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新シリーズ

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お金の不思議物語

【小学生の共同研究】

 日曜日に、近くの小学校の授業参観があるというので、誘いに乗って出かけてみ た。参観したのは、四年生・五年生のいくつかの教室である。
 各教室をのぞきながら、筆者の同じ頃を想起すると、まさに雲泥の差がある。 三十人余のクラス編成は、机間にかなりのゆとりがあるし、机自体が広くて使いやす い。教科書はカラー刷りで、それに各自が自由に書き込みをしている。筆者の時代は 教科書は次学年にゆずることになっていたので、書き込みや汚すことは許されなかっ た。
 四年生のあるクラスでは、グループごとに自由研究の発表をしていた。そのテーマ の一つがおもしろく、しばらくその問答にひき寄せられてしまった。

 そのグループのテーマは、「生活するのになぜお金が必要なのか」、という一見する と、簡単なテーマであるが、かなり高度な内容をはらんだ課題である。
 しかしながら、グループを構成している五人のそれぞれの考えたことは、単純化さ れた問題提起であった。そのなかのいくつかを紹介してみよう。
 1.私たちの祖先は、いつからお金を使うようになったのだろうか。
 2.お年玉をもっとふやすには、どうしたらよいか。
 3.自動販売機は、どうしてお金の種類が判別できるのか。
などがその一部である。
 そのあとの聞き役の子どもたちとの意見交換もおもしろかった。まず、いつからお 金を使いはじめたかについては、江戸時代から、にだいたい落ちついた。つぎの、お年 玉をふやす方法については、日本銀行が、紙幣をもっと印刷して、給料をふやせばお 年玉もふえる、という意見に拍手がおこった。また、自動販売機については、中にコン ピューターが置かれている、との意見が多かつた。
 いずれも、四年生らしい問答であり、意見である。なかには、銀行はお金を預かっ たり、受け取ったりはするが、お金の印刷はしないとの意見があったが、それは鹿児 島銀行の話で、日本銀行は別だ、との反論もあった。その反論によると、お札には「日 本銀行券」と書いてある、というのだ。なかなかの物知りである。
 確かに、お札には、「日本銀行券」と印刷されている。それでは、日本銀行はお札を 自由に発行していいのであろうか。その辺の事情について、少し調べてみたい。

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【紙幣は金貨と交換】

 じつは、昭和の初めまでの紙幣は、「日本銀行兌換(だかん)券」と印刷されていた。また、その 横には、「此の券引換に金貨を相渡し申す可(べ)く候(そうろう)」とも記されていた。ということは、 紙幣でも金貨と同額の価値が認められていたのである。このような紙幣を「兌換券」という。
 したがって、日本銀行は保有している金貨と同額だけの紙幣を発行していたので ある。このような制度を「金本位制」といっている。日本で金本位制が確立したのは 一八九七(明治三〇)である。
 ところが、昭和の初めに世界恐慌がおこり、世界的に経済情勢が不安になると、日 本もその影響を受け、金の流出が激しかったため、金の輸出を禁止し、一九三一年(昭 和六)十二月に金本位制を停止したのであった。
 このような過程からすると、かつての兌換紙幣を使用した体験のある日本人は、 いまではごく少数であり、さきの小学生のグループ研究で問答していた子どもたち は、いうまでもなく金本位制とか、兌換紙幣については知らないのが当然であろう。
 さらには、現在通用している紙幣は、以前の兌換紙幣と比べると、その信頼性がう すらいでいるはずであるが、そのことを実感している日本人は少数であり、お年玉に 何枚かの紙幣をもらった小学生は十分に喜んでいるであろう。
 さて、金本位制は現在に至るまで復活してないので、日本銀行は自由に紙幣を印 刷し、発行しているかといえば、それは簡単にはできない仕組みになっている。というの は、いまは、管理通貨制度による体制のもとで政府が最高発行額を統制しており、そ の統制のもとで、日本銀行は通貨を発行しているからである。

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【貨幣の歴史をたどる】

 ところで、日本ではいつから貨幣が使われるようになったのであろうか。
 その最初は、七〇八年(和銅元)の「和同開珎(わどうかいちん)」というのが常識であったが、近時、そ れ以前の「富本(ふほん)銭」が出土したことで、七世紀の末にさかのぼることになった。
 その富本銭や和同開珎が発行された時期は、鹿児島では隼人が活躍していた時期 であるが、隼人がこれらの通貨を使った痕跡は、いままでのところ見出されていない。
 これらの銭貨の出土地は、当時都のあった平城京とその周辺が多いので、隼人の居 住地域までは、これらの銭貨は波及しなかったとみられる。ただし、隼人の一部は畿内に 強制移住させられていたので、それらの移住隼人たちは、これらの銭貨を知っていたようである。
 というのは、移住隼人を記した八世紀の古文書の「隼人計帳」に税の一種の調を銭 で課税した「輸調銭拾捌(十八)文」とあるからである。この十八文はおそらく和同開珎 であろう。和同開珎は一枚一文であり、一文は一匁(もんめ=三・七五グラム)、一文の直径は約 二・四センチで、重量や長さの単位として、近年まで使用された単位である。
 ちなみに、筆者の手元には、奈良・平城京跡から出土した和同開珎があるが、その 直径は二・四センチで、一文の基準とされた長さに一致している。
 以上は古代の話であるが、中世以後も大隅・薩摩の地域で銭貨を使用していた記 録を見出すことは困難である。しかし、この時期には、ある場所から大量の銭貨が 発見されたことが報告されている。そのような銭貨については、別に考える必要があ るので後述したい。
 大隅・薩摩の地域では、江戸時代以降になっても銭貨の使用は少なく、その傾向は 明治時代になっても続いていたようである。
 明治二十年代前半に宮之城の小学校に赴任した、新潟出身の本冨(ほんぷ)安四郎は、この 地域の経済活動がいかに停滞しているか、そしていまだに自給自足の段階にあるかに ついて、つぎのように述べている。

 薩摩のみ何故斯(か)く卒民が振はざるかと云ふに、第一、平民に財産なし。
 元來薩摩は極南にありて何處に到るべき通路にもあらず、殊に藩制の日は他國の往來を絶ち、偶(たま)々國産を輸 出するも藩府の手に於てし、其上百二外城の士族は皆屯田兵の組織にて、飲食・衣服・器具迄も大抵手製にて間 に合せ據(よんどころ)なき物ならざれば決して商人の手を借らず、(中略)全髄自ら田畑を耕して米野菜を収め、自ら薩摩 絣(かすり)を織て衣服を裁し、焼酎を製して之を飲み、鶏豚を養ふて之を食ひ、山に入りて薪を採り鳥獣を狩り、川に 行て魚べつを捕り、味噌・醤油・酢・麹・菓子まで作りて之を用いる者に向て、其他何程の物を賣る付け得べきか、(下略)

 本冨は薩摩北部の宮之城という外城の一か所に赴任したのであったが、そこの 人びとが自給自足の生活をしていることに、驚きとともに興味を抱いたようである。 「決して商人の手を借らず」して衣・食をととのえていたのである。
 薩摩では、商人を軽蔑する風潮がとりわけ強かったようである。それを示すの が、住んでいる地域が「町」になることを嫌い、いっまでも「村」と呼ばれていたことで ある。他府県では村の人口がふえると、町になるのは当然であり、その目安は一万人 以上の人口になった時だという。
 ところが、鹿児島では人口二万人以上の村が明治の末年まで、いくつかあり、町に なるのを拒んだようである。その典型が、現在では鹿児島市の南部を占めている谷 山村で、二万人をこえたまま、大正末年の十三年(一九二四)になって、ようやく町制 を施行している。
 それでも、住民は「町人(まちじん)」といわれることに抵抗していたという。ところが、鹿児島 城下の武士たちは、江戸時代から商人の活動に依存して生活を維持していたから、 商人を軽蔑しながらも、その存在を無視できなかったようである。
 全国的に見ても、城下町の武士は消費者であり、商人が存在しなければ生活は 維持できなかった。いっぽう、商人たちは、商業活動によって富裕になり、やがて、武 士・士族を陵駕(りょうが)するようになったのであった。
 したがって、本冨が指摘するのは、外城を主とする士族や農民と商人の実態で あって、鹿児島城下の士族や住民にはあてはまらないところもあった。
 その商人たちも、一八八二年(明治十五)ごろからは、その活動が活発になってき た。この年には商法会議所が設立され、翌年には会議所内に商業学校を設けて、商 人子弟の教育に踏み出した。この学校は、その後曲折を経て、町人区域の学校とし て、区立簡易商業学校となり、さらに現在の鹿児島市立商業高校・女子高校に発展 していくことになる。
 また、鹿児島実業新聞(後の鹿児島朝日新聞)も創刊するようになる。このよう な商人たちの活動を牽引(けんいん)した一人は、山形屋社長の岩元新兵衛であった。かれは 一九〇二年(明治三十五)の総選挙で、士族候補に対抗して見事圧勝し、商人出身の 代議士にもなっている。

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【山形屋デパートの出現】

 鹿児島の有名デパート山形屋は、その名が示す通り、東北出羽(でわ)国山形にゆかりの ある商人、岩元源衛門に始まる。山形は染色の原料紅花(べにばな)の産地であり、源衛門はその 紅花仲買いと呉服太物(ふともの)商を兼ねていた。
 源衛門は、藩主島津重豪(しげひで)の政策に応じて鹿児島に居を移し、山形屋の屋号 で呉服太物商を営むようになったのが、一七七二年(安永二)というから、二五〇年 近く前のことで、その商才によって、順調に販路を拡大していった。
 その結果、一九一六(大正五)には、地下一階、地上四階の鉄筋コンクリート造りのデ パートを完成させた。ルネッサンス式の西日本随一のこの建物は、当時の人びとの耳 目を集めたといわれている。さきの信兵衛は、源衛門から数えて、その五代目である。 大正初年には、山形屋の前を路面電車が通るようになり、交通至便なこととあい まって、鹿児島の商業の中心的役割を果たすようになった。その路面電車は、民間企 業の経営であったという。また、路面電車が最初に走るようになった区間は、谷山と 武之橋の間であったというが、筆者が想像するに、おそらく甲突川を渡る鉄橋の工 事が遅れたのではなかろうか。

【通貨にだまされる現代人】

 現代人は、お金なしでは生活できないことを、十分に知っている。そんなことは、あ まりに当然すぎて、いまさら考えることもないであろう。懐にお札があれば、ひとま ず安心して外出し、道を歩ける。
 しかし、ちょっと立ち止まって、お札の価値を、ときに考えてみることがあっても、 よいであろう。ちなみに、一万円札一枚を作るのにかかる費用は、二十数円だそうで ある。したがって、五万円持っていても、それは百円余りしかかかっていないことにな る。
 ところが、十円銅貨一枚を作るのにかかる費用は、三十数円だそうである。という ことは、硬貨はその原材料自体が、すでに価値をもっていることになろう。それが、 金・銀であれぼ、いっそうその価値を感じることになる。
 いっぽうで、一万円札・千円札などの紙幣は、紙としての価値は、じつにわずかなも のでしかない。その点では、以前の兌換紙幣は金貨と交換できることになっていたの で、同じ紙幣といっても、その価値には大きな隔差があったことになろう。
 このように見てくると、通貨の最初はやはり硬貨、金属貨幣でなければ通用しな かったであろうことが、納得できそうである。
   そこで、あらためて日本の通貨の歴史を概観してみたい。すでに、紀元七〇〇年前 後に富本銭や和同開珎が造られていたことは、前述した通りであるが、和同開珎に は銀銭と銅銭があったことが記録によって知られている。同じ七〇八年(和銅元)の ことである。
 ところが、原材料の不足によるのか、銀銭はあまり発行されず、大半は銅銭であっ たようで、いまだ国内では銀銭は発見されていなかった。しかし、銀銭と銅銭の交換 比率を定めた法などが出されていることから、その存在は確実視されていた。その 銀銭が、中国の長安城跡から五枚発見され、実物の存在が確認されたのであった。 おそらくは、遣唐使などが持ち込んだのであろう。
 中国では銭貨の歴史は古く、日本の銭貨も唐の「開元通宝」を模したものであっ た。さきの長安城跡からは、ササン朝ペルシアや東ローマの貨幣なども見つかっている ので、長安のような国際都市では、各地域の貨幣が通用していたようである。これら の貨幣は、いずれも金属貨幣であり、それ自体が価値をもつものであった。
 ここまでたどってくると、さきに述べた課題の答えが見えてくるようである。その 課題とは、県下および全国各地で、ときに多量の集積された貨幣が出土し、その存 在がナゾとされていることである。それらは中世の貨幣が多く、大半は中国の貨幣 である。
 筆者が実見した例では、徳之島伊仙(いせん)町であったり、薩摩半島西岸に近い旧吹上町 であった。伊仙町では中国銭約六〇〇〇枚と見込んでいた。吹上町では中国銭約 三五〇〇枚であった。いずれも海岸に近く、かつては外部と何らかの交易が行われ ていた可能性が指摘できる立地であった。このような立地から想定すると、交易を 容易にするための手段として、貨幣は蓄えられていたと見られる。
 ただ残念なことは、現在までのところ、その交易の具体的な内容が明らかになっ ていないので、現段階では想定の域である。中世の銭貨が多いのは、海外との交易が比 較的自由な時代であったことによると見られる。それが近世の江戸時代になると、 鎖国令などで海外との交易が禁制になったことで、制約されたのであろう。
 話題を日本で貨幣が発行された古代に戻して、その歴史の概略を述べておきた い。富本銭はひとまずおくとして、和同開珎以後、九五八年の乾元大宝(かんげんたいほう)まで、十二回 にわたって銅銭の鋳造が行なわれ、「皇朝(こうちょう)十二銭」と呼ばれている。村上天皇のとき に貨幣の発行は最後となり、軌を一にして天皇親政から、藤原氏による摂関政治に 移行している。これ以後、長期にわたり、日本では貨幣の発行は行われ なくなった。
141  以後は、中国から輸入された宋(そう)銭や明(みん)銭が流通するようになっ た。なかでも、明銭の永楽(えいらく)通宝・洪武(こうぶ)通宝・宣徳(せんとく)通宝が広く流通し、 永楽通宝は一種の標準貨幣とされていた。いっぽうで、粗悪な私鋳(しちゅう)銭(悪銭)が造られ るようになり、混乱をきたしたので、撰銭(えりぜに)令を発して悪銭の流通を制限するように もなった。
142  なお、明銭は大隅の加治木でも鋳造されており、私鋳銭ではあったが、良質の銭として流通し ており、洪武通宝の裏面に「加」・「治」・「木」のうちの一文字がきざまれているところから加治木銭と呼ばれ、鋳 造所跡が国道10号線の近くに残されている。
 加治木で、なぜ良質の私鋳銭が造られたのかはナゾのような話である。というのは、 この鋳造によって利益が生じたとは考えにくいからである。そこで、筆者なりの考 えを述べてみたい。
 加治木は島津一門家であり、外城としては大きな規模を誇っていた。そのいっぽう で、港も鹿児島湾内の有力港として栄えていた。したがって、商人の町としても知ら れていた。
 ところが、島津領内では自給自足が原則であり、貨幣の使用は限られていたた め、その流通も円滑ではなかった。そこで、銭貨をみずから鋳造するようになったの ではないかとみられる。そこで、粗悪な鐚銭(びたせん)の私鋳銭と区別して、加・治・木の刻印 を入れて流通させたのであろう。その一枚は、筆者の手元にもある。
 日本で通貨が再び発行されるようになったのは、一五八八年(天正十六)以降で ある。豊臣秀吉が後藤徳乗(とくじょう)に鋳造させた「天正大判」の十両金貨である。しかし、 高価な大判は一般的に通用するものではなかったので、ごく限られて通用したとみ られている。したがって、一般的な流通貨幣の発行は、江戸時代以降であった。

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【江戸時代の貨幣流通】

 江戸時代になると、金貨・銀貨が大量に造られた。それぞれ金座・銀座で鋳造され たので、銀座はいまにその地名が伝えられている。金貨は儀礼用の大判は別にして、 小判(一両)が流通し、四分で一両、四朱で一分とされた。
 銀貨は、丁(ちょう)銀・豆板(まめいた)銀の二種の大・小の不定形で重量を測る秤量(ひょうりょう)貨幣で、重量単 位は貫(かん)・匁(もんめ)・分(ぶん)であった。ついで、銭貨(銅貨)は銭(ぜに)座で、寛永通宝が鋳造され、流通 した。銭貨は一枚一文で(千枚で一貫文(もん))日常的に使用された。
 この三貨の交換比率は、金一両11=六〇匁=銭四貫文とされたが、実際にはその時 の相場によって変動した。とくに、一両小判の金の含有量が時期によって減少したこ とから、江戸時代の後半は、交換比率の変動が激しかった。その交換を担当したのが 両替商であった。
 また、東日本では主に金貨(金遣い)が、西日本では主に銀貨(銀遣い)が、それぞれ 取引や貨幣計算の中心とされていたので、両替商はそれぞれの相場の変動にも敏感 であつた。
 その結果、貨幣制度は一八七一年(明治四)の新貨条例に至るまで、統一されなかった。


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