照しつつ、簡略に述べてみたい。

 明治十三年(一八八〇)から十八年にかけて、連年猛烈な台風が南部九州を襲った。とくに 十七年八月の台風で鹿児島県下の倒壊戸数は実に一万五千戸にのぼっている。さらに甑島 では翌十八年六月の集中豪雨で全島瓦礫(がれき)の山となり、満足な田は一枚もなかった。 加えて、同年九月に暴風雨が荒れ狂い、それまで島民が命をつないできた山野で採集して いた草の根・木の実も、すべて奪われてしまった。そこで県では止むを得ず、県費による移住 策をとることになった。
 移住先は種子島であった。当時、下甑郷の人口は約八千九百人、一人当たりの耕作面積は 約四畝(せ)七歩(ぶ)(約四アール)、それも大部分は切替え畑(焼畑)で、五年に一回しか耕作できない 畑地であった。
 いっぽう、種子島の入口は一万九千八百四十二人で、一人当たり一町一反四畝(約百十六アー ル)と広かった。このほかに、開拓可能な原野が約四千町(約四千ヘクタール)あった。耕作面 積や開拓可能原野の広大さを見ると、移住計画は順調に進みそうであった。
 種子島在地の住民は概して移住者に対して寛大であり、親切でもあった。ところが、甑島 からの移住者は衰弱の極にあり、すぐに耕作や開拓にとりかかる意力も体力もなかった。
 そのうえ、生活習慣や習俗が異なり、また信仰・宗教も違っていた。習俗では、甑島では女 性は野外労働はしないのが一般的であったが、新耕地の開拓となれば家族全員で当たらねば ならなかった。また宗教では、浄土真宗が甑島各地に説教所をつくり、甑島の島民はその講 説を聞く機会が多く、それを精神的癒(いや)しにもしていたが、法華宗徒の多い種子島ではその機 会も場所もなかった。
 そこで、移住事務所では布教者を種子島に呼び、移住地を巡回説教させている。説教では、 「餓死(がし)を免れることができたのは、お上(かみ)や種子島の衆のおかげじゃ。一日も早く独立自活 の道を立てることが、何よりの恩返しですぞ。女・子どももクワを取りなされ」と説いた。
 この巡回説教は、かれらに望郷の念を薄れさせ、土着の覚悟を植えつけるうえで、大きな 効果があったという。

 移住者の苦難は続いている。火災と伝染病である。移住者の住居は、工事を急いだことも あって、屋根も壁も茅(かや)が主材料であった。これでは火に弱い。明治二〇年二月には子どもの 火遊びから、古田村(西之表市)で住宅十戸が全焼している。
 また、明治時代には各地でコレラと天然痘が流行したが、キキンで体力が衰弱していた 移住者の間でも天然痘が発生した。県から内務省への報告によると、明治十九年五月から 二〇年三月までの約一年間の移住者の死亡者は合計四九人。うち天然痘による死亡者は 二二人とある。
 明治十九年と翌年までの種子島各地への移住者の総計は、下甑を中心に四三五戸で 一千九百四二人を数えたという(「中種子郷土誌」他)。移住者はいつまでも故郷が忘れられ ず、移住して五十年を経過した昭和十二年に代表六〇名が甑島に里帰りしている。
 下甑の手打(てうち)では、村主催の盛大な歓迎会が開かれた。婦人会による心づくしのごちそう や青年団が演ずる名物の太鼓踊りに、一同は涙にむせんだという。
 いま、種子島各地には移住者が創設した集落があり、時に集落創設記念碑が建てられて いる。その一つ、西之表市伊関(いせき)の柳原の記念碑には、つぎのような一文が刻まれている。

 明治十六年より三力年にわたり襲来せる台風は近世まれにしてその範囲す こぶる広く、甑島その被害をこうむること最も大なり。田畑の流失、家屋の倒 壊相次ぎ衣食の窮乏に加ふるに悪疫流行しその惨情言語に絶す。ここにおいて 当時の鹿児島県知事渡辺千秋氏に懇願し、同十九年四月、住民相運れて種 子島に移住することとなれり(中略)爾来(じらい)五十二年幾多の困苦と戦いつつ荒蕪 を開拓して遂に今日の極楽郷柳原部落四十八戸を形成するに至る。往時を追 憶し感慨さらに新たなるものあり。すでに部落民の中には本年(昭和十二年)三 月祖先の地甑島を訪問して慰霊祭を行なうあり。またはかりて移住記念碑を建 設しこれを録して後世に伝えへんとす

 この柳原では、本年(二〇一六年)四月、「一三〇年移住記念碑祭」があった、という南 日本新聞の記事を、筆者はたまたま見かけた。
 この種子島へは、その後各地からの移住が進められている。与論島、徳之島、沖永良部島な どの奄美諸島のほか、大正大噴火後の桜島や薩摩半島の坊津・泊などで、種子島はさながら 「移民の島」であった。

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【与論島の大キキン】

 与論島は鹿児島県域最南端の離島である。この島では、古来しばしばキキンが起こってい る。江戸時代以降の記録を見ても、台風や疫病(麻疹(ましん)病・天然痘・チフス・コレラなど)、旱ば つなどにより、多くの死者を出している。以下、「与論町誌」(町教委一九八八年刊)を参照し て記述してみたい。
 明治以後になっても、その状況は変わらなかったが、とりわけ明治三一年(一八九八)七月 の台風は大キキンをもたらした。台風は民家ばかりでなく、頑丈な造りの学校の校舎まで 倒壊させている。
 さらに、その後には旱ばつと悪疫が流行した。常食のイモも底をつき、島民はソテツで飢 えをしのいでいたが、そのソテツの毒ぬきが水不足のため不十分で、食べて中毒死や餓死す る者が続出した。
 一家全員が病気にかかり、餓死した子どもを墓場に葬る力さえなく、岩陰にこもでくる んで捨てた者もあったと伝えられている。
 その年の十二月には、天皇の勅使が遣わされ、沖永良部と与論の両島に救助金三千円が 下賜(かし)されている。しかし、とりわけ与論島では島内でキキンから立ち直る方策は尽き、島民を 救う道は島外への移民が考えられ始めていた。
 ちょうどその頃、三井物産株式会社では三池炭坑から地上に運び出された石炭を、船積 みする人夫を離島に求めていた。
 大牟田・三池港に集積された石炭は、当時はいったん口之津(くちのつ)に運ばれていた。三池港のある 有明海は遠浅で干満の差が大きいため、大型船の着岸が困難であったため、団平船(だんぺいせん)で島原半島 (長崎県)先端の口之津に搬出されていた。
 口之津港は大型船が入港するに適度な深さがあり、風を防ぐように深い入江状の地形か ら天然の良港である。筆者はこの港を最初に見たとき、その形状が薩摩半島先端の山川港 に似ていると思った。といっても、山川港よりは広く、周辺の山に囲まれた地形は、山川港よ りはすぐれているようであった。
42gif  この口之津港は、かつては南蛮船の来航地でもあったから、宜教師が渡来したことでも 知られており、キリスト教布教の拠点でもあった。それが、江戸時代初期の禁教によって 多くの悲劇を生んでいる。その最大の事件が一六三七年の島原の乱であった。約三万七千人 の農民が犠牲になった原城跡は、口之津の北に立地しており、いまも往時をしのぶことがで きる。

【重労働と差別にあえぐ】

 その口之津港が、明治になって三井三池炭坑産出の石炭の海外輸出の中継地となったの であった。主な輸出先は上海であった。口之津港が良港だといっても、広い岸壁があるわけで はなかったし、またクレーンもなく、ましてベルトコンペヤーなどなかったから、すべては人力 に頼るしかなかった。
 船は沖に停泊しており、大まかには二段階の作業があった。まず、三池からの石炭を貯炭 場に担ぎ上げ選別する作業があり、つぎにそれを団平船で沖の船まで運び、小さなざるに 仕分けされた石炭を手繰りで船の上に運び上げる作業である。これらの作業が、移住してき た人びとに宛てられたが、とくに多くの女性たちがこの重労働をになわされた。
 口之津歴史民俗資料館の中には、別館として「与論館」が設置されており、当時の移住者の 復元住居や労働のようすをかなり具体的に展示して見せている(後述)。
 与論島からの移住期、明治三二年(一八九九)前後は日本史上で産業革命が 進行した時期であった。それも日清戦争期(一八九四~五)の製糸・紡績などの軽工業部 門から重工業部門への展開期に当たっており、石炭・電力の依存度が高まり、炭坑は空前の 盛況を呈していた。石炭は国内ばかりでなく、海外の需要にも応えようとして、毎月十万ト ン以上が輸出されていた。
43gif  この産業革命期には、労働力の需要も高まり、当初二四〇名の移住者数も、その後数回の 募集によってしだいに増加し、口之津の最盛期には千二百六〇名にもなったという。しかし、 夢と希望を求めて移住した人びとの生活は厳しいものであった。そのいっぽうで、言語・風習 の違いから、「ヨーロン、ヨーロン」と呼ばれて蔑視され、差別された。
 労働時間が長く、船への積載を急ぐときは、二四時間も仕事をさせられ、さらにひどいと きは三日間連続ということもあった。それだけ働いても、与論人夫は「新入り」ということで、 地元の人たちとの間に賃金の上で大きな格差がつけられていた。
 それでも、与論の人たちはこの地に「第二の与論」を建設するという夢をもち、その実現の ために、激務に耐えた。ところが、口之津移住から十年近くなる頃、築造していた三池港が 完成し、口之津港において荷役をしていた船のほとんどが三池に回航するようになり、口 之津港では大型汽船の燃料の積み込みだけになった。
 したがって、移住者は口之津に必要な人員を残し、三池に再移住することになった。現在 の福岡県大牟田市である。その間には、一部の移住者が「熊本県の八岳トンネルの開さく工 事」へ転出したことが記されている(先掲の「与町誌」)。
 しかし、この記述はおそらく「矢岳(やたけ)トンネル」のことで、現在の宮崎県えびの市に属してい る。肥薩線のトンネル工事で最難関のニキロ余の長さで、開さくまで陥没事故などで多くの 犠牲者を出して、明治四二年に竣工している。

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【与論移住者を偲ぶ】

 キキンをのがれようとして、与論島から移住した人びとは、移住先でも惨たんたる苦労を 重ねながら生き抜いたのであった。いま長崎県南島原市の口之津歴史民俗資料館を訪ねる と、「与論館」の中に与論長屋を復元したり、当時口之津港繁栄に尽力した移住者に謝意 を表す展示が見られる。
 いっぽう、与論島の中学校では修学旅行のコースにこの資料館見学を組み入れ、館内の 壁には見学する中学生の写真パネルが十数枚貼られている。この資料館を見学することに よって、中学生たちは与論島の歴史と、そこに生活してきた先祖の苦難を、十分に体感した ものと思われる。

 ふるさとの歴史を語るとき、勇ましい話ばかりでなく、その背後にあった庶民の生活の実 態を、古代からふり返って、もう一度見直すことを忘れないで欲しいものである。


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