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新シリーズ

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隼人が見た薬師寺

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【飛鳥の本薬師寺】

 南部九州の住民隼人の一部は、ヤマト政権に服属後、朝貢することを命じられた。朝 貢とは、異民族が来朝して貢物(みつぎもの)を奉(たてまつ)ることである。したがって、隼人は日本列島に居住 していても、異民族と見なされていたのである。
 その隼人の朝貢が、『日本書紀』に具体的に記述されるようになるのは、七世紀後半 の天武(てんむ)朝・持統(じとう)朝である。南部九州から、当時のヤマト政権の所在地である飛鳥(あすか)ま では、およそ四十日の行程であった。その間を、貢物のほか食料を担いで、野宿を重ねな がら、ようやく難波から大和川ぞいに河内を経由して、足を引きずるようにして大和 へと歩を進めたのであった。
 その途次で、巨大な建造物に目を見張ることがしばしばであった。難波では四天王寺 を、河内では大型の前方後円墳のいくつかを、そして大和に入ると法隆寺を遠望し、 飛鳥が近づくと薬師寺そして川原寺、さらには飛鳥寺などの巨大伽藍(がらん)に驚かされた。
 飛鳥寺は、朝貢した隼人たちが饗応を受けた「飛鳥寺の西」の広場に面しており、『日 本書紀』にしばしば記されている。その飛鳥寺のほかでは、薬師寺が目に留(と)まったので あつた。
 薬師寺は、いまでは本藥師寺と呼ばれ、その跡の礎石の一部が残っている。その薬師寺 が、隼人が朝貢を始めた天武朝から持統朝にかけての時期に造立されており、朝貢時 の隼人たちは、その建造のようすを目(ま)のあたりにしたと思われる。
 寺院の建材は、どの部分をとっても、異様なほどに大きく、また珍しいものばかりで あったから、隼人の居住地では見たことのない、別世界であった。したがって、往路でも復 路でも、その工事ようすにしばし足を止めて見とれるのであった。
 薬師寺の場所は、のちの藤原宮の南西にあたっており、宮殿は薬師寺の境内を避け るように設計されたようである。ところが、薬師寺がようやく落成すると、あまり年月 が経たぬ時期に、藤原京から平城京へと都が移され、遷都にともなって、薬師寺も平城 京内へ移築されることになった。
117  その新しい薬師寺が、現存する奈良の薬師寺である。したがって、飛鳥に建てられて いた薬師寺は礎石のみとなり、いまでは本薬師寺と呼ばれている。その礎石も、東塔と 金堂の跡が主であり、西塔跡は心礎(しんそ:塔の中心の柱の礎石)だけである。
 それでも、現存の薬師寺の伽藍配置の各位置と建物間の距離を計測すると、一致しているので、 伽藍がそのまま移されたことが推測できるようである。その移築には相当の年月を要しており、 平城遷都(七一〇年)から約十数年を経過した養老期末年と推定 されている。
 ちなみに、寺院の建築様式は時期によって少しずつ変化しているので、奈良時代より前の建築 様式(白鳳:はくほう文化期)が現存している貴重な例として注目すべきものである。
 奈良に移された薬師寺に、筆者は数十回訪れている。それは東塔の建築美に惹(ひ)かれて のことであった。筆者がたずねた頃の薬師寺は十六世紀の戦乱で主要伽藍が焼失し、 金堂などは仮堂(かりどう)であったが、東塔は奈良時代に移築されたものが、そのまま残ってい た。
 東塔は三重塔であるが、各層に裳階(もこし)がついているので、一見すると六重塔のようであ る。その裳階は各層ごとに均整がとれるように造られており、塔の全姿とみごとに調 和している。
 ある人は、この塔を見て、「凍(こお)れる音楽」と賞讃し、歌人の佐佐木信綱(もぶつな)は、 「逝(ゆ)く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」
と詠んでいる。
 西塔は、礎石のみを残し、東塔の西に対称する位置にかつての面影をしのばせていた が、いまは再建され、優美な姿を見せて、人びとに新しい感動を与えている。

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【西塔もまた優美】

 西塔の再建は一九八一年で、四五〇年ぶりに創建当初の姿を再現させたのであった。 筆者がその再建時に生存し、東・西塔が並び建つ往時の景観を目の前にした時は、熱い ものがこみあげ、一挙に一三〇〇年前の古代の世界に遡上(そじょう)した思いであった。
 再現した西塔は、あざやかな色彩に色どられていた。各層と裳階は朱、連子(れんじ)窓は緑、 屋根は黒を基調とし、再上端の相輪(そうりん)・水煙(すいえん)は黄金色に輝いて見えた。
 それを東塔の古さびた幽玄(ゆうげん)な構えと並べてみると、 三〇〇年の年月の重みを実感せ ざるを得られなかった。そのいっぽうで、東塔との構造上の差異が目につくようになっ た。東塔は、古いだけにそれなりに補修が加えられていたのである。
 東塔の補修は、各層すべての裳階の蓮子窓が取り除かれ、白壁に塗り込められてい たことが初めてわかった。いま、連子窓がつけられた西塔を見ると、そこには開放感が 見てとられ、東塔の閉塞的な外容とは対称的である。
 また、両塔を少し離れた位置から眺めると、屋根の勾配の違いが、はっきり見てとれ る。それは最上層の屋根でよくわかり、西塔の屋根は勾配がゆるやかで、水平に近い。
 なぜ、こんなに違うのであろうか。薬師寺の僧侶の一人が、その説明をして下さった。 西塔は宮大工の第一人者、西岡常一さんが設計施工され、数百年経てば東塔の屋根と同 じ勾配になる、と予言されたというのである。
 その間には、屋根の重みで塔の四隅の柱がしだいに下がり、東塔と同じ程度の勾配 になり、調和がとれるのだそうである。できるものなら、それを見届けたいものである。 奈良には古い寺院が残存しているが、それでも古い様式をそのまま伝えている例は法 隆寺以外では、ほどんどない。かつて、東西に塔をもつ寺院がいくつかあったが、それらも 東大寺をはじめ、いまは残っていない。したがって、薬師寺の西塔再建は、古代の寺院建 築をしのぶ好例となった。

【古代春院の様式変遷】

 古代の寺院建築の伽藍配置は、すべて南向きで同じように見えても、仏教伝来以後 六世紀(Ⅰ期)、七世紀前半(Ⅱ期)、七世紀後半(Ⅲ期)、八世紀(Ⅳ期)で異なっている。 Ⅰ・Ⅱ期は飛鳥文化期であるが、Ⅰ期では南大門・中門を入ると、正面に塔が位置してい る(飛鳥寺・四天王寺がその例である。)。塔は釈迦の遺骨(仏舎利:ぶっしゃり)を納めて供養する 建造物であるから、釈迦信仰が重要視されていたことがわかる。
 ところが、Ⅱ期以降では、各寺院で重視する本尊が中心的位置を占める傾向がしだ いに強まり、金堂(こんどう)が正面に造られるようになってくる。その過渡期に法隆寺・法起(ほっき)寺の 伽藍配置が位置している。これらⅡ期の寺院では、塔と金堂が左右に並立している。
 それもⅢ期の白鳳文化期になると、正面中央に金堂が位置し、塔は左右に二塔造ら れ、装飾的になっている。薬師寺がその典型である。さらにⅣ期の天平文化期になると、 二塔は門外に出て造られるようになり、装飾色が強まってくる。東大寺がその代表で ある。
119  このように古代の伽藍配置の変遷を概観してくると、時期の経過につれて、寺院それ ぞれの個性が発揮されるようになったことに気づかされるであろう。
 薬師寺は正面に薬師如来像が鎮座している。薬師如来は、その名の通り病気平癒を 聞き眉けてくれる仏である。東大寺の大仏・盧舎那仏(るしゃなぶつ)は国土をあまねく照らす仏で、い わゆる「鎮護国家」を願って造立されている。

【寺院・僧侶への規制】

 古代寺院の伽藍配置や境内の規模などを見ていると、さぞかし多くの仏教信者が 存在したであろう、と想像がふくらむが、じつは一部の貴族層を除いては、寺院や僧侶と かかわる人は少なかったようである。
 というのは、当時僧尼令(そうにりょう)という法律が施行されており、寺院への出入り、僧の布教行 為は厳しく規制されていたからである。僧尼令は律令の一部として、現在に伝えられて いるので、少しのぞいて見ることにしたい。
 まず、僧侶が寺院の外に出て、「衆を聚(あつ)めて教化したり、妄(みだ)りに罪福を説く」ことを 禁じている。また、「乞食(こうじき)する者は三綱(さんごう)の許可得て、国司・郡司に届ける」こととある。 乞食は修行の一環であり、三綱は寺院を統轄する僧職の三役である。いずれにしても、 僧侶は寺院から外に出ることは規制されていたのである。したがって、民衆との自由な 接触は許されていなかった。
 また、寺院内における生活にも、修行の妨(さまた)げになるとみられるものは禁制されていた。 僧尼の房(室)に異性が同宿することはもちろん、「尼は輙(たやす)く僧寺内に入ること得じ」と もあるから、尼僧が男僧の寺院に入ること自体禁止であった。
 さらには、寺院は静寂な場、修行の場であるから、「音楽をおこし、及び博戯(はくぎ)せらば百 日苦使。ただし琴(こと)は制する限りに在(あ)らず」とあるから、琴以外の音楽や双六(すごろく)などの遊 びや賭(か)け事も禁止されていた。
 このように諸規制を読んでいると、中学生・高校生の、かつての生徒手帳に列記され ていた生活規則・校則が思い出されるという歴史研究者がいた。筆者自身の中高時代 に、そのような規則があったのかどうか、残念ながら記憶がうすれて覚えがない。とこ ろが、同窓会などでときに中高の時代の他校の話として昔の生活指導のことを聞いて いると、その内容がどこか僧尼令と類似していて、興味をもった。そういえば、古代の寺 院は学校であり、学問所であったことが想起されてきた。

【破戒僧行基大僧正】

 行基(ぎょうき)という大僧正(だいそうじょう)まで出世した高僧の名はよく知られているが、この高僧の前半生 は僧尼令違反の破戒僧であった。行基は飛鳥寺で出家したとの説があるが、民衆の苦 難を救済するため、寺を出て民衆に仏教を弘め、かれらと生活の困苦を共にして、数々 の社会事業を起こした。
 その行基の行動をたどって、一見はなやかに見える古代仏教の隠れた一面をのぞいて みたい。
 行基は、六六八年に河内国大鳥郡(現・大阪府堺市)で生まれている。その系譜から渡 来系の人物で、書(ふみ)氏ゆかりの家系をついでいるので文筆に親しんでいたと思われる。行基 の生家はのちに家原(えばら)寺となり、堺市に伝存している。
 まず、行基が宗教的に活躍した施設として、四十九(しじゅうくじ)院がある。畿内各地に四十九か所 の私設小寺院を設け、そこで民衆に仏教の教えを説いたのであった。庶民に解りやすい 言葉で、具体的に話を進めたので、人びとがしだいに追従して、行基を慕って集まる者 がふえた。
 『続日本紀』には、そのようすを、
 都鄙(とひ)に周遊して衆生を教化す。道俗、化を慕ひて追従する者、動(やや)もすれば千 を以て数ふ。所行(ゆく)の処、和尚の来るを聞けば、巷(ちまた)に居人なく、争ひ来りて礼 拝す。器に随ひて誘導し、威(ことごとく)善に趣かしむ。
 と記している。また、「時の人、号して行基菩薩と日(い)ふ。留止(りゅうし)する処に皆道場を建 つ。其(そ)の畿内に四九処、諸道にもまた往々にして在り」、とも述べている。これを見ると、 「行基菩薩」の名称は官から与えられたものではなく、民衆から呼ばれた称号であっ た。ここでは説教の場を「道場」とも呼んでいる。
 その道場は、のちに寺院となった例もあり、さきに記した行基の生家、家原寺もその 一つであった。
 つぎに、行基が設置した施設に布施屋(ふせや)がある。この施設は民衆が調(ちょう)・庸(よう)の物品や雑物 を都に運ぶ運脚夫や、都の宮殿・寺院などの造営に従う役夫などが飢渇(きかつ)に苦しんでいた ことをから、かれらに食料を施し、宿泊施設を提供したものとみられる。
 さきの四十九院(道場)にしても、布施屋にしても、行基と行基に従う貧民の力だけ では限界があったはずで、行基の行動を援助する豪族の存在が浮上してくる。
 行基はこのほか、架橋や船津の設置、池溝・井戸の掘削なども行なっているが、これ らの施設は、一般民衆ばかりでなく、豪族層にも利便をもたらしたとみられる。したがっ て「千を以て数ふ」と記された行基の追従者のなかには、さまざまな階層の者があったこ とが想定されよう。
 したがって、行基を中心とした集団に、政府は一種の脅威をおぼえたものと思われる。 たとえば、七一七年四月に出された詔に、
 方今(まさにいま)、小僧(しょうそう)行基、併びに弟子ら街衢(がいく) に零畳(かさなり)て妄(みだ)りに罪福を説き、朋党(ほうとう)を合 せ構へ(中略)詐(いつわ)りて聖道と称し百姓を妖惑(ようわく)す。運俗は擾乱(じょうらん)し、四民は業を 棄(す)つ。進みては釈教に違(たが)ひ、退きては法令を犯す。

と述べ、行基を「小僧(つまらぬ僧ごとけなし、その活動を僧尼令違反と断じている。 しかし、聖武天皇は大仏造営を発願して、その事業が困難に直面すると、この大事 業に行基の民衆動員力を頼まざるをえなくなってきた。その結果、「行基法師、弟子ら を率(ひき)ゐて衆庶(しゅうしょ)を勧誘す」とあり、天皇の苦境 に行基が手をさしのべることになった。行基はすでに七五歳を過ぎていて、当時としては 稀に見る高齢であったが、仏道への勧進(かんじん)のために全力を傾注することになった。 朝廷も、行基の献身的尽力に報いるため、大僧正(だいそうじょう)に任じている。七四五年(天平十七と 月のことである。僧侶の上位三役は、僧正、僧都(そうず)・律師(りっし)であるが、行基は最上位の僧正 の、さらに上位の大僧正であり、それまでには例がないところをみると、朝廷の期待がい かに大きなものであったかがうかがわれよう。
120  その行基が出家したのは飛鳥寺であろうという説のあることを、さきに紹介したので あるが、その飛鳥寺には道昭(どうしょう)が居(い)たことが、有力な証とされている。
 道昭の系譜をたどると、やはり渡来系の血を引いているが、それよりも、道昭が社 会事業を営んだ先駆者であり、行基がその影響を受けたであろうことがあげられてい る。道昭はまた、唐に渡り玄莫三蔵(げんじょうさんぞう)に師事してもいた。三蔵は『西遊記』などでも知ら れる名僧でもあった。なお、道昭は七〇〇年に没し、火葬に付され、火葬の始まりとも されている。
 しかしながら、筆者は古代から鎌倉時代の仏教史である『元亭釈書(げんこうしゃくしょ)』などが、行基の 出家は薬師寺とあり、この薬師寺説をとるのが妥当ではないかと見ている。という のは、道昭の影響を受けたことは否定しないが、飛鳥寺の所在地は七世紀までは都で あっても、八世紀には都が平城京に移り、運脚夫や役夫などの労苦を目の当たりにする のは平城京であり、「千を以て数ふ」民衆が集まるのも都であったと思われる。その点で は、やはり平城京内の薬師寺の立地が利点が多いと推測するからである。
 行基は、ついにはその薬師寺を飛び出して民衆に助力したのであろう。かれは、民衆 と苦しみを共にし、仏教によって衆生(民衆)を救済することこそが、最良の使命との 思いで、四十九院を建て、布施屋を営み、架橋そのほかの土木事業を献身的に勧めたと 思われる。その行基の行動に民衆と豪族は共感し、追従し、敬慕し、年ごとに、その数 を増したのであろう。

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【朝貢隼人と行基】

 七世紀後半から強制された隼人の朝貢は、八世紀に入ると、ほぼ六年ごとに「六年 相替」として行なわれていた。
 「方物」と呼ばれた土地の産物を貢物(みつぎもの)とし、南部九州の地から畿内の都まで、野宿 と自炊を重ねて約四〇日間重荷を担ぎ歩き続けたのであった。そして、貢物を献上し たあと、六年間は雑用に服し、つぎの朝貢者の上京を待って交代するのであった。その往 復の途上で、食料を欠き、病気に苦しむこともあったはずであるが、歴史記述は、そのこ とを一言も伝えていない。
 隼人のこのような窮状を推測すると、運脚夫や役夫以上の惨状を筆者は想像する。 朝貢者の数は、数百人にのぼるが、ときにはそれを上回ることがあった。
 『続日本紀』七二三年(養老七)五月の条には、次のように記されている。
 大隅・薩摩二国の隼人等、六百廿四人朝貢す(中略)、隼人に饗を賜はり、各 其(そ)の風俗の歌舞を奏す。酋帥(しゅうすい)三四人には位に叙し、禄を賜ふ。各差あり。

 このときは、六百人以上が朝貢している。おそらく、この数年前の隼人の抗戦に対す る報復的意味があったとみられるが、隼人たちにとっては屈辱をかみしめての朝貢で あったであろう。
 隼人の朝貢者たちは、ようやくにして畿内にたどり着くと、行基の設けていた布施 屋などで、食料の供給を受け、しばし身体を休めることがあったはずだ、と筆者は推測 している。
 また、隼入の地では見たことのない、薬師寺など寺院や、平城宮の宮殿(一部)などの 巨大建造物に目を見張ったであろう。
 薬師寺は、七一八年〔養老二)に移築され、東・西両塔がそびえ建っていた。東大寺や唐 招提寺などは、いまだその姿を見せていかかった。


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